大津皇子の墓
Ancient tomb of Prince Ohtsu

二上山頂の北端にある。小さな墳墓で、周囲を巡ると大阪と奈良を鳥瞰できる。
万葉集には「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし…」とあるが、はたして大津皇子がここに本当に移葬されたかどうかはわからない。持統天皇からすれば日々仰ぎ見る山の上への移葬を死からわずか1年程度で許すだろうか。山から当麻へ下る時に84年に発見され、大津皇子の墓ではないかとの推測もされたことがある鳥谷口古墳に立ち寄ってみた。古墳の石槨からは何も発見されなかったとのことだ。
あるいは罪を賜って最初に人知れず葬られたところからどこへもお移りになっていないのかも知れないが、今となっては事実を詮索してもしかたがない。やはりここ二上山頂に大津皇子が眠っておられると考える方が気持の上で落ち着くし、そうであってほしいからここまで登ってきた。

大津皇子の歌は万葉集に四首残っている。誣告により死を賜うときの歌、
「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集巻三 416)

実姉の大来皇女の歌は巻二に六首載っていて、すべて皇子を歌ったものだ。
家持は初めの二首を「相聞」、後の四首を「挽歌」に入れているが、全て相聞歌としても不思議ではない。
「わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ちぬれし」
「二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君が一人越ゆらむ」(巻ニ 105、106)
「神風の伊勢の国にもあらましをいかにか来けむ君もあらなくに」
「見まく欲りわがする君もあらなくにいかにか来けむ馬疲るるに」
「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む」
「磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに」(巻ニ 163〜166)

姉は弟がここに眠っていると信じて詠った。皇子が姉を詠った歌は、残されていない。    次へ