修行の青春
書き下ろし

四月から息子が修行の寺、つまり僧堂に行った。おおよそ大学を出てから掛塔(修行に入門すること)することが多い中で、息子は二十歳。大学を休学して雲水生活を送り始めた。私が胃がんになったのがその因だ。

息子は本山の学生寮の瑞雲寮に住んでいた。本山の和尚様方と密接にかかわる場所だ。昨年私に胃がんが見つかった時に本山の和尚様方に早めの修行を進められた。早期発見で手術もして術後の経過もいいので私だって早々くたばるつもりもないが、準備は早めにということだろう。なにせ我々の宗派では3年は修行しなければならない。

私自身の修行はもう30年以上も前になる。当時自分のことをダメ人間だと思っていた私は、修行なんてダメ人間矯正施設で楽しみなど一つもなく、ただ3年間歯を食いしばって我慢の生活を送っていればのちに住職になれるからと思って掛塔した。大間違いである。大事なことなので2回言う、大間違いのコンコンチキである。我慢するだけで修行期間を終えたら「俺は修行をやったんだぞ、俺は人とは違うんだぞ!」と増上慢な威張り散らかす生臭坊主が出来上がるのが関の山である。辛く厳しいだけの修行など修行ではない。そこに感謝と有り難さを感じなければ修行ではないのだ。

私の場合は運がよかった。老師に恵まれ、同参に恵まれ、同夏に恵まれ、修行開始から2年ほどだろうか、何がきっかけかも覚えてないのだが「修行の生活っていいもんだな」と思えるようになった。それからが修行だったんだなと今では思う。思えば厳しくも楽しい充実した修行生活を送ってきたもんだ。みんなありがとう。

息子にも充実した修行をして欲しいものだ。女の子とイチャイチャしたり、オールでカラオケして昼まで寝てたりの青春もいいもんだとは思うが、修行だって青春なのだから。
追記:令和5年発行の円通誌73号用に準備していた原稿ですが、別の原稿を掲載しましたのでここで公開します。
戻る