本論 感性の稽古の思想第一章 理論背景 第一節十三世紀初頭、日本で初めて演技書が生まれた。芸論「花伝書」である。K.Sシステムに先んじること六百年であった。 (著者・編者不明。俗に世阿弥という。観阿弥・観世音阿弥・金春禅竹などの名があるが不明) 「略……面色をば、似すべき道理もなきを、常の顔に代えて顔気色をつくろふことあり。 さらに見られぬものなり。ふるまひ風情をば、そのものに似すべし。 顔気色をば、いかにも己なりにつくろはで持つべし。』 [「物学条々」ひためん(直面)の項より] ひためんとは素顔の事である。 妙にとりつくろった演技しようとする姿『常の顔に代えて顔気色をつくろふこと』よりも、 演技者自身の本来の姿『己なりにつくろはで持つべし』で『ふるまひ風情をば、そのものに似すべし』演技すべきであるという指摘は、 現代の舞台役者への鋭い批評ともなる。 「略……文字にあたる風情とは何ごとぞや?」という問いにこたえて「例えば、言ひ事の文字にまかせて、心をやるべし。 見るといふことには、ものを見指す。引くなどといふには手を指し引き、聞く音するなどには耳を寄せ、 あらゆることにまかせて身をつかへる。 自ずからはたらきになるなり。」 [「問答条々」] 「略……文字にあたることを稽古し究めぬれば、音曲はたらき、一心になるべし。 ……略……音曲はたらきとは二心なるを、一心になるほど達者に究めたらんは、舞台第一の上手なるべし。」 [「問答条々」] 「略……花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。 花は心、種は技なるべし。古人言う、『心地に諸種を含み、普雨悉皆萠ゆ。頓悟の花情は、巳に菩提の果、自ずから成ず。』」 戯曲によって予め指定された演技に対して、演技者の演技創造とは、行為(はたらき)の創造と、その内面からの正当化、 つまり心の働きかけ工夫であるという。 これは舞台上の虚構と真実の関係を正確に捉えていることにほかならない。 舞台上の演技者の成果は、行為による表現であり、その心の工夫であり、それを生かすものは芸の技術であるといいきるのである。 芸論「花伝書」から現代の演技論として通じるものを、全て書きだすことはできない。 ここでは最後に一連の別紙口伝の記事を紹介したい。 「十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。 年々去来の花とは、例へば十体とは物真似の品々なり。 年々去来の花とは幼なかりし時のよそおい、初心の時分のわざ、手盛りのふるまひ、年寄りての風体、 この時分時分のおのれの身にありし風体を、みな当芸に一度に持つことなり。 ある時は児、若族の能かと見え、ある時は年盛りのシテかと覚えまたはいかほども臈たけて劫入りたる様に見えて、 同じ主とも見えぬように能をすべし。 これすなわち、幼少のときより老後までの芸を一度に持つことわりなり。 さる程に、年々去来の花とは言へり。」 「能に万用心を持つべきこと。仮令怒れる風体にせん時は、柔かなる心を忘るべからず。 これいかに怒るとも荒かるまじきてだてなり。怒れるに柔かなる心を持つことめずらしきことわりなり。 …略… これ一切、舞、はたらき、ものまね、あらゆることに住せぬことわりなり。」 「この道を究め終わりて見れば、花とて別にはなきものなり。 奥義を究めて万にめずらしきことわりを、われと知るならでは、花はあるべからず。 経に曰く『善悪不二、邪正一如』とあり。 本来より、善き悪しきとは何をもってさだむべきや。ただ、時にとりて用足るものをば善きものとし、用足らぬを悪しきとする。 …略… ただ時に用ゆるをもて花と知るべし。」 論を羅列することは愚かである。しかし先人の言葉を味わい実践するとき、その言葉の重さ深さを身体で知るのである。 ■第二節 ミハイール・チエホフ 「人は自分の感情を直接的なやり方で支配することは出来ない。 しかしある間接的なやり方によっては、自分の感情を誘発したり、刺激したり思いのままに誘い出したりすることが出来るものだ。」 この言葉は日常生活の中でも充分確かめることが出来る。 ミハイール・チエホフは彼の理論の中で、意思の力についても培うことが出来ると述べている。 意思や様々な欲望を培い制御するために、彼は単純な動作が鍵になると考えた。 「ある一つの動作は、それにふさわしい明確な欲望を我々の中に目覚めさせ、その動作の特質によって、感情が自然に誘いだされるのである。」 彼は、その特殊な動作を『心理的身振り』と呼ぶ。 この心理的身振りは、能や歌舞伎・日本舞踊・京劇などの、東洋の芸能にも共通点がある。 「舞台上や日常生活において使われる、『自然な普通の身振り』と、あらゆる同種類の身振りの基本型として役立つ 『原形的な身振り』と呼ぶべきもの」があるとミハイール・チエホフは指摘し、『原形的な身振り』こそ俳優の演技創造の糧となると言う。 また、「異なるテンポで創られた同じ形の『心理的身振り』は、全く違った特性、違う意思力、異なる感受性を持つ」という。 このミハイール・チエホフの理論は、肉体の動き(声・筋肉の働き・感覚器官の働き)が心に影響を与える事と同様に、 心の働きが(感情・記憶・意思・)肉体に影響を与える事を明らかにしている。 肉体と心は常に相応的関係にあると言えるのである。 (ミハイール・チエホフは特殊な条件下の『心理的身振り』を考察した。スタニスラフスキーが注意するようにと言った、 土地土地の違い、国々の違い、言語と生活文化の違いからくる身体言語の違いなどは考慮されていない。) しかしこの問題についてより深い洞察を得るために、ヤノフの原初理論と出会わなければならなかった。 ■第三節 原初理論 アーサー・ヤノフの『原初理論』は、理論が先行していた対症療法的精神医学の臨床世界から抜け出し、 根本的な治癒を目指した実践的臨床精神医学論である。 彼自身が偶然体験した臨床治療の現場での事件を分析し、実験を重ね、快方へ向かった患者からのレポート及び臨床医の報告を まとめた記録を体系的に理論化したものである。 そのため著書『原初からの叫び』は、フロイトやユングの理論とは異なり、実験記録の趣を残す。 しかし彼の論が実験記録のようであったからこそ、現代の様々な演技訓練に大きな影響を与えた。 また各演技訓練が内包していた演技創造の実際にあたっての諸々の問題を、克服する糸口となったのである。 彼のレポートに出てくる人間の赤裸々なシーンは、時として演技訓練の陥り易い思い込みとよく似ている。 ここに彼のレポートを簡単に紹介しておこう。 ヤノフは、充分経験を積んだ精神科の医者であり心理学者であったが、今まで自分が治療してきた対症療法的治療法を否定して、 患者にとって本当に役立つ治療法を摸索していた。 そのような時に、彼と彼が治療中だった青年との間で、ある事件が起こった。 青年はロンドンで上演中の芝居の中の男に興味を持っていた。 その男は舞台の上でおしめをつけ、ミルクを飲みながら歩き回り、胸も張り裂けよと『お母さん!お父さん!お母さん!』と叫んで、 その挙げ句に舞台に吐くのであった。 ヤノフは青年の興味に注目し、彼に『お母さん!お父さん!』と叫んでみるように求めた。 ヤノフは後に「叫んでみるように求めたのは、私の偶然の気紛れだった」と述べている。 青年は内向的で繊細な、もの静かな気の毒な大学生であった。 青年は初めのうち両親を叫びもとめることに難色を示したが、ヤノフが重ねて頼むと渋々叫び始めた。 「叫び始めると、青年はそれとはっきり分かる程取り乱した。 突然彼は床の上で苦痛に悶え始めた 。息づかいは荒く断続的になり、『お母さん!お父さん!』という大きな金切り声がまるで押さえがきかないかのように 青年の口から飛び出してきた。 青年はKOMEというヒステリー状態に陥っているようだった。」 ヤノフはもの静かな青年が、両親を叫び求めるに従って激変していく様を目撃したのである。 僅か2〜3分のこの事件が、ヤノフの生き方と患者の生活を変える切っ掛けとなったのである。 「身悶えが程度の軽いけいれんにとって代わった。 そして最後に鋭いまるで断末魔の叫びのような声が私の治療室の四方の壁に轟いた。 青年も私も何が起こったのか全く見当がつかなかった。 『やったぞ何だか分からないけど、感じることが出来る。』青年が言ったのはこれだけだった。」 青年との事件から数箇月後、ヤノフはこの事件を検討してみたが何も分からなかった。 しかし彼は幸運にも再び同じような事件に遭遇したのである。 或る日、35才になる男がヤノフを尋ねてきた。 「彼は両親が何時も自分に難癖をつけるばかりで、一度として愛情を示したことが無く、 自分の生活をめちゃくちゃにしたことを強い感情をもって話していた。 私は彼に大きな声で両親を呼び求めるように勧めた。」 しかしその男は青年と違って両親が自分を愛していない事を知っていた。 それ故両親を呼んでも何の意味もないと男は言った。 ヤノフは自分の気紛れに応じてやってみて欲しいと男に頼んだのである。 「彼は気乗りしない様子で『お母さん、お父さん』と叫び始めた。 たちまちのうちに、彼の息づかいが早まり、深くなったことに私は気がついた。 彼は無意識のうちに叫び求めるようになった。 その内に、彼は身悶えしけいれんに近い症状を示し、最後に叫び声を上げた。」 青年が示した反応とほぼ同じような状態が、この男によって再現されたのである。 「落ち着きを取り戻した彼は、様々な洞察を見せた。 自分の全生涯が突然しかるべきところへ収まったような気がすると彼は私に話した。 普段洗練されていない彼が、私の目前でまごうかたなく別の人間に変わり始めた。 彼は機敏になった。彼の感覚中枢は機能し始めた。彼は自分自身を理解しているようであった。」 これらの事件から、ヤノフは次のような結論を得た。 「私は、こうした叫び声を、すべての神経症の人の内部に巣食っている、中心的であると同時に普遍的な苦痛の産物であると、 見成すようになった。 私はそうした苦痛を原初的な苦痛と呼ぶ。 それらは始原の、人生の初期に初めて受けた傷であり、その上に後日、神経症が芽生えるからである。 そうした苦痛が当人の神経症の形態に関係無く、すべての神経症の人の生活の、あらゆる瞬間にまとわりついていると、 私はみなしている。 こうした苦痛は、意識されないことが多い。 それらが身体全体に広がっているためである。 それらは様々な器官、筋肉それに血液とリンパ組織に影響を及ぼし、私達は歪んだ行動をする。」 ヤノフは、彼の発見したこの苦痛が、程度の差こそあれ、殆どの人の中に秘められていると言う。 人生の初期に初めて受けた傷とは、殆どの場合、幼時期に両親によって与えられた心の傷に他ならない。 生まれて間もない子供は、全く無力で両親に依存する他には生きていけない。 両親は子供にとって全世界なのである。 幼児は空腹感に打ちかつ事も出来なければ、愛情の代用品を見つけることもできない。 幼児は自分の欲求を満たすために、自分に出来るあらゆることをするのである。 空腹になれば泣き、自分の望みに気づいて貰おうと暴れ、転げ回ることさえある。 その欲求が長い間満たされないと、欲求が満たされるまで叫ぶか、自分の欲求を諦め押し殺してしまうかするまで、 幼児は苦痛を味わうのである。 幼児は自分の欲求を、幻想や象徴的な方法によって解決することが出来ないため、肉体によって直接自分を防衛しなければならない。 それ故自分の欲求や感情を自分自身から切り離し、苦痛を締出すことを本能的に行うのである。 しかしそれによって欲求が消えるのではない。 欲求は満たされないために苦痛を伴うので、意識に昇らぬよう押し殺され、生涯を通じてその人間にある影響を及ぼし続けるのである。 その人間の関心の在り方を方向付け、そうした欲求を満たそうとする動機付けを行うのである。 幼児期に起きたこのような事件は、神経症につながるプロセスの始まりと考えられている。 また現代は神経症の時代と言われている。 しかしそれは不安と言う言葉に置き換えられるような軽い意味しかない。 だが不安とも神経症とも、更に緊張とも心の防衛とも無縁な生活があるのである。 「原初理論は、私達は私達自身そのものとして生まれてくるとする、仮定の上に立っている。 私達は神経症や精神病の人間として生まれてこない。 私達はただ生まれてくるだけである。 原初療法には緊張、防衛機制それに神経症の原因を取りのぞく作業が伴う。 原初理論ではもっとも健康な人間とは防衛に無縁な人間である。」 感性の稽古も又人間の心と肉体のつながりについて取り組むものであるから、『初めから病んでいる心はない』というヤノフの言葉がなければ、 実際に訓練として活用されることはなかったであろう。 [演出の原理を書き終えて] ■演出を目指して 私は常に演出であろうと努めています。 というのは演出担当として舞台創造の現場で、役者や裏方と共に仕事をしていきたいと考えるからです。 演出はお節介な観客という、舞台創造の一つの役割です。 ですから目の前に役者やダンサーを迎えて一緒に作っていくのが好きなんです。 そのことに感動するんですね。 しかし演出家と呼ばれる人々の多くが、実は俳優、作家、タレント、脚本家、ダンサー、教師などであって、 演出と言う仕事の基礎技術をできる人が少ないのには驚きます。 演出には、いま目前に何が表現されているかを瞬時に理解する能力=『シンボル分析力』が必要なのです。 演出家先生のように自分の作品の説明以外何物でもない表現を求めたり、自分の動きやせりふまわしを振り付けてそのまま真似するように求めたり、 舞台装置で観客を驚かしたり、照明の色の美しさに舞台表現の未熟さを誤魔化すような真似だけはしたくないと思います。 舞台創造の現場で、演出家先生はご自分の作品を観客に提供するのです。 演出は、舞台創造に関わった人々全ての努力を、表現者つまり役者やダンサーに託して観客に提供するのです。 演出と言える人々が本当に数少なく、演出者を育てる教育機関も皆無に近い状態で、演出として素人同然の演出家が大手を振って歩いている。 これが日本の舞台演出の現状です。 ■演出の誇り 演出が「河原乞食」ですと名乗る時、人には自虐的に受け取られる時が多いのですが、本当は誇り高く名乗っているのです。 室町時代、河原は公の世界の外にありました。 そこに住む人々は、人であって人ではない扱いを受けていました。 それも無理の無いことで、高名な武将や浪人、職人や農民、町人など様々な出自でありながら、みな落人。 つまりドロップアウトした「傾き者」だったのです。 何も生み出すことの出来なかった彼らは、工作や技芸をもって一日一日の食を得ていました。 とくに技芸は庶民に供せられ、庶民の力で生きることを支えられていました。 その中から生まれたのが『女歌舞妓』です。 河原の技芸が庶民に共感を得たのは、河原こじきの視点が常ではなかったからです。 その視点は現代にも生きています。 それが虫の目、鳥の目、もぐらの目と呼ぶものです。 何のこだわりもなく世の中を眺める姿勢が、庶民の求める視点を与えてくれるのです。 人々が気がつかない様々な視点から見えた姿、それを人々に見せたい。 これこそ演出の醍醐味です。 人の世に流されず、人に見えないものを見ようとする私達は、今も『河原こじき』を受け継いでいるのです。 完 |
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