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6月2日(火曜日)
一時限目。跡見で国文学概説。「日本文化論の和歌的視角」の二時間目。ペーパーは『古今集』の仮名序。すこし先週の青短の文学史とかぶってきた。季節の移り変わりに敏感に反応して詠まれた歌をいくつか板書しながら、かな/真名・和歌/漢詩等の文化的ジェンダーについて二項対立的に並置させながら論ずる。来週は平安文学の引歌表現について論じることになる。茗荷谷に移動。駅ビルができたのでそこのジョナサンで昼食。放送大学の三回目の講義内容のチェック。今日は「絵画史の中の『源氏物語』」と予告してある。プリントは、法隆寺金堂壁画の阿弥陀如来像、正倉院の樹下美人図、そして隆能源氏である。例によって、阿弥陀如来像の西アジア的な容貌が、東の仏教美術、西のギリシャ彫刻的な古代文明とから融合している、まさしくエキゾチックな顔立ちであること、これが正倉院の樹下美人図に至ると、ふくよかで豊満な東洋的な唐絵(からえ)の女性像となり、さらに院政期の源氏絵では豊満な輪郭だけが継承されて大和絵へと昇華、横顔と背中に物語を語らせる、引目鉤鼻へと転移していることを美術史的に大急ぎでたどる。また、蓬生巻の女房の鼻が描かれていることの意味、といった<抽象性>の美学的意味について。そして吹き抜け屋台の空間性、八月十五夜の満月(鈴虫巻)や、荻の葉(御法巻)のこと。東屋巻から物語音読論のことなど。すこし欲張りすぎたか。次回は「『源氏物語』の女性達」。橋本治さんの『源氏供養』(中央公論社)を読み返さなくては。
今日の絵画史のレクチャーの中で見たビデオ「正倉院 北倉を撮る」(NHK1991)について触れておこう。これは今上天皇即位を記念して撮られたものなのだが、あまり視聴率はよくなかったようである(確か数パーセント)。しかし、クリアビジョンの映像は樹下美人図の服を模していた、わずかに残る山鳥の羽を見事に映し出している。金銀平文琴(きんぎんひょうもんのきん)の三仙人の図や、紫檀五絃琵琶(したんごげんのびわ)に彫られた、胡人(ペルシア人)や宝相花(ほうそうげ)のあでやかさ。いつ見ても感慨を新たにしてしまう、日本人すべてに一度は見てほしいと思う代物だ。とりわけ、なんといっても聖武天皇の、二歳で夭折した皇太子鎮魂の書「雑集」(31歳時)が見る者の心をうつだろう。もし、この皇太子が生きていたら、平安王朝はなかったかもしれないのだから……。加えて、光明皇后(藤三娘・不比等三女)が、亡き夫・聖武天皇を追慕し、49日を数えて大仏に献納した「国家珍宝帳」が紐解かれる場面を見ていると、光明皇后が聖武の遺品を目にするたびに「崩懼(くずお)」れるばかり心が揺れる、というその心の有り様が文字の一つ一つに深く刻まれていることが分かって、これも1200年の時空を越えて見る者の心を粛然とさせてくれる。歴史に語られるスキャンダラスな光明皇后と、人間として妻としての光明皇后のイメージの落差、これもまた古代王権の特殊な家の物語の有り様、かたちなのであろうか。
僕は、この「国家珍宝帳」を見る度、次の歌が脳裏に浮かび上がってくる。
藤皇后奉天皇御歌一首(藤皇后<光明皇后>、天皇に奉れる御歌一首)
吾背児与 二有見麻世波 幾許者 此零雪之 懼有麻思(『万葉集』巻第8・1658)
(わがせこと ふたりありせば いくばくか このふるゆきの うれしくあらまし)
6月4日(木曜日)
帰宅すると室城さんから『源氏物語ハンドブック』草稿に朱が入ったものが届いていた。この本のテキストは角川文庫なので、章段もこれに合わせなければならない。行数の指定で結局既存の事典との差異が薄れがちなのは、これはまずい。いつしか、戻ってきた原稿は真っ赤になっていた。また僕はほとんど『文庫』本文ばかりを参照していて、全集本まで手が回らなかったのだが、室城さんは一々用例を検討してくださった。結局、玉上『源氏物語評釈』の独自な読みをどうするか、ということになる。というより、国文学会に君臨する全集本の読みを、いわゆる<定説>として認定してよいのか、ということになるだろう。全集本の各巻は25万部ほどでているという。つまり、定番だ。しかし、たとえば「明石」巻の広陵散については、この曲にまつわる伝承が注されるだけで、この曲の主題・主想については記していない。なぜなら、僕が初めて『琴操』で見つけたんだから。これは<聶政、韓王を刺す曲>という、仇討ちの曲なのだ。拙著『光源氏物語の思想史的変貌−<琴>のゆくへ』(有精堂 1994)参照。もうひとつ、「唱歌(そうが)」の例。「手習」巻に小野妹尼が和琴のメロディーに合わせて「『たけふ、ちちりちちり、たりたんな』などかきかへし、はやりかに弾きたることばども、わりなく古めきたり」(本文は玉上『文庫』)とあるくだり。玉上説は『花鳥余情(かちょうよせい)』に「笛の音がこう聞こえたのであり、それを聞いて大尼君が和琴で弾いたもので、唱歌とおなじだという。第12巻411頁」とし、さらに『後拾遺和歌集』の俳諧歌「笛の音に春おもしろく聞こゆるは花ちりたりと吹けばなりけり」による一案により「音符を呼んだのである」『評釈』、「たけふ−催馬楽「馬の口」の「歌詞」、「ちりちり−音譜をよんだ。今ならドレミで歌うようなもの」『文庫』(第10巻-167.8頁)としている。いっぽう全集本では「はやりかに弾きたる。言葉ども〜」として、『たけふ』以下を「馬の口」の笛の譜と解釈し唱歌をとらない。しかも本文もかなり異同があり、「たけふりちりちりたりたり」と校訂する本居宣長の説もある。ここでは玉上説を生かしたいところだが、事典は普遍性も大切なので二案だして、編集顧問の先生の判断を仰ぐことにする。これがどうなるかは、お心がありましたら、顛末の確認は御高架にてお願いいたします。いずれにしても、これらの解説は先行する『源氏事典』では読めないはずです。室城さんのアドバイス、ならびに精緻な原稿管理に感謝。
6月5日(金曜日)
一時限目、跡見で物語史、『伊勢物語』三段階成立論の修正と批判。まだネタ本の論文が未刊のため、詳細は先月の片桐先生とのエピソードで類推していただこう。テキストに、『源氏物語』「総角」の巻の匂宮と女一宮が、『伊勢物語』四九段をふまえた、一触即発の兄妹の微妙なやりとりをするところを丁寧に解説。ここには現存本にはない、「在五が物語かきていもうとに琴<きん>教へたるところ」がある。この部分、特に「『人のむすばむ』と言ひたるを見て」の引歌「うらわかみ寝よげにみゆる若草を人のむすばむことをしぞ思ふ」について、歌語「若草」に、兄の、妹への性的な欲望の隠喩<メタファー>が表象されているというくだりの説明は、よく考えてみると女子学生には、ちと刺激が強すぎたかもしれない。しかし、これも『源氏物語』の中の『伊勢物語』の姿なのである。つまり、現行『伊勢物語』には見えぬ琴を弾く場面を持つ『伊勢絵』が描かれているように、この物語そのものがこの時代にも大きく流動化する最中の、物語史の中で脈々と生成されつつあるテクストであったということになる。
大急ぎで、大東の人文研に立ち寄り、山田さんに物研の例会通知の原版を手渡し、発送をお願いした。
青山に移動、日本文学史。紀貫之の「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける」を女歌の立場から読み直し、和歌史における虚構の自立といった問題から、『土佐日記』の女性仮託の文学の生成まで。四時間目、古典演習。瀬戸さんの注釈書の比較検討の輪読発表の二回目。一年生のため、質疑が円滑にならないのは、仕方がないかもしれないが、義務的に質問させるのは考えなくてはならない。瀬戸さんの自由発表は大塚ひかり氏の『源氏物語の身体測定』(三交社1994)をもとにしているそうだ。期待しょう。
6月6日(土曜日)
所沢の松井公民館の「古典に親しむ会」。この会も中山和子先生から1991年7月より『源氏物語』「夕顔」の巻をリレーして、足かけ8年目になる。「蓬生」巻の冒頭あたりから。「末摘花」巻は烏滸的な滑稽譚だったが、この巻は継子いじめ譚の一回完結的な短編性が大きく花開いて、かの末摘花もヒロインになれる。つまり、こうした傍系の物語群も、正編の物語に対置して、『源氏物語』を突き動かすエネルギーになっているのだということを説明したつもりである。
『源氏物語ハンドブック』の原稿整理。6月16日の國學院のうつほ物語の会の下準備。「蔵開・下」巻の担当箇所に、神野藤さんの『散逸した物語世界と物語史』(若草書房・1998.2)にも考証の見えぬ(もちろん「散逸物語基本台帳」には所収)、「舎人の閨」なる物語がある。よし、やるぞ。でも時間がない。辞書・指導書、あーあ、時間が。しかたがない、睡眠時間を削ろう。
とか言いながら、ホームぺージは、本日(正確には、七日になっているAM:0:25)OPENしたのである。原稿書きの片手間なので、まだまだ不備があります。しばらく、見苦しいと思いますが、ご寛容のほど。
6月7日(日曜日)
清泉女子大学で全国大学国語国文学会。僕は会員ではないけれど、最近、長谷川政春さんの御尽力でずいぶん活況を呈してきたように思う。三年前の明星大学青梅校舎の大会は寂しい限りだったから。午後はまたまた原稿整理。あまりの忙しさで、向かいの伊藤さんの奥さんに「百合がきれいに咲いたね」と言われるまで花が咲いたことにも気がつかなかった。春には球根から植え替えてまで世話をしていたのに。でもこの忙しさは周りのみなさんに支えられているからなのだと感謝の気持ちが湧いてくる。夕方、水泳、そしてまた原稿整理。青短の次回発表者の佐波さんはキーボードにも触ったことがないということだったので、気になって電話。「今やっています」と明るい声。安心。鈴木泰恵(武蔵野女子大学講師)さんにも電話。僕が名のると「これって原稿催促の電話?!」と、いきなり機先を削がれたが、物研のことなど。物研会員の第一論文集は合評会の対象になるので、先日電話をさしあげた小田切文洋(日本大学短期大学部教授)さんから『渡宋した天台僧達−日中文化交流史一斑』(翰林書房・1998.3)を事務局あてに例会・合評会係にも献本していただいているので、そのことをお伝えするのが目的だったわけだが。
6月9日(火曜日)
一時限目。跡見で国文学概説。「日本文化論の和歌的視角」の三時間目。はじめにこのページの宣伝をする。履修者は81名だが、実質は70名前後。その中で、メールアドレスを持っていた学生さんは二名しかいなかった。パソコンは六割が所持。潜在的なインターネット利用希望者はもっと多いのではないかという気がした。そういえばこの大学そのものがホームページを持っていないのではないか。したがって、学生にIDNumberを発行することもしていないのである。今度、神野藤さんに進言しておこうと思う。講義はハイパーメディアのことに時間をロスして、小町谷照彦(東京学芸大学教授・放送大学客員教授で、僕の「中古の日本文学」における講座主任)先生の、『王朝文学の歌ことば表現』(若草書房・1997.4)の「方法としての和歌」の定義をたどり返したあと、「引歌」については、『源氏物語』須磨の名文のテクストを分析するのみで終り、『狭衣物語』『逢坂越えぬ権中納言』は来週へ持ち越し。講師室で植田さんとお話。一路、大東へ。ブラウザールームで自分のホームページにアクセス。あまりに画面が暗い印象なので、indexの背景ははずすことにする。
人文研は、所長の意向もあり、山田さんが人文研の図書目録をパソコンで管理することになったので、今までお世話になったこともあって、僕がテクニカルアドバイザーをしている。山田さんもだいぶん馴れてきたようであった。
帰宅して、あれこれと原稿整理。至文堂から『解釈と鑑賞』7月号が届く。原稿料相殺で購入した図書も一緒に届いていた。4時30分、自宅出発。6時 05分國學院着。今日は稲員(いなかず)直子さん(日本女子大学院生)の発表で来週発表の僕が司会。「佐野のわたり」と「群たる猿」「懲ず」がキーワードのようだ。やはり、プレテクストがあるのだろう。散逸物語『舎人の閨』が問題の中心である。この会の前、白百合のみなさんは僕のホームページを見てから参加したのだそうで、やはりCGIのことが話題になる。帰りは室伏信助(東京女子大学教授)先生と同じ方向なので、明治通り−山手通り−青梅街道−中杉街道経由で荻窪まで僕の車でお送りする。先生は図書館長の要職に就任なさったので、蔵書受け入れを準備中の政治学者・丸山真男の話など。今日の道路はなぜかすいていた。明日は終日雨だそうだ。
6月12日(金曜日)
一時限目。跡見で物語史。「『うつほ物語』の生成」漢文化圏と梨壺の五人の文学という成立基盤について。音楽伝承譚(俊蔭系)と摂関政治を背景とした家の物語(正頼系)の物語が×字型にクロスする結節点に「あて宮」「内侍のかみ」巻があるのだということ。
清原俊蔭−俊蔭女−(藤原)仲忠−犬宮−(○)という琴の伝承過程が男−女の対構造になっていることなど。テキストは『国文学 特集伊勢物語とうつほ源氏物語』。江戸英雄君の「あて宮」巻の梗概はとてもできばえが良く、あて宮求婚者たちの狼狽ぶりがよくまとまっている。跡見の学生さんもこのページを見てくれているようだ。
次へと移動。国道20号から神宮外苑西通りを通る新ルートを開拓した。12時40分、 青山着。講師室で榎本正樹さんにアクセスカウンタのことなど。(今度から、師匠と呼ばせていただきます)。三時限目、日本文学史、「定家本『伊勢物語』の世界」初冠章段から、例によって(6+12=)18番から指名音読。そしてリレー音読。三段階成立論を前提に「後人注記」のことなど。「月やあらぬ」の五条の后章段を、『古今集』の詞書とつきあわせる。熱心に現代語訳を書き写してくれている学生が大半だが、数人は全くイッチャッテル(やる気のない)学生がいる(僕は記憶力がよいほうなので出身校まで覚えているのだが、みんな、世間ではいわゆる才媛なのなもしれない。<青春>の本当の意味が分かっていないなんてかわいそうだなあ。でもわかったときには青春はおわりなんだけどね)。移動中のFMで聴いた『厚生白書』の小倉千加子の調査によれば、結婚相手の選考基準は3高(高収入・高学歴・高身長)から、3Cに変化したのだそうだ。曰くComfortable (安定収入) Comunicative(理解し合える) Corporative(家事に協力的)だそうである(朝日新聞・本日夕刊にも掲載記事)。こんな話をする。講義開始直後のアンケートで、この学校への選択基準に、場所がいいから、ミッションだから、と書いていた人、3高と同じミテクレ重視の古い基準なんてやめようぜ!!。四時限目、古典演習。瀬戸さんの自由発表。風邪で声が出ないと言うので、原稿を僕が代読。『源氏物語』の身体表現について構成もよく考えられており、なかなか充実していておもしろかった。活字にしてはやく読ませてほしいという声がでたほどだ。はやくこのページに載せたいものである。ついで佐波さんの輪読発表。彼女たちもだいぶん馴れてきてくれたようだ。満足。急いで帰宅。教科書「光源氏誕生」以下の、「教材のねらい」執筆その他。明日は編集会議である。
6月13日(土曜日)
終日雨。18:00編集顧問の室伏先生をお迎えして、角川本郷ビルで指導書・課題ノートの編集会議。僕の草稿や、針本先生、津島昭宏君(國學院大學院生)竹内正彦さん(江戸川女子短期大学講師)の原稿をたたき台に討議。同級生の市川康さんも的確な意見だしてくれた。いかに使いやすい教科書にするか、みなさんから真剣な意見が寄せられ、討議が重ねられた。二次会に席を移す。隣に高野さん(編集責任者)が座られ、やんわりとさりげなく「上原先生の御原稿、力作ですがすこし難しすぎるのでは?」。(やっぱボツかよ〜〜。)ということで、「教材のねらい」の部分は、このホームページの「『源氏物語』のページ」で有効再利用する事にした。帰りは松坂さんとご一緒する。先の『高校生の現代文』の件は、「ワシントンポスト」がかぎつけたのだそうだ。担当の辞書教科書課の若きエース津久井哲郎さんが取材を受けたので、MR.TSUKUIのコメントが全米に打電されたのだそうである。なんとインターナショナル☆★☆★☆★?!
6月14日(日曜日)
日曜日の午前中は、縁あって東京で最も古い真言宗智山派のお寺(大乗院)の息子さん(栗山弘憲君・大学一年生)に基礎的な仏教漢文を教えていたが、前期の最終回。今彼は親元を離れて学校の修行寮で修行中なのだが、例のオウム問題で宗教法人法改正になったため、いずれこうしたシステムでの教育はできなくなるのだという。だいたいこの学科の女子学生はそこには入れないと言うのだから、そもそも教育の機会均等の原則、24時間拘束しての集団生活が長期に渡ることなどの問題は確かにあるのだが。
彼は大変熱心な学僧君で、幼少からひろさちや原作の(「仏教コミックス全108巻」鈴木出版株式会社1991)などを精読したという。聖徳太子の「勝鬘経(しょうまんぎょう)」の読みにつかえた時にも、この本「日本仏教の祖」の巻をさっと開いたのには驚いた。現代の『源氏物語』ブームが『あさきゆめみし』によるものであって、これがキャノン(聖典)として存在し、学生の基本的な物語理解となっていることも思い合わされ、やはり活字ばかりではなく、ビジュアルなものに惹かれる傾向があると言うことなのだろうということを実感した。彼との勉強は僕もまた勉強になった。彼は夏、中国の古寺(西安)をめぐり、さらに長谷寺で修行だという。次回に合うときの彼の成長が楽しみである。
14:00。日本文学協会事務所で「『うつほ物語』を読む会」富山から正道寺康子さん(洗足学園魚津短期大学講師)が見えて「俊蔭」巻の冒頭から輪読。遣唐使の典拠の問題、『うつほ物語』の注釈書の問題点などがみえてきた。有意義かつ楽しい時間であった。
6月16日(火曜日)
一時限目。跡見で国文学概説。「日本文化論の和歌的視角」の四回目。紀貫之−藤原定家−中世源氏学にいたるまで、和歌の家としての公的な認知が文化的価値観の最上位になるのだと言うこと。転じて時代をやや遡り、引歌の絢爛たる開花、『狭衣物語』冒頭部の分析。「灯を背けては共に憐れむ深夜の月 花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」(白楽天)。
茗荷谷に移動。12:45。放送大学の前期三回目。「『源氏物語』の女性達」。先日書き始めたばかりの指導書、青短ゼミのおかげで話すことはやまほどある。「桐壺巻」巻頭の「すぐれて時めき給ふ、ありけり」の問題。なぜ、敬語が不安定なのかといこと、更衣の「いとかく思う給へましかば」の問題等を後宮制度と絡めて論じる。橋本治と瀬戸内寂聴の対談ビデオを間にはさむ。時間を割いて聴講に見える学生さんはみなさん大変熱心である。僕の母くらいの生徒さんが、板書を丁寧に消してくださった。恐縮。講師室・図書館で國學院の「『うつほ物語』の会」の準備。二時間。レジュメは11枚。30セット。この会もほんとうに賑やかになったものだ。前記した『舎人の閨の物語』等の調査は、もったいないので、近々、本「『うつほ物語』のページ」に簡潔に掲載することにする。
6月19日(金曜日)
一時限目、跡見で物語史。やや時間が足りなくなってきた。次節の「音楽伝承譚の系譜」もかねて『うつほ物語』の「吹上」「内侍のかみ」巻について。「王昭君」説話の簡略な説明をくわえながら、解説。それにしても「昭君怨」の古箏のもの悲しい調べに対して、中国現代音楽の「王昭君」に華やかさはなんという落差であろう。学生さんはこの違いに何を聞き取ってくれたのであろうか。僕は我が国の漢文学受容史の中で、楊貴妃に比べて王昭君の位置があまり高くないのを残念に思っている。
三時限目。青短で文学史。『伊勢』の狩りの使章段。青短の学生さんもようやく僕のスタイルを理解してきてくれつつある。レポートの水準は確実に高くなっている。この学校の学生さんの潜在的なエネルギーをどう引き出すかはこちらの側の責任なのかもしれない。ただし、冷房がない上に蒸し暑かったためか、居眠り二名。怒鳴りつける。
四時限目、古典演習。佐波さんの輪読発表。質疑もある程度かたちになってきた。
六国史、藤原沢子のことなどを僕が補足。
講師室で陣野さん、榎本さんとお話。近年、出版界が不振なこと、ホームページのことなど。
6月21日(土曜日)
物研6月例会。途中、兵藤裕己(成城大教授)ハルオ・シラネ(コロンビア大教授)両氏と一緒になる。米子から原豊二君(米子高専講師)も見えていた。国語科通信のことなど。
助川幸逸郎君(横浜市立大講師)のテーマ発表は期待通りの出来映え。助川君は完全に柄谷行人病から脱却したようだ。物語を読む私の、「いま・ここ」の位置を確かめながらテクストを捉え返そうとする試みは一応成功したようだ。ただし、例によって、「古代」が見えてこない。現代と共時的に生きる源氏論であって、通時的、普遍的な価値を持つ源氏論になっていただろうか。この問題は私よりも年若い研究者に共通する課題だが、「古代」は避けては通れまい。タイトルの「救済」も魂の救済という観念は透けて見えるが、仏道の問題とは全くリンクしていなかった。今後に期待したい。長谷川政春さんの著書の合評会は井上眞弓さん(東京家政学院大学助教授)と三村友希さん(僕の跡見での熱心で優秀な受講生でもある)が詳細かつ、綿密なレポートをしてくださった。出席者も40名を越えた。みな学問の力を実感してくれたのではなかろうか。兵藤氏が「知らない人が増えた」と驚いておられたが、今、物研は完全に20代30代の会員によって支えられ大変な盛況である。学校という枠を越えて、悩みや不安を語り、時に生活まで支え合うというのは、すばらしいことだと思っている。純粋に。
6月23日(火曜日)
一時限目、跡見で国文学概説。「日本文化の雑種性<漢>と<和>と」に「四季の美意識の生成」を重ねて論じることにする。ビデオに昨年放映されたNHK教育テレビの「新・日曜美術館」の「冷泉家展」を用いる。藤原鎌足以降、冷泉為相(ためすけ)までの略系図を書き、その上に七夕の乞巧奠(きっこうてん)などの年中行事が家門意識を形成する重要な役割を果たしていることなど。あと二回でまとめなければならない。
ご無沙汰の大東文化大学人文科学研究所へ。雑用多数。逢う人ごとに頭を下げ続ける。だから母校はつらいものだ。夜、國學院の「うつほの会」。森野君の担当。やはり蔵開・下巻は前田家本より毘沙門堂本のほうが、本文の純度は高いことを確信した。
深夜、『三島由紀夫 未発表書簡−ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社・1998.5)を明け方までかかって読了。1970.9.3(10月の誤りか)の日付け書簡に「「暁の寺」はひどい冷遇ぶりで、ますます日本の文壇に絶望しました。しかし本は呆れ返るほど賣れます。つまらぬ批評、無知な批評家たち……」とあったことが心に残った。著書を持つ人間ならば、この想いは共通だろう。自著の批評は気になるものだ。ただし僕の場合、書評に関してはは好意的な書評に恵まれたものだった。今、「『源氏物語』のページ」に逐次増補中なのでご覧いただきたい。書評に関して、僕は幸運であったという他はないが、ある時、僕に対して、直接に時代錯誤的な評言をつきつけられ、ひどく失望したことがある。曰く「君の研究は、作者の意図を実証していない」と。これは全く心外であった。こういう人に限って、僕の本や論文はほとんど読んでいないことがあとで判明したので、問題外と言ってしまえばそれまでだ。しかし、これでは悲しいではないか。
言うまでもなく、僕の専攻する平安文学はいくら考証してもそれを実証する手段(文献)はほとんどない。たとえば、『源氏物語』の成立過程の“仮説”は立てられるが、絶対に現存資料ではその“仮説”を立証することは出来ないはずだ。要は現存文献をどう読み、歴史性の中に還元して論証する手続きの正確さを、実証“的”方法というのであって、結局、現時点でもほんとうに実証できたのは、池田亀鑑博士の『土佐日記』の本文再建が、後年、萩谷朴先生の為家本の調査で立証されたことぐらいではないか。
つまり、平安文学研究においては、現時点においても、厳密な文献学の理論から言えば自分の解釈を、テクスト解釈の一方法(=仮説)として他者に提示することしかできないということになる。確かに、考証を徹底し、文献の誤読が少なければ少ないほど、それは実証“的”方法であることは確かだが、それもあくまで“仮説”の提示に過ぎないのである。三島由紀夫ですら、同時代批評に失望して居るではないか。まして千年の前の出来事をどう実証するのか?こんな時代錯誤・論理錯誤の批評家(読まずに批評する研究者をこう呼んでおこう)が、まだこの世界に存在することを僕は残念に思っている。そうこう考えていたところ、先般も「日本文学」5月号(日本文学協会)に、『源氏物語』の準拠論で、<自分の読み>を「作者の意図」であると自認する、仰天論文が掲載された。私はこの論文を依頼してまで掲載した、編集委員会の見識に深い疑念と不信を表明する。「これが科学的方法を標榜する『日本文学』の現在的水準なのか」と。こうした、僕の問題認識は、現在書店に並べられている、「解釈と鑑賞」誌、七月号の特集、「言語の教育と文学の教育」に簡潔にしるしたつもりである。ぜひご覧頂きたい。しかし、賢明な読者にはとくに新しい視点を提供したというわけではないかもしれない。あくまで、僕のことばで、実証“的”、かつ、多層的に<読むこと>の意味を論じたつもりである。
6月26日(金曜日)
一時限目で物語史。音楽伝承譚の系譜−『うつほ物語』から『源氏物語』へ。ようやく僕の十八番に入ったところ。テキストの「国文学」で梗概、高橋亨論文を読む。テキストの音読リレーであまりにも平安朝語彙が読めないので、テストに出すことにする。来週は最後。小ネタを考えたい。何人かの学生さんがやってきて、僕のホームページが開けなかったと言う。今度は大丈夫かな?
移動して青山の学食へ。先日、朝日新聞にサザンオールスターズの全面広告が出ていて、この学食で、あのグループの青春時代が育まれていたことを知る。このグループがデビュー当時僕は中学三年生だった。オールナイトニッポンのパーソナリティーだった南こうせつが、「勝手にシンドバット」を「すごい曲だ。どんな人が歌っているんだろう。この曲がベスト10に入るのでオンエアしたいです」と言っていたことなどをふと思い出す。三時限目。日本文学史。『伊勢物語』49段と『源氏物語』総角巻のところ。永松さん、僕のホームページご覧頂きましてありがとうございます。こちらでもアドレスの問い合わせ。ご覧のみなさんメール、メールくれ!。四時間目。古典演習。佐波さんの自由発表。質疑も活発になってきた。深夜。某さんから、ワープロの文書保存の問い合わせ。なれないワープロの前で格闘しているんですね。電話の向こうからライブ中継。無事、文書は保存できたようだ。ご苦労様。
6月27日(土曜日)
白百合女子大学で『浜松中納言物語』注釈の会。巻一がようやく終わりそうだ。松浦さん、京都からご苦労様。松浦さんを送り、南昇君(一学年下の後輩)と吉祥寺経由で帰る。
6月28日(金曜日)
日本文学協会事務所で『枕草子』の会、この時代の書物の形態が話題になる。巻子本と冊子本、萩谷朴・野村精一という書誌学の大家は巻子本説であるが、どうも先入観が優先して、この会では冊子本説が有力であるようだ。家に帰って調べ直してみる。するとやはり書誌学の厳密な調査を待つまでもなく、「清涼殿の丑寅の隅の」の段の『古今集』の暗唱に使われた草子は、やはり巻子本の『古今集』を、巻頭の歌から順に繰り拡げ、繰り寄せながらテストされたと考えるべきものであるようだ。
6月29日(月曜日)
萩谷先生をお迎えして『元輔集』注釈の会。先日、先生からは『風物ことば12ヶ月』(新潮選書1998.6.30)を頂戴した。昭和26年から27年にかけてのNHKラジオのお早う番組の原稿をもとにして「日本人の心に、自然を愛し環境を慈しむ人間性を育て」、バブルとともに崩壊した日本人の心に、「今一度、人間としての自覚を取り戻して欲しいと願って」書き下ろされた書物だそうである。万謝。仕事が杜撰だった僕に、「夏休みよく勉強してくるように」と厳しくも暖かい励ましのことばをかけていただいた。
6月30日(火曜日)
一時限目。跡見で国文学概説。「日本文化の雑種性」先週の冷泉家をさらに後ろにずらして、中世源氏学の発生と展開の過程を、キーパーソン阿仏尼を軸に論ずる。家の文化力を支える複雑なエネルギーについて。僕のホームページを「大分見た」人があるそうである。(名前は本人の希望で伏せます)。移動して放送大学の前期最終回。「紫式部と『源氏物語』」『紫式部日記』の消息体評論編の清少納言評を読んだ後、「夢浮橋」巻の最終場面を解説。三島由紀夫の『豊饒の海』のラストシーンとをだぶらせながら読み終える。この大学の最終講義はいつも大きな拍手を頂けてほんとうにうれしい。レポートはほとんどが私より年長の方ばかりなので含蓄に富むものばかりである。追々、紹介してみたい。夕方、國學院で『うつほ物語』の会。前日、その研究姿勢に苦言を呈した上に、メガトンクラスの雷を落としてしまった某さんのことが気になっていたのだが。太田敦子さん(國學院大學院生)のレポートは、極めて詳細、微に入り、細を穿つものであった。本文中、やはり、毘沙門堂本が前田家本より優位にあるように思われる一節があった。これは僕自身がこの物語の注釈を手がけたときにきっと公に出来るだろう。