■保安院「やらせ」発覚に至った原発をめぐる動向

 1 原発事故処理第一ステップの完了? 避難区域の縮小???
 2 浜岡原発停止
 3 電力独占、エネルギー問題、東電責任
 4 「死に体」での菅の延命と玄海原発再稼働中止
 5 原子力安全・保安院の「やらせ」発覚
 (蛇足) 海江田はなぜ泣き崩れたのか?
 6 菅の「脱原発依存」
 7 再び被曝・避難問題――子供を守るためには
      ―――小出裕章氏提言の問題点

1,原発事故処理第一ステップの完了?
          避難区域の縮小???


 中国の高速鉄道事故に対する政府の処理が連日マスコミをにぎわせました。たしかに、落下した車両をすぐに埋めたり、翌日には運転再開するなど、想像を絶したことをやっています。ただ、連日、この批判に熱中するマスコミに対して、「日本が他の国のことを言えるのか。原発事故が収束できず原因解明もほとんど手つかずのときに原発を運転し稼働を増やそうとする日本が、翌日運転再開する中国よりましなのか」という意見が、どこかのブログで書かれていました。その通りと思います。福島原発事故の原因究明も事実上未着手です。その上、29日の政府交渉でも暴かれたように、ありえないはずの「全電源喪失」が起こった福島原発同様、他の原発で電源喪失が起こった際に、それを多重防御する安全策はどの原発でも欠落しているのです。つまり、同じような地震・津波に襲われれば、同じように事故を起こす危険をもちながら原発運転が続けられ、あろうことか、再稼働まで画策されています。
 原発全般をめぐる情報隠蔽のひどさも中国に劣るものではありません。
 そして、もう一つ、隠蔽で思い浮かぶのは、7月上旬の自衛隊F15戦闘機墜落の情報がすっかり消えてしまったことです。単なる練習機か何かの墜落ではありません。少し古いとはいえ、実戦配備されている世界最強クラスの戦闘性能を持つ戦闘機が(しかも一機100億もする機体が)、沖縄の基地から発進し、東シナ海で、パイロット脱出も出来ずに墜落しているのです(本当にパイロットは行方不明なのか?)。この情報立ち消えは不気味です。
 しかし、この問題は別にして、ここでは原発関係に絞って触れて行きます。

 福島原発事故は、「第一ステップ」が完了したなどと政府が発表したものの、実感を持って受け止めた人がどれ程いるか疑問です。
 事故は収束していません。そもそも、燃料棒がどのような状態になっているのか、溶融してどこまで地下に浸透しているのかいないのか、だれも分からない現状です。使用済み燃料プールを上階に持ち、倒壊したらどれほど放射能をまき散らすか分からない4号炉もあります。原子炉は、今も水蒸気らしきものが立ちのぼっていて、放射能を放出していることは明らかですが、放出されている放射能の量がどれほどなのか、汚染水が、どれほど地下に浸透しているのか、あるいは海上に垂れ流していないのか(極度に情報が減りました)不明です。
 にもかかわらず、6月下旬、原発事故担当相細野は、窒素注入により「水素爆発の危険がなくなる」ことを目安に、7月17日頃には「避難区域縮小」(20K〜30Kの緊急時避難準備区域解除)が可能になると言い始めました。これは、とんでもない現実離れした話です。そして避難区域拡大を抑えてきた政府対応の最悪の流れをつくるものです。福島原発は、今だ放射能を放出しています。また、避難区域内外を問わず、多くのホットスポット(というより、「点」ではなく「面」の)高線量地域が点在し、それは、風などで他の地域にも飛散します。
 私は、前に、政府の「避難区域」指定について、しぶしぶ指定した飯舘村などを除き、半径20Kmおよび30Km範囲は、原子炉爆発などによる「急性症状」だけを念頭に置いたもので、「直ちには健康に被害のでない」=先々健康被害の高い危険にさらされる「低線量」被曝問題はほとんど念頭にないと書いたのですが、その姿勢が露骨に表れました。水素爆発の危険がなければ、今後も線量が高まる危険のある地域に、子供・幼児も引き戻すというのです。
 「緊急時避難準備区域」の人々は、その前一ヶ月にもおよぶ「屋内退避」指定のときから通して、危険地域と指定されながら避難も指示されず、周囲からは危険地域と排斥されるなど身を裂かれる宙ぶらりんの状態におかれ、並でない苦痛を味わっています―――しかし、だからといって、その解決が、「緊急時避難準備区域」解除であるというのであれば逆行です。
 今、「緊急時避難準備区域」は、学校・保育園などが閉鎖されていますが、解除指定は、これらも復活させることを意味します。これは、福島で、強引に始業式を指示し(文科省と県が一体になって)避難した生徒まで線量の高い学校に呼び戻した殺人的な暴挙を、さらに広げる措置で、福島の生徒の疎開・避難の可能性を逆行させるものです。
 にもかかわらず、福島県や、多くの町では、首長、有力者などが先頭になって、「福島を衰退させないため」「『風評被害』が拡大すると困る」と避難を敵視し、福島県民を地元に止めるための様々な画策がなされてきました。原発事故収束の見通しも立たないさなか「避難区域縮小」を政府に要求することも繰り返しています。
 知事佐藤雄平の福島県政が招いた福島県の放射線健康管理リスクアドバイザーで、「安全デマ」を振りまいた元長崎大教授の山下俊一は、その功績か、福島で人体実験を行いたいためか、福島県立医大の副学長に就任しました。山下を「安全デマ」と決めつけることは、少しもデマではないと確信できます。というのは、山下は、外で遊んでも大丈夫、マスクは不要、砂場であそんでも心配ない、などと言い回って、多くの子供や親が、それを信用してそのように行動し(おそらく、そのために相当の)被曝をした後に、追及されて「自分は安全などとは言っていない。自分は安心をといている。放射線の影響ははっきりしないのだから、心配しないで生活した方が幸せだ」などと、「信じるものは救われる」と、新興宗教まがいのことを言いだしているからです。一体、山下の言葉を信じて、不要な被曝を受けた子供たちはじめ県民はどうすればよいのか。
 知事佐藤雄平を筆頭に、福島県は、こうした悪質な御用学者を使って、「安全」をばらまき、さらに、山下は、子供の被曝を心配する親を「利己的」であるなどと攻撃するに至り、そのような親を「放射能恐怖症」などと非難する空気さえ煽っています。
 今、「緊急時避難準備区域」だけに触れましたが、福島市内では、平が森をはじめ、年間線量が20mシーベルトさえはるかに超える「ホットスポット」が多く見つかっており(平が森は、市自身の計測)、にもかかわらず、飯舘村や伊達市のごく一部は、一応は避難区域指定したにもかかわらず、福島市内については避難区域指定を頑強に拒んでいるのは、県庁所在地としての「政治的影響」によるものとしか思えません。
 ここにあるのは、県の経済・産業などを防衛するために、子供などに被曝を強いる最悪の資本主義的な構造です。ここまで来ると、国のために特攻を強制した戦前の国家社会とさして変わりません。
 こうしたときに「避難区域縮小」が行われれば、そのマイナス効果は絶大です。
 ―――幸い、細野が打ち上げた「避難区域縮小」は、7月上旬に、菅が現地入りして現地町長などと会談した際に、「縮小」に一言も触れなかったことで、当面の危機は一時的にせよ回避されたように見えます。
 とはいえ、生徒の疎開を始め、避難区域・対象拡大の緊要な課題は残ったままです。

2,浜岡原発停止

 福島の被曝問題は、最悪に近い形で放置され続けていますが、エネルギー問題をめぐる政府内の軋轢は4月頃から頭をもたげ始めています。
 経産省に属する保安院について、4月に、菅は、経産省と切り離す組織再編を語り始めました。
 実際のところ、傘下の保安院と一体になって原発を推進してきた経産省にとって、保安院切り離しは打撃のはずです。途中で降格させられた保安院広報の西山英彦の娘は東電社員です(東電の女子社員は年採用1000名中20名ほどということです。能力によるのか縁故によるのか知りませんが、父娘とも、まともな人なら自ら避けるでしょう)。経産省の資源エネルギー庁長官であった石田徹は東電顧問に付いています。経産省―保安院―東電はじめ電力会社の癒着がどれほどなのか見当がつきません。IAEA(国際原子力機関)ですら、07年に、経産省は産業界と一定の間をおいた方がよいと勧告しているくらいです(和訳するに当たって、こうした都合の悪い部分を除いていたことが、7月29日の『東京新聞』で暴露されています)
 おそらく、この4月あたりから、菅と経産相海江田との水面下での鞘当てが強まっているはずです。ただ、両者とも、この後、かなり長期にわたって、足では蹴り合いながら、どちらも保身のために表だった攻撃は避けて握手する、という形をとってきたように見えます。

 この両者の通常ではない関係は、5月初頭に表面化しまた。
 菅による5月6日の、浜岡全原発の停止要請です。中電はこれを受け入れて浜岡原発は停止し、原発問題は、新しい段階に入りました。
 特別危険な原発が全国に散在している中でも、静岡県御前崎市の浜岡原発は、最も危険な原発として、浜岡以外の原発現地の多くの運動・団体が、地元原発に劣らない最大の緊急課題にすえ、「浜岡原発停止」をかかげてきた対象でした。予想される東海地震の中心地にあること、東日本地震によって、東海地震がさらに誘発される可能性が考えられること、原発自体の地震や津波への防御体制の疑問、そして、事故を起こした際に、風向きから、福島以上に、東京をはじめとする人口密集地を放射能が襲う可能性など、あらゆる点で、浜岡原発は、大変な危険をかかえていました。「もう一つフクイチ(福島第一原発事故)があれば、日本はどこも住めなくなる」とは、事故後に言われ始めた正論ですが、浜岡原発は、ことあれば首都圏を始め日本全体を壊滅させる可能性を最も大きくかかえていました。
 4月10日に、芝公園で行われた反原発集会は、この間の反原発運動の中心勢力の一画が主催したものでしたが、このとき、福島事故の後にも係わらず、唯一メインにかかげていたのは「浜岡停止」でした。同日、高円寺で行われた「素人の叛乱」など主催の1万5千の反原発集会が、南相馬町原発被災地支援などをかかげていたことと対照的です。私は、芝公園の集会について、福島原発事故問題を並行して表に出さなかったことには、やや批判がありますが、このことは、闘われてきた反原発運動にとっての「浜岡」の重大さを示しています。
 こうした浜岡原発をめぐる菅の「停止指示」は、それ故、衝撃的なものでした。
 浜岡停止は、いつ起こるか分からない東海地震によって日本が壊滅する現実性を、かなりの程度小さくしました。そしてまた、浜岡停止は、「政府の指示で停止させなければならないほど危険な原発が現にあること」を政府が公式に認めたことになり、この意味も巨大です。

 ところが、浜岡停止をめぐっては、その意義や、菅の動機などをめぐって、原発に反対する立場からも、当初から多くの批判的見解がでています。菅の政治全体への(これ自身は正当な)批判・反発の強さが、浜岡の意義を認めたくない、という見解を後押ししたことは間違いありません。
 浜岡停止の意味を疑問視する意見としては、浜岡廃炉でなく停止に過ぎず再稼働を前提としているといった批判、あるいは、浜岡が危険なら他の原発は危険ではないのか、他の原発停止を言わないのは、浜岡停止を他の原発稼働のための目くらましにつかっただけにすぎない、といった意見です。
 廃炉ではなく停止に過ぎないことをもって浜岡停止の意味はさしてない、という意見の中で、かなり多かったものが、福島原発も緊急停止は成功したが、停止していても、結局、あのような事故になったのだから、停止しただけでは危険は去らない→停止だけでは意味がないという見解です。勿論、停止しても燃料棒がある以上、危険は残ります。しかし、運転中に直下型地震に見舞われたときに、緊急停止のための制御棒がうまくせり上がらずに緊急停止ができない危険性は小さくありません(浜岡の沸水炉では、制御棒が圧力容器の下の穴を通って燃料の中にせり上がる「デリケート」な構造で、地震の直撃で機器が歪んだり破損して制御棒がスムーズに通過しない可能性はいくらもあります)。このときは、臨界が続きながら
 炉が壊れるので、事故の度合い、放射能の放出など福島第一の比ではない可能性が大です(福島でも、本当にすべて制御棒が入ったのか、という疑問は多少ありますが)。停止でも危険は続きますが、福島原発の緊急停止とは違って、安全確保のため事前に停止させている場合に、温度も相対的には低く、他の安全策の余裕も大きくなります。―――いずれにしても、停止させることなく廃炉にすることはできません。廃炉に一足飛びにいかないからといって、いつ地震が来るか分からない地震帯の上で運転を継続させる結果になる主張(即廃炉でないならば停止は欺瞞だという主張)は、浜岡原発の現実の危険性を直視することよりも観念を先行させる見解にしか思えません。
 上の技術上の問題とは別に、この時点の力関係の問題、実現性の問題があります。浜岡原発を止めることは、政府内や官僚にも浸透している原発推進派の強大な反対に直面する行動です。菅が、仮に「浜岡廃炉」なり「全原発停止」をかかげて浜岡停止を追求したとするなら、この時点の力関係では、まず実現不可能だったはずです。浜岡をともかくも止めるためには、「浜岡だけの一時停止にすぎない」という形で一点突破する方法は、おそらく唯一の可能性だったように見えます。
 私は、浜岡原発に関しては、他の大幅な譲歩をともなっても、ともかく止めなければならない対象であったと考えています。
 菅は、たしかに、この時点で、他の原発は別で、安全が確認された原発は停止の必要はないと言っています。また、浜岡についても、防波堤などの安全策が採られた後の再稼働が前提になっています。
 しかし、たとえ、これが菅の本音であった場合ですら、浜岡原発は、これまでの反原発運動などによって、その危険性は充分以上に根拠づけられています。そのため、浜岡原発が一度止まったという事実だけでも、再稼働は非常に困難な状況におかれます。浜岡原発と、それをめぐる反対運動が生み出すこうした実際上の状況を抜きに、停止がもつ大きい意義を見過ごすことには賛成できません。
 浜岡原発停止は、その「停止」自身の政治的意味が特別の大きさを持っています。
 菅の動機云々は二義的なものですが、それでも、浜岡停止は、他の原発稼働を正当化するための儀式、めくらましといった批判は、菅が、玄海原発再稼働を強引に止めたことからも、妥当でなかったといえるでしょう。


 私は、この浜岡停止の過程に、菅と海江田―経産省との対立が表面化し始めたと思いました。しかし、巷で言われたのは反対のことです。浜岡停止については、経産相海江田が苦労して根回しや準備をして発表しようとしたところ、直前に、菅が、この成果を横取りして発表したと、もっぱらいわれているからです。―――しかし、この通説は怪しいところを感じます。
 このとき、一方で、菅に対して、停止後の準備や体勢なく「突然」停止を指示したことが問題だ、そのため今後の電力供給計画などに混乱を来した、といった批判が声高になされました。しかし他方で、海江田は充分準備していたのに、発表直前に菅に「手柄」を横取りされた、という話が並行して流れています。―――菅が「突然」停止させたため混乱したというなら、海江田と経産省が、浜岡停止の下準備・手配を整えて発表寸前だったという話はどうなるのでしょうか。菅が発表を横取りしたとしても、この場合に、「突然」ではなく(海江田によって)準備は出来ていたことになります。「突然の発表」で「混乱した」という批判が、多少とも意味あるものならば、海江田と経産省が浜岡即時停止を周到に準備してきたという話自体がつくりものということになります。こちらの方が実際に近いような気がします。
 経産省や海江田が「準備」「手配」していたものは、「即時停止」ではなく、たとえば、「停止を目指す」といった類のものではなかったのか、という憶測が消えません。経産省や海江田が、浜岡停止のために準備を行った経緯・痕跡が実際にあるのかどうか、その内容を調べれば分かることかもしれませんが、私は調べていないので(この面は関心なかったので)憶測以上はかけないのをお詫びします。
 たしかに、菅も、このことについて、経産省に対して何も言っていないようです(たとえば、海江田は即時停止するつもりなどなかった、など)。ただ、菅の側からも、保身のための舵取りで、この時点では、経産省を攻撃していながら、それを全面には出さない方が有利と考えた可能性はあります。
 ここで、かいま見られた菅と海江田との行き違いは、単に「どちらが発表するのか」といったレベルの問題ではなく、浜岡停止などをめぐるより深い対立の反映である可能性が高いように思われます。

 いずれにしても、浜岡停止は、原発をめぐる歴年の攻防の中で、画期的な出来事であることは否定できません。
 では、それを行った菅の動機と言うことですが、「首相の座にしがみつくため」という評価がかなり強くあります。私もかなりの要素がこれだと思います。
 菅は、鳩山政権時代、副首相であるにもかかわらず、沖縄問題について発言せず、鳩山が沖縄でつまずき辞任するや、あっというまに首相の座をかっさらうという「芸術的手腕」を見せました。同様に、浜岡停止を宣言した5月連休明けは、「菅降ろし」が本格化すると言われていた時期です。菅は、これを、浜岡停止で乗り切り、6月の野党の不信任案に対しては、鳩山を騙して不信任案否決を勝ち取り、「ペテン師」と言われながら、首相の座にしがみついて「脱原発依存」の姿勢を強めながら、早期辞任を回避しようとしています。―――この一連の経過を見ると、菅という政治家は、首相・権力の座に対する異様な執念と、それを手にする上での独特の能力を持っていることを感じさせます。特に、5月上旬、追いつめられた際に、「浜岡」を選択したことは、「市民運動家」出身と自称した(ほとんどまがい物と言われながら)菅が、その経験も元に働かせた絶妙な勘の発揮であるようにも思います。この限りでは、浜岡停止の土台は、長年の反原発運動が蓄積してきた浜岡原発に対する危険性の確証、啓発やその浸透の広がり、定着です。
 他の大半の議員では、反原発運動の中でのこの浜岡の位置を感じ取り、それが「利用」出来る重大な位置を持つと捉えることは出来なかったでしょう。
 菅の沖縄や官僚に迎合した増税や予算案づくり、震災対応へのひどさなどを見るだけでも、菅の政治全体を積極評価することなどできませんが、しかし、原発問題が焦点にのぼり、それをめぐって日本が二分する状況に入っている現在、菅の動機が「権力欲」「自己保身」に多くを依存するものであっても、それことだけにとらわれて、菅が、経産省など原発推進派と現に軋轢を強めていることまで見落とすべきではないと思います。現在の「菅降ろし」は、とりわけ浜岡以降、ますます原発推進派によるものになっています。
 反対に言えば、「実際の」市民運動であれ左翼運動であれ、(非常に残念ながら)少なくない部分が「権力欲」や「保身」と不可分に相互浸透しているものであって(しばしば本人自身にとってさえ区分があいまいになっている)、そうした面も含めながら、政治性格全体を把握して行かなければならないものです。
 他に、菅の「脱原発」―自然エネ志向、電力独占解体―発送電分離などは、孫正義と組んで、孫による送電部門買い上げや自然エネ利権を狙うものだとする意見があります。
 これも、「脱原発」の意義に抵触するものではありません。これは後に触れます。

3,電力独占、エネルギー問題、東電責任

 原発は電力の地域独占と密接な関係があり、福島原発事故をめぐる東電の賠償責任問題は電力地域独占問題と不可分です。
 ここでは、戦後の日米関係下で、中曽根などが先頭になって原発を導入し進めた面は省略して、それを受け入れた電力会社の面についてだけ触れて行きます。

 現在の10電力会社による地域独占(当初は沖縄を除く9電力)体制が出発したのは51年で、このときは、まだ原発は登場していません。
 しかし、その後、巨大な投資が必要でリスクをかかえる原発を各電力会社が引き受けていった土台に、この電力独占があります。
 文字通りの完全な地域独占である電力会社は「総括原価方式」なるもので電気料金を決めています。これは、コストに3%の利益を上乗せして料金を決める方式です。通例の企業では、コスト削減すれば、その分利益増大になりますが、反対に、総括原価方式では、コストが増えれば(たとえば無駄遣いが増えても)その3%が利益なので、利益が増大するという驚くべき制度です。こうしたシステムなので、巨額の投資を心配なく行うことが出来、原発運転を進めてゆくことになります。

 ただし、現在の地域独占をめぐる問題は、より具体的には、95年以降の「電力自由化」の脈絡の中で捉える必要があります。
 90年代の国際的な「新自由主義」の波の中で、電力の完全な「地域独占」については、国際競争力の観点からも問題あり、という風潮がでてきます。これは、日本だけでなく英国、ドイツでも類似した動きがありました。
 こうして、95年以降、電力販売の新規参入への道が開かれて行きます。
 しかし、これに対して、電力資本が猛反発し、何より、それは、原発をめぐって強いものになりました。
 この90年代、フランスが国威をかけた高速増殖炉「フェニックス」「スーパーフェニックス」からの撤退を余儀なくされ、日本の高速増殖炉「もんじゅ」も事故続きで見通しが暗くなっていました。すなわち「核サイクル」が実現不可能であることが隠せなくなってきていました。
 ところで、「原子力発電」が、たとえば石油を燃やしてエネルギーをとりだすというような意味で、エネルギーを生み出すとするならば、それは高速増殖炉(プルトニウム原発)の段階の話です(と言っても、この場合でさえ、廃棄物処理や廃炉費用などを別にしなければなりませんが)。今、世界に450基ほどある原発は、すべてウラン原発で、これは、その廃棄物を再処理してプルトニウム原発で燃やすまでに至って、はじめて、エネルギーを(一応)とりだすことのできる前段に過ぎません。ウラン原発は、採掘や原子炉建設、ウラン濃縮に大量の電力を消費して、同等程度のエネルギーを出しているだけの話です。ただ、その結果生み出されるプルトニウムが、次の段階でエネルギーを生み出します(ということになっていました)。ウラン原発とは、炭を作るため炭焼き小屋で木を蒸しているとき、その煙で何かを温めているようなレベルの話です。
 原発推進派は、この根本問題を隠して、CO2を輩出して発電した電力を大量に消費して濃縮したウラン(或いは重水)をつかってウラン原発で発電しながら、CO2を出さないクリーンな発電などとウソを言い続けています。しかし、90年代になって、高速増殖炉の技術的困難、桁外れの危険性など核サイクル問題が表面化し、「もんじゅ」は事故を繰り返し、その公開について「日替わりウソ」を重ねて、発電機器も社会的信用もボロボロになりました。そのため、電力資本の側から、核サイクル確立への要望や、それが見込めないことへの不信が強まっています。
 つまり、90年代の電力自由化の流れと、核サイクル見通し後退によって、電力資本は、原発を抱え込むことへの難色を示しだしたのです。
 原発は、実は、(彼らの宣伝に反して)コストもリスクも高いことなど、当の電力資本が良く知っていました。
 こうして、「自由化を進めるなら原発は引き受けない」という電力資本のゴネによって、電力自由化はまったく骨抜きにされ、地域独占の再編や、発送電分離は見送られ、総括原価方式は基本的に維持されることになります。電力会社間の競争を促す制度というヤードスティック査定は形だけのものに止まり、2000年に「燃料費調整制度」を導入することで、電力会社は、燃料費の値上がりを迅速に価格転嫁することが容易になり、そのための利益縮小からも完全に守られることになりました。
 このように、東電はじめ、電力会社は、原発をかかえ続けることの見返りに、至れり尽くせりの恩恵を手にして、地域独占としての濡れ手に粟の利益、政府からの直接間接の様々な援助を享受し、「原子力村」の利権構造を拡大して行くのです。東電から東大への5億の研究費寄付をはじめとする各大学、研究所への巨額な寄付による買収、原子力の安全を「研究」する費用のバラ巻きや、そもそも独占なので宣伝が必要ないはずなのにマスコミでの宣伝を繰り広げる不思議(勿論、マスコミをとりこむ買収費です)、原発をめぐる無数の天下り団体、そして言うまでもなく政治家への献金など、地域独占を軸にした電力会社の莫大な利益を一つの軸に、原発をめぐる利権構造が作られてきました。

 現在、その東電の福島原発が事故を起こし、多くの人々の生活、仕事を根こそぎ破壊し、将来への致死的な健康不安の中にたたき込んでいます。
 こうした(本来の)コストもリスクも高い原発を推進・拡大してきた土台は、95年以降も発送電一体によって実質維持されてきた電力会社の地域独占であり、その地域独占の力もあずかった自然エネ開発抑制です。発送電を分離した英国は民営化に困難を来たし、ドイツでは、この時期、原発削減に舵を切り始めています(ここ2,3年、「原発ルネッサンス」なる一時の逆転傾向が見られましたが)。
 そのため、原発存廃が論議俎上に上る際に、その土台となってきた地域独占、自然エネ開発問題が、同時に論議にのぼるのは正当なことです。

 ただ、原発廃止と地域独占廃止や自然エネ開発はイコールではありません。
 発送電分離を中心とする地域独占解体は、発電を市場に投げ込むことで、原発がコストやリスクの点で競争に見合わないことをあぶり出し、原発から撤退させる条件をもちます。ただし、この面からだけ見れば、市場競争は、現在コストの高い自然エネを後退させ、石油、石炭、ガスなど化石燃料発電を増やす要因にもなります。
 地域独占解体の大きい利点は、それ以上に、競争の心配のない電力会社の不可侵の経済力・政治力が浸食されることで、原子力村の土台にもなった特権的な利権構造解体の手がかりになることでしょう。
 また、現在のところコストが高い再生可能エネルギー(自然エネルギー)開発を法的に補償することは、原発の「ライバル」である自然エネルギー発電を増やすことで、原発の必要性を低減させることになります。
 3・11以降、このように原発問題との関連で、電力地域独占問題や、自然エネルギー買い取りなどが俎上に上ってきました。
 また、これらとは少し違いがあるとはいえ、成立した原発損害賠償支援機構法(以下「原賠支援法」)も、東電の形をどうするのかにかかわるもので、地域独占の改廃か維持かをめぐる抗争と結びついていました。
 これらの改革は、それ自体としても様々な(正否含めての)意味をもつもので、また原発廃止の条件を押し上げる可能性を持ちますが、ただ、脱原発そのものではないことも踏まえておく必要はあります。
 原発廃止は、新規建設を許さず、原発を停止させ、再稼働を阻止し、廃炉に持ち込む直接の課題を軸にしながら、原発運転に有利な条件を作ってきた電力地域独占の再編や、原発稼働を推進してきた経産省・保安院の再編などと合わせて実現して行く課題です。

 政府内では、3・11以降、特に5月頃を中心に、発送電分離や東電の破綻処理なども含めた論議が浮上しています。ただ、その後、自民の巻き返しもあり、成立した原賠支援法は、玉虫色を残しながらも「東電救済法」と言われて当然の性格をもっています。
 再生可能エネルギー固定価格買い取り法案(以下「買い取り法案」と略す)は近く成立といわれます。ただ、この法案は、原発事故以前から論議されていたもので、その閣議決定は、なんと3・11当日でした。したがって、「買い取り法案」が、直接、3・11以降の脱原発をめぐる情勢と関連しているわけではありません。ただ、3・11以降、「電力不足キャンペーン」のウソが暴かれてきているので、代替される自然エネルギーの比重が、より高いものになり、「買い取り法案」が自然エネ開発を促進できるならば、それが原発を不要にさせる比重も高まったということは言えます。

 発送電分離や東電解体などをめぐって、多くの論議がありますが、概して原発反対の陣営内でも出ている若干の論議の一端に触れてみます。

 その一つは、発送電分離や自然エネ重視も、結局、新たな利権構造を生むだけだという論議、あるいは、発送電分離は、送電部門をアメリカが買い取って日本を支配する策謀だという意見などです。
 電力の地域独占を解体しなければならないということは、それを商品経済的な競争の中に投げ込むことを意味するもので、「解体」自体が意味するのはそれだけです。「新自由主義」のみんなの党が脱原発色を出しているのは、この面からのはずです。解体した後の電力供給を、たとえば、住民自身が管理・統制できる体勢にもってゆけるかどうかなどは、別の面での論点です。
 発送電分離によって、発電の新規参入への新たな投資機会が生まれます。発送電分離の場合に送電部門は国有など公共部門とすることが普通です。
 また、自然エネ(再生可能エネ)の拡大が新たな利権の条件を生むことも確かです。

 ソフトバンクの孫正義は、自然エネによる収益を狙って菅に接近し脱原発を促しているといわれます。そうであれば、自然エネ増大と電力独占解体の双方にわたる利益を想定していることになり、原発に依存する既存電力会社との対抗は強いものになるはずです。
 かつて企業「公害」が多くの人々を傷つけた後、今度は、その「公害」なしに生産できる技術の開発、生産などが一大市場になり、「公害」を輩出した加害企業が、そこに参入して収益を上げて行く経緯などもありました(チッソの水俣病など主に特定企業だけに係わる「公害」もありましたが、大気、河川など環境汚染では多くの企業が加害者になっています)。
 多少似たような構造で、自然エネをめぐって、新たな利権構造がつくられる条件はもちろんあります。
 ただ、日常的な被曝強制、廃棄物処理の見込み無しに加え、一度事故を起こせば現在のような惨状になることが明らかでありながら、なおも原発を進める動機となる原子力村の利権構造を破壊するために、自然エネへのシフトや電力の地域独占は重要な改良になるということです。新たな利権と闘う力を成長させるためにも、現在の強大な原発利権をつぶす闘いの蓄積は重要です。

 東電を解体すべきかどうか、という問題に関しては、責任追及の中心を東電におくべきか政府におくべきか、といった論議がありました。
 東電よりも根本は国策として原発を進めた政府にある、という主張に対して、政府だけに責任を負わすことは結局国民の税金で賠償することになる、といった反論があり、それに対して、政府の賠償であれ東電の賠償であれ、まわり回って国民の負担になることは変わりない、といった再反論もでています。
 また、賠償させるために東電をつぶすべきではないという論議もあります。
 この問題は、賠償の負担や刑事責任などいろいろなことが絡まっていますが、一般論で言えば、「政府の責任」の重要な一つが東電(電力資本)に巨額な(不当とも言える)利益を保証することで原発を進めてきた政府の責任ということなので、それを踏まえて東電の責任を問うこと(破綻に至る経営責任、利害関係者責任を求めること)は、なにより政府の責任の重要な一環であるということです(上の論議では「政府責任」を事故の初期対応などを中心に捉えているようでしたが)。
 「政府」「国家」に責任があるという主張は、ときに東電免罪の隠れ蓑にされています。東電の責任追及をあいまいにする「政府」責任論は、結局、既存電力独占と持たれ合い、利権で結びつき、原発推進を国策としてきた国家・政府の責任を免罪する意味も持つものです。
 自民党が原賠支援法案の修正論議の中で「国家の責任」を強調したのは、単に、政府が民主党であるという理由だけでなく、より以上に、電力地域独占体制を存続するため、東電破綻を避けるための理論上のものでした。
 東電の責任を追及し、東電をつぶすという意味は、東電幹部、社債債権者、一般債権者、株主の責任(無限責任を含めて)を認めることを意味します。これは、民間の破綻処理では当たり前のことです。
 原発被災者――福島を中心とする被災者に止まらず、被曝被害の怖れを受けている全国の少なくない人々まで加えて、今や、東電役員から残らず搾り取って処罰せよ、という憤激を正当に抱いているはずです。

 3・11以降、政府が、電力地域独占の見直し、発送電分離や総括原価方式の見直しに言及していることは、これ自体は積極的です。この問題は、自民党時代は、政府レベルでは、まったく押さえ込まれてきたものでした。
 他方、原賠支援法は、賠償支払いをスムーズにするため、といった口実で、東電を超過債務にさせない枠組みを持ち、将来の東電無限責任再検討なども含んでいて東電救済法の性格を持つもので、賛成できる内容ではありません。
 
 原賠支援法案の内容にも係わる東電責任への考え方をめぐって、5月には、官房長官枝野による「銀行の債権放棄なしには納税者の納得は得られない」発言が、大きい物議をよびました。これは、部分的な質問に部分的に答えた、という内容で、これ自体分かりにくいものですが、内容もややこしいものです。
 東電への銀行の債権放棄とは、一見東電を救うように見えますが、この場合は、東電の利害関係者(ステークホルダー)の東電幹部、債権者、株主などが、賠償のために財産放棄・債権放棄する一環の意味で言われているはずです。ここで一度債権放棄すれば、東電への追加融資も不可能になります。反対に、債権放棄を求めないということは、賠償は、東電への政府支援(税金の投入)で行うということになります(支援機構法では、他の電力会社からの支援という迂回路もありますが)。
 5月に、枝野がこんな発言をし、後に取り消したのは、東電を救済するか破綻処理するかをめぐって政府内で論議中で、政府内で東電処分論がかなりあったことを示すものと思います。
 しかし、原賠支援法案の論議に際しては、政府内でも色合いの違いがあったとは思いますが、それ以上に、東電支援ということで、経産省と自民党とが「裏で」手を組む形となりました。
 「根回し文書」などとも言われている「法案修正のポイント」という無記名文書が経産省から野党に回ったと言われていますが、その内容は、東電を債務超過にしないよう、法案について「指南」する内容です。これはネットで見ることができます。
 実際のところ、原賠支援法は、法案論議の過程で「国家」の責任を明文化するなどを通じて、東電救済の性格がより強化されています。この法案論議では、民主党が自民党に押されていったことが推定できます。
 この法案をめぐる政府内の論議については、上述の枝野発言のような断片(にもならない断片)を除いて、私はつかんでいません。
 ただ、法案成立直前の国会答弁などで、菅と海江田の違いは感じられました。
 原賠支援法案に反対する共産党山下芳生は、2日の国会論議で菅に対して「債権放棄にメガバンクが応じる根拠はどこにあるのか」とただしました。それに対して、菅は「金融機関や株主の協力のないまま税金を投入されることにはならない」と、発言しながら、その根拠を質されて「利害関係者の協力をいただけるものと思う」としか答えられない有様でした。それに対して海江田が「首相は債権放棄までも要請するとは言っていない」と断じています。
 国家支援=税金投入前に「利害関係者の協力」すなわち東電責任による資金拠出を先行させたい菅は、その願望を、やや負け惜しみ気味に吐露したのですが、しかし、海江田は、冷酷に(他人のことにもかかわらず)「菅はそんなことは言っていない」と明言して菅の意図を否定したのです。もちろん、法案を解釈すれば、菅の意向とは逆に、「金融機関や株主の協力のないまま税金を投入」して東電を債務超過にならないようにする(そのような解釈・運用が可能な)内容になっています。
 そのため、菅は、法案作成で実質負けていながら、質疑に際して、往生際悪く(?)それを認めたがらなかったのですが(この内容自体は相対的に正当です)、それに対して、おそらく経産省の東電救済の立場に近い海江田が菅にとどめを刺したという形です。
 保安院「やらせ」発覚などで、総体としては経産省を追い込む形になっている菅も、この法案論議では経産省に敗勢になっています。
 東電責任を追及したかった菅が(その度合いは分かりません)、原賠支援法案論議の過程で敗退したことを示す一幕でした。
 なお、共産党の山下は、このあと、「株主とメガバンクに負担を求めてこそ、国民負担を少なくしながら賠償資金を確保できる」と述べています。原賠支援法=東電救済法よりはまともな内容です。
 また、菅は、「原賠支援法によって東電の将来が固定されるわけではない」とコメントしています。原賠支援法は、東電の地域独占としての現状を永続化させる方向に運用可能な性格も持っています。この発言は、菅の辛うじての抵抗でした。

 原発の稼働は行政処置の範囲ですが、電力地域独占の再編は立法や法改正を必要とします。
 電力買い取り法を除いて、発送電分離をはじめ、地域独占解体に具体的に手が付いているわけではありません。これは、菅が政府内で孤立していることと、そもそもねじれ国会であることを考えれば、(菅がどこまで本気か、という問題以前に)実現が容易な課題でないことは明らかです。
 この問題は、再稼働是か非かという問題と違って、当面の実現性が難しいことが明瞭な課題なので、政府内の色分けも不明なところもあります(たてまえとして賛成することもさほど困難ではないので)。
 しかし、電力独占打破問題が俎上に昇り、その要求が広がっていることも事実です。

 こうした情勢下で、菅が、首相としてこの問題見直しに言及したことは、すぐにその実現に直結するかどうかは別にしても、今後、電力地域独占問題を、原発との関連で人々の関心俎上に乗せて行く上で有利な条件にはなっています。
 (多くの論点を持つ原子力損害賠償法や原賠支援法をめぐる評価をここで全面的に行う力はないので、多く省略しました。これは、別の機会にします)

4,「死に体」での菅の延命と玄海原発再稼働中止

 浜岡停止後、5月、6月と進んで行く中で、原発関連では、福島事故の避難や補償問題、エネルギー問題・電力地域独占や発送電分離問題と共に、もう一つの重大な問題として、原発再稼働問題が焦点化してきました。
 この時期、菅は、震災対応不手際などの理由による野党の不信任案を突きつけられ、民主党からも、小沢派、鳩山派などから大量の賛成表明者が出て、不信任案可決の趨勢に直面しています。しかし、6月2日、菅は、鳩山との会談で、直ぐに辞任すると仄めかし、議員総会でそれらしきことを表明して民主党内の「反乱」をおさえ不信任案否決を勝ち取るや、辞任するなど言ってないと表明し、鳩山が「ペテン師」だと怒りを露わにしたのは承知の通りです。
 また、閣僚内から、早期辞任に賛同する声がではじめ、菅は「死に体」になったように見えました。
 このときの、自民党など野党の不信任案提出と、この後の閣僚内からの「菅降ろし」は、浜岡停止以降、徐々に強まってきた菅の「脱原発依存」封じの性格を強く帯びてきたものに見えます。自民党にとって、福島原発事故が起こった際に、政権が自民党でなかったことは、かなりの僥倖だったはずです。このおかげで、原発をめぐる責任の多くを民主党にかぶせることが可能になりました。その後も、おそらく、自民党議員の中には、事故収束まで政権に付かない方がよいのではないかと思っている者がいるはずです。しかし、復興利権にありつきたいため、政権復帰を焦る議員も増えています(特に「長老」議員にその傾向が強いようです)。それに加えて、菅の「脱原発」傾向は、自民党総体にとって許し難いものです。この時点での、菅に対する不信任案提出は、原発問題が大きい比重を占めると思われるのです。
 ところで、辞任を仄めかせば、本人が翻そうが、それだけで「死に体」になるのが政治の通例ですが、ここで、菅は「脱原発」色を強めることを一つの支えに、異様な粘りを見せて行くことになりました。

 この時期に、定期検査を終えた佐賀県、玄海原発2,3号の再稼働問題が浮上しています。
 原発は、13ヶ月稼働後に定期検査のため停止させることになっています。
 福島事故後も、運転中の原発については、浜岡を除いて運転継続しています。しかし、さすがに、地元住民の不安の高まりなどによって、各地の原発再稼働は難しい状況になっていました。
 その結果、一方で、定期検査で停止して行く原発が増え、他方で再稼働が難しいため、運転中の原発は次々と減っていって、現在、運転しているのは54基中16基です。8月には更に3基がとまります。その後も、次々に定期検査に入って行きます。
 そうなると、電力需要が最大になる夏の時期に、原発がほとんどなくてもやってゆけることが明らかになってしまいます。
 そのため、3・11前も後も、電力不足キャンペーンなどを使って原発不要論を攻撃し続けてきた電力会社や原発推進派は、夏に向けて焦りを強めました。
 この焦りは、たとえば『産経新聞』などが如実に表明していました。

 この推進派にとって、再稼働への流れをつくりだす糸口と位置づけられたのが玄海2,3号炉です。
 多くの自治体が再稼働容認の先頭を切ることに後込みする中、玄海原発では、地元町長の積極的な賛同と、知事の賛同可能性が見込めるということから、経産省―原発推進派は、この時期、玄海原発再稼働を、福島原発事故後の再稼働の流れを開く糸口にすべく、その実現に力を投じました。その尖兵として動いたのが経産相海江田です。
 玄海町長岸本英雄は、原発関連事業を多く受注している地元ゼネコン最大手の岸本組大株主(その地所に住居がある)で、もともと再稼働を求めています。
 残るのは、表面上、慎重姿勢を見せていた佐賀県知事古川康の承認でした。
 この玄海原発は、福島第1原発同様、3号炉がプルサーマルです。また、現在稼働中の1号炉は、36年目の老朽原発で、圧力容器がもろくなっていて(脆性遍移温度の上昇)緊急停止時の温度変化で圧力容器が壊れ、放射能が大量飛散する危険も指摘され、浜岡以上に危険な原発とまで言われています。
 この問題では、すでに地元町長、県知事も九電に申し入れるなど対応をとっているものの、九電は例によって「安全」を繰り返しています。この玄海第1号炉の停止も緊要ですが、再稼働が問題になったのは、地元の承認取り付けに見込みがあると見られた定期検査中の2,3号炉です。 
 ―――こうして、全国原発再稼働の流れを作ろうとする原発推進派と、玄海原発再稼働を止めようとする原発反対勢力との攻防が、この局面で、玄海原発の再稼働可否に集中することになりました。
 残念ながら、日本の反原発勢力は、玄海阻止のために現地や首都に数万の勢力を動員して、再稼働阻止への直接の政治的圧力をかけられるような社会的な力をまだ形成するに至っていない段階です。そのため、反原発運動は、デモや申入など行動を重ねながらも、慎重姿勢を見せていた佐賀県庁―知事古川に対して再稼働不認可を要請する声を集中することに大きい重点をかけました。

 海江田は、未だ福島原発の事故も収拾できず、原因究明も出来ていないにも係わらず、7月には全国の原発についての「安全宣言」を行いました。そして、地元玄海町と佐賀県の同意取り付けに奔走し、菅に対しては、佐賀におもむくことを重ねて要請するなど、海江田は、もはや、玄海原発再稼働のための経産省と九電の使い走りとしかいえない姿を見せています。
 再稼働受け入れを示した玄海町長岸本に対して、佐賀県知事古川は慎重姿勢を見せていましたが、これは、実際のところ、再稼働したいが、責任を負いたくないと言うのが本音だったようです(昨日、今日、知事古川の「やらせ」が浮上しています)。6月29日、佐賀を訪れた海江田の説得によって知事は容認に動きました。ただ「経産相と首相が同じ見解なのかが不安」と懸念を示し、海江田は、なんとか菅を佐賀県に赴かそうと努力します。
 この時期、菅は佐賀県行きを渋りながらも、海江田が佐賀に行くときには、「経産相と考えの違いはない」と発言し、玄海は再稼働不可避となったように見えました。そのため、菅に対しては、再稼働承認の立場だが、自分が責任を負わずに海江田に再稼働の責任を押しつけようとしている、といった見方が強まっていました。
 幾度も責任転嫁を繰り返した経歴を持つ菅に対して、こうした見方がでても不思議ではありません。
 7月5日、菅、海江田、細野の会談で、海江田は、菅の佐賀行きを重ねて要請したといわれます(本人は否定しているものの)。再稼働に向けて、最後のハードルである知事古川の同意取り付けのため、海江田は、なりふり構わなくなっていました。
 すでに知事古川は、海江田との話で「理解」を表明していたので、再稼働は避けられない情勢と見られましたが、海江田は、菅を佐賀に行かせて最後のだめ押しをするつもりでいたようです。
 ―――しかし、7月6日、すべての準備(定期検査プラス地元の了解)が整ったはずのところ、一度再稼働を認めたように見えた菅が、突然、福島事故以降の事態では、これまでの検査(緊急安全対策)だけでは信頼は得られない、と「ストレステスト」導入をもちだし、総理と経産相との見解不一致が一挙に表面化しました。また、それと同時に、政府説明会での九電の「やらせ」が露呈しています。この二つの「混乱」によって、県知事古川も、玄海町長岸本も、再稼働容認を断念せざるを得なくなり、玄海再稼働は、一転「白紙」となっています。
 玄海再稼働は中止・延期に至りました。

 玄海再稼働白紙に至る経過は、菅が指導性を発揮したと言うよりは、直前の翻意で混乱を引き起こし、それによって玄海再稼働を阻止したといった性格のものです。「ストレステスト」は、一時混乱を起こす材料のようなものでした。
 しかし、福島原発事故とその未収束という事態の中で、従来の定期検査に毛の生えたような「緊急安全対策」だけでは、安全など確保できないという正当な実感は社会的に広まっています。そのため、これまでの検査では不充分という菅が突然持ち出した理由も、それなりの説得力を持つものとなりました。
 福島原発事故以来はじめての再稼働にかけていた推進派は(たとえば、大手マスコミなど)この中止に怒り心頭で、「ストレステスト」を考えていたなら、何故、事前に出さずこんなときに出すのだ、と菅に批判を浴びせています。形式論、手続き論からは正当な批判です。
 しかし、玄海再稼働を止めようとしていた菅の立場から見れば、仮に、「ストレステスト」をもう少し前の段階で持ち出していたら、経産省は、それも組み込んだ再稼働の計画を立て、それを押し進めていたと判断したことは推測できます。「ストレステスト」というカードを最後まで隠しておいて、土壇場で、切り札として持ち出し、海江田を背後から撃ったという形です。「不意打ち」「騙し討ち」でストレステストを持ち出すことで、経産相海江田の面子もつぶし、そのことも含めて効果を発揮できたのですが、玄海を止めるつもりでいた菅は、「混乱」を承知で、この事態を引き起こしたように見えます。
 それに加えて、菅の側にとっては、あまりにタイミングが良いように見える九電の「やらせ」発覚が加わりました(直接は共産党がつかんだものと言われています。ただ、こうした説明会で「やらせ」は当たり前のことなので、菅が、それを織り込んでいなかったかどうか………これは不明です)。

 なお、「ストレステスト」については、その後の政府見解によれば、各検査から○×のような結論を引き出すのではなく、データを出して、4閣僚(菅、枝野、海江田、細野)の政治判断で再稼働可否を決めるものとしたようです。実に曖昧模糊としています。

 こうして、玄海原発再開をめぐって、菅と海江田―経産相との軋轢が隠しようもなくなった7月上旬以降、菅は「脱原発」の姿勢をより表面化させ、13日に「脱原発依存」を宣言しました。しかし、2日後、これは政府の統一見解ではないとして、菅は「個人見解」であることを表明しています。
 原発推進派が、この「個人見解」に対して「政府見解」もまとめられないものと批判の矢を浴びせたのは当然です。
 しかし、今の政府は、与謝野、海江田、仙谷、岡田、玄葉をはじめ原発推進派が大勢の内閣です。菅に繰り返し退陣を迫る参院議長西岡も、「菅降ろし」の立場に一変した顧問渡辺も原発推進派です。菅が「事前にまとめる」ことに意を注いだならば、原発推進の側に不断に妥協し、とりこまれることも避けられないはずです。強大な原発利権を背景に持つ原発推進派が多勢を占める政府内で「脱原発」を進めるには、正規の手続きと「非合法」的手段とを合わせて用いることがときに必要となるかもしれません。
 この時点で菅が「脱原発依存」の「個人的見解」を固守したのは、内閣の大勢に引きずられなかったという意味で歓迎できることです。

 玄海原発再稼働が中止になることで、当面、再稼働の流れが作られることは抑えられました。
 しかし、その次に、再稼働に手の届く原発があります。
 定期検査中でありながら「調整運転」なるものを4ヶ月も続けている北海道泊3号基です。
 保安院は、泊3号の「調整運転」は法的に問題もあるので、正規の運転に移るための申請を行うように、と北電に指示を出しています(これをめぐっては、保安院があいまいにしようとする意図があるものの)。―――しかし、法的に問題もある、という保安院のこの指導は、定期検査を終わっていないにも係わらず「調整運転」を続けたことを問題にするのではなく(そうであれば、即時停止を指示すべきところです)、「調整運転」を早く正規の再稼働に移行させなかったことを問題にしているのです。
 まったく転倒した話です。
 保安院のでたらめに甘い基準に照らしてさえ、泊3号は、定期検査を終えていないのです。それが「調整運転」なるものを継続し、電気を売ってまでいるのだから、定期検査など建て前としか思っていない本音が露呈しています。  
 泊3号基は、このようななし崩し再稼働の手前にあるため、この泊3号の(ごまかしの)再稼働を阻止することを重要課題に7月27日の政府交渉がもたれました。
 ここでは、泊3号再稼働をめぐる保安院のでたらめさが十二分に暴かれています(報告メールの方で触れました)。
 しかし、この日、同時に、この保安院の「やらせ」発覚という衝撃的なニュースが入りました。

5 原子力安全・保安院の「やらせ」発覚

 浜岡同様、玄海原発再稼働問題では、再び、菅と海江田の角逐が表面化ました。
 浜岡のときは、菅が、海江田の成果を盗み取ったという話でした。
 今度は、菅も承認して海江田が現地を説得した再稼働を、菅が直前に「ストレステスト」を持ち出してひっくり返したという形です。
 これまでは、双方の側から、菅と経産省との軋轢をある程度押し隠そうとしてきたように見えますが、ここに来て、その軋轢は隠しようもなくなりました。
 その後、7月13日、菅は「脱原発依存」を宣言したものの、政府内の反対で政府方針に出来ず、2日に「個人見解」であると表明しました。菅―海江田の対立表面化は、菅―主要閣僚の対立表面化に拡大しました。
 菅は孤立したように見えるものの、菅は、経産省に対して、不信表明、あるいは攻撃を、弱めることなく、さらに浴びせて行きます。
 23日、菅は、経産省に対して、「埋蔵電力」すなわち企業の自家発電力データの再提出を求めました。菅は、先のデータが正確でないとして再提出を求めたのです。菅は、経産省は、自分の都合の良いデータしか出さない(原発維持のため、電力不足を演じるため、埋蔵電力を少なく見積もるデータを出している)と、経産省に対するむき出しの不信感を表明しました。
 同一政府内にありながら、今や敵(かたき)同士の様相になっています。

 こうしたときに、何と保安院による原発推進のための「やらせ」が発覚したのです。

 玄海では、九電の「やらせ」が取りざたされましたが、7月29日には、保安員による「やらせ」が『朝日新聞』によって大々的に報じられました。また、同日『東京新聞』朝刊は、07年のIAEA文書について、保安院は、自分に都合の良い部分だけ和訳し、保安院と産業の癒着への警告などまずい部分は訳出していなかったことを報じました。保安院が袋叩きになった感があります。保安院の「やらせ」は続報され、少なくとも、保安院の経産省からの切り離しは不可避という情勢になっています。
 4月頃、菅が、経産省からの保安院の切り離しを口にし始めてから約3ヶ月で、この目標が容易に実現しそうな情勢が生まれています。
 菅と経産相―保安院の力関係は、これによって、菅の方にかなり傾きました。
 菅政府は「朝日新聞内閣」と呼ばれたこともあるほど、両者は緊密です。今回の「保安院やらせ」暴露が、どの筋から出たものなのかは、推測は難しくなさそうです。
 そして、この日、国会では、海江田が、「何故すぐ辞任しないのか」という自民赤沢の質問を受けた後、席に戻って「自分の価値などどうでもいい」と泣き濡れる場面が全国に放映されました(笑)。

 公開ヒアリング、説明会などへの電力会社や推進派の「やらせ」動員については、(私の知っている範囲でも)80年代以降、反原発運動に係わった人たちのほとんどにとってお馴染み過ぎる風景で、九電の「やらせ」を批判するマスコミ報道について、「なにをいまさら」という感もないではありません(あるいは、こんなことまで(正当に)取り上げられるようになったという「時代が変わった」という「感慨」もありますが)。
 しかし、電力会社の「やらせ」ではなく、その電力会社の原発運転をチェックする機関であったはずの原子力安全・保安院が、原発推進のため「やらせ」を指示していたと暴露されたことの深刻さは、ちょっとやそっとのものではありません。経産省―資源エネルギー庁の下にある保安院が、経産省と癒着していることは天下承知の事実で、IAEAでさえ、その懸念を表明するほどであったとはいえ、「やらせ」を直接指示していたとなると、これは、検察官が犯罪の指示を出していたようなありえない話で(………いや、これもしょっちゅうありました(^^))、保安院の権威はメルトダウン状態です。
 保安院が、これほど権威を失墜したことによって、当面の原発再稼働は相当難しくなったはずです。
 保安院の経産省からの切り離しは止められない情勢です。
 現在、保安院と安全委を一体化して環境庁の元に置く案が報じられています。
 また、今日、8月4日には、経産省次官松永和夫、保安院院長寺坂信昭、資源エネルギー庁長官細野哲広という経産省、エネ庁、保安院のトップ更迭のが報じられています。
 4月以来の菅と保安院、経産省との角逐は、保安院の「やらせ」発覚によって、経産省は、「死に体」のはずの菅の立て続く攻勢の前に後退を強いられる局面に来ています。
  
 今、表面的には、菅と経産相との間に矛盾が噴出し、それが、保安院の「やらせ」スキャンダル暴露という決定的なところまで進み、「スムーズな再稼働」を妨げています。これは歓迎すべきことです。
 他方、その背後には、3・11以降の反原発運動や世論の強まり、そして、さらに、3・11以前の長い反原発運動の蓄積があります。原発の危険への危惧をもつ者は色々な層に広がっています。強力な原発推進勢力であった連合は、電力総連、電気連合などの推進派をかかえるものの原発推進見直しの立場を表明しました。また、産業界では、城南信金は脱原発の立場を表明し、ソフトバンクの孫正義は自然エネでの市場確保で菅と意気投合していると言われます。意外なところでは、前郵政公社社長で三井住友銀顧問の西川が城南信金の脱原発を支持して、金融業界の顰蹙を買っているといいます。中曽根が自然エネ派に転じたという話は、事実であったとしても悪い冗談にしか聞こえませんが。
 原発は、その推進に特別の利権を持つ者、いつでも日本を逃げ出せる富裕層を除いては、冷静に考えれば自分たちのプラスにならないことは分かるはずです。
 
 7月29日の政府交渉では、保安院に対して、泊3号の「調整運転」と、そこからなし崩しに稼働に進もうとする保安院―北電の欺瞞が鋭く追及されました。また、全ての原発が、電源が失われた際の多重防御をとっていないことが明らかにされ、(安全委委員長斑目の見解を前提にしても)安全が確保されていないことを暴かれた安全委の巣瀬が、「全電力喪失など極端なことを考えるのは、自分と土俵が違う(→福島では実際に起こったのですが。そして、少なくとも安全委斑目は、それを想定しなかったことを間違っていたと言っているのですが)」「(安全の保証は)それぞれの給水ポンプに頑張って貰うほかない」とあきれた本音を吐くまでになっています。
 これが、当日主催者の理詰めの追及の結果であることについて、その内容は、報告メールの方で触れて行きます。
 一方で、保安委は「やらせ」のスキャンダルによって窮地に立っています。スキャンダルによる打撃は、しばしば甚大です。
 しかし、スキャンダルだけでは、その打撃力は大きくとも一過性です。それだけで、着実に追い込むことは出来ません。
 このスキャンダルと並行して、同じとき、7月29日の政府交渉で、再稼働をめぐる問題が詳細に暴かれ、保安院、安全委が、それに答えられない事実をさらけ出したことは、両者相まって、今後の原発稼働阻止、原発廃止に向けた重要なステップを築いたと評価できるものと思います。

 原発問題は、広範な社会問題の中の一つです。
 日本や世界は、今、日本の震災復興、失業や貧困の増大、増税問題、沖縄問題を始めとする社会問題、世界―欧州の財政危機、米国のデフォルト問題―円高問題をはじめとする世界の経済問題など、多くの深刻な課題を抱えています。
 ただ、福島原発事故未収拾の中で、この問題が社会的に浮上していること、そして、原子力村の原発利権とそれに基づく原発推進が、巨大な利権と日常的な原発労働者などの犠牲、廃棄物蓄積、そして日本壊滅にも直結する事故の危険という、住民の利益に真っ向から反する体系をなしていることから、この機に、原発を廃止に追い込めるかどうかは、今後形成して行く社会を方向付ける上で、必要不可欠な最大級の問題になっていることは間違いありません。
 保安院の実態が暴露された現在、それも手がかりにして、再稼働阻止―原発廃止、電力独占の打破、福島の子供・妊婦をはじめとする疎開・避難拡大など被曝からの住民防衛を進める課題が切迫しています。

(蛇足) 海江田はなぜ泣き崩れたのか?

 海江田は、「何故直ぐ辞任しないのか」と自民党赤沢に問い詰められ、席に戻ってから「自分の価値はどうでもいい」と、よよと泣き崩れました(笑笑)………というのは少し大げさですが、涙でぐしゃぐしゃになったのは確かです(「泣き崩れた」と表現した報道も実際にありました)。
 経産相海江田は、玄海原発再稼働のために奔走し、総理菅の「海江田経産相と考えに違いはない」という発言も引きだし、動揺していた県知事古川の了解もとりつけ、いよいよ再稼働、というときに、菅が「ストレステスト」を持ち出したため、再稼働は中止になっています。海江田は梯子をはずされ、面子をつぶされました。
 その前も、フランスのG8で、菅が経産相との事前打ち合わせなしに「太陽光発電一千万個設置」構想を打ち出したことや、浜岡停止の準備、手回しなど海江田がやりながら、その発表を菅に横取りされたことなどもありました(といっても、後者は、海江田が、菅同様、浜岡の即時停止を発表するつもりでいたのかどうか、少し怪しいところもありますが)。
 また、菅は、7月23日、経産省に対して「埋蔵電力」(企業の自家発電)データを出すように重ねて指示していますが、これは、先に出したデータを菅が信用していないことの露骨な表明でした(もちろん、経産省は、原発なしに電力が足りてしまっては困るので、「埋蔵電力」を少な目にしか報告しないことは、容易に想像できます)
 いずれにしても、今回、「手続き」過程だけを見れば、海江田が再稼働への地元了解を取り付けのため動いているさなか、菅が「海江田経産相と考えの違いはない」と発言した後、直前に「ストレステスト」を持ち出して中止させたという過程なので、海江田が理不尽に振り回され、面子をつぶされた事実は間違いありません。
 そのため、原発推進派は、この過程を「政府の混乱」と非難し、海江田を被害者ともちあげています。そして、海江田自身も辞任の意向を表明しました………ただし、「直ちに」ではなく、一定の目途が立ってからと言うものです。本当に、この政府の面々は「直ちには」が大好きなようです。
 たしかに、海江田は菅が持ち込んだ「混乱」で面子をつぶされたのですが、それは、原発推進勢力の一大拠点である経産省の走狗となった海江田の面子がつぶされたもので、同情の余地など一欠片もないものです。また、海江田は、原発事故収拾に向かう消防隊員に「言うとおりにやらないと処分する」と恫喝して物議を醸した人物で、こんな人物が泣き濡れようが、泣き倒れしようが、哀れを催す余地はありません。
 しかし、海江田に同情する与野党の議員連中の中には「ここで直ぐ止めれば潔い」と即時辞任を促す声も多く、「ここでやめれば男になる(なんという差別語)」などと言っていた議員までいました。これは、海江田辞任を菅への打撃につなげたい意向が多いようで、海江田に菅との決別を促すものです。
 とはいえ、経産省を始め原発推進勢力からすると、海江田の即時辞任は阻止したいものと思われます。海江田が辞任すれば、経産相は、菅が兼務するか、菅が(今や脱原発をめぐって政府内で孤立している現状で)自分の息のかかったものを送り込むでしょう。菅は辞任の意向を語っているとはいえ、動機はともかく「手負いの獣」になって「脱原発依存」を進めようとしています。これは、経産省にとって困ることです。
 そして、(これは泣き崩れの後の話ですが)保安院の「やらせ」が発覚した後は、海江田は、「やらせ」調査の第三者委員は自分が選任したいと言っています。この選任を菅にやられたくないという経産省―推進派の意向に違いありません。原賠支援法による支援機構の人選も係わるはずです。
 そのため、経産省の(或いはその背後の)原子力村勢力は、海江田に、経産相を即時辞任しないよう、圧力を、というよりはおそらく脅迫に近いものをかけたものと推測されます。
 この勢力と対決する気のない海江田にとって、原子力村を敵に回しては、将来の地位が見込めません。
 しかし、今、菅から決別しないことも、「ポスト菅」狙いにとっては重大な支障、決定的な出遅れをもたらすことも明らかです。
 先に触れたように、菅は、鳩山政府時代、副首相でありながら、沖縄問題を一言も発言せず、鳩山が辞任に追い込まれるや首相の座をかっさらうという政権をめぐる芸術的手腕(ろくでもない手腕ですが)を見せましたが、海江田にこれほどの腕があるはずもないし、すでに原発をめぐる立場を明らかにしすぎている以上、「小回り」は効きません。
 にもかかわらず、海江田は「ポスト菅」に野心満々のようです。そして、おそらく、その一理由に、これがラストチャンスかもしれないと言う思いもあるでしょう。民主党政権の今後など、だれにとっても視界不明瞭のはずだからです。
 こうしてみると、海江田の「自分の価値などどうでもいい」という泣き崩れの背景も浮かんでくるように思えます。
 泣きながら「自分の価値などどうでも良い」と繰り返したということは、いうまでもなく、「自分の価値」に、この上なくこだわっていることの表明です。
 今辞めれば、「ポスト菅」レースに際どくも間に合うかもしれない、潔いと評価も受ける、しかし、経産省などに縛られて(脅されて?)、それができない………こうして、目の前にニンジン=「首相」の座がぶら下がっていながら、それに手を伸ばすことが許されない、辞任したいが出来ない、という「身の不運」を嘆いたのが、海江田の、前代未聞の「泣き崩れ」だったのではないかと推測するものです。
 まあ、どうでもいい、三文記事的なもので、当たっているかどうか保証の限りではありません。
 ただ、原発推進をめぐる情勢の激しさ複雑さが引き起こした、まれにみる珍妙な一場面でったことは間違いありません。
 「海江田 なぜ泣くの 海江田の勝手でしょ♪(字余り)」

6  菅の「脱原発依存

 13日に、菅は「脱原発依存」を宣言しましたが、政府内の同意を得られず、それを「個人的見解」と表明しています。
 原発反対の立場に立つ文書やコメントなどの中で、しばしば、菅の脱原発は信用できない、脱原発の立場が一貫していない、などの批判が強調され、こうした観点から、このことも「政府見解から個人見解への後退」などと、かなり批判的に扱っているものがかなりか見られました。
 菅内閣は、有産者と無数の網の目で結びついた官僚層の飾りに近かった自民党政治と変わりばえのしない官僚主導政権で(縦割り予算案など)、沖縄問題、増税―財政健全化路線、TPP、および震災後の対応、復興政策など、いずれも自民党政治と変わりない内容です。到底支持に値しません。
 しかし、にもかかわらず、「脱原発宣言=個人見解」をめぐる上述の菅の評価には、私は少し違和感があります。
 菅に反原発の一貫性などない方が当たり前です。「一貫性」を求めるなら、原発推進の一貫性しかないでしょう。これは、政府についても同様です。なぜなら、菅にせよ民主党にせよ、もともと原発推進勢力だからです。
 民主党は、原発をめぐっては、賛成派・反対派の双方をかかえていたとはいえ、党の政策で原発推進をかかげ、現在の政府、党幹部なども原発推進派が大勢です。民主党は、原発利権の中枢と直結している自民党とは少し傾向の違いがあるとはいえ、自民党とはことなる民主党の政治基盤である連合―電気連合、電力総連などは、原発推進派の有力な実働部隊でした(ただし、連合は原発推進政策見直しを表明)。
 菅自身も、3・11前は原発推進派であったことを隠していず、3・11で考えが変わったと言っています。
 こうした民主党やその政府が、3・11を経過したからと言って、すぐに「一貫した」反原発・脱原発になったとしたら奇跡に近いことです(といっても、なるべきですが)。 現下の特徴は、原発問題が一大中心軸になっている局面で、菅が、政府内、民主党内の軋轢・摩擦を含みながら、ジグザグを繰り返しつつ、しばしば、脱原発の政策提示や実践も行っていることです。あえていえば、菅は、経産相―保安院との対立、東電との軋轢や電力独占解体では(その度合い、細かい部分の内容はともかく)その志向としては一貫しています。
 こうした電力独占に反対する志向、ポーズと共に、浜岡停止、玄海再稼働中止を実行し、さらに経産省―保安院と対立を強めている菅の実践は、その動機や、一貫性の有無とは別に、原発反対にとって意義ある要素として評価できるものです。

 玄海原発再稼働に向かう過程で、菅の動きは、どちらの側ともとれるものでした。
 すなわち、菅は再稼働容認ではあるが、再稼働の責任を海江田に押しつけて、自分は「傷を負わない」ようにしようとしている(菅が、鳩山政権下で沖縄問題に対してとった姿勢です)という見方と、菅は本心は再稼働に反対という見方とです―――大半は前者の見解でした。菅が、「(再稼働に奔走する)海江田経産相と考えの違いはない」などと表明した以上、そうした見解が出ることも不思議ではありません。
 しかし、反原発運動は、菅の意向がどうあれ、そんなことはお構いなしに、玄海再稼働阻止に向けて、できることを最大限行っていました。別に、菅に期待して闘いの矛先を鈍らせることなどありえないことです。 
 こうしたときに、菅が「ストレステスト」を持ち出して、海江田の梯子をはずし、政府を「混乱」させ、稼働推進派の地元首長の不信を(正当にも)買って、再稼働白紙になったのですが、この菅の役割は、それとして評価すれば良いだけのことです。
 菅が、延命や自然エネ利権のため「脱原発」の立場を利用しているとしても、「脱原発」をそのように利用できると言うことは、社会的に原発批判が広まっていること、反原発運動が影響を拡大していることの反映です。あるいは、自然エネの新たな利権確保が菅の動機だとして、これも、原発自体の問題(種々の被曝の危険、事故の危険など)やそれをめぐる利権構造が、今の社会とは著しく敵対的になったことが広く認識され始めたことの現れです。
 菅による浜岡停止や玄海再稼働白紙、(おそらく菅による)保安院「やらせ」暴露、電力地域独占問題(発送電分離、総括原価法式見直しなど)提起は、原発反対にとって、登場した有利な条件です。しかし、今後の見通しは不明です。
 ただ、今の政府中枢メンバーから「ポスト菅」がでたり(なかでも松下政経塾系)、自民との「大連合」となれば、原発推進復活に驀進する(できるかぎりめざす)政権になることは、ほぼ間違いありません。小沢系も不透明です。小沢を支持する活動家層(3・11前に各地でデモを繰り広げるなどした勢力)は反原発色が強く、小沢自身も、廃棄物処理の方法はない、原発は過渡的エネルギーなどと言ってきました。しかし、政府内で原発をめぐる軋轢が表面化しているこの局面で、小沢は、支持者の期待する原発をめぐる発言や政策提言をしていないので、小沢系が政権をとったとして、原発をめぐるどのような政策をとるのか、菅に比べてどうなのか、といったことは予想不可能です(この経緯から見れば、菅より悪くなる可能性が大きいでしょう)。
 今、保安院の存廃が問題になり、その結果、各原発の再稼働見通しが難しくなるという、原発をめぐる重大な攻防が起こっている現局面で、小沢派が、現下の原発問題への評価、具体策(菅の脱原発面の継承、菅に劣らない脱原発、原発稼働阻止などの具体内容を伴うもの)を出すことなく、菅に対して不信任案を出すとするならば(そのことが噂されています)、小沢派は、一定程度、原子力村と取り引きした可能性が非常に高くなります。これまでのように、原発をめぐる基本方針(脱原発)や具体方針(電力独占問題、原発稼働、被曝問題など)なしに「菅降ろし」をやるのであれば、それは原発問題をめぐって反動であるだけでなく、全体的な政治性格としても反動のそしりを免れないものです。それは、この局面では、これまでの検察・マスコミによる既得権益防衛のためののバッシングと対立してきた小沢派の(より多く一般支持者層の)ある程度の積極性も自ら葬り去るものです。
 被曝問題では、菅は、茶葉の基準をめぐって厳しい方の基準を選択したことを除くと、ほぼ否定的です。上述電力独占問題でも、菅政府による原子力賠償支援法は東電救済法の性格を色濃く持って、地域独占解体に逆行する意味合いを強く持っています。
 もっとも、行政指導で行える原発稼働の可否と、新規立法や改訂を必要とする原子力賠償支援法や電力独占解体のための立法などとの難しさは、レベルが違います。後者は、「ねじれ」国会を通さなければならず、そのため、内閣や党内の一定以上の同意なしには、そのまま進められない領域です。
 原賠支援法は通過の見込みで、これは多くの錯綜した論点を内包していますが、先に触れたように、菅が、この法が成立しても東電の将来が固定されるわけではないと言ったところを見ると、原賠法をめぐる政府内の軋轢があったことは想像できるところです。
 
 菅の「脱原発」が一貫しているのかしていないのか、については、経産相との対立や自然エネ志向など比較的一貫しているものもあれば、個々の具体的発言での凄まじいジグザグを見ることもできます。浜岡停止のときには、他の原発は違うと言い、玄海再稼働をめぐり、海江田が経産省の意向を受けて「安全宣言」を出した後も、19日に、「安全が確認されれば稼働してゆく」と言いながら、その直後、今の基準では運転は危険として再稼働を白紙にもどさせた過程は、「一貫」どころではありません。
 また、脱原発依存を宣言した翌日、トルコ首相に送った祝電にトルコに原発を売り込む文言を入れていました。その後になって、原発輸出を再検討すると語っていますが、これも著しく一貫性を欠いたものです(トルコへの売り込み段階で止まっていれば、菅の「脱原発依存」はまったく不信を招くものになって、完全に腰砕けになるところでした。日本では脱原発で、他国には原発推進を促すとしたらとんでもないことです。これは、モンゴルへの廃棄物処分構想も同様です)。なお、その後、トルコは、原発輸入をめぐる日本との交渉はうち切ると表明しました。

 菅が脱原発で一貫しているか「信用」出来るかどうか、などの論議は二義的なものに見えます。
 菅の「脱原発」は、菅自身がいうように3・11以降の極めて歴史の浅いものです。そのため、その社会的基盤もはっきりつかみにくいところがあります。
 そのため、今後どうなるのかを見通すことも困難です。
 今の立場をおおよそ貫く可能性、貫こうとしながら力関係で後退する可能性、自ら立場を変える可能性、その前に総理を引きずり降ろされる可能性など、菅の、現在の不安定な(或いは孤立に近い)基盤からすれば、どんなこともありえます。

 同時に、こうした一貫性欠如の中で、菅が浜岡停止、玄海再稼働停止を実践した事実は、それとして評価しなければならないところです。
 菅の一貫性欠如は、福島原発事故以降の脱原発への要求を反映して、基本的に、それまで原発推進であった政府・首相が、部分的に変化し、その結果、政府内での不均一や対立が激しくなった状況の中で演じられていることです。
 こうした政府内の軋轢や原発停止などの政治関係の中で菅を捉えるのではなく、菅の脱原発が一貫しているのかしていないのか、信用できるのかどうか、といった論議に力を傾けることは(ずいぶん目にしたのですが)私には、原発廃止に向けて着目する重点が違っているように思えます。

7,再び被曝・避難問題――子供を守るためには
             ―――小出裕章氏提言の問題点


(ここでは、私は、「子供」の言葉を、胎児を含む若年者全体を指すものとして使いました。なお、20代、30代も、それに準じると捉えています)

 今、セシウム牛が問題になり、政府は全頭買い上げの意向も語っています。資料の稲藁に高濃度の汚染があったということですが、「放射能は稲藁だけをピンポイントで狙うのか?」という当然の疑問が出ています。これは、福島県と、そこに止まらない周辺部が相当放射能汚染されていることを示すものに違いないでしょう。
 全頭買い上げについては、なぜ、牛肉だけそれほど素早い保証なのか、という保証のバランスを訝る声と共に、これは、放射能を取り込んだ牛を生かしておくと、被曝が障害を引き起こす実験例になることを怖れているのではないか、そのため全頭買い上げて直ちに殺処分しようとしているのではないか、と「推理」をめぐらせる意見まで出ています。
 6・26の福島集会では、避難区域の牛の殺処分を国に促されている酪農家が、活かして被曝の結果を調べて後に残して貰いたいと悲痛な訴えをしています。
 その後、腐植土からも高い線量がでて問題になりました。
 実際のところ、福島県をはじめ周辺地域も広範囲にわたって汚染が広がり、汚染された食品が広く全国に出回っていることは、今や間違いないものになっています。
 元々「暫定基準値」なるものが、とてつもなく高い上に、基準以下なら良いということから、原乳など遠隔地で「薄めて」全国に流通する形も出ています。
 前に触れたように、福島県では、原乳に基準以上の放射線が出た後、検査は全県のものをまとめて、という方式に改めました。「検査は全体、出荷は部分、これではババ抜きだ」とどこかのブログが書いていました。野菜の出荷に当たって、多くの検査が、低いところを狙って測っているという話は、原乳の例から見ても考えられることです。
 放射線検査はそもそも容易ではありませんが、現在、検査している核種も限られています。プルトニウムなどは検査の対象に入っていません(たしかストロンチウムも)。
 3・11後、政府が定めた「暫定基準値」なる恐ろしく高い基準をさえ超えた食品が、牛肉のように、それ以上に、検査をかいくぐって全国に流通している可能性を否定するには、相当の楽天家でいる必要があります。

 こうした状況に、放射の汚染食品を防ぐことは不可能という人も出ています。
 京大熊取六人衆(原発、放射能の危険を正当に主張したため窓際に追いやられた京大の研究者)の一人で、今、脱原発陣営で、おそらく一番信頼を得ている一人である小出裕章氏は、次のような発言を行いました。

 「被曝に関するかぎり、どんなに微量でも危険です。ただし、年齢によって感受性が全然違う。被曝をして、後々がんになるかどうかを一番気にしなければいけないんですけど、被曝でがんになるというのは、細胞の持っている遺伝情報が狂わされるということです。だから細胞分裂が活発なときに傷を受けてしまうと、それをどんどん複製してしまうので、成長が止まるまでの間はものすごく危険なんです。逆に、体ができちゃって、これ以上あまり細胞分裂なんかしないという年、五〇歳、六〇歳になったら、被曝してもほとんど影響は出ない。

 それをふまえて、ではどうしたらいいかというと、汚染度の高いものは年寄りが食べる。汚染度の低いものを子どもに与える。そのために映画の18禁のように、これからは六〇歳以上しか食べてはいけない60禁、五〇歳以上しか食べてはいけない50禁、30禁……。すべての食べものを測定して仕分けする。それは大人は放射線の感受性が低いという理由もあるし、私の世代を中心として、原子力をここまで許してきた世代の責任があるから。〔中略〕

 そして一般の消費者は、放射能で汚染されているからいやだ、食べたくないという素朴な感情だけによってしまうと、たとえば福島の農産物や、福島の近海の海産物は食べられない。でもそんなことをしたら、福島の農業も漁業も崩壊してしまう。〔中略〕どんなに放射能で汚染されていても、福島の農業と漁業を支えるために、大人が引き受ける。

 できるかぎり智恵を働かせて、子どもを守ってください。大人はあきらめて食べてください。(小出裕章、「安全な食べものなんてもうないから 子どもを守るために大人は食べてください」、『週刊金曜日』2011年6月10日号、p.24)

 小出氏は別のところでも「福島や近県の農漁業の壊滅を防ぐため、放射線感受性の低い大人が福島の食品を食べるべき。汚染度に応じて60歳以下は食べない60禁、50禁、40禁、20禁、15禁、10禁という仕分けをすればよい。そうした表示がない食品を子ども用とすれば、産地も子どもも守れる。」と言っています。

 長い間、原子力村の圧力の中にあって見解を曲げず、3・11以降、並み居る御用学者と違って、原子力や原発事故問題に的確な意見を発進してきた小出氏は、原発反対の陣営で、最も信頼される一人になっています。上の発言は、御用学者のものとは違います。
 しかし、この意見には、当然にも多くの批判が寄せられました。
 例えば、次のような意見です。

 「これはいくら叩いてもらっても一向に構わないが、私は、WHO定義による「餓死を避けるために緊急時に食べざるを得ない値」を超える――(野菜の場合には)1キログラムあたりヨウ素が2000ベクレル、セシウムが500ベクレル、ウランが100ベクレル、プルトニウムが10ベクレルといった日本の「暫定基準値」を満たす「食品」を含む――放射性物質が添加された「食品」は、もはや「食べもの」ではなく純粋な放射性廃棄物であると考えている(残念ながら、私もすでに放射性廃棄物を相当程度取り込んでしまっているが)。仮に、どれだけ情報の公開性を高めて、「基準値」を超える「食品」を厳しく規制したとしても、こんなレベルの「食べもの」が市場に出回っていること自体が異常であり、犯罪的であると言わざるを得ない。

 まして現実には、こうした放射性廃棄物を「食べて応援しよう!」という政府(農林水産省・消費者庁)や一般企業(前記農林水産省サイトを参照)が活躍する一方で、産地偽装や東電・政府・自治体による情報操作・隠蔽(リンク多すぎて無理)が蔓延しているのだから、結局のところ、外国人を含む日本国内の貧困層が、最も放射能汚染を受けている土地の農家を買い支えることで、東電や政府の責任を肩代わりさせられることになる(なっている)のは、最初から目に見えている。要するに、農家と貧困層という、最も弱い立場にある人間から、放射能汚染で共倒れになっていく、というわけだ。

 仮に、小出氏の提案――60禁、50禁、30禁……――が完璧に実現したとしても、そうした「食品」を買い求めるのは、現在の事態に最も責任を負っている東電や政府、原子力安全委員会、原子力安全・保安院の上層部、原発推進議員などではなく、文字通り飢餓状態に置かれている在日難民を含む比較的若年の貧困層が中心になるだろう(一部リベラル・左派も含まれるかもしれないが)。販売形態としては、高齢の野宿者に買取仲介をさせて、「80禁」や「70禁」にリベートを上乗せして消費者に売りつける(それでも「20禁」や「30禁」よりは遥かに安い)、といったような貧困ビジネスが横行すると思う。老人ホームの経費削減のために入居者の年齢が改竄されるといった事件も相次ぐのではないか。いずれにしても、小出氏が前提とするような「大人のモラル」が社会一般に共有されるとは到底思えない(私も共有していないが)。

 小出氏の「どんなに放射能で汚染されていても」「大人はあきらめて食べてください」という主張は、小出氏の意図はどうあれ、畢竟、東電や政府の責任逃れを追認し、命の格差の固定化を容認する言説として利用されるだろうし、実際に利用されていると思う。………」(「小出裕章氏「子どもを守るために大人は食べてください」への抗議」「薔薇、または陽だまりの猫」ブログより )

 的確な指摘と思います。私も、この批判・意見に積極的に賛成です。
 汚染食品は国が買い上げ、安全なものを国民に届けさせることが基本に据えられる必要があります。
 小出氏は、原子力の専門家ですが、政治に絶望している、政治は嫌いだと言っている人です(原子力礼讃の政治に迫害され続けた人として理解できることです)。小出氏の「食べて応援しよう」という主張は、善意からのものであれ、やはり、「政治」を知らない立場からの見解に見えるもので、客観的には、放射能汚染を容認させようとする原子力村を期せずして利するものになっていると思います。

 ―――しかし、その批判は踏まえた上で、小出氏の@放射能汚染が、簡単には完全防御できないほど広がっている現実がある、A子供は守らなければならない―――という認識、問題意識には注意を向ける必要があると考えています。
 多くの人々にとって被曝が避けられない(正確に言えば3・11以前の水準にすぐには戻せない)という現実は、政府・東電によるこのままの放置を許して良いものではないけれども、しかし、すぐに根絶することも困難です。こうした現実にあっては、「大人が(ある程度)犠牲になっても子供を守る」という小出氏の考え方は、ある正当な側面も持つと私は考えています。
 放射線への感受性が非常に高く、また、自己決定権を持たない(或いは決定権の非常に小さい)子供を社会全体で守るという姿勢を持たないでは、「大人のモラル」が成長することなど考えられないことです。

 小出氏が誤ったのは、子供を守る上で「大人の社会」が払うべき犠牲の内容です。
 それは、現在、子供が晒されている被曝の性格がどのようなものなのか、先ず、どこから守っていかなければならないのか、という現下の具体的な社会関係についての認識にかかわります。
 現在、子供の、過大な、理不尽な被曝の中心は、福島で通学を「強制」されている子供たち、親の避難が妨げられている子供たちです。
 この子供たちの避難を妨げているのは、福島の産業・経済を衰退させてはならないという理由で生徒への20mシーベルト基準を政府に要求した知事佐藤雄平やその走狗の山下俊一、多くの地元自治体の首長・有力者や、それを支える政府―文科相などを筆頭とする勢力です。
 小出氏の言い方を借りれば「福島や近県の農漁業の壊滅を防ぐため」子供たちが、高線量の中での生活・通学を強いられ、あるいは避難した生徒も引き戻されているのです。
 「子供を守る」道筋を付けるためには、福島の経済、地域社会の衰退・損害などの「犠牲」を前提としても、子供(胎児を含む)の疎開・避難をなにより遂行しなければなりません。この場合に、福島の「衰退」がもたらされるとしたら、それは疎開・避難によるものでなく、原発事故によるものです。そもそも、その放射能汚染で、福島市自体が、居住条件を超えつつあります。
 小出氏の「子供を守る」という善意は疑いないものですが、この現下の深刻な攻防と関係ないところで「子供を守る」ことを構想したために、実際には、子供の避難を妨げている勢力――子供を犠牲にして「県・地域を守る」ことを至上とする県や政府を応援する論理となり、子供を守ることに逆行する意見になっているのです。
 今、環境全体の線量が高くなっている福島で、かりに「30禁」「20禁」といった区分を完全に実施できたとしてさえ、ここにいる子供たちは救われません。このことだけでも、小出氏の提言の誤りは明らかです。
 
 福島県の子供たちの大規模な疎開・批判が、福島県の社会的な活力や産業に相当のマイナスをもたらすことは避けがたいことです。だからこそ、佐藤県政や各町行政などが、必至になって、子供をはじめとする避難を押さえ込むための宣伝などを行い、避難区域指定を逃れるため政府に圧力をかけ、避難する際も(線量がさして低くない)県内への避難に止まるよう画策を行うなど、子供・住民を地元に縛り付けることに意を注いでいます。避難者や子供の被曝を心配する親への白眼視を煽るような山下俊一の言動も、その一環です。子供・県民の健康や生命は県の産業・経済に従属させられています。そして、文科相を筆頭に、政府がそれに呼応しています。
 こうした中で、福島の子供、生徒などは、前に、「福島原発など爆発してしまえばいい」という新聞投稿の一例を紹介したように、「大人の社会」の利害によって自分たちが犠牲にされていると感じ始めている者が増えているはずです。

 子供たちの疎開・避難が、現下の地域社会にマイナスをもたらすとしても、それは、原発事故が引き起こしたことで、子供たちに生涯に渡る犠牲を甘受させる問題ではありません。疎開・避難は、何としても早急に実現しなければならないことです。
 その前提の上で、全国が、以下に福島(など)を支えるのかの論議が可能になります。また、そのことを最大限行うべきです。

 子供たちの被曝がいつまでも続き、「大人の社会」によって犠牲を強いられた子供たちは、「社会」へのどのような思想を形成しながら成長して行くでしょうか。これは、福島だけのものではなく、放射能汚染が広がり、各地で(例えば給食をめぐってなど)その問題が起こるほどに、全国の子供・若年層の間で共有されて行く問題になるはずです。
 この世代は、最悪の場合(といっても高い可能性で)同世代から点々と不治の病で若くして死ぬ者、病に苦しむ者を生み、あるいは、一人一人が、その不安や(すぐに避難できなかった)後悔を生涯かかえてゆくことになります。それを、「大人の社会」の利害によって強いられたと感じながら生活して行かなければならないならば、この層は、上の世代に対する根深い不信を刻印されるでしょう。また、自分たちも踏み込んで行く「大人の社会」を(従って、自分のまわり全体を)不信と憎悪の坩堝と受け止める社会意識も当然強くなります。そうした中にあって、犠牲を強いた根源(政府や県、原子力村など)を見定める条件は社会的に後退します。こうした体験を強いられた人たちは、対等・平等で相互信頼を成長させられる社会を協力してつくりあげてゆくことは、(自分の主観的な意図ではなく社会関係として)著しく困難になり、世代間の乖離も拡大するはずです。
 日本は、かつて、世界でも類のない「若者迎合社会」と言われたことがあります。町々に若者向けの商品が溢れ、TVなども若者向け番組が中心で、若者迎合が著しい、といったことを指していたようです。これが表層的なものかどうかはともかく、そのような一面も確かにあったとは思います。しかし、それがあったとするならば、その要因は、多分に、先進国中では、非常に遅くまで残った儒教思想による年長者崇拝―若者抑圧の反動・反発によるものです。世代断絶は日本だけのものでないとは言え、上のような状況で、世代間の乖離が促されたこともありそうです。―――しかし、福島を中心に「大人の社会」の利害で生涯に影響を及ぼす被曝を強いられたと感じた子供、将来の若者がもつ反発や、それが生み出す世代間の潜在する不信は、そんな程度のものではないでしょう。
 「大人の社会」の犠牲にされたと実感させられたものにとっては、当然にも、社会全体への(たとえば身の回りの人々を含めて)潜在的な敵意が根付きやすく、犠牲を強いた根源をつかむことは困難になります。あるいは、そこに関心は向きにくくなります。
 それに対して、「大人の社会」が経済や産業の犠牲を払ってまで自分たちを守ってくれたという実感を持って多くの子供(或いはその親も)が成長して行くならば、あるいは、その多くが、疎開や避難の困難を克服する苦闘・苦労を強いられながらも、それが、自分たちを守るために犠牲を払ってやむなく採った選択であることを知って行けば、こうした経験者や、それを同一世代にもつ層は、社会に対する積極性を成長させ安く、社会的な協力を積極的に作りあげ、世代間を結びつけ、苦闘の経験を建設的に活かす条件を高めるはずです。その多くは、経済成長よりも重要なものがあることを実感しやすいでしょう。そして、犠牲を強いた根源を見定めて行く条件も高まります。
 
 他方、「大人」たちの側では、社会が子供たちを最大限守るという相互確認の上で、その前提上で「大人」自身をどのように守って行くのかの問題に取り組むべきです。
 放射能は計測が容易でないために、放射能からの防御は、多くの人にとって、直接は感知しにくい問題になります。子供が先ず守られていない社会では、大人も、守られているという実感を持つことは困難で、不安もまた拡大するはずです。たとえば、あらゆる方法で、子供から、少しでも汚染された食品・飲料を遠ざけようという共通認識で活動している社会の中では、大人は、自分たちの「許容度」を冷静に検討し合うことも可能になります。しかし、大ざっぱな(?)基準値以下だからと、安全が疑わしい食品を子供に給食で食べさせるような社会では、大人自身、大人にとって自主的に許容できる基準値を積極的に受け入れて行くことなど困難です。
 小出氏が構想した問題は、この土台の上でだけ現実性を持つものと思います。

 福島の子供・妊婦を、まず疎開・避難させなければなりません。 
 特に、児童・生徒は、夏休み中に実施できるかどうかが分岐点です。
 しかし、6・30の対政府交渉、そして、7・19の福島での対政府交渉の結果は、文科相など政府の絶望的な対応に直面させられています。
 福島県では、休み中も、子供たちが、県を出てサマーキャンプなどに行かないよう、他県に対して受け入れないよう働きかけることを含めて、規制・妨害をかけているという話が流れました。この幾つかの事例を県に問い合わせたところ、否定していると言うことです(事実は不明です)。しかし、こうした話が流れるのは、少なくとも、県が、夏の間だけでも子供たちを少しでも線量に低いところにできるだけ行かせたい、などとはまったく考えていず、そうした行動を応援するつもりなど少しもないこと(県から出て行く可能性を少しでも封じるため、妨害できれば妨害したいと思っていること)の現れでしょう。
 学校毎の疎開を受け入れようとする自治体や、廃校で空いている校舎の使用申し出なども出てきていますが、県や文科相は、それを無視しています。
 非常に困難ですが、子供たちの疎開・避難の実現のために、福島で活動しているネットワークなどに協力して、できることをすべてやらなければならないと思います。

 泊第3号炉の再稼働阻止(「調整運転」即時停止)と福島の子供たちやホットスポット地域の疎開・避難は、猶予のない課題です。
                                (以上)