醍醐天皇陵
Ancient tomb of Emperor Daigo

醍醐天皇は延喜5年(905年)4月18日に紀友則、紀貫之ら四人に「古今和歌集」の撰進の勅命を出した。友則は撰進中に亡くなった。その後は貫之が代表となって編纂したことが古今集の中の歌や有名な「仮名序」にあらわされている。905年は醍醐帝即位から8年目で、菅原道真が大宰府で死去した2年後にあたる。漢詩文を能くした道真の左遷と死、一方での和歌の復興は偶然ではないだろう。遣唐使の廃止を建議したのは皮肉にも道真だったようだが、飛鳥から続いてきた大陸との交流が閉ざされ、国風文化が興った。「古今和歌集」の「真名序」は「昔平城天子、詔侍臣令万葉集。自爾来、時歴十代、数過百年。其後、和歌棄不被採。・・・思継既絶之風、欲興久廃之道。」と、やや恨みがましい表現ながら、高らかに和歌の復興を謳っている。過去の国際派に対する一種の挑戦状ととれなくもない。