中門と五重塔
Chumon Gate and the five storied-pagoda ; Horyu-ji Temple

法隆寺は聖徳太子の時代の斑鳩寺が天智9年(670年)に焼失した後に再建されたと思われる。日本書紀には「夏4月の癸卯の朔壬申(30日)に、夜明け前、法隆寺に火災がおこり、一屋も残さず焼けた。大雨が降り、雷が鳴った。」とあるが、いつ再建されたかは書かれていない。法隆寺資材帳によると、五重塔の四面の塑像と中門の仁王像は和銅四年(711年)にできたので、金堂などもそれまでには完成したのではないか。
若草伽藍跡の発見によって再建論争に終止符が打たれたが、以前の法隆寺、つまり斑鳩寺と再建された法隆寺は全く違う意味を持った寺だという梅原猛さんの仮説もあり、謎に包まれた国宝ではある。夢殿の救世観音はそのアルカイック・スマイルで有名だが、等身大の太子を模したものとも言われ、永い間秘仏とされていた。フェノロサと天心が法隆寺の僧を半ば脅しながら秘仏を覆った白布を剥がせたとき、僧はいっせいに退いたという。秘仏を露わにすることで日本近代美術史はひらかれた。フェノロサと天心には逃げる僧が蒙昧の徒に見えたに違いないが、芸術はものごとの全てではない。あるものの一部にすぎない。二人には僧が恐れたものが全く見えなかったか、見えたがそれを克服する強靭な意思があったかのどちらかだと思う。それにしても故あっての秘仏ではないか。
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