◆History◆

1981年3月13日に門別のシンボリ牧場で生まれる。父パーソロン、母スイートルナ。通算成績16戦13勝(うち海外1戦0勝)6億8482万4200円。
 言うまでもなく日本競馬史上4頭目の三冠馬。さらに4つのGIを制覇したため七冠馬とも呼ばれる。
 その精密機械のような走りぶりや、前年にミスターシービーが華々しく登場したこともあって現役時代は必ずしも人気はなかった(ようです。少なくとも私が競馬をはじめた平成元年にはシンボリルドルフのファンはほとんど見かけませんでした)。今思うと、弥生賞及び皐月賞のレースぶり、和田オーナー及び野平調教師の競馬スタイル、85年のシリウスシンボリ転厩事件などが関係しているのだろうか。
 種牡馬としては、トウカイテイオー、アイルトンシンボリ、キョウワホウセキ、ツルマルツヨシ、ミスタールドルフらを送り出して一定の成功を収めたが、「日本競馬史上最強馬」と称された馬にしては物足らない成績なのかもしれない。ただ、故障のため能力を発揮できないまま引退を余儀なくされた馬が多く、そのあたりが非常に残念だった。
 2004年には種牡馬を引退し、2004年に生まれた産駒がラストクロップとなる。最後の「最後の大物」を期待したいところだが難しそう。(07年2月)


◆血統◆

パーソロン
Partholon
MilesianMy Babu
Oatflake
PaleoPharis
Calanice
スイートルナスピードシンボリロイヤルチャレンジャー
スイートイン
ダンスタイム
Dance Time
Palestine
Samaritaine


◆シンボリルドルフ戦歴◆

日付開催Rレース名着順騎手斤量距離馬場タイム着差体重
1983.07.232新3新馬10611着岡部幸雄53芝1000592-0.4474
1983.10.294東7いちょう特別40017411着岡部幸雄53芝16001373-0.3474
1983.11.275東8オープン5111着岡部幸雄55芝16001399-0.3474
1984.03.042中4報知杯弥生賞GIII141221着岡部幸雄55芝20002017-0.3492
1984.04.153中8皐月賞 GI191011着岡部幸雄57芝20002011-0.2470
1984.05.273東4東京優駿GI211011着岡部幸雄57芝24002293-0.3476
1984.09.304中8セントライト記念GIII10511着岡部幸雄56芝22002134-0.5470
1984.11.115京4菊花賞 GI18511着岡部幸雄57芝30003068-0.1474
1984.11.255東8ジャパンカップGI141243着岡部幸雄55芝240022650.2474
1984.12.235中8有馬記念GI11411着岡部幸雄55芝25002328-0.3480
1985.03.313中4日経賞 GII8611着岡部幸雄58芝25002362-0.7486
1985.04.293京4天皇賞(春)GI151511着岡部幸雄58芝32003204-0.4474
1985.06.023阪6宝塚記念GI1130取消岡部幸雄56芝2200-----------
1985.10.274東8天皇賞(秋)GI171712着岡部幸雄58芝200015880.1474
1985.11.245東8JC  GI151511着岡部幸雄57芝24002288-0.3480
1985.12.225中8有馬記念GI10611着岡部幸雄57芝25002331-0.7486
1986.03.29アメリカサンルイレイSGI7006着岡部幸雄57.2芝2400-----------


◆レース回顧◆

新馬(83年7月23日)
スタートはあまり良くなかった。中団から進み直線では急にインに切れ込むという荒っぽいレースぶり。とある本によると、岡部騎手は、野平調教師から「この馬は走るから、1600mのつもりで競馬をしてくれ」と言われ、そういう競馬をしたと書いてあるが、レースを見る限り余裕があるようには感じられない。この脚癖の悪さは弥生賞、皐月賞で存分に発揮される。

いちょうS(83年10月29日)
頭数も17頭そろい、直線半ばまでは中団やや前を進むというレース。このレースも意外と余裕がなく、直線伸びて交わしたというよりも、他馬がバテて抜け出したといった感じだ。やはり、東京競馬場は苦手なのかも。

オープン(83年11月27日)
頭数はたったの5頭で、追ったところなく楽勝。調教代わりみたいなもの。

弥生賞GIII(84年3月4日)
今回は1番人気をビゼンニシキに譲った。それまでの実績を考えれば当然だろう。でも、岡部騎手はビゼンニシキではなくルドルフを選んだ。これが岡部騎手の慧眼によるものなのか、しがらみによるものなのか知る由もないが、この選択が岡部騎手の運命を大きく変えたことは間違いない。レースは、ルドルフをビゼンニシキが後ろからみる形となったが、ビゼンニシキはルドルフを差すことはできなかった。直線残り100mくらいのところで、ルドルフは外へビゼンニシキは内へ切れ込み交錯し、ひやっとする(さらに皐月賞でひやひやする)。

皐月賞GI(84年4月15日)
皐月賞のリプレイを見るような一戦となった。レースはルドルフが前でビゼンニシキが後ろ。またもや直線で2頭が交錯し、今度はルドルフの後脚とビゼンニシキの前脚が2,3度ぶつかる。いまなら降着かもしれない。岡部騎手はビゼンニシキが内へ切れ込む癖を知っていて、敢えて外に持ち出したという説もあるが、真相はいかに。タイム2分0秒1はレコード。

日本ダービーGI(東京優駿)(84年5月27日)
ルドルフが岡部騎手に競馬を教えたという伝説の一戦。たしかに、ルドルフは道中馬群に包まれ、4コーナーも行きっぷりが良くなく、ゴール直前まで勝てそうな感じはしなかった。特に今回はビゼンニシキが積極的に仕掛けて行ったので、ルドルフ敗北!と思った人は多かったのだろう (私はLIVEで見ていないので、あくまで推測だが)。
岡部騎手の右手は「ピース」ではなくて、「二冠目」という意味。皐月賞でも指1本だけ突き出していた。岡部騎手はルドルフがデビューする前の調教に跨ったときに、その類い稀なる素質を見抜き、知人に「来年はこの馬で三冠をとる。一冠とるたびに指1本ずつ増やしていく」と語ったという(これも伝説か?)。

セントライト記念GIII(84年9月30日)
夏には高松宮杯という話もあったが、結局秋の初戦はセントライト記念。レースはオンワードカルメンに3馬身差をつける楽勝。このあと、野平調教師は「勝負付けの済んだ相手に菊花賞を勝っも意味がない」として、菊花賞を捨てジャパンカップ直行を主張するが、オーナー和田共弘は菊花賞、ジャパンカップ両方出ることを決断する。  

菊花賞GI(84年11月11日)
レースは、中団を進み4コーナーで馬群がばらける京都競馬場のインをついて早めに抜け出す。ゴールドウエイに詰め寄られるが振り切って、「赤い大輪を薄曇りの京都競馬場に大きく咲かせる」。史上四頭目の三冠馬、無敗の三冠は史上初。 このあと、中1週でジャパンカップに挑むが、カツラギエースの逃げに出し抜かれ、3着。初めての敗北を喫する。展開が向かなかったこともあるが、レース3日前に下痢を起こして体調不良だったことも敗因だろう。  

有馬記念GI(84年12月23日)
ミスターシービー、カツラギエース、シンボリルドルフのジャパンカップに続く三強決戦となった。レースは、逃げるカツラギエースをシンボリルドルフがぴったりマークするかたちで進み、シービーは最後方ではなく、中団やや後ろにつける。4コーナー過ぎからルドルフがカツラギエースに並びかけ直線であっさりと交わしての勝利。シービーは3着まで。勝ちタイムはレコード。  

日経賞記念GII(85年3月31日)
8頭立てということもあり、ルドルフがスタートから逃げるかたちとなる。レースは結局そのまま。持ったままの大楽勝。  

天皇賞(春)GI(85年4月29日)
ミスターシービーは、ルドルフにJCと有馬記念の借りを返すために現役を続行したともいう。シービー陣営は、ルドルフ相手に(シービーにとっての)正攻法では勝てないとみて、ルドルフより先に仕掛けた。しかし、岡部騎手はあわてるところなく追走し、直線はいってすぐにあっさりと交わしてしまう。2頭並んだのはほんの一瞬だった。シービーは5着に沈み、これがラストランとなった。2着には同じパーソロン産駒のサクラガイセン。  

天皇賞(秋)GI(85年10月27日)
春の天皇賞勝利のあと、宝塚記念を目指すが、跛行により当日に出走取り消し。体調も崩して、一時引退説も流れたが、なんとか立て直し、復帰初戦となったのが、この天皇賞(秋)。久々が応えたのか、引っ掛かったような感じでレースの流れに乗り切れず、早めに先頭に立ってしまう。そこをニホンピロウイナーやウインザーノットが襲い掛かるが、なんとか差し返し、「天皇賞春秋連覇か!」と思った瞬間、大外からギャロップダイナに差される。実況をしていたフジTVの堺アナウンサーの「外からギャロップぅーーーっ」の「プぅーーーっ」の部分の裏声がこレースの大番狂わせぶりを表している。  

ジャパンカップGI(85年11月24日)
負けられない一戦となったが、相手も弱いこともあり、危なげなく勝つ。2着はロッキータイガー。

有馬記念GI(85年12月22日)
「日本のミホシンザン」では「世界のルドルフ」にかなわなかった。ミホシンザンは見せ場すら作れずに2着に敗れる。産まれた時代が悪かった。 。

サンルイレイS(86年3月29日)
6歳になったルドルフは、アメリカに遠征する。目標はサンルイレイS。7頭だての3番人気に推されるが、レース途中の芝コースとダートコースの切れ目に前脚をとられ、故障(繋靭帯損傷全治6ヶ月)。10馬身差の6着に敗れる。勝ったのは今日本で種牡馬となっているダハール。