『源氏物語』に関する断章  

Up Date 2010.05.20改訂/1998.10.09初版

紫式部は『源氏物語』作者か?

母性愛希求の物語

『源氏物語』の中の生活者たち

物の怪の正体は誰だったのか?

衣裳の物語−若紫@

衣裳の物語−若紫A

「紫のゆかり」の筆つき

紅葉賀の記憶−『源氏物語』の方法

男の顔の物語−「紅葉賀」巻


紫式部は『源氏物語』作者か?

『源氏物語』は紫式部の作と知られている。ではその根拠はどこにあるのだろうか?答えは『紫式部日記』である。この日記に見える『源氏物語』関連の記事を列挙してみよう。

@御前には、御草子つくりいとなませたまふとて、明けたけば、まづむかひさぶらひて、いろいろの紙選りととのへて、物語の本どもそへつつ、ところどころにふみ書きくばる。かつは綴じあつめしたたむるを役にて、明かし暮らす。

A局に物語の本どもとりにやりて隠しおきたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて、みな内侍の督の殿に、奉りたまひてけり。よろしう書きかへたりしは、みなひきうしなひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし。(寛弘五年〔一〇〇八〕十一月一日)

B内裏の上の、源氏の物語、人に読ませつつ聞こしめしけるに、「この人は日本紀をこそよみたるべけれ。まことに才あるべし」とのたまはせけるを、ふと推しはかりに、「いみじう才がる」と殿上人などせちにいひちらして「日本紀の局」とぞつけたりける。(消息文)

 @の記事は、『源氏物語』の草稿を書写し自身はそれを綴じ集めている記事である。Aの記事は、藤原道長によって、妍子のために不本意にも草稿本が献上されてしまったことを記していて、清書本と二種類の本文があったことがわかる。また、Bの記事は物語の朗読を聴いていた一条天皇が、作者を六国史に精通していると賞賛したことから、自身のあだ名となった由来を記している。他にも宮廷出仕後、久しぶりに『源氏物語』を手に取ってみると「見しやうもおぼえずあさましく」、人はこうした恋愛物語を書く自分をどのように思っているのだろうか、という、懐疑と感慨を記してみたり、藤原道長からこの物語の作者にちなんで「すきもの」とからかわれたりしたことも書き記している。このように、確かに一条朝の中宮彰子に使えていた一人の女房がこの物語を書いたことは疑えない。しかし、この日記の執筆時点で、それがどこまで完成していたものであるのか、あるいは巻名もすでにあったのかなど、この物語の創作過程・享受の実際などは、こうした資料からもやはり謎という他ないのである。

 

母性愛希求の物語

『源氏物語』で重要な役割を果たす登場人物たちは、幼くして母を失っていることが多い。まず、光源氏しかり、紫の上しかり。玉鬘も母・夕顔を幼くして失っているし、宇治の姉妹もその典型である。また薫の場合は、自分を出産直後に母が出家しているので、あるいはこうした物語の類型として加えることもできよう。

 このように、『源氏物語』は母性愛希求の物語として読むことも可能である。では、この母性愛希求の物語は、光源氏の場合、どういう物語へと展開するのか?答えは父・桐壺帝の女御藤壺との密通事件へと発展する。幼くして母を喪っていた光の君は、母の面影すら知らなかった。そんな時、父が迎えた新しい女御がじぶんの母とうり二つと聞いたこの君は、亡き母の面影を求めて、この女君にまとわりつくように幼年期を過ごした。やがて、徐々に青年になるにつれてその美貌と才知で一の皇子を凌ぐ存在となる。しかしながら、彼の心に深く根ざすコンプレックス、それは母の肌のぬくもりを知らないことであったといってよかろう。これがやがて光源氏の“紫のゆかり”希求の物語として、『源氏物語』の始まりのエネルギーとなったことは言うまでもない。

 では女主人公・紫の上の場合はどうなのだろうか。彼女も幼くして母を喪い、北山で祖母の尼君のもと養育されていた時、光源氏に見いだされたのであった。幼い時から聡明であった紫の上は、成長して光源氏の妻となるが、彼女は光源氏の栄華の時も苦難の時も、光源氏を信じ支え続けた。女三の宮降下という最大の試練の時も決して感情を露わにしたりしなかった。常に冷静に振る舞い、どんな相手へも気配りを忘れない、欠点の見つけられぬ女性、それが紫の上である。紫の上を中心に『源氏物語』を読むと、この物語は、この女君にこれでもか、これでもか、と試練を与え続けた物語ということになる。彼女に実子を儲けさせなかったこともその一つであろう。彼女が明石の姫君の育ての母として、慈愛の限りを注いだことの意味は、自身に尼君が命の限り注いでくれた“母なるもの”を、宿縁で結ばれた人々にまで分け与えようとしたかのようである。

 

『源氏物語』の中の生活者たち

 夕顔巻の八月十五夜、光源氏と夕顔が「某の院」に赴いたとき、寂しい京の一角で二人の耳にとどいた、庶民の人々の日常市井の会話が記されている。これは極めて貴重な歴史的・文化史的な資料なのである。

 隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まして、「あはれ、いと寒しや」「今年こそなりはひにも頼む所少なく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞き給ふや」など言ひかはすも聞こゆ。

 光源氏にはこうした庶民の家並みすら「見ならひ給はぬさまもめづらし」と記されているように、当時の貴族も堅苦しい生活を強いられていたようで、光源氏は北山への療養の道すがらの気色にも非常に興味を示している。前述の庶民の言葉には「今年は不景気だから収入も期待できないし、かといって田舎への行商の生業も期待できないし」と言った今日のテレビニュースと変わらぬ生の声が記されていることに注目して欲しい。当時は、特に自然災害・疫病などによって、人間の暮らしも今よりはるかに危険で不安定なものであった。もちろん、都での暮らしが厳しければ、田舎へも行商に行ったし、税も身分と仕事によってきちんと義務として課されていたのである。もちろん、税制や、京都の当時のありようは、古記録が残っているためその概要は知られるが、それがフィクションではあるにせよ、当時の庶民の声がこの物語に記されていることの意義は大きいのである。これは作者・紫式部の父や夫が受領(国司)であったという仕事柄、比較的庶民の暮らしぶり、その年の豊作不作などにも敏感であったことも、あるいは影響があったのかもしれない。なぜなら、自らが任命されて治める国が、産物などの名産品が豊かであればあるほど、彼らと彼らの家族は、その租税による恩恵を蒙っていたのであるから。

 

物の怪の正体は誰だったのか?

「おのがいとめでたしと見たてまつるをば訪ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして時めかし給ふこそいとめざましくつらけれ」とて、この御傍らの人をかき起こさんとす、と見給ふ。

夕顔巻で、物の怪が夕顔に憑依しようとしている所を光源氏が見ている場面である。古来この物の怪は誰かという議論が繰り返されてきた。説は三つに分かれ、@六条御息所A六条御息所の侍女Bこの某の院に住む怨霊が挙げられている。ポイントはこの巻の冒頭から「六条あたりの御しのび歩き」と見えていること、加えて「おのがいとめでたしと見たてまつる{こと}をば訪ね思ほさで」の{こと}を補い、「光源氏を恋い慕い申し上げている私{=六条御息所}のことはちっとも訪れようとなさらないのは、この女のせいだ」という解釈から御息所自身の発話と見る説@、「おのがいとめでたしと見たてまつる」に、「方=六条御息所」が続くと見て、六条御息所の侍女とする説A、さらには具体的にそのひとり中将の君とする説もある。あるいは、こうした解釈には組みしない、六条院のモデル・河原院の源融の怨霊伝説などから、この地の霊物を類推する説Bに分けられる。

 従来までは、これらの解釈の当否を巡ってあくなき論議が重ねられてきたが、現在ではこの三例すべてが有効であり、物語は様々な可能性を記しながら物の怪を造型したとするのが最新の見解となっている。物語本文からすれば、冒頭場面では六条の御息所の介在を暗示してしているし、かといって、例の物の怪の発言は、文脈の流れからはAが最も穏当な読みということになる。また、Bの説も物の怪は「いとをかしげなる女」なのだから、Bだけは除かれそうなものなのだが、、遊離魂というものは、様態とさまよえる霊魂の性別はかならずしも統一的である必要はなく、変幻自在な存在のはずであるから、これもまた不当ではない。

 つまり、近代的な合理主義はひとつの正解を常に要求するが、物語文学を読むことは、一度目の読みと二度目の読みの解釈が異なっても一向に構わないのである。むしろ、そこに複数の意味を発見すること、その意味が、物語全体においてはどのように響き合うのかを考えることが、物語の語ろうとしていたさまざまな世界の窓を開いてくれるはずである。

 

衣裳の物語ー若紫@

 中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いと悩ましげに経読みゐたる尼君、ただ人とは見えず。四十余りにて@、いと白うあてに、やせたれど頬つきふくらかに、まみ のほどA、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなB、とあはれに見給ふ。

 きよげなる大人二人ばかり、さては童べぞ出入り遊ぶ、中に、十ばかりにやあらむ@、と見えて、白き衣、山吹などのなえたる着て、走り来たる女子、あまた見るべうもあら ず、 いみじく生い先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとしてB、 顔はいと赤くすりなして立てりA。

@=年齢、A=面ざしの描写 B=髪の描写

 光源氏が、紫君と邂逅する場面である。尼君とこの北山の少女の容姿は極めて対比的に描写されている。それぞれ、光源氏の視線を通して、二人の容姿を、尼君=死の影と、紫君=躍動する生命、とに対照的に描き出していることがわかるはずである。しかもこの時点では、この少女の母かとも誤認されている尼君は、身体はほっそりしているけれども、この時代の美人の条件であることを表象する「ふくらか」と描写されていてA、もう一つの条件であるところの髪もまた、剃髪しているものの、むしろモダンなイメージであると形容されているB。いっぽうの少女も、成人後の美貌が予期されるほどのかわいらしさを備え、髪も豊かな上にB、規範性を逸脱して子どもらしく、泣き腫らした顔をしてA、周囲の大人たちに甘えているというのである。紫のゆかりの物語の始発にふさわしく、それぞれ当時一般の年齢には不相応にして理想的な、いやむしろ現実性を超越した女性性を備えているという設定である。しかし、こうした女性のうつくしさを描く描写においても、両者の物語における未来は、死の影/生の躍動とを区別して描かれているのである。

 

衣裳の物語ー若紫A

 若紫巻の光源氏と紫の君の出会いの場面で、もうひとつ注意すべきは、死の影である僧服をまとうだけの尼君にはとくに描写もなされないのに対して、紫君は白き衣という単衣の下着に、着馴れているらしい山吹襲をまとっていることであろう。山吹襲は襲の色目(かさね  いろめ)で、表は薄朽葉(うすくちば)(赤みを帯びた黄色)、裏は黄色という、まさに春のイメージを身にまとっていたのであった。それゆえ、光源氏の視界から少女が消えても、「頬つきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざしいみじううつくし」と、愛らしく、美しい少女の面影がクローズアップされ、彼の脳裏に刻印される。さらに彼女のまとう春の記号は、「ねびゆかむさまゆかしき人(成人してゆく様子をも見ていたい人)」という、彼の欲望すら喚起することになるのであった。なぜなら、この少女の面立ちは、「限りなう心を尽くし聞こゆる人(=藤壷)にいとよう似奉れる」ことに気づいたからである。

 さて、この物語は母性愛希求物語の一面が重要なモチーフのため、「紫のゆかり」に連なる女君が女主人公の系譜をになうことになる。桐壺更衣ー藤壺ー紫の君につらなる「春の記号」はかくして、青年の貴公子として成長した光源氏に、激しい衝動を呼び起こし、彼は藤壺との密通へと走らせる。ふたりは深い罪を抱え込むことになったのである。

 密通の後の光源氏の夢の中の恍惚の和歌、

 見てもまたあふよまれなる夢の中にやがて まぎるるわが身ともがな

と藤壺の「世語り=噂」を怖れる和歌、

 世語りに人や伝へむたぐひなくうき身を覚 めぬ夢になしても

におけるいちじるしい両者の罪の認識の深い溝こそが、この物語の人間凝視の鋭さを示していると言えるだろう。

 

「紫のゆかり」の筆つき

 この物語の「紫のゆかり」は、『古今和歌六帖』の笠女郎の歌「知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ」の二・三句めを光源氏が口ずさむことにも知られるように「かこつ」ことに重要な意味をもっている。光源氏の言う「武蔵野」は紫草の群生する地であるから、これは「紫のゆかり」の隠喩であり、光源氏が「かこつ」「紫のゆかり」の少女が、母更衣や藤壺の縁{えにし}につながる女性としての資質を備えていることが、若紫巻で光源氏に少女迎えとりを決行させた原因といってよい。それが証拠に光源氏の和歌は、極めて性的な欲望の観念が込められたものになっている。

 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを

「ね」は紫草の根、つまり少女の資質そのものと、もうひとつには非常に露骨な少女の女性性を隠喩した表現であることは言うまでもない。

 そんなあやしげな雰囲気の中で光源氏は手づからこの少女に書を指南する。彼女の筆つきは「いと若けれど生い先見えてふくよかに書いたまへり。故尼君のにぞ似たりける」と見えているから、故尼君の指南もあってか、この物語では血縁を「手」という筆つきでも表現する方法が採られていることが知られる。

 そこで「紫のゆかり」に連なる女君の筆つきを列挙しておこう。(ただし、母更衣に関する記述は見えない)

藤壺「あてにけだかきは思ひなしなるべし」「いと気高くなまめいたる筋あり」梅枝

紫上「今少しなまめかしう、女しき所書き添へたり」賢木「にこやかなるかたの御なつかしさは殊なるものを」梅枝

女三の宮「とりて見たまへば、御手は、いとはかなげにて」横笛

 それぞれ登場人物と筆つきが密接に関係していて繊細な書き分けがなされている。興味のある人はさらに調べてみよう。

 参考・駒井鵞静『源氏物語とかな書道』雄山閣・1988

 

紅葉賀の記憶ー『源氏物語』の方法

紅葉賀の青海波の舞は、居並ぶ当代の貴顕達に幻の光源氏王朝の到来を予見させた、この物語中でも極めて重要な場面である。

 たとえば、「(光源氏)詠などし給へるは、これや仏の御迦陵頻伽の声ならむと聞こゆ。…顔の色あひまさりて、常よりも光ると見え給ふ」と見えている。この世の物とも思えぬ神さびた幻想の空間が現出したことを最大の賛辞で評している。

 のちに光源氏は、須磨下向という試練を経て准太上天皇という位に就くが、そうした威光のもと、冷泉帝が朱雀院に行幸した際に、青海波の舞が紅葉の賀にゆかりのふたりの嫡男・夕霧と柏木によって舞われ、朱雀帝がかつてを回想し、深い感慨を覚えるくだりが第一部の大団円、藤裏葉の巻に見える。

 さらに、若菜上巻、紫の上主催の光源氏四十賀、薬師仏供養の祝宴で、やはり夕霧と柏木が落蹲を舞うフィナーレの「入綾をほのかに舞ひて紅葉の蔭に入りぬる名残り」に、人々は往事の紅葉の賀宴を再び想起することで、光源氏の時代の終焉を実感せずにはいられなかった。

 物語は、このようにひとつの挿話を何度か繰り返し引用しながら、すこしずつ舞台や登場人物をずらすことで、物語総体のイメージを重層化させて行くのである。『源氏物語』にはこうした方法が随所に見られる。例えば女君の「髪」や、「乗り物」「野分」など、自分で興味のある対象について調べてみることもおもしろいのではないかと思われる。

 参考・玉上琢弥『源氏物語評釈』(角川書店・1968)別巻の事項索引が便利である。

男たちの顔−「紅葉賀」巻

藤壺は光源氏との罪の御子(のちの冷泉帝)、が徐々に成長するにつれ、光源氏とうり二つのこの御子の出自が、桐壺帝や後宮の人々にわかってしまうのではないかとひどく怖れるようになる。しかし、物語の叙述は「浅ましきまで紛れどころなき御顔つき」とあるのみで具体的な特徴を示さない。さらに「また(光源氏・御子の)並びなきどちは、げに通ひ給へるにこそは」と藤壺にその怖れの心中を語らせているけれども、これは桐壺巻の、帝の母更衣への比類なき寵愛が周囲の嫉妬を呼び覚ましたことや、後に光源氏の存在が朝廷の秩序を破壊するほどの資質や美質を持っていたことから、臣下に下ったという過去を藤壺に回想させている。つまり、その後の物語には、更衣の「ゆかり」につらなる藤壺じしんの罪の怖れが、さらに深刻に自覚されたと言うことになろう。

 藤壺の苦衷はさらに続く。「かうやんごとなき御腹に同じ光にてさし出で給へれば、疵なき玉とおぼしかしづくに…胸の暇なく、やすからずものを思ほす。」 桐壺更衣死後の帝の寵愛を一身に集める藤壺の腹に「光」を得て生まれたこの御子は、「疵なき玉」であるという。このように、のちに帝位に就くこの御子には、幼児から「光」と「玉」という、王の権威を示すキーワードが与えられていた。この物語は男の顔も貴顕の女君の容貌もあまり具体的に語ることはしないけれども、このようにキーワードによって、人物のイメージを造型しているのである。

 さらに形容をたどろう。「物語などしてうち笑み給へるがいとゆゆしううつくしきに」と御子の美しさは「ゆゆし」く不吉なほどで、藤壺も、同席する光源氏も、帝の御前で密事の露見が悟られはしないものかと「汗も流れ」るばかりであったと言う。

 こうした、微妙な心理描写は世界に先駆けて『源氏物語』の達成した技法である。じっくりと読み味わって欲しい。

  本解説は 『古典講読 源氏物語・大鏡』(角川書店・1998)によります。

Text By Sakukazu Uehara Copy right 1998(C)Allrights Reserved