『源氏物語』開題−入門編
入門編
「成立」
作者の『紫式部日記』によれば、寛弘五年(1008)に、『源氏物語』の手稿本が藤原道長の命によって持ち出され、次女の妍子に献上されたことが知られる。同じ頃、一条天皇が『源氏の物語』の朗読を聞いて、作者を前に「この人は日本紀を読みたるべけれ」と感嘆したことから、紫式部が他の女房に「日本紀の局」とよばれるようになった由来を記している。ただし、この物語に関する資料は、この日記の記述のみであり、成立過程等の詳細は一切不明と言う他はない。
「書名」
前記『紫式部日記』に『源氏の物語』と見えている。やや時代は下って菅原孝標女の『更級日記』治安元年(1021)にも、「叔母なる人」から『源氏の物語』が贈られた記述が見えることから、この物語の書名は、主人公光源氏の物語として流布したことがわかる。そもそも、先行する物語でも『竹取物語』『落窪物語』などのように主要人物の名が物語の書名になることは多い。
「内容・構成」
前記『更級日記』に「源氏の五十余巻」と見えることから、成立当初から現在の巻序であったと考えられるが、院政期の『源氏物語古系図』には現在伝わらない巻名がみえ、『無名草子』には六十巻と記されるなど、後人による改作・増補などの様々な享受が認められる。
構成は、諸説あるが広く三部構成説が支持されており、通行の構成もそれにならって、一部二部では光源氏の年齢を、三部では薫の年齢を記されることが多い。物語は、冒頭から主要人物に近く、またその人生を知悉する女房の語りといった体裁を取り、また、巻によって語り手も変わることも指摘されている。とりわけ、エピソードの終わりに語り手によって自身の感慨・感想を吐露される「草子地(そうしじ)」がこの物語の語りの文体の位相を際立せている。
また、この物語は795 首の和歌が記され、『六百番歌合』で藤原俊成に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と賞賛されたように、その歌風は極めて多彩なレトリックに富み、特に新古今調の生成に強い影響をもたらしたことが知られている。
「伝本」
池田亀鑑以来、藤原定家の家の証本である「青表紙本系統」源光行・親行父子の河内学派の校訂本文「河内本系統」そのいずれにも属さぬ「別本」という、二系統三分類が行われてきたが、近年、阿部秋生によって、「青表紙本」をも「古伝系別本」に含めて、「河内本系統」と対立させる、二系統分類が提案され、支持されるようになった。とりわけ、大島本は、定家の古典籍を継承した御子左家の源氏学に学んだ飛鳥井雅康の一筆書きになる、最も纏まった良質の伝本群である。
「作者」紫式部。(970年代前半生−1019年頃没)
「紫式部」なる呼称は『紫式部日記』から、登場人物の紫の上とからかわれたことによって付けられた呼称で、本名は不明。一説に藤原香子説がある。越前守などを歴任した・漢詩人、藤原為時の娘。999年藤原宣孝と結婚、一女賢子を儲けるが夫とは1001年に死別、この後『源氏物語』が構想、執筆されたかと言われる。しばらくして、一条天皇の中宮彰子の許に『源氏物語』における文才を認められて出仕するようになり、その教育係を努めたことが自身の日記から知られる。他に歌集『紫式部集』がある。
本解説は 『古典講読 源氏物語・大鏡』(角川書店・1998)によります。
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