猫時間通信

2003年9月

 

■2003/09/29■ 先週のことをまとめて

9/20に触れた、とほほなケガ。経過は良好、痛みはかなり減ってきて・・・って当たり前じゃ>自分。ただの打撲だし。そうは言っても、先生が言っていた「胸は痛みが引くのが遅い」というのは事実。バストバンド(固定帯)は、粘着剤によるかぶれもなく、身体を固定して胸筋の動きを抑制する。ただ、暑い日に締めつけてると、汗による軽いかぶれは出たり。

9/24に少し頭が痛くなり、翌25日はずぅっと頭痛。鎮痛剤は飲まないと決めて、姿勢に気をつけたり、接骨院で軽いマッサージもしてもらったり。が、なかなか引かない。静かにしていられる環境ではバストバンドを外したら、少しは楽になった。寝るときに再び着用。

翌々日26日、起きたら頭はすっきり。やれやれと思っていると、北海道が大地震で大変なことになっていた。まったく関係ないのだが、びっくりしてしまった。頭痛は多分、バストバンドのために呼吸が浅くなったことが関係していると思う。


23日、高麗方面へ。高句麗系渡来人が移り住んだところとして、一部に名高い。地味だが落ち着きあるところだった。高麗川ではバーベキューや川遊びに興じる家族が多い。高麗神社という神社は1,300年前に王(こきし)の姓を朝廷から授かったということで、宝物展示などを行っていた。王(こきし)とは海外の王族を意味するという。そこそこの規模、背後に山を控えて、いい感じ。雅楽奉納演奏が気持ち良く響いていた。ただ、曼珠沙華が一面に咲く巾着田というところを目指す人々が、原宿竹下通のように途切れることなく進む日でもあったため、ひどい混雑だった。帰り、車に乗ると、道の上下のうねりを感じながら、林や湖などを見ることになる。長野県などの山から帰る道と、そう違わない。「あぁ、もうここは関東平野ではまったくないのだなぁ」と深く実感する。私は平野に育ったのだということも。

25日、月刊漫画雑誌、アフタヌーン(講談社)発売。好評の「げんしけん」、いきなり扉ページがジグゾーパズル。柱でも触れてるが、読みにくいぞ。クライマックスを迎えている「なるたる」、いよいよ来月で最終回。先月から、かなり省略を効かせた展開で、人によって印象がまちまちかもしれないが、この作者らしいと思う。ちなみに、単行本が発売されたばかりの「ラヴロマ」。私個人はこういうお話を単行本で揃えたりするのはもう飽きてしまいつつあるが、連載は楽しみに読んでる。「神戸在住」が登場して、お、これはなかなか上り調子を迎えそうだと思ってたらそうだった、という感じにも近い。最近、この雑誌はヤングアニマル(白泉社)出身の作家を迎えていたりする。アフタヌーンやパーティ増刊出身でモーニングに行く、などということもよくあったのに、最近は月刊雑誌の柱として、よその才能を迎える規模になったのかな、どうなのかな。


ふと通った神保町。パチンコ屋「人生劇場」脇にある、すき焼きとしゃぶしゃぶを食べさせるカウンター食堂、木造モルタル2階建て。結構気に入ってたんだけど、建物ごとなくなっていた。4階建てのマンション(1階は店舗)になるという。

見回せば、懐かしい木造の古本屋もかなり様変わりしてきた。明治大学も高層建築。お茶の水から駿河台下に向かって、そうバカでかい建物がなく、なんとなく空が広い感じがしていたこのあたりも、そろそろ違う風景になりつつある。でも、本屋と喫茶店と程よい食堂は、なくならないでくれ。


 

■2003/09/20■ とほほなケガ、とほほな痛み

昼、関東でそこそこ大きな揺れ。最初、なんだかずいぶんと余波が長いと思い、距離はそう近くないかと思っていたら、横に長く揺れ続けた。少し驚いたが、ニュース速報で千葉東沖と出ていた。某天文台の館長、串田氏がFM波による予測などを唱えていただけに、びくっとした方も多かったのではないか、ただ、あれは千葉や茨城のほうではなかったはずだけど。


連休が明けてから、Apple Expo Parisで新しいPowerBook G4のラインナップを発表したりしたけど、そして、12インチや15インチはかなり魅力的だけど、それとは関係なく・・・なんつーか・・・連休中、とてもおバカなケガをした。

夜、タオルケットをかけて寝ころんで本を読んでいた(風呂に入った後でリラックスしていた)。そろそろ電気スタンドを消そうと思った。いつもならタオルケットをはいで、身体を起こしてからスタンドに手を伸ばすのだが、なんとなく横着してタオルケットもはずさず、身を捩って手をスタンドのほうへ伸ばした。

と、身の捩り方を間違えて、足にタオルケットがからまったまま、バランスが崩れた。声を出す間もなく、ばたんと身体が倒れた。その際、折り畳んだ腕のこぶしと関節に、胸が激突。「いでー」と声を上げたまま、タオルケットのからまりを外すまで体重が乗ってしまう。慌てて身体を起こした。

あー、痛かった・・・胸を少しさすり、スタンドを消して、ふて寝。(・・・自分で書いてて、苦笑しちゃうよ、ホント。)

翌日、起床後にストレッチすると、なんか痛い。昨日、打った胸。すごく痛いわけじゃないが、引いていく気配がない。昨晩、すぐに冷やせばよかったか・・・祝日で医者があいていない。火曜日に接骨院に相談に行く。骨は問題なし(そうであってくれなけりゃ、困るよ!)。症状は打撲。先生曰く「あばら骨のあたりは生活していると必ず使う筋肉なので、直りが遅いんです。テーピングで固定しますね」。筋肉の炎症は固定しないと直りが遅く、胸は呼吸や生活動作ですぐに使うので、固定して動きを減らすしかないという。確かに固定すると、少し楽になる。

その翌日から通い。貼り替える際、はがすまでもなくテーピングをしたところ、すべて腫れ上がっているのがわかる。かぶれちゃうのだ、私の場合。痒み止めを塗りつつ貼る部位を減らしたり、粘着力の弱いテープにしたり、さらしを巻いたり。さらしはきつすぎて、呼吸が苦しい。今日はバストバンドという固定帯を使っている。これは少し具合がいいかな。


胸を大きく動かさないようにしているわけだが(重い荷物も持たないようにしてる)、こういう状態になって気づいたこと。

私は外見上割合おだやかそうに見えるらしく、また実際に対面する人間に激昂したりすることも少ないほうらしいのだが、実は見かけよりはるかに怒りっぽい。自分に腹を立てることが多いため、あまり他人に向かわないだけだ(もちろん他人に対して腹を立て、明示することもあるけど、理不尽に無差別に怒ることはあまりないかな)。

困るのは、過去の怒りの記憶がひょいと顔を出すと、関連する・あるいは連想される記憶などから怒りが倍増して、呼吸が短く激しく荒れることがある。黙って仕事をしていて、今うまくやっている仕事で過去に失敗したことを一つ思い出すと、連想が連想を呼んで突然一人で怒ったりしてしまう(こういう形の怒りなので、次はうまくやろうという方向に向かうこともあるんだけど、褒められたことじゃない)。一人で立腹しているから実害は少ないが、身近な人々はなんで怒ってるのかわかりにくい(そりゃそうだ)。

今回の胸のケガにより、怒りが発動して呼吸が乱れると、直接痛みを感じて、はっとなる。「対自分用怒りセンサー」がついていて、「はいはい、不要に怒るのは身体によくないですよ、血も濁りますよ、周囲にもよくないですよ、やめましょうねぇ」とモニターされている感じ。意外によくやっていることがわかり、さらにその際の自分の内部に生起する心理と行動のパターンが見えてくる。現在目前で起きていないことに対して、情動が勝手に暴れているだけだから、情動と一体化しなければ、受け流せる。そうわかると、情動を捨てて、記憶の連想と暴走を断ち切っていくようになる。習慣だから簡単には消えないかもしれないけど、情動の嵐を自分の中で飼っていてもいいことはそうないし、受け流す方法の糸口はつかめた。

怪我の功名とはいうが・・・それにつけても、ケガ自体もとほほなら、それに伴って気づく痛みもとほほであることよ。


生活の傷、ケガは結構世の中には多いらしい。以下、人の話、雑誌などで読んだことなど。

ちょっと台所の片づけが追いつかず、包丁の置き場がない。少しだけとコップに包丁をさしておいたところ、近くのものをとる際につい包丁のことを忘れてしまい、ずばっと腕にささって、だらりと血が出た、とか。

サンダルで歩いていて、つい足を強く踏みだしたところ、目測を誤って踵を強く打撲し、おまけに骨にひびが入っていた、とか。

足の小指をぶつけて、痛いなー、と足を引きずって歩いたら、今度は段差につまづいてコケて、膝を打った、とか。

電球を交換しようと椅子に乗ったところ、バランスを崩して落ちた。打ち所が悪くて顔・肩から腕が大けがになった、とか。

今回の自分の例だと、横着しないでちゃんと身体を起こす、それもいつものように布団やタオルケットをきちんとはいでから動けば、起きなかった。茶道や華道の基本には、身体の正中線と腰を使って、きちんと正面に向かって動作する、というのがある。お茶を少しかじった程度の経験だが、箸を取り上げる際に、右手で取り上げ、左手で支えてつつ右手で正しい持ち方にしてから、左手を離す。茶碗を持つ、置くだけでも、きちんと正面を向く。これを意識しないで(延髄レベルで)やれるようになると、流れるような美しい動作の中で、非常に安定してくる。そうでないと、高い茶碗などこわくて扱えない。結果的に、速く身体を動かさないのに、むしろ横着するよりも早い。

基本はやっぱり、大事なんだなぁ。


 

■2003/09/15■ 阪神優勝、小説から思い出した「初めて」

東京はこの二日間、晴れて暑いと思っていると、雲がさぁっと走ってきて、通り雨を降らす。おかげで夜は意外に涼しい。風が乾いているからか。


阪神、優勝。18年ぶり、ということは前回は1985年。

そうそう、西村しのぶ(神戸を舞台にした漫画を書いている方)の初期人気作「サード・ガール」は、1980年代後半の女子中学生〜高校生の恋愛を描いたもの。連載のある回で、コマの外に「ただいま阪神が優勝しました!」という落書きがあったのを思い出した。

そうか、あれ以来か(←野球への関心が薄く、他のことに置き換えないと、時代感覚を計れない奴)。

なるほど、年もとるわけだ(←そこへいくか)。


小川洋子「博士の愛した数式」(こちらは今年出た小説)。これも、阪神という線で結ばれた、老数学者と少年と、その母親の話(ただし、老数学者は交通事故による記憶障害で、80分以上記憶がもたない)。

こちらに雑誌初出時の感想を書いた。単行本で読み返した時、雑誌で初めて読んだ時も感銘したが、今回それ以上の感銘を受けたシーンがある。家政婦として雇われて仕事をしている(博士への夕食を作っている)最中に、自分に息子がいることを告げると、親が子供についてやらなくてはいけないと激しく言い、毎日子供を連れてきなさいと要求して、やってくるようになることは、前にも書いた。その先の話。

徐々に交流が深まるにつれて、主人公の私(家政婦)は、博士と息子を阪神戦に連れて行くことを思いつく。息子は家でその話を聞いて反対するが、すでにチケットを買ってしまった、純粋に行きたいかを聞かれて、やはり行きたいという。人込みが嫌いな博士も、息子(博士が頭の形からルートと名付けた)の誘いに応じてなんとかバスに乗り、一緒に球場にたどり着く。人込みにひどく緊張する博士と息子が手を握りあって、三人は球場に入る。博士は日常とあまりにかけ離れた驚きで、ルートは念願のタイガース戦が見られる興奮で、きょろきょろしている・・・122ページ6行目から引用。

=====引用開始

「大丈夫ですか」

 時折私が声を掛けると、博士は黙ってうなずき、そのたびにルートの手をきつく握り直した。

 三塁側特別内野へ続く階段を登りきった瞬間、私たちは同時に声を上げた。不意に開けた視界の先には、柔らかく黒々としたグラウンド、まだ誰の足跡もついていないベース、真っすぐに伸びる白線、そして丁寧に手入れされた芝生の広がりが見えた。うっすらと暮れはじめた空が、手が届きそうなほどすぐ近くにあった。その時、私たちの到着を待ち望んでいたかのように、照明に灯がともった。カクテル光線を浴びた球場は、天から舞い降りてきた宇宙船だった。

=====引用終了

博士は数学三昧の日々で、野球はラジオ中継と、データと、野球カードでしか知らない。息子のルートと主人公も初めての野球観戦。その三人が登りきった瞬間、球場が、空が、光が、まるで祝福するように美しく開ける。初めて出会うもの、それがぴんと張りつめた美しい瞬間を持っていたこと。それは一生忘れられない記憶になる。しかし、博士に限っては80分しか記憶が持たない。このすてきな小説の、上記の的確な描写のなんとすごいことか。

そして、このことがきっかけで、彼ら三人にちょっとした波乱が起きる、その際にも上記の描写の的確さが異様に効いてくる・・・この先は直接お読みになってご確認を。


初めて、ということで言えば、私は音楽に関しての記憶が生々しい。

オーケストラではなく、室内楽のコンサートに初めて行ったのは、中学生。スメタナ弦楽四重奏団が来日して、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を奏でる・・・クラシック音楽に熱を上げ始めた少年が、興奮しないわけはない(当時、20世紀の弦楽四重奏団は、世紀の前半をブダペスト弦楽四重奏団が、後半がスメタナ弦楽四重奏団が代表する、とまで言われていた)。その上、スメタナ弦楽四重奏団は徐々に高齢化しているため、これから先にも聴く機会に恵まれるとは限らない。小遣いではとても足りぬ高額なチケット。いかにすばらしい音楽なのかを親に語っていると、チケットは私一人分だけ、帰りは夜が遅くなるし中学生だから父と一緒に帰ること、というのが条件で、許可がおりた。

悪い席だと音がひどく聞こえにくいから予算の範囲で出来るだけよい席を、という希望は、A席の最前列という形でかなった。第2ヴァイオリンの真ん前。室内楽編成のためのホールに生まれて初めて足を踏み入れて、これで4人の音が聞こえるのかとか、これだけしか入らないからチケットが高いのかな、などとくだらないことを考えていると、客席の照明が落ちた。目を細めて明かりに慣れた頃、ジャケットや雑誌で何度も目にした4人が、穏やかな足取りで入ってきた。静かに立ち上がる拍手。

この日のベートーヴェンの15番は、忘れられない。天井から降りてくるようなヴァイオリンのメロディ、床板も共鳴するのではというチェロ。圧倒的な音響に乗って、リリカルでちょっとシニカルで、デリケートで力強い男の音楽が、身体に染み込んでくる。たった4人で響かせる宇宙。

興奮でぼうっとしたままホールから出てくると、父が待っていた。よかったかと尋ねられて、よかった、としか言えない自分がもどかしかった。

あのベートーヴェンの最晩年の音楽を、中学生がじゅうぶんに感じることが出来たか、などというちっぽけな問題ではない。わかるから魅せられるのではない、じゅうぶんに感じているのだけど明確に表現できるわけでない、それだけにより深く追及せざるを得なくなるのだ。その決定的な瞬間を、私は経験したのだった。

最初から意外に多くを感じている。後々、その記憶を反芻して、さらに深い世界へ赴くこともできる。こどもとは、そういうものだ。音楽は私の経験の結晶核を、いまだに成している。


おいしい食事が出来るほどの金額を、親が一人のこどもの記憶のために注いでくれた(貧乏な家ではなかったが、めちゃくちゃ裕福でもなかったのだから、今思えば奮発だったはず)。そのことを上記の小説が、より明確に記憶から掘り起こしてきた。読んでいた電車の中で、私は一度本を閉じて、小説と記憶が相互に増幅していくのを味わっていた。


 

■2003/09/10■ Bill Joy、Sunを退く

満月なり。夜、ちょっとした用事で外へ出ると、何となく月は雲間に隠れて全身が見えない。用事が終わるころに見えるといいなと思っていたら、帰り道は雲が切れて、月が冴えた輝き。風は湿って重いが、この輝きは値千金。

あ、京都ページの観光篇に、宇治の概略を追加しました。


ドイツの女性映画監督、リーフェンシュタール氏、死去。101歳。第2次大戦直前のベルリンオリンピックを「民族の祭典」として映画化。戦後、ナチス協力者として追放され、その後写真家としてカムバック。なんと100歳で新作を発表した話を聞いたとき、失礼ながら「まだ生きていたんだ」と思ってしまったくらい。20世紀の動乱を眺め、翻弄され、そして投げ出さなかった偉大な才能。黙祷。


昨日、自動車関連の工場の事故から、コンピュータに関する連想をあれこれしていた矢先。Sun Microsystems創業に携わった天才科学者Bill Joyが、Sunを退社予定であると発表された。

いまでこそUNIXはインターネットのサーバーに欠かせないという認識があるが、1970年代当初はAT&Tのベル研究所内でゲリラ的に作られていた。画期的だったのは、ソースコード・ライセンスを取得すると(当然高いけど)、OSのソースコードを丸ごと得ることが出来たこと。このために多くの人が様々な改良を加えたが、まだ学生だったBill Joyは使いやすく、作りやすいように多くのコマンドやライブラリ(プログラムを開発・動作させる際に皆で共有化するパーツ)を拡張した。というより、もはや当初のUNIXをはるかに凌ぐ使いやすさへと成長させた。Berkley Software Distribution、つまりBSD UNIXの誕生。

また、ネットワーク化を推し進めるためにIP関連の土台となる様々なネットワークライブラリの整備などにも貢献、BSD UNIXがUNIXの代名詞となり、多くの研究者がその成果を利用していった。現在、インターネットが普及しているが、UNIXとネットワークを中心にした彼の成果がなければ、ここまで広がらなかったろう。また、同じ時期に日本の村井純氏や砂原秀樹氏らが慶応義塾大学で似たような実験をやっていて、相互に交流があったことは、関係者の間では知られた話だ。

Sunの様々な研究開発で指導的立場にあり、James GoslingにJavaを生み出させるきっかけを開いた。そのJavaは、インターネットで様々なサービスを構築する際に、欠かせないプログラミング環境へと発展した。

その彼が「もはやコンピュータや科学の進歩のあり方を見直す時が来た」という趣旨の論文を発表。そして、いま、Sunを退くという。今後の予定ははっきりしていないそうだ。彼はコンピュータ科学を知り尽くした一人であり、「自然科学はよくわからないけど、科学は身勝手に発展しすぎた」などというあいまいなことを考える人ではない。今後何を始めるのだろう。


 

■2003/09/09■ 月と火星の合、昨今の火事からの連想

昨日まで少し涼しかったのに、朝から蒸して温度が上がった。お昼からは驚くばかりの快晴。そして夜になり、満月直前の月がぽっかりと昇ってくるのを、帰りの電車から眺める。一度荷物を置いてから再び出ると、月がこちらを見ている。ゆっくり見上げると、すぐそばに赤く小さな光。

こんなに明るく雫がこぼれそうな満ちる月のそばで、火星がしっかりと見える。本当に近づいて大きく見えているんだなぁ。


9月5日に、元漫画家にして著作や講演でも有名だった青木雄二氏が亡くなられた。まだ50代・・・アクの強い画風、筋の通った話の展開は、著作でも確かに冴えていた。残念。


今年は工場での火災が多い。特に新日鉄とブリジストンは、自動車に深く関係している。詳細はこれからの発表や報道などを見ないとわからないけれど、鉄工や造船に続いて日本の主力産業を長く支えてきた自動車産業は近年、時間とコストの圧縮を掲げて厳しくやってきただけに、ちょっとしたほころびが大事故につながったりすることもあるのだろうか。

私が情報処理産業に関わりだした1980年代後半、世間はバブルに入りつつあるとともに、30年ほど日本を引っ張ってきた自動車に次ぐ、新しい産業が必要と言われていた。それはもちろん情報処理産業だった(だから関わったのではなく、単に面白そうだから関わりだしたのだが)。ハードウェアは(今と違って、日本は世界にメモリを供給するチップ大国だったために)進展しているから心配ないが、ソフトウェア開発者の人材不足と、光通信網の整備が急務と言われた。多くの研究が行われたし、それは一定の成果はあったが、別の熱の前に消え去ってしまったかもしれない。

その熱は、インターネット。いや、1980年代、日本でもJUNETと呼ぶ研究用ネットワークとして動いていたから、研究者の間ではむしろ当たり前だった。一方で、インターネットは1970年代の技術をベースにしていて古いから(このこと自体は事実)どうにか新しいものを出したいという人々もいて、国や企業の政治勢力もからんだりして、おまけにバブル崩壊で予算が減っていくこともあって、多くの研究はなかなか一般レベルにおりてこなかった。おまけに、ソフトウェア技術者不足に関しても、どうにかなりそうだという空気になってしまい、むしろ促成栽培で人材を使い捨てるに近いことまで行われていく。そのうちに、Windows95とインターネット・ブームが日本を飲み込んでいった。ここでおそらく、日本を支える主力産業に情報処理産業がつくことは決定づけられたのだが、同時に、日本がその産業界で主力プレイヤーになる道が10年ほどは狭まっていくことも決定づけられたのかもしれない。CPUとOS、そして通信関連の大きな規格の首根っこが、米国(一部欧州)発になると決まってしまい、創造性よりも工場ラインが求められてしまうのだから。そして、この産業も厳しくなってくると、再び事故でたいへんな目にあう、ということになりかねない・・・(プラント制御などもコンピュータで行われていることを忘れてはならない)

***

あの頃、そして現在でも、日本の多くの研究は、決して海外にひけをとるようなものではないものが多い。でも、インフラ規模で世界に伸びていく規格が少ない。最終製品として見えるものでなかったからなのか。お金が途中で不足したからなのか。英語で成果を示さなかったからなのか。いや、どれか一つの原因に絞れるものでもないけど、多くの研究や方向を束ねて「こっちだ!」と本気で示す人が少なかったのかもしれないという気はしている。

Sun Micorsystems、Microsoft、Apple Computerといった新興系企業、一方で伝統あるIBMにしても、また、インターネットによる情報ハイウェイ構想にしても、オープンソース活動にしても、研究以前に「こういうものがほしいんだ!」という訴え(欲望と言い換えてもいい)を持った人間がいて、それに関する研究を寄せ集めて形にして人々に広めて賛同者を募り、最終的にそれを世界に輸出していくことを、いくつも行ってきている。それは、まるできちがいのようなエネルギーであり、また人を圧倒する力でもある。そのエナジーが一気にあふれ出すと、止まらない。

キリスト教を世界宗教にしたパウロの伝道の姿を思い起こさせるものがある。一神教が強いというより、伝道の力が強いと感じる。もちろん、その伝道の力の強さの背景には、一神教こそが正しい、というシンプルな思いがあるのだろう。いずれにせよ、伝道の強さを知っているのが、彼ら欧米文化圏の強みかもしれない。

でも、そうやって広めて世界をフォーマットしていくことだけが、いいことでもない。イスラム圏の人々が欧米に感じる反発だって、そういう側面がある。情報処理、つまりコンピュータによる通信は、世界をつなげる一方で、差異を単なる戦争・闘争に結びつけないことにも活用したいではないか。そういうことは、日本で行っていくべきことではないかとも思ったりする。そして、日本人なりの情報処理産業への貢献が見えてくることで、単にやられっぱなしでない時もやってくるだろうと思ったりもする。それが何なのか、いまここですっと提示はできないとしてもだ。

もしかすると、人型ロボットの研究は、ソフトウェアとハードウェアの統合の過程で、いい方向を見せていくかもしれないんだけれどね(人に似せたロボットは、聖書をベースに置く文化圏からは好かれていないことはまぁさておき)。


 

■2003/09/03■ 腕時計と携帯電話

朝から蒸してひどく不快だったが、夕方、暗くなってきて、遠雷が聞こえてきたと思うと、いきなり大雨。一度止んで、もう一度。雨が去ると、外は蒸しているなりにひんやりして、虫の音が聞こえてくる。一気に秋。


6月に腕時計を復活させて、3ヶ月ほどになる。汗で蒸れる季節にも関わらず、毎日きちんと着用してから出かけている。まったくいやにならない。

もともとあまり腕時計をしない生活を長らく続けていたのだが、携帯電話を購入してからそれを時計代わりにも使うことが増えた。最初はもちろん誰からも連絡がないのだが、徐々に番号を知る人が増えるにつれて、そこに連絡が入るようになる。自然に着信の有無などを確認するようになる。やがて、何かあると携帯電話を見るようになり、時刻と、通話の着信と、メール連絡などを気にするようになる。結局、以前よりはるかに時間と連絡に気を配る毎日になっていく。

今年、腕時計が止まっているのを見て、久しぶりに電池交換をするついでに、着用してみた。どうせ携帯電話で時間を気にするくらいなら、腕時計も使おう・・・面倒なら携帯電話に一本化すればいいんだし、くらいの気持ち。ちょっとした出来心に近かったかもしれない。

使ってみると、腕時計ばかり見る。やがて、携帯電話を鞄の取りだしやすい位置に納めるようになり、着信の有無だけを確認するようになった。というより、着信と時間だけに振り回されにくくなったとでもいうか。携帯電話にすべてを任せると、ケータイを見たついでにメール確認などもして、そこから入ってきた連絡にそのまま自分の時間を持っていかれるようなこともたまにある。

それが、時計は腕時計を見て、携帯電話は着信の管理だけしていればよい状況だと、落ち着いて考えたり対処したりしやすくなる。これは性格や習慣による相性なんだろうけど、時計と携帯電話を分離する生活は、私には割合ぴったりきている。

やっぱり、単機能の機械を、自分の意志で活用していくのが一番だなぁ。


 

■2003/09/01■ やっぱり寒い9月あけ

昨日の夜の涼しさは、まるで9月下旬か10月。

猫だまりの猫にとってはラクらしい。猫は30度を超えないほうがいい生き物だからね。最近は近所の人々からの待遇もいいのか、昼間は少し暖かいコンクリートの上で寛いでいる。というより、伸びきって、溶けている。「ちびくろサンボ」で、トラがぐるぐる廻っているうちにバターになっちゃったというのは、こういうネコ科の動物の習性を見ていて思いついたんだな、きっと。それくらいテレーッと溶けている。

私も今日は、キバらずに。


昨日(8/31)、雅楽器の笙のソロコンサートを聴いてきた。

雅楽にも調子がある(西洋クラシックの調性とはだいぶ異なるけど、ある基音のもとに音階が定められるところは似ている)。6つの基本調子が伝えられており、四季と土用に対応している。つまり、春なら双調、夏なら黄鐘調、秋なら平調、冬なら盤捗調、季節の変わり目=土用は壱越調。基本的に、現在の気候にあった調子の曲を演奏する。これに加えて、四季に配当されず、特に季節を選ばない太食調がある(舞がつく時に、すべての演目が終わって場を収める際には、どの季節でも太食調の長慶子という曲を演奏する、とか)。

昨日は夏の名残で、黄鐘調の曲中心(もともと四季の巡りを想定した連続コンサートの一環)。コンサートそのものは素晴らしかった。が、なにしろ涼しい夜である。聴き終えて外に出ると、それまで聴いていた音との落差が大きい。なんかあったかいもんが食べたくなる、キュウリのような身体を冷やす食べ物はほしくない。肉ジャガをとるなんて、冬じゃないのに、という気持ちになる。(私個人は、肉ジャガは秋から冬だなぁ。)


9月が月曜からスタートし、きりのいい開始・・・かどうかは知らないが、街には制服の高校生が溢れかえっていた。気温はそう高くないのに当然夏服なわけだが(制服だからね)、肌の黒い子が多いこと、しかも男女の区別もない。やっぱり焼けているのね。日焼けサロンか、海やプールかはしらないけど(ちなみに、部活で焼ける子の場合、夕方はまだ部活の最中だから街にはいないはずなんで、選択肢には入れない)。

買い物で東急ハンズに行く。ハンズ・メッセの大混雑が終わっているだろうと思って買いにいったのに、なんと定価販売に戻ってもすごい混雑で、驚いた。夏が寒かったからか?!(んなわけないって>自分。たぶん、お目当てのものが安くなっていなかったんで、メッセが終わってからやってきた人が多かったんだろう。)

何かとイレギュラーなことが多い9月あけだ。


 


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