お茶〜優しい言葉
お茶の席に掛かっている禅語。優しい言葉です。もともとは禅の世界で使われていた言葉なんですが、最近はいろんな所で目にするようになりました。ホテルのロビーとかね。難しい言葉も多いけど、なんだか安らげる言葉も多いです。
- 且坐喫茶(しゃざきっさ)
且らく坐して茶を喫せよ。まあまあお茶でもいっぱい飲んでいきなさい。お茶掛けによく使われる言葉。なにはともあれ、ゆっくり休んでいきましょうか。のんびりでもいいよね。
- 喫茶去(きっさこ)
喫茶し去れ。茶でも飲んで出直してこい。且坐喫茶と混同されることが多いが本来は厳しい意味だったそうである。しかし、現在は一般的に「お茶でも飲んでいきなさい」と解釈されるため、お茶掛けに使われたりしています。
- 松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)
老松。緑を誇る。時間の経っているものはそれだけでも美しい。また、大きいというだけで価値観が変わることもある。大きな大きな木の鮮やかな緑は、想像するだけで心が安らぎますよね。禅語としては、むしろ枯れた感じが落ち着いていていいかも。
- 照顧脚下(しょうこきゃっか)
脚下を照顧せよ。足元に気を付けなさい。玄関口とかにこの文字が書いてあったりします。靴をそろえて脱ぎましょう、とかの意に使われています。「看脚下(かんきゃっか)」とかね。でもたまには自分の立っている場所に注意を向けましょう。それぞれの立場、それぞれの足元。履き物ばかりではありません。
- 独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)
大雄峰とは百丈山のことだそうで、ただ一人どっかりと大きな大きな山に坐っているの意。大きな山に負けないぐらい自分も大きくなっているのでしょう。世の中のせせこましい境遇をたまには忘れて少し自分を大きくしてみませんか。
- 庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)
目の前にある柏の樹。目の前にあるものを目の前にあると認識しよう。時々どうしても人は勘違いをしたり間違ったりする。一人だけ意地になって周囲と衝突し、困らせたりしてませんか?そこにあるものはそこにあるのです。無い物を見てませんか?ある物を見落としてませんか?
- 本来無一物(ほんらいむいちもつ)
六祖慧能大師の偈の一部。よく見る句です。裸一貫、本来何も持っていないという意味にもとれるが、一切に実体はないとか、すべての現象は因縁によって起こる物でありそのものの自性はないとか、いろんな意味にとることができます。本当に本当は何も無いんだとしたら私たちの存在も危ういのでしょうか?いいえ、我々は無一物で存在しています。
- 平常心是道(びょうじょうしんこれどう)
一般にこの言葉は「びょうじょうしん」と読みます。ありのまま、普段の自分がすなわち「道」である。ということは、普段の自分に自信が無いといえないはずの言葉です。いざ、と言うときにこの言葉を出して逃げるのは誉められたものではありません。普段から自分をしっかり持て。この言葉はそう語ってるように聞こえます。
- 柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)
ありのままを素直に表現。すると自然の中で気がつかなかった色々な美しい光景に出会えます。目にみえる景色はすばらしい。自然の中では自分はちっぽけな存在です。
- 柳不緑花不紅(やなぎはみどりならずはなはくれないならず)
ありのままを当たり前に見ないという禅語も存在します。春と秋の対比だけではなく、自分を肯定的に見るか否定的に見るかといった意味合いも含まれていそうですね。信じるときは信じきり、疑うところは疑う。徹底的に疑ったからこそ信じれるものもあるわけで・・・二つの禅語の対比が面白いですね。でもどちらも真実ですよね。
- 朝打三千暮打八百(ちょうださんぜんぼだはっぴゃく)
厳しい様。自分を鍛えようとするなら覚悟が必要であります。その覚悟を表しているとも取れます。
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