西大寺
Saidai-ji Temple

西大寺の造営が始まったのは天平神護元年(765年)で、称徳天皇の発願による。東大寺大仏開眼から13年、唐招提寺建立からわずか6年目のことであり、国庫が枯渇していた時期でもある。すでに寵愛は道鏡に移っており、前年は帝のかつての寵臣藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こしてこの世を去っていた。
天武、持統の直系であり、藤原不比等を祖父(曽祖父でもある)とする称徳天皇(阿倍内親王ー孝謙天皇)を諌められる人物はいなかったと思われる。西大寺の建立発願の翌年、道鏡は法王となり、帝位を窺う事態になっていく。これを制止しようと和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託を奏上したが、結局帝の暴走を終わらせたのは宝亀元年(770年)のご自身の崩御だった。危機を乗り切った藤原氏は光仁天皇を擁立し、以降天智系の天皇が続く。

西大寺は平安時代にはすでに衰退し、創建時の面影はなくなったが、鎌倉時代に興正菩薩叡尊(1201−1290)が真言律宗の本山として復興した。
「西大寺資財流記帳」の創建時の伽藍を見ると、正面の本堂手前にある基壇には高さ十五丈の五重塔東塔が立っており、その左に同じく西塔がある。寺の中心軸は両塔の間にあり、中門と回廊に囲まれた薬師金堂、さらにその奥に弥勒金堂という配置であったようだ。したがってこの南大門はもう少し左(西)寄りに立っていたはずで、大きさも長さ九丈、高さ二丈七尺と、かなりのものだった。現在の本堂の場所は、かつての中門の外側のあたりだったと想像できる。江戸時代、宝暦二年(1752年)に建立された。

毎年テレビニュースなどで歳時記風に紹介される大茶碗の茶会を見るたびに、かつての西大寺とはいったいどういう目的を持った寺であったのかと思う。  次へ