BACK NUMBER `97.5 〜`98.4





目次

博物館はどこですか?
HANALEI のTALO
くまちゃんの家出・9時間
Sendai Hui Lehua
HULAの魔力
他のページへのリンク
大好きな島、Kauai(1) kauaiは雨
大好きな島、Kauai(2) フラは上手になれるだろうか
Uncle George(1) ワークショップ
Uncle George(2) ぜいたくなレッスン
かわいいHULAの手
LEO MAKAMAE VOL20(1997.8.18)
KA HULA PIKO '97 REPORT
LEO MAKAMAE について
HULA O NA KEIKI `96 REPORT−"NO KA OI" MEANS "THE BEST"
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博物館はどこですか?

ビショップ博物館へは、ハワイにいくたびに必ず訪れる。豊富な収蔵品の魅力にひかれて何度も見学に行くことも確かだが、あのひんやりとした館内に漂う不思議なパワーを感じることも楽しみのひとつだ。
小さなコーナーにいくつも分かれているが、私の好きなコーナーはオーオーの羽を集めて作ったマントのコーナーだ。好きというよりは、涙が出るような悲しいコーナーなのだが、行くたびに長いこと立ちつくしてしまう。綺麗な羽を持ったがために、絶滅の運命をたどったオーオー。でも、私はきっとどこかの島の人知れぬ場所で生き抜いているのでは、と想像したりもするのだ。
最近、あるカナダ人と絶滅した動物、"extinct animal"について話し合う機会があったが、彼女は私の意見に賛成してくれた。旅行バトやドゥードゥーならいざ知らず、近年になって絶滅したものであればその可能性は高いとも。しかし、私達はそれを探すことはしないで、博物館の羽の前で想像を巡らし、無事を願えばいいのだ。

さて、その博物館に、前々回知人のMさんと2人でチャイナタウンからザ・バスで行った時のことである。午後7時半から博物館のハワイアンホールで開かれる、カジメロ・ブラザーズのショーを見るため夕方になってから博物館へ向かったのだ。
いつもなら、タクシーやトロリーバスを利用するので、博物館前に横付け状態だし、時間の事もそう気にしたことはなかった。しかしその日は、アラモアナ・ショッピングセンターに寄り、イオラニ宮殿を見学し、チャイナタウンでショッピングと食事をしたあとの、超お疲れモードでバスに乗ったものだから、頭がぼーっとしていて運転手が時々なにか言うのだが、よく聞き取れないのだ。
べつに停留所をいちいちアナウンスすることもしないから、ビショップ博物館には止まると確認してから乗ったものの、停留所が分からない。夕方のバスは混雑していて、大荷物をもって疲れた顔をして、心配げに窓の外を見る日本人女性2人は結構目立つ存在だったようだ。

"Where is Bishop Museum?"  と意を決して目の前のおじいさんに声をかけたとき、周囲の乗客は皆なぜか聞き耳を立て、安心したように頷いたのが分かった。きっと私達がバスを間違えてはいないかと気にしていたのだろう。
肝心のおじいさんは耳が遠いらしく、話が通じない。しかし、何人もの人から「もうすぐだ」との返事が返ってきた。おじいさんの隣に座っていたおばさんは、後2、3分だよと言い、少し離れた所にいた中年男性は、停留所になったら教えてあげると言う。若い主婦らしい女性は前方を指さす。皆に礼を言ってとなりを見ると、吊革につかまった高校生位の女の子がウインクして笑った。私も思わず笑ってしまった。
本当に2、3分後に停留所に近づいた。私達の周囲の人がほとんど、ほら次だよと声をかけ、運転手に合図をしてくれた。バスが止まって降りたのは私とMサンの2人だけ。疲れがどっと出て、荷物を置いて少し休もうとしたときだ。バスの窓から何人もの人が顔を覗かせ、道路の反対方向を指さしている。ビショップは道路の反対側だよ、と口々に言っている。サンキューと手を振って、心配させないようにまたすぐに歩き出した。

信号を渡って、住宅街に入り、ついに2人はよその家の庭の角でしゃがみこんでしまった。2人とも、普段だったら絶対こんな格好はしないよねと、笑い出してしまった。靴まで脱ぐありさまだ。
その後も、路地を間違えたり、行ったり来たり、やっとたどり着いた。 カジメロのショーは素晴らしかったが、ちょっと眠ってしまったらしく、あちこち見落としてしまった。そしてその数日後、博物館でのカジメロショーは終了したという。

今でも、ショーの前に食べたお弁当が入っていたラウハラの箱を見る度、バスの人達を思い出す。お弁当はまずかったし、ショーは??だったが、そこにたどり着くまでのハワイの人々の好意は最高だった。
翌年、一人でバスに乗り博物館へ言ったが、今度はなんとかたどり着くことが出来た。これで完ぺきかな?
(写真説明  上・これを見るために苦労しました。 下・開演を待つ間、すでにもう眠かった。)

HANALEI のTALO(1)

ハナレイのタロ畑を初めて目にしたのは1996年10月だった。その時、一瞬胸が苦しくなるような懐かしさを覚えたものだった。そして同時に「なんだか感じが違う」という思いがした。
確かにここはハワイの、しかもハナレイのタロの水田だ。低く雲が垂れ下がった山々に囲まれてもいる。長い間、絶対本物を見てみたいと願っていたタロの水田なのだ。
その違和感の原因はすぐにわかった。少なくとも私が立っている周辺の水田にはタロがなかったのだ。遠くの水田にはタロはあることはあるが、なぜか小さくて葉っぱも貧相だった。
日本の米作りでたとえると、”しろかき”が済んだばかり、または田植え直後の田んぼの風景なのだ。タロの育つこの土地を水田、田んぼと表現していいものかどうかはわからないが、少なくても目の前のこの風景はまさしく田んぼそのものだった。

私がイメージしていたタロ芋の水田は、青々とした独特の丸い葉が、重なるように生い茂っていて、田んぼ自体も小さいのだ。タロの葉はご存じの通り里芋にそっくり。あれだけのボリュームのものが、幾重にもひしめき合って、風に揺れているのだから、その重量感たるやすごいものだ。と、想像していた。8月の日本の蓮の田を見た経験のある人ならわかると思うが、”ザワワ、ザワワ”のあの重々しさだ。

しかし、あぜ道に止まっているトラックの荷台には、袋の口いっぱいまで詰められたタロ芋が入っている。確かに、ここはタロの畑なのだ。そして、3〜40センチに切りそろえられた棒のようなものが束ねられて重なっていた。「芋畑なんて見たくない。」という同行者たちを車に残して、一緒に付いてきてくれたN氏は「タロ芋ってこの部分を食べるものだったのか?」とぶつぶつ言っている。日本でも芋茎を食べる位だから、HAWAIIでもなにか工夫して食べるのかも知れない、と私も思ったものだ。

トラックでは若者が2人、荷物をせっせと積み込んでいる。水田からは作業の途中なのか、老人がこちらへ向かって歩いてくる。N氏が、ちょっと見学させてください、と英語で話しかけると、老人は「日本から来たのですか」と日本語で問いかけて来た。白髪に日に焼けた顔、サングラスをかけ彼は、「私のお父さんとお母さんは福岡の人です」と説明する。お父さん、お母さん、と言うときのその口調の、なんとも優しげで柔らかな響きが印象的だ。以前は米作りをしていたそうだが、最近ではタロ芋のほうがいいお金になること、この広い水田をすべて人の手で作業をしていた時代もあったが、”ISEKI”の農機具が普及してからはとても楽になったことなど話してくれた。

それから、気になっていた棒のような芋の茎は、苗だということ、それを取り入れの終わった水田に再び差し込んで置くと、10ケ月位後にはまた取り入れができるのだというなど話してくれた。HAWAIIは暖かいから、栽培は順送りに一年中できるのだそうだ。そう聞いてからよく見回すと、何も植えられていないと思った水田には、行儀よく棒切れが並んでつき刺さっていた。そして、一部のエリアの棒切れの先には、小さな柔らかい葉っぱが芽を吹いていた。それは、紛れもなく私が考えていた”ザワワ、ザワワ”のタロ芋の葉っぱと同じ形をしていた。Hanaleiの湿った空気と、澄んだ水がたちまち、力強く、肉厚の葉っぱに育て上げてくれるのだという。

シャツの胸元までぬれたおじさんに「そんなに深くまで沈んじゃうの?」と聞くと、そんなことはない、作業中に濡れただけだよ、と笑いながら言った。そして最後にカメラの前でタロを手にポーズをとってくれた。おじさんが自慢げに選び出したタロは意外に小さいものだった。「HAWAIIはあったかいからね、タロはどんどん大きくなるけど、これくらいのものが一番いいタロなのよ」と言いながらタロを見つめる。バックにはどんよりとした雨雲が低く垂れ込めた空と、霧に煙る山々。今度カウアイに行ったらまたぜひ訪れたい場所と、会いたい人である。

(写真説明  ほらこれぐらいがいいタロなんだよと、おじさん)

くまちゃんの家出・9時間

猫のくまちゃんが家出した。結果的にはおよそ9時間後に無事帰宅したのだが、常識では考えられないような手段でマンションの10階から出ていったのだ。マンションの10階で暮らす猫には、毎日毎日、ベランダのアルミフェンスの間から顔を出して下を眺める下界の景色がよほど魅力的だったのかもしれない。
いつも夜中にトイレに行くくまちゃんはその夜は2時半頃自分でサッシ戸を開けてベランダに出ていった。普段は、トイレをすませたくまちゃんは、普段はアルミフェンスの隙間しばらく階下を眺めるとまた部屋に戻ってソファの定位置で朝まで眠るのだ。しかしその夜はいつまで経ってもサッシのすき間をすり抜けて戻る気配がしなかった。

8kもある肥満傾向のくせに頭の小さなくまちゃんは、最初に自分の頭の幅位しかサッシを開けないから、胴体が通り抜けるときは衣擦れならぬ、毛擦れの音がするのだ。それを合図に、寒い間は私が戸を閉めて、眠るのが習慣だった。しばらくは耳を凝らしてその音を待っていたのだが、4月の少しあたたかい夜だったから安心したのか、私はそのまま寝入ってしまったらしい。
朝目が覚めて、すでに起きていた夫に「くまちゃん、いる?」と聞くと、夫は「いるよ」と答えた。ほっとして、寝返りを打った瞬間「あれ、いないぞ」と夫の声。黒い皮のソファの上で丸くなって眠る真っ黒のくまちゃんは、確かに時々その存在を見逃されて、体の上に座られそうになったり「くまは?」と聞かれることがあった。また、黒いセーターやバスタオルを、ずっとくまちゃんだと思われていたこともある。夫も私の問いに、よく確かめずに答えたらしい。
それからは、二人で下を覗いたり、廊下に出たり、申し訳ないが隣のベランダを覗き込んだり、探す手だてのあらゆる事をした。夫は階段を1階、1階確かめながら下までおり、私は我が家の真下の庭のどこかに、黒い固まりが落ちていないかと、何度も何度も見下ろした。どうしてあの時、くまちゃんが家の中にちゃんと入るのを確かめなかったのだろうと言う自責の気持ちで、いっぱいだった。
下に落ちたのでなかったら、ベランダの手摺を通って隣の家に行き、ルーフバルコニーを通って玄関側の廊下に出たとしか考えられない。手摺の幅は10センチ弱、一歩間違えれば30メートル下へ真っ逆さまなのだ。考えただけでも足の裏がむずがゆくなる。トイレに行ってからすでに4時間以上経っているのだから、本当に外へ出たとしたらずいぶん遠くまで行けるだろう。そんなことを考えたら、涙が出そうになったが、今泣いたら探しに行くこともできない。とにかく探さなければ、と必死だった。
そんなときでも、夫は会社に行くという。騒ぎに気づいた息子も起きて来た。2人はそれぞれ自分で食事の準備をして、黙々と食べて、夫は出勤、息子はまた部屋へと戻っていった。夫が出て行ってしばらくして、私もあてもないが外に探しに出た。マンションの周囲は住宅街で、通学路や細い路地がいくつもある。路地から路地といつもなら絶対通らないような、よその家の前の道をチッチッチッと舌を鳴らしながら、探し歩いた。散歩途中の犬にも何匹かあったが、どの犬も「猫の気配なんか感じません」と行った風に落ち着いて歩いていた。
もしかしたら帰っているかもしれないと、いったん家の戻ったが、ドアを開けて「くまちゃん!」と呼んでも姿も声もない。居間に座り込んだ私はついに我慢できなくなって泣き出してしまった。バスタオルを被ってしばらく声を殺して泣いた。30分ぐらい泣くと、今度はいろんな思いが頭の中をかけ巡った。”雨が降ったらどこで寝るんだろう”とか、”えさはとれるのだろうか”とか、”もうあのふわふわの体をだっこできないんだわ”とか考える度にまた涙が出るのだ。

しかし、その合間合間に私はなんともばかなことも思い浮かべ、その思いを振り来るのに必死になった。それは、”くまちゃんがいないということは、今後ハワイへ行きやすくなる”とか”11月のハワイ行きは留守番を頼まなくてもすむ”とか、なんとも鬼のような考えなのだ。
そのうえ、”迷い猫のあチラシを作らなくちゃいけないけど、どうせ黒猫なんだからモノクロでいいや”とか、”そういえば爪切り前だったから、だれかに拾われたらだらしのない飼い主だと思われる”などなど、およそ本質と離れた内容の考えだった。まさに天使と悪魔が私の頭越しにささやき合っているようだった。
しばらく経って息子が「探しに行かなくていいの?一緒に行くよ」と顔を出した。気を取り直して今度は別の地域を探すべく、再び外に出た。もう午前11時近くになり、人も活発に動き出している時間だ。しかしマンションの前は運良く誰もいない。今度は北の方を探そう、でもその前にマンション脇にある数件の借家の庭先をちょっと眺めようと、マンションの玄関から数歩歩き出した。もちろん密やかに、チッチッチと舌を鳴らしながら。
その時だった。「オン」と言う呼び声が背後でした。振り返るとそこは、管理人室脇から外に出るマンションの通用口。個人倉庫がズラリと並ぶ場所だ。声はその倉庫群とも違う、1戸だけ離れて経つ管理人室用の倉庫の付近からしたように思う。「くまちゃん?」と小さな声で呼ぶと、「オン」と言う声は、「オーン」に変わり、次いで「ニヤオン」という声になって、何度も鳴いた。「絶対ここだ!」と倉庫に近づき倉庫の土台のブロックの隙間を覗き込んだ。ますます声は大きくなり、それから少しして黒い頭が見えだした。
「ニーン、ニーン」と狂ったように鳴くくまちゃんに「静かにして、しぃーっ」と声を掛けながら、首をつかんで引っ張り出す。首だけは自分で出した物の、胴体はブロックの厚味より大きく、自力では出てこれない様子だった。しかし、入った物は出るのが当然で、おなかがぎゅっと伸されたようになり、くまちゃんの全身は外に出た。
くまちゃんをしっかりとだきしめて感激の対面もそこそこに、こんどは誰にも見つからないように部屋まで戻らなくてはいけない。たっぷり目の上着を着ていたので、前身頃に包んでかき寄せてたが、くまちゃんははみ出している。しかしここで時間をかけてはいられない。とにかく抱きかかえてその場を立ち去ろうとしたときだった。「あらら、Yさんちの猫だったのかい?」と背後から声が。管理人だ、絶体絶命、もう猫処分命令か立ち退き処分だ。意を決して振り返ると、管理人はにこにこしながら近づいて来る。「朝方7階の人達から電話があって、私が連れて来たんだよ」という。私が、真夜中からいなくなって、探していたと説明すると、管理人はさらに「何人もの人から、黒くて大きな変な物が、廊下の手摺に乗っていて怖いからなんとかしろ、って電話がきた」と続けた。
7階まで出かけたものの、あまりに大きな黒い固まりに最初は驚いたらしいが、どうやら猫で、すっかりおびえていておとなしいと分かり、だっこして下まで降りたのだという。飼い猫に違いないが、どこの猫か見当もつかないので、自分で家の帰るだろうかと放してみたとも。しかし猫はすぐそばの倉庫に潜って、静まりかえってしまったのだそうだ。何度か心配で覗いたのだそうだが、じっと動かずに固まっていたと笑う。急に鳴き声が聞こえたので出てみたら、Yさんが・・・。私はその説明の間中、くまちゃんを落とさないように抱いて、うなだれていた。でも次の言葉を聞いた瞬間、管理人が良い人なのだと知った。「Yさんちの猫だなんて誰も知らないんだから、見つからないように早く連れて行きなさい」と言う言葉に、御礼は後で、と早々に引き上げてきたのだ。

部屋に戻ると、くまちゃんは一目散にベランダのトイレに走った。砂のかき混ぜもそこそこに、放尿の姿勢にはいり、しばらく動かなかった。その後、こそっと家の中に入り「クーン」と甘えた声を出した。私は再びくまちゃんを抱き上げると、「どこに行っていたの! 駄目でしょう、勝手に外に出たら!」と改めて怒ってみたが、 くまちゃんは分かったのかどうか、「クーン、クーン」と鳴くばかりだった。
餌を与えて、ほっとした瞬間、ケンチャンは? と急に一緒に探しに出たはずの息子のことを思い出した。慌てて廊下に出て、下を見るとケンチャンはマンション脇の小道をきょろきょろと、いかにも捜し物をしていますと行った風に歩いているのが見えた。私の呼ぶ声に家に戻ってきた彼のくまちゃんへの言葉は、「バカ」の一言だけ。くまちゃんは鰹節をあごにくつけたまま、また「ニーン」と鳴いて目を細めた。
その日は折しも私の誕生日。別にもうめでたくもない歳だが、この数時間の恐怖は誕生日プレセントというにはあまりにもひどすぎる。脱力感と睡魔が私を襲い、家中の鍵をしっかり掛けて、お昼寝をしてしまった。もちろん鍵は、外からの侵入者のための物ではなく、くまちゃんの脱走を防ぐためのものだった。

(写真・帰宅後のんびり大あくびのくまちゃん。ちょっとピンボケです)


Sendai Hui Lehua

Traditional Hawaiian Fun Club of Tokyoは、東京の熱心なハワイアンファンを中心に作られた会です。日本人向けにアレンジされたハワイアンなどには目もくれない、どこまでも本物のハワイアンだけを追及する、しかもそのメインステージはHAWAIIで、と言う徹底ぶり。私がハワイアンの勉強をする基盤でもあります。
代表は佐伯弘さん。そのほか、ツアーの世話人ハリー西村さん、ウクレレの名手林四郎さんと言った幹部以下100名ほどのメンバーで構成されています。

プロ、アマチュア、経験の長短など関係なし。本当にハワイアンが好きな人なら大歓迎されます。佐伯さんは常日頃から「自分達は青・竹・サンゴはやらない!」と言い続けていて、ブルーハワイを踊る、などと言おうものなら思いっ切り軽べつされるか、無視されるのがおちです。
昨年のKa Hula PikoのツアーでHAWAIIに行った時、ネーティヴのバンドにBeyond the Reefをリクエストして踊った人がいると怒っていたが 、それは自分達のツアーメンバーの中にそう言った人がいたからで、普段は飄々と自分の道を行く人です。自分達の考え、会の趣旨をわかっていない、とがっかりもしていました。

そのTraditional Hawaiian Fun Club メンバーで、仙台に住む人達が集まって勝手に作ったのが、Sendai Hui Lehuaです。
メンバーは現在の所4人。HULA Sisterでもある私達は、長年の友人だったり、HULAの教室で初めて会った人だったりいろいろですが、ハワイアンについては皆同じスタートライン。協力しあって、でも、もたれ合うことなく、自分のできる範囲でそれぞれの得意分野をきわめていきたいと考えています。


HULAの魔力

HULAを始めて約2年。最初はきれいなムームーに花のレイを飾って優雅に踊りたい、と言った程度の軽い気持ちで始めたHULAでした。しかし、HAWAIIのこと、HULAのこと歴史や文化を知れば知るほど、ただの楽しみとしてのHULAではなく、一種の精神論が飛び交うまでに引き込まれてしまいました。
しかし、所詮は日本人。根本的なことはHAWAIIの人達にかなうはずがない。第一に血が違う。風土が違う。私達は、あの伸びやかなアロハの精神を育てる風に包まれては育ちませんでした。
それでも、HULAを続けたいという気持ちだけは、HAWAIIに住んでいないからこそいっそう強いものになるものです。支えはこの気持ちだけ。HULAの魔力に取りつかれた人はすべて、細い糸をたどって、少しでも本物に近づきたいと考えているのです。


大好きな島、Kauai(1) kauaiは雨

 地図上ではハワイ8島の一番上の島カウアイ島は私の大好きな島だ。まだ一度しか行ったことはないが、私がハワイを思い浮かべるとき真っ先に考えるのはカウアイ島だ。豊かな緑と、適度に湿った空気、”人に優しい”というと何やら環境グッズのようだが、たしかにカウアイは人に優しい何かがある。息子が今年の秋に、ハワイで結婚式をしたいと言ったときにも、カウアイでしなさいと即座に決めた位だ。

 じつはカウアイ島第一歩は、私にとって結構不安な一歩だった。ホノルルから飛行機が飛び立って、椅子に落ち着いて、ソフトドリンクを飲み、隣の人と一言二言話をして、窓の外を見たら眼下は海。飛行機は海面すれすれを飛んでいる。一瞬「この飛行機落ちてる!?」と驚いた。しかしそれはもう着陸体制に入っていて、陸地に入る寸前だったのだ。滑走路は濡れて光り、空は夕方のせいだけでなく、どんよりと暗く雲が低く垂れ込めていた。
「あ、雨だぁ・・・」。つぶやく私に「カウアイの雨は3日位降り続くのが普通なんだよ」なんて脅かしの声が飛ぶ。3日と言えば、私達の滞在日数と同じではないかガーデンアイランドと言うからには緑が豊富なところと言うイメージがあり、その緑を育てるのは雨だとは分かっていても、3日は困る。しかし、雲の切れ目はどこにもない。日本の梅雨末期の本降り状態だ。
ホテルに向かう車のフロントガラスのワイパーの動きは忙しい。ホテルに向かう道路は街頭もなく真っ暗だ。両脇は何の植物か暗くて分からないが、背の高い草がおおいかぶさるように繁っている。「これじゃ、鳴子温泉への道だ・・」と心の中でつぶやいたが、その時同行のSさんも「田舎へ帰る道みたいだ」と思っていたそうだ。彼女の故郷は鳴子だった。

 その夜はホテルにチェックインしたあと食事に行き、ロコに人気のクラムチャウダーとミックスフライを食べる。クラムチャウダーはスプーンにすくうとこんもりと盛り上がるほどとろみの濃いものだった。小食の人には、添えられたソーダクラッカーとチャウダーだけでおなかが一杯になりそうな一品だった。
レストランの名前はそのまま、「カパア・フィッシュ&チャウダー・ハウス」。駐車場の車の下や、軒下には雨を避けるように猫が何匹もうずくまっていて、人が近づいても逃げる気配もない。
 食後はスーパーマーケットでお土産第一陣を買う。このショッピングは私がカウアイコーヒーが欲しいと言い出したことで、急きょスーパー立ち寄りが決まったのだ。他のみなさんごめんなさい。でもみなさんも結構楽しそうにお買い物していたから、よかったことにしよう。
私が買ったのはカウアイコーヒー2種、カウアイクッキー3種、クラウンフラワーのレイなどなど。レイがプラスチックパックに入って冷蔵庫で売られているのだ。4ドルか5ドル位だったが、同じものを日本で買った時は3000円もしたのを思い出した。薄紫色にクラウンフラワーのレイは、翌々日の朝、一足先に帰国するS氏のお別れのプレゼントとなった。
 カウアイクッキーはオアフやよその島でも、ハワイの土産として買うことができるが、やっぱりホームタウンで買うのが常道とばかりなじみの種類を買った。そのとき案内してくれたKauaianのドリックさんが、これがおいしいよ、とすすめてくれたのがカウアイクッキーのティークッキーだった。それじゃぁ、と一箱だけカートに積んだのだが、これが大失敗。おいしくないからではなく、どうしてもっと買わなかったかと帰国は後悔のしっぱなし。さくさくとした口当たりは、ロシアンクッキーみたいで後を引くおいしさだった。次回はティークッキー一本にしぼってもいいだろう。
 食事のときも買い物の時も、私達は雨の中を車から建物まで、濡れないように走って行くのだが、ハワイの人達は悠然と濡れるのも気にせずに歩いていた。そのうち私もだんだんそれになれてきて、シャワーを浴びるような気分でゆっくり歩くようになった。ブランド物には興味はわかないが、スーパーマーケットは、地元の人達の生活がよく分かってなかなか楽しいものだった。「3日間雨だったら、スーパー巡りもいいかも」と心を決めたら、気が楽になってその夜はよく眠れた。

大好きな島、Kauai(2) フラは上手になれるだろうか

 ハナレイタウン、タロ芋などを見ながら北上したカウアイ北部の観光の中で、異彩を放ったのはなんといっても「カ・ウル・パオア・ヘイアウ」の参拝だった。これはもう観光ではなく、フラをするものにとっての聖地巡礼のようなものだ。カ・ウル・パオアはペレ(Pele)とその妹ヒイアカ(Hi'iaka)に求婚して失敗したと言ういわく付きのロヒアウ(Lohi'au)と、その友人パオア(Paoa)がフラのトレーニングをしたところだ。そんなところからカウアイ島は男性フラ発祥の地と言われているのだが、現在ではこのヘイアウは、男女を問わずフラを志すものの 聖地なのだ。

 ケエエ・ビーチ(Ke'e Beach)までは車が入れるが、ここから先はすでにナ・パリ・コースト(Na Pali Coast)の始まりだ。目立たないプレートが下がっただけのヘイアウへ続く道沿いには、草に埋もれてはいるが低い石垣がある。「遺跡につき登ったり、座ったりしないように」と注意書きがされていた。人一人がやっと通れるくらいの細い道だが、しっかりと堅く踏み締められていて、多くのフラダンサーたちが長年にわたって訪れた事を示している。
道は途中から登り坂になっているが、ここからは木の枝を伝い、岩に手をかけてよじ登ると言った方が早い崖になっている。大きなフラの大会があるときは、ハワイ各島からたくさんのフラハラウ(Hula Halau・フラの学校)がお祈りにやってくるそうで、先頭が神殿に到着しても最後尾はまだまだ下の方をオリ(Oli・詠唱)を唱えながら登ってくる程の長い列をなしているそうだ。
案内してくれたクムフラでミュージシャンでもあるドリックさんは、そんな話をしながら、あちこちの草むらからラウアエ(Laua'e)の葉をちぎっている。最初はただなんとなく草を摘んでいるのかと思っていたが、数メートル歩いては1枚、また1枚と摘んで、5枚になったところで立ち止まって、なにやら作り始めた。
ドリックさんは、大きくくびれの入ったラウアエの葉をひとつづつ裂いてフラをやる私達女性5人に順番に渡し、最後はその芯(葉脈)も渡された。次いで彼はその1枚1枚を手に取ってSさんに編み初めを持ってもらって、三つ編みをするように葉を編み始めた。私達から順々にラウアエを受け取って継ぎたしながら、手早くラウアエのレイポー(ヘッドレイ)を作ってしまったのだ。
私達の手に残ったのはラウアエの芯だけ。中には捨ててしまった人もいたが、ドリックさんが、捧げるように持って、というと慌てて拾って神妙に胸元に構えた。その瞬間から、私達は急に神を身近に感じ、口数も少なくなり静かに崖を登った。

草むらや木立がとぎれて、急に辺りが開け海が見えてきた。するとそこはもう神殿だった。目の前にはナ・パリの岩が立ちはだかり、その前の少しばかり開けた草地がカ・ウル・パオアだ。苔むした岩がごろごろと転がり、その中に1、2個所人工的に石組みがある。よく見ると、色あせたレイや、ティリーフのスカートなどが摘んである。
そのひとつの前で、レイポーを被ったドリックさんが高々とオリを唱えはじめた。皆神妙に頭を垂れて聞いている。オリが終わると彼は、私達に靴を脱いで裸足になって、ラウアエの芯を供えるように促した。一人づつラウアエを供え何やら祈っている。
私の番になって、神殿に近づくとそのレイの数が想像以上に多いことに驚く。うまく踊れますよう、上手になれますようにと多くのダンサーたちが捧げたレイだろう。私ももちろん、「すこしでもフラの心に近づけますように。上手になれますように」と祈って、ラウアエを供えた。
「さあ、おわったよ」と言うドリックさんの声に、現実に引き戻されかのように、ため息をつく。しかし、皆いま経験した貴重な出来事をいとおしむように、神妙で静かに興奮していた。
ここではレイだけでなく、フラ(カヒコ・古典フラ)も捧げられるそうで、海を背に切り立った岩に向かって、踊るのだそうだ。右手はナ・パリの断崖、左手も険しい山だ。海と空は青々と広がってこそいるが、ここは確実に断絶された空間だ。時折聞こえる鳥の声と、はるか下の方からの波の音、かすかに滝の音も聞こえたのは錯覚だろうか。
私にはこの場所がフラの聖地に選ばれた訳が分かるような気がした。誰も来ないここでは向き合うものは大きな岩なのだ。その後ろに神が存在するかどうかは分からないが、無になって踊らなくてはいけない。観客に見せたり、技や美を競うのではない、ましてギミックや演出なども通用しない、神または自分自身と語り合う、本当のフラを踊る場所なのだ。上手くなる目的は、人に見せびらかすためではなく、自分と神を満足させるためのものだ。

今回のフラの仲間は、私と小学生の優香理ちゃんを除いては皆踊り上手の人達で、どこででも踊りを楽しむ人達だった。空港と言わず、公園でもどこでもウクレレがなりだすと体が自然に動き出すフラ好きで、ここへ来る前もウエット・ケーブの駐車場で踊ってきたほどの人達だったが、さすがにこのヘイアウでは踊ろうという人はいなかった。私達は、名残は惜しかったが、帰路に就くことに。上りもきつかったが、下りはもっときつい。岩にへばり付くように、地面をはうように慎重に下りていった。その時私は、不思議なものを見た。
ごつごつした大きな岩の間の赤茶けた土のあちこちに、こんもりとした土の山ができているのだ。土の山は高さが10cmほどのきれいな円錐形で、さらさらした顆粒状に見えた。そばには結構大きな穴もあいている。「モグラか、ネズミ?」 なにか小動物の住み家と勝手に想像して穴をのぞくが、もちろん何も見えない。
後ろの方からNさんと下りてきたドリックさんに「これはなに?」と聞くと彼は「worm」と答えた。それだけでもう十分だった。こんな大きな穴に住むworm!、こんな大きな山を作れるworm!、私はそのwormの穴に鼻をこすらんばかりに顔を近づけ、覗き込んだのだ!! あとは一目散に坂道をかけ下りた。転ばなかったのが不思議なくらいの駆け足だった。私はこの世でミミズ、蛇、ナメクジの類が大嫌いだ。ハワイには蛇はいない、と言う話を聞き油断していた。蛇がいないからと言って、ミミズもいないとは限らなかったのだ。
私の最初のカ・ウル・パオア訪問は、こうして心臓が停まる思いで幕を閉じたが、次も決死の覚悟できっと訪れるだろう。彼らが土の下で眠っている晴天続きの乾燥した時期に・・・・。

Uncle George(1) ワークショップ

Uncle Georgeに初めて会ったのは、HULAを初めて2カ月程経ったころだった。通常のレッスンとは別にHAWAIIからクムフラを迎えてワークショップが開催されることになったのだ。
この教室に入るときに、私達の指導をしてくださるヒロ先生から確かに「HAWAIIの人間国宝で、偉大なるクムフラGeorge Naopeが私達のHAWAIIの先生です」という話は聞いていた。
しかし、超ビギナーの私には、クムフラという言葉さえ聞きなれないもの、まして、HAWAIIに人間国宝? と言う嘘っぽさから、事の重大さにはまったく気が付かず、ただ、本物のHawaiianからHULAが習えると言う、ごく単純な動機だけで興奮していた。

会場に早めについたわたしは、ホールのベンチに異様なモノを見て驚いた。そこには、さんぜんと輝く銀色のジャケットを着て、半ズボンをはいたじいさんがころんと横になっていた。
赤いシャツにローファー、小柄で、半ズボンからのぞく脛は、やけに細くタコの燻製のようだった。彼がUncle George(!?) という期待と疑惑の気持ちで、その眠る人を横目に中に入ると、すでに数人の生徒も集まっていて、興味しんしんと言った表情でレッスンの開始を待っていた。だれも気持ちは同じらしい。

レッスンは、リラックスしたクムフラ、怖い物知らずの生徒、やけに緊張しまくってぴりぴりしているヒロ先生と言う顔ぶれで始まった。
Uncleのウクレレが、軽やか、かつスムーズに流れだし、ベーシックのステップが始まる。参加人数は少なかったが、仙台放送のテレビ取材も入ってい、ヒロ先生自らも真剣にステップを繰り返していた。
しばらくして、Uncle の歌声が始まったとき、私の目も耳も、もちろん心臓も固まるかと思った程だった。それまで私が聞いていたハワイアンと言えば、Gabby Pahinuiだけ。そのどちらかと言うと厚味のある歌声にひかれて、これがハワイアンというものなら聞いてもいいかも、と思ったものだった。
だから、Uncle のやや繊細で伸びやかな声は、初めての体験だったのだ。しかも、このタコ燻おじさんのどこからこんな若々しい艶やかな声が出せるのか? 踊りの振りがさっぱり頭に入らず、Uncleの歌声だけに神経が向いてしまった。

ワークショップの課題は"Nani Kauai" (あとでこれは"Nani Waialeale"だということがわかったが、なぜかこのときは"Nani Kauai" だと覚え込んでしまった)。リバースが入った、当時の我々にとっては論外に難しい大作だった。
Uncleは、椅子に座ってウクレレを弾いているだけでなく、時々私達の前に立って、振りの注意点なども説明してくれた。そのモーションは小さく、簡単で、言葉も最小限だったが、それでも伝わるものは大きかった。
荒々しい波しぶき、切り立った山々、島の花モキハナなどが登場するこの踊りで、それまで関心が薄かったカウアイ島にも行って見たいと思うようになったのは確かだ。

理解度の点では、教え方云々以前に、当方の技術と経験の未熟さが原因で、問題があったようだ。当時のノートには、"F**k you!!  チョー難しい!!  わかんない" となぐり書きがしてある。ノートの整理もすぐにはやる気が起きず、しばらく後に思い出しながら書き起こした記憶がある。
余談だが、私達がその偉大さに気が付かないままレッスンを受けていたのと同じように、その偉大さを十分理解できないままに取材撮影を続けていた仙台放送だったが、”自称オウム信者の国内便ハイジャック”のためにワークショップの話題は没。その後も放送された様子はない。




Uncle George(2) ぜいたくなレッスン

Uncleは、最初のワークショップで仙台が気に入ったと言って、その後も何度かヒロ先生の通常のレッスンに同行して来仙した。それも突然だから、レッスン場に行って見て初めてわかるというものだった。Uncleが来れば、Uncleの踊り、というのが定番でそのころ私達は次々と新しい踊りを教わって行った。"That's How to do the Hula" "Lovely Hula Hands" "Ho'o Na Nea" "Ku'u Hoa" と、6月7月の2カ月間でバラエティーにとんだ選曲で4曲も教わってしまった。
付いて行く私達は必死だった。新しいステップが出てくる、前の踊りと次の踊りの区別がわからなくなる、頭は混乱状態だった。今すべて覚えているかというと、はっきりとNOと言える。
当時、無我夢中で描いたノートの記録を頼りに、今後仕上げて行くのが課題だが、もう2年近く経つのに、まだその課題は果たされていない。しかし、最近やっと、今だったら何とか理解できるかもしれないという自信のようなものがほんの少しだが出てきた。これは、ずっとレッスンを一緒に続けてきたHula Sisterも同じ。この春から共同でその作業を始めようと思っている。

あのころは、何度も何度もウクレレを弾きながら,歌い続けてくれたUncleの歌声の方が先に記憶に残ってしまっていた。ヘッドフォンでの簡単な録音だが、結構良い状態で音は残っていて、いまでも身が縮む思いをしながら時々聞いている。
ヒロ先生は後で、結構お世話が大変だったと洩らしていたが、私達にとっては、レッスンの合間の食事や、レッスン後のビール、仙台弁や英語が飛び交う冗談や、おしゃべりは本当に楽しかった。今またUncleが仙台に来たら、きっともう同じようには振舞えないだろうが、その時はHAWAIIから来た気のいいおじさん、と言うのが私達の印象だったのだ。
こんなぜいたくなレッスンは後にも先にもこれっきりで、その後は瀬戸の花嫁のトンネルに没入していった。



かわいいHULAの手

Uncle Georgeに習ったHULAのひとつに"Lovely Hula Hands"がある。英語で歌われる、いわゆるHapa Haole Song だが、ヒロ先生がクムフラになったお祝いのパーティーでも踊った思い出のHULAでもある。
HULAを踊る際、手や指先は重要な役割を持つし、ちょっとした手のモーションの違いで、意味もまるで変わってくる。HULAを始めたばかりのころ、指先が離れているとよく叱られたものだった。ちょっと油断をするとすぐにパーの手になってしまうのだ。
最近でこそやっと自然体で指先がそろうようになったが、最初は水がこぼれないように掌を丸くして、と常に神経を集中していていた。

PUA(花)を表現する場合、5本の指を伸ばして、指先を集めてつける。ものを摘む、あの動作だ。この時、指はぴんと伸ばすよりは少し丸みがあるくらいがいいだろう。これで、HULA Song のなかに出てくる"PUA" はすべて表現できる。
しかし、特定の花の名前がわかっている時はどうだろう。たとえば、"Loke Lani"(バラ)だったら頭のなかで真紅の小振りのバラの花をイメージする。そうすれば、おのずと指はもう少し丸みを帯びて、ふっくらしたバラの花が見えてくる。蕾だと思った時は、あわせた指先をしっかりと力を込めてしぼめればいいだろう。
また、葉も花もすべて奔放そうに育った"Awapuhi"(ワイルドジンジャー) なら、指を少し伸ばし加減にして、指先も少々開き気味にする。クリーム色で細くよじれたような花弁と、ふくいくとした香りまで伝わって来るようだ。

そうして、知り得る限りの花の姿をイメージして作る指先の花ばなは、確かに私には色も、花びらの感触も、香りや雨にぬれた冷たさまで感じることができる 。だが、他の人にはどうだろう。ごつごつとした骨太の短い指が醜く映っているだけなのかもしれない。自己満足だと言われるかもしれない。いつかは他人の目にも花の姿が見えるようになるのだろうか?
もし、本当にそうなった時、その時がきっと”かわいいHULAの手”の完成の時かもしれない。

LEO MAKAMAE VOL20

Leo Makamae(レオ・マカマエ)の20号が届きました。速報でもUPしたとおり、 今回はやはりモロカイ島のKa Hula Piko(カ・フラ・ピコ)のレポートと写真がメインです。7月の例会E Paina Kakou (エ・パイナ・カコウ)では、Makaha Sons of Niihauがテーマで、彼らの10年前のアルバム「Ho'ola」から「Aloha Ia O Waianae」 「Ke Aloha 」「Kawohikukapulani」などを勉強したとの報告もありました。

6月末には元メンバーのIslaelu Kamakawiwaoleさんが急逝してフアンをがっかりさせましたが、この例会はタイムリーと言うよりは、あまりに悲しい偶然でした。 IZの近況は、今年の5月のNa Hokuでの受賞、昨年の同じNa Hokuでの、Makaha Sonsとの涙の和解など、いい風が吹いていただけに残念でたまりません。

今回はLeo Makamaeより、林四郎さんのKa Hula Pikoレポートと、宮崎浩司さんの同レポートのハイライトを転載させていただきました。林さんはKa Hula Piko出発前に飛び込んだ、キモさんの死をとても悲しんでいて、普段静かな方だけに多くは語りませんが、文章の各所からそれが伝わって来て、私の方もジンと来てしまいます。 「挨拶も早々に離れてしまったが、その後何度も車に近づいてしまいました・・・」というあたりは、カイミカウアさんやリム・ファミリーの悲しみを思う林さんにの気持ちと、林さん自身の悲しみが入り交じったいたたまれない心境が伝わってきます。


「長期滞在の夢を来年のカ・フラ・ピコにかける」(文・林 四郎)

今年のツアーは72名になるとのこと、うまく纏まるのかと心配しつつ、立川よりリムジンバスで出発、疲れでぐっすりと寝込み、成田に着いてみると3時、もう数人の顔見知りが到着していた。カウンター前のロビーは参加者のコミュニケーションの場、集まった搭乗荷物が壮観であった。

ホノルル空港へ無事到着後マハロエアーへ直行、ロイさんの母堂もモロカイに行く所、モロカイ・ホオレフア空港ではロイさんファミリーほか大勢のお出迎え、生花のレイでの歓迎、甘い香りに包まれ再開の歓びに浸りながらモアナ・フラ・ハラウのスクールバス2台に分乗、ホテル・モロカイへ。降り立つと「ようこそモロカイ島へ」の日本語の入った垂れ幕、モロカイの熱い友情に感激。

カウアイのドーリック・ヤリスさんご夫妻との再開、若い新メンバーの二人ケオラ・チャン、ケオラ・ブークさんも紹介される。この二人は2年間、ハラワ・ベイで遊んでいるところへ、海から貝を採り、上がってきて合流、早速メレ・フラが始まり、ノホパイパイを踊っていただいた記憶があり、夜のパーティーでリクエストした次第です。パーティで紹介されたブークの伯母さんも、その時ニイハウから来たと言ってププオニイハウを歌った方でした。

2日目は、島内観光とモアナ・ハラウのカナニ・ブライターさんのフラ・レッスンに分かれ、私はホテルに居残り休もうとしたのですが、音が聞こえてくるともう ダメ !!!、ウクレレを持ち出し参加してしまった。ドーリックさんはテープ操作係、休憩時間にカナニさんとチョコッと打ち合わせ、もう歌が出来てしまった。曲は「アヘ・ナニ・モロカイ」、さすがプロ。ドーリックさん(カレオクラブ)を交えてのアロハ・パーティー兼リハーサルは大盛会、終わりが惜しまれた。

3日目、今夜から明日の夜明けにかけてのカ・フラ・ピコ、明日のパホパクビーチでの本番を前にパーティー兼リハ。明日の出演者、佐伯さんと友人のリーバート・リンゼーさんご夫妻も到着、即座に参加し、古館、大滝、両氏のバックで素晴らしい唄とパニオロギター演奏を披露してくれました。また、クムフラ・モアナ・デュドアさんはじめハラウの皆さんの心からの歓迎パフォーマンス、楽しく見せて戴いた。ミスター・モロカイことワイパさん、明後日訪れるマンゴ・パッチのオーナーご夫妻も見え、一年ぶりの再会を喜び合った。

いよいよパポハクビーチの会場、ステージ裏へ楽器を置きに行ったところ、ジェノア・ケアベさんご一行にお会いした。ご挨拶した所、私達の出演にびっくりしていた様子でした。

今回のツアーで一番悲しかった事は、再会を楽しみにしていたリム・ファミリーの末っ子、キモさん(カイミカウアさんのククナオカラ・ハラウのトップ)の死亡の知らせ、力強いカネフラが永遠に見られないと思うと・・・・・ステージ裏の車から降りないカイミカウアさん、特にリム・ママの悲しみを思うと何も言えず、つい涙が出てしまった。皆さんへの挨拶も早々に離れましたが、その後何度も車に近づいてしまいました。この悲しみにもめげずステージをこなして降りて来た時、メンバー各人は知人との会話で皆涙を見せていました。キモさんに心からお悔やみ申し上げます。

今回の私達のステージは、ドーリックさん、両ケオラさんの参加でマンゴパッチ・バンドも厚みを増し、またカナニさんから教わったアヘ・ナニ・モロカイを全員で踊ったほか数曲、会場の拍手も一段と大きく好評裏に終わった。司会のハワイアン・スパマン、ブッシュマンとも仲よく握手、モロカイでのフレンドリーも益々の深さを感じました。

翌日、イリイリオパエ・ヘイアウへのpワゴンライダー出発後、マンゴ・パッチでは熟したマンゴを採りぱくついたり、古来から伝わるボーリングの様なゲームを教わったり、ルアウの準備、捕ってきたばかりの大きな魚を焼いたり、椰子の葉で帽子を作る実演、そしてフラの総仕上げなど・・・・。ルアウではお馴染のパラパラおばさんとの共演、メレにフラに、ビーチでくつろぐひと、皆さんと最後のモロカイを満喫しました。

皆さんホノルルに帰られた跡の1日、ワイコル・バレーへの四躯2台でのドライブ、私達の運転手は、モロカイに魅せられ移住して、海洋の研究、高校の先生、ドライバーと三つの仕事をこなしている方でした。植物にも詳しい人で、コアやキアベ、グアバの花や実も教えて下さった。ほとんど直線的な上り坂、未舗装の道路で雨の多い所なのに路面が奇麗に補修されていた。荷台に座り登って来た道を振り返ると! ナント素晴らしいパノラマが展開。噂の通り下界は晴れているのですが途中から雨になり、山中の一軒屋に雨宿り、老人一人で木彫を制作している工房だった。ルックアウトまではたどり着きましたが豪雨になり引き返すことに成りました。来年再度挑戦するつもり。

今年のツアーも無事に終わりましたが、ホテル・モロカイの素朴さ、クラフトの店のご夫妻、ワゴン車運転の娘さん等、沢山の思い出を残せました。これも皆、ロイ・ホナーさんの心からのおもてなしのお蔭と深く感謝する次第です。


初めてのモロカイとカ・フラ・ピコレポート(抜粋)(文・宮崎 浩司)

初めてのモロカイ島であり、大きな期待をして5月15日成田を出発しました。翌朝、ホノルル空港到着後マハロ航空に乗り換え、モロカイ島に向かいました。この乗機はプロペラ機で、数十年振りにプロペラ機に乗って正に飛行機に乗って入ることを実感できる、ジェット機にはないアンティークな乗り物でありました。(一部約させていただきます)

翌日はカ・フラ・ピコの演奏に備え、夕方練習をし、夕食後は出演者全員が参加、大前夜祭で翌日の大会に期待をつなげました。その夜は寝る時間もなく、深夜0時30分出発で、カアナの丘で催される儀式へ、途中4WDに乗り換えて会場に到着しました。明かりもない真っ暗な中、かすかにカヒコを踊っているのが分かると言う状態で、星だけはまことに奇麗に輝いており、東京近辺では見ることが不可能な天の川を天頂に仰ぐことが出来ました。一緒に参加していた、カウアイ島のドーリック氏が途中、座っている後ろの方に出掛け立って何かをしているのに気付き、振り返ると、数人の人達が同じことをしているのです。暗い中をよく見ると、会場とは反対の海の方に向かって深々と頭を全員下げている姿でした。よく考えてみるとハワイ島の方角であり、おそらく女神ペレに対し祈りを捧げていたのでしょうか。

夜が明けて周囲が分かるようになると真冬のような寒さの中で殆どの人がアノラック等を着込んで震えているのに、男性のクムフラと思われる方が、裸でフンドシ一つ寒さなど感じていないような姿で立っているのを見て、信仰の力は偉大であると痛感させられました。明かりも写真も禁止であればこそ、真の儀式の荘厳さが保たれるのである事が良く分かりました。(以下省略します)


KA HULA PIKO '97 REPORT

トラディショナル・ハワイアン・フアン・クラブの佐伯さんからモロカイ島で行われたKA HULA PIKO'97 のREPORTが届きました。21日に帰国してすぐに執筆した、まさに速報です。

今年のテーマは"HE PAEPAE POHAKU , HE KUMU O MOLAKAI" だそうで、今年参加したHULA SISTERからお土産にいただいたTシャツに、しっかりとプリントしてありました。いっしょに映っているペンダントは木の実で作ったIPUHEKE(イプヘケ・HULAの楽器)のミニチュアです。HULAをやっていると、こうしたお土産はとても嬉しいですね。

以下は、佐伯さんから寄せられた文章です。ホットな、でもとても悲しい知らせもあるレポートです。

「静かな島の静かな祭事」(文章・佐伯 弘)

今年、第7回を数える「モロカイ・カ・フラ・ピコ」への旅立ち3日前、嬉しいニュースと悲しいニュースが、同時に飛び込んで来ました。私達のこの祭事への参加を分厚い胸で受け止めてご指導下さっている、ワイパー・パーディさん(彼は昼のイベントの総指揮者)が、ハワイアン航空から年間の最高功労者として表彰されたと言うニュースと、地元ワイコロアのヘリポートで、早朝、撮影を終えたスタッフが、着陸寸前に失速、墜落し、リムファミリーの末っ子で、素晴らしいカネフラのリーダー キモさんが亡くなったという悲しい電話。彼は数々のロマンスの中、2年前に結婚し、カイミカウア家に入籍、この祭事には欠かせない重要な人だったのです。

モロカイ観光局のパンフレットには、「信号機がない、有名なファストフードの店もない、タクシーもない、三階の建物もない、和食の店もない、ザ・モスト・ハワイアン・アイランド」などと紹介されています。東西60キロ、南北12キロ、丁度、隷書の「一」。なぜこの島に8年も通いつめているのかは、自分でもまだ分かりませんが、島の佇まいや、住む人々の生活そのものが、この半世紀、不変だったと言うことなどでしょうか。
毎年、この祭事には創始者のジョン・カイミカウアさんから「テーマ」が与えられ、今年は「ヘ・パエパエ・パホク、ヘ・クム・オ・モロカイ」(モロカイの基礎は一枚の岩盤である)がテーマになりました。この祭事は白人社会からハワイアン文化がぎりぎりに追い込まれた時も、ライライ家では、カアナの丘のオヒアの林に隠れ、数世代にわたってフラを伝え通したと言う史実に基づいて、適確に当時の模様を再現するもので、後世に語り継がれて行く重要な意義をもった行事なのです。

5月の第三土曜日の早朝3時、カイミカウアさんの語りとオリで開会し、数人のクムフラによる踊りと対話によって進行。鳥肌の立つような荘厳さの3時間。カマコウ連山に陽が昇りはじめる頃、儀式は終了します。満天の星空は、東京の10倍もの光度で輝き、震え上がる寒さは、一瞬、ハワイにいることなど、忘れ去ってしまう程です。一息入れた8時には、列島最長4キロを誇るパポハクビーチ・パークに舞台を移し、第二部が始まるのです。

より「ネイティブ」な歌と踊りを探し求めてきた「トラディショナル・ハワイアン・愛好会」会員によるバンドを編成し、このイベントを応援させていただくと言う念願が叶い、私達のパフォーマンスは、昨年に引き続き、今年も40分もの時間をいただけました。マハロ航空の機内誌には、4月号から総出演者のプログラムが掲載されていました。昼間のイベントは、深夜の儀式への「奉納」で、すべてのアーティストは、ボランティアなのです。
30年の歴史を随所に偲ばせる、ホテル・モロカイのダイニング「ホロホロカイ」では、リハーサルをかねて、3日3晩のルアウ。フラ・レッスンと食事の用意は、島で唯一、メリーモナークに毎年出場している「モアナズ・フラ・ハラウ」のモアナ先生が、引き受けて下さいました。本番で私達に合流する、カウアイ島のドリック・ヤリス君(全米ヒットチャートを一時期席巻したグレン・メディロス、カパア高校出身の美人デュオ・レヒアを破って、7年前、カウアイ島ベスト・エンターティナーに輝いた)とケオラ兄弟、そしてもう一人のゲストは、パニオロ・シンガーとしてNo.1 と言われている、リーバート・リンゼイさん(名曲、アカカの滝、マウナロアなど200曲を世に贈りだした、ヘレン・パーカー・リンゼイのお孫さん。ゲーリー・ハレアマウバンドに合流)。ビッグな二人を身近におむかえした私達は、初日から大変な興奮の渦にまきこまれました。さらにリンゼイさんの18番「アヘ・ナニ・モロカイ」を、最高の振り付け師として評判のカナニ・ブライターさんが、全員に教えてくださると言う。そしてドリック君がこの歌に挑戦、マンゴ・パッチ・バンド7番目の曲として、55名のフラ陣もたった2日の成果を問う、出演となりました。

高名なクムフラ、モアナ先生と妹さんが運転する2台のスクールバス(モアナ先生はバス会社のオーナー)が、快晴で賑わいをみせる会場に着くと、シャイな顔見知りの ファミリーや常連の出場者達から、すかさず挨拶と激励の声がかかりました。ワイパーさんの予想では、昨年より多少すくなめで6000人ぐらいになるだろう、と言うことです。ステージを囲む防風林では、ハワイアン・アート、クラフト、そして ハワイアン・フードの店が立ち並び、すでに大賑わいを見せています。音楽はよりネイティブに、フラはメリーモナークトは正反対に、リラックスそのもの。うん、これが自分が望んでいたフラだ。

いつの間にか、トリに回った私達のステージ40分は、MCのハワイアン・スーパーマン(マウイのボーイさん)、ハワイアン・ブッシュマン(オアフのチャールズさん)の漫才のような話術に操られ、最高のステージで最高のパフォーマンスを「奉納」することが出来ました。
静かな島の静かな祭事は、若いロックバンドのサウンドと、若者達数千人の熱狂の中、オアフに沈む夕日を身ながら、幕を下ろしました。

***************************************** プログラムと出演メンバー **********************************************

曲             フラ               ボーカル
1・カウラナ・ナ・プア   ククナオカラ中村         佐伯  弘
2・ワイカロア       堀栄子とティアレ・フラグループ  佐藤真佐美
3・ワヒネイリケア     大内美智子とハラウ・プアレイ   大内美智子・悦子
4・ヘウイ         愛好者有志            ケオラ・チャン
5・アロハ・カウアイ    参加者有志            大滝喜代美
6・イアリイノオエ     参加者有志            ケイラ・ブック
7・アへ・ナニ・モロカイ  参加者有志            ドリック・ヤリス
8・カウルベヒオケカイ   踊れる方全員           全員

バンドリーダー・ギター     古館  忠
ギター             広沢  泰
ベース             大滝 哲弥
ウクレレ・ボーカル       宮崎 浩司・松永貴志・林 四郎

                       


LEO MAKAMAE について

LEO MAKAMAEは、Traditional Hawaiian Fun Club of Tokyo(THFC)が年数回発行している会報です。発行人は、代表の佐伯弘さん。HAWAIIツアーの報告や、HAWAIIの人達からの便り、歌詞やイベントの紹介など盛りだくさんの内容です。このHAWIIAN−LEO MAKAMAEのサイトでは、LEO MAKAMAEからの抜粋や、THFCが主催するツアーの報告などをメインに紹介していきます。



HULA O NA KEIKI `96 REPORT−"NO KA OI" MEANS "THE BEST"

 トラディショナル・ハワイアン愛好会会員の皆様、アローハ。秋のマウイ島「フラ・オ・ナ・ケイキ」(子供たちのフラコンテスト)ツアーから戻ってまいりました。今回もすばらしい体験談を発表できそうです。

 7年目を迎えた(ザ・モスト・ハワイアン・ホテル)「カアナパリビーチ・ホテル」のすべてを利用して繰り広げられるこのコンテストは、年々規模が大きくなり、参加者多値の技術の向上もめざましく、昨秋カウアイ島の「モキハナ・フェスティバル」への参加で一年空いてしまった私達の目を疑わせる程になっていました。審査員の方々もメリーモナークに対抗し、フランク・ヒュエットさん、ネイザン・カラマさん(モキハナの創始者)、ウルベヒ・ゲレロさん(CDのヒットで只今超ウレッコ)、そして我らのよきアドバイザー、ナニ・リム・ヤップさん(彼女は5週間前にめでたく誕生した長女のカリヒリヒウラオナレフアオ・ホポエ・ヤップちゃんに暖かい視線を投げかけてのジャッジ)、この顔ぶれでは全くミスの出ようもありません。コンテストのまとめ役は7年目にもかかわらず、アラカイ・パレカ女史。昨年の「カ・フラ・ピコ」でも5000人の大観衆を一日中笑わせっ放しだった物凄いキャラクター。なんとウルベヒさんの奥さんだったのです。

 ここで最近メンバーになられた方、今まで日本で耳にしていたハワイアンと違うネイティブな歌に興味を持たれた方にご紹介しておきますが、私達はハワイ語の歌詞のトラディショナルを中心に意識の向上をめざしており、近年は特にハワイ島の「リムファミリー」からいろいろなアドバイスを戴き、現在のような内容の充実した会に発展致しました。32才で新しいフラハラウ「ナ・レイ・オ・カホロク」を長女のレイアロハさんと二人で創設したナニさNっは、短期間でメリーモナークの常勝ハラウに育て上げた若いクムフラです。一昨年のケイキでは長男のカーリントンが見事総合優勝に輝きました。

 日本でフラを踊られる皆さんは、子供達のフラと言いますと、あまり関心を持たれないようですが、ハワイではメリーモナークと同等、いやそれ以上に情熱を傾注されている若い次の世代を担うクムフラが大勢生まれて来ています。13年連続してメリーモナーク見物に行っても(編集者の友人に一人おります。)マンネリになるだけ。ぜひ機会がございましたら、マウイの「フラ・オ・ナ・ケイキ」を体験してみて下さい。

 イベントのスタッフは、全員ホテルの従業員で構成され、バック・バンドにも数名が参加していました。このイベントを機にリリースされたアルバム「ナ・ハリア・アロハ」(思い出を抱いて)は、従業員のコーラス集で、選曲も素晴らしく、プアマナ、コアリ、カロケ、アルリケ、アロハ・イア・ノ・オ・マウイ等が入っています。

 5才から12才までが「ケイキ」、13才から17才までが「オピオ」(青年の部)。そして「パールア」(デュエット)。初日にアウアナを踊った選手は翌日はカヒコを踊り、カヒコは曲が同一で、カネは「ヘ・イノア・ノ・キハピイラニ」、ワヒネは「ヘ・メレ・ノ・キハワヒネ」を競演します。会場も中庭の大テントからプランテーション・ルームに移され、音響効果や照明などが、大幅に改善されました。兎に角、練習量の豊富さ、舞台度胸の強さは成人以上で、ベーシックの確実さは当然のことな、そして何よりも驚嘆させられるのは、踊りの個性とお色気です。緊張しすぎて指先が震えるパフォーマーなど一人もいません。出場者たちは、次の大きな目標「メリーモナーク」へと虎視眈々、標的を合わせているのです。

 「子供達は一年経つと、びっくりさせられる程上達するんだ」とはヒュエットさんの言葉。間近かで見られる一挙手一投足に感激させられっ放しの二日間でした。順位は毎回、滝口和子さんからラハイナ・ニュースが届きますので、次号に掲載いたします。

 今年特に印象に残った選手の中では、オアフのキムさんのカヒコ、ワイルアのメディロスさんパチェコさんのデュエットで「エ・ホイ・イ・カ・ピリ」が抜群の踊りでした。カネ・オピオで総合優勝したロパカさんは技術的には最高でしたがもう一つ、力強さが欲しいと思いました。

 ホテルの中庭では、この期間中メレ・フラのパフォーマンスが各所で行われ、私達会員全員も飛び入り参加して多いに気を吐きました。特に「コアリ」「キパフル」「ホーキパパーカ」などには、多きな拍手を頂きました。ハワイアン・フーズ、クラフトのブースも大繁盛で、「ザ・モスト・ハワイアン・ホテル」の名に相応しい賑わいでした。私個人としては、ケアリイさんのお母さんから褒めて頂けたことが心の支えになりました。

 日曜日は早朝からヒュエットさんのワークショップに参加して「ホポエ」を一時間半、しっかりと教わり心地よい汗を流しました。5ドルの内容のあるレッスンでした。ティキ・テラスでは「ポリナヘ」のディさんとハーブさんご夫妻の清々しいデュオが4時間の熱唱。私達もカウアイ島へのフライトまでの時間をこのデュオと一緒に楽しく遊ばせて頂き、秋のマウイツアーを締めくくりました。

 毎回のことながら、カアナパリビーチ・ホテルのスタッフの皆さんの暖かいアロハには、心からの感謝を・・・・マハロ・ヌイ・ロア。

(文 佐伯 弘−LEO MAKAMAE VOL.17 より)


HULA O NA KEIKI のメモ
このコンテストは毎年10月にマウイ島のカアナパリビーチ・ホテルを会場に行われます。1996年は10月18日から20日までの3日間行われました。メインは子供達の真剣な競技中心ですが、ハワイアンクラフトのブースの内容も充実しています。レイ・メイキングやラウハラの実演コーナーなど、日中も楽しみはいっぱい。

ご意見などは ryoko@cat.email.ne.jp までお願いします。
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