洛中・極私的概略

 

洛中とはどのへんか

洛中という言葉は、洛中・洛外という区分けがまず前提にあります。洛中という言葉は、中国の唐の都が洛陽であり、洛陽の中、ということから来ています(中国の都市は城壁に囲まれている)。では、京都が初めて都になった平安京はどうだったか。北は一条通から南は九条通、東は寺町通から西は葛野中路通。東西の中心は朱雀大路ですが、その南端の羅城門跡は九条通(東西に伸びる)と千本通(南北に伸びる)の交点近く。現在も千本通から西には朱雀に由来する学校や公園がいくつか見えます。道幅85メートルという大きな通りはもはやなく、今は多くの人が住んでいます。

地図を見ればわかりますが、現在の繁華街の分布とは大幅にずれています。これは、湿地帯が乾いて盆地になっていったのが京都であることも、頭の片隅に入れておく必要があります(つまり、500年とか1000年のスケールで長期的に見れば、少しずつ乾いているという)。平安京は、山並みと川の様子などの地勢を風水で鑑定し、四神相応に則って太極(中心となるポイント)を定め、都市設計を行いました。上記の平安京の範囲が、京都の盆地の真ん中を占めているのがわかります。

ただし、現実には西側に湿気がひどく住みにくい地域が多く、東寄りに人口が移動してしまうことが多かったといいます(勝手に動くなと布告が出ている)。平安京の衰微、武士の興亡や戦乱を経て、天下統一を果たした秀吉が最終整備を行いました。そこから、今の京都に近い町並みが生まれたといいます。街全体は東山方面にずれ、現在の東大路と西大路の間には現在も人が集中しています。また、御所の北端が今出川通(一条のやや北を通る)で、ここまでは洛中となります(今では北大路も洛中にいれたくなるかもしれないが、やはり今出川から先は空気が変わると感じる)。南はやはり現在も九条通まで入れておきましょう(現在のJR京都駅を考えると、八条あたりまでと思えるかもしれないが、やはり東寺は洛中に含めたい)。なお、秀吉の市街整備の最終形態は御土塁という外壁でしたが、存命中に完成せず後に放置され、一部を残すのみとなりました。

さて、この東大路−西大路と、今出川−九条の範囲を、ここでは洛中としましょう(一般的な基準ともそう大きく違いません)。京都駅を基準に、少し南の東寺から北上して、七条に並ぶ両本願寺・三十三軒堂、五条と四条の境にある建仁寺(つまり祇園近辺)、三条〜四条の繁華街や寺町、御所や二条城を扱います。そして、北西寄り、お茶と織物の中心地である西陣から北野天満宮あたりまでを取り上げます。

それぞれの地域は皆、古くから何度も栄えては焼けた(火事もあれば戦乱もある)地域であり、歴史的な記憶の山積した地域です。さらに、平安の都(平安の最中にも大火事に見舞われた)は応仁の乱で壊滅し、先にも触れたように、秀吉の定めた町並みに、家康の作った二条城が加わった形になっています(しかも幕末にも大火事があった)。

閑話休題。人口が密集し、様々な発展と分業の結果から、洛東や洛西のように「洛中」というくくりで一貫性のある空気は、あまり感じられないでしょう。ただ「密集」は日本の都市の特徴であり、京都や大坂、遅れて江戸は密集都市運営の原型を作り出してきました。この密集と、そこから起きる様々な変化を巻き込みながら発展してきた空気こそが、都の所以と思います。都の中核である密集地帯に触れていきます。

京都駅南側

京都の南側に大建築が建ち並ぶ以前は、新幹線がホームに減速しつつ滑り込むのと同時に、東寺の五重塔が聳え立つ様子が見えるものでした。「あぁ、京都に着いたんだ」そう実感する瞬間でもありました。今は壁のようなビル群が立ち並び、そうはいきませんけれど、この光景を愛する人々はたいへん多かったようです。新幹線のホームが駅南端に敷かれたからこそ、あの美しい光景が可能になったわけです。

ちなみに、新幹線口から出た駅南側は、巨大ホテル、予備校、ショッピングビルなどが立ち並びます。仕事の宿泊にはとても便利でしょう。私個人はこのあたりにはほとんど宿泊しません。洛中から各所にアクセスするほうが効率がよいことが多いからです。

東寺までは近鉄で一駅。もちろん歩いてもそう遠くはありません。白壁と大きな門の外から既に威容が見えています。一歩踏み込めば広大な境内、数字以上に高くて恰幅のよい五重塔、そして東寺博物館自体が立体曼荼羅になっている様など、見所満載の密教一大テーマパークとさえ言えます。一箇所でもある程度は時間がかかることを、事前に想定したほうがよいでしょう。

その近くに、観光地ではないですが、羅生門跡の石碑があります。門がなくなり、対になっていた西寺もなく、それにも関わらず生き残った東寺の力は、不思議に強い。その力を浴びて帰る散歩です。

東寺は東西に走る九条通に面しています。京都駅から北側の空気と比べると、やや空が広くなり、しかし所々に大きなビルも建ち並びます。有名企業もあり、任天堂もこうした地帯の一角です。

京都駅北側

京都駅の新幹線口から、在来線側の北に出れば、ここからが京都繁華街の始まりです。昭和を長く飾った三代目京都駅は、新幹線から在来線へ出るのに苦労しましたが、現在の京都駅は中央にでかい通路があり、簡単にアクセスできるように変更されました。

京都駅は七条と九条の間にあります。北側に出れば大きなバスターミナル、そして数多くのホテルや旅館、京都タワー。今は巨大な京都駅自体も、デパートからホテルを含む巨大施設を持っています。まるでここを堤防にして、文化の流れをせき止めて、チャージをかけているようです。

京都駅から徒歩圏内の有名スポットは、東西の本願寺でしょう。東本願寺は駅の北、烏丸七条から入ります。あわせて渉成円という庭園も拝観できます。西本願寺は堀川通のほうへ移動します。さらに西へ進めば、江戸時代の花街、島原。角屋の跡が美術館になっています。

コースとしては、西本願寺を見てから、南下して先に触れた東寺を見るというパターンもあり。

京都の入り口であり、つい有名スポットを見るために素通りしがちですが、本願寺周辺には仏具店などもあり、メッカのように参拝する人が絶えなかったこのお寺を中心に復興していった街なのだなぁと実感したりもします(こういうことは歩かないとわかりにくいでしょうね)。やはり東からやって来た人々への入り口ですしね。

七条通・東寄り

本願寺のある七条通からずっと東に進み、鴨川を越えると、高い建物が減ります。三十三間堂を中心とした洛東の名寺院・神社のある地域。

三十三間堂(蓮華王院)は、いわずとしれた天台密教の仏像スポット、修学旅行の名所。しかし、その奥、七条通を東山通に突き当たると、智積院があります。真言宗智山派の総本山であり、江戸時代の名建築である本坊、池泉回遊式庭園、長谷川等伯と息子の障壁画など見所多く、東山の麓の地形を活用した境内も居心地いいものです。

また、三十三間堂の北には豊国神社、方広寺があります。豊国神社は豊臣秀吉を祀った神社(後に家康が滅ぼして、明治に復活した)。方広寺は大仏殿、巨大な梵鐘(この鐘の「国家安泰の鐘」という碑文に、家康が難癖をつけて豊臣家への攻撃が始まる)と、地味ながらも楽しめます。豊臣秀吉はこのあたりが好きだったようで、三十三間堂の復興に手を貸したりしましたし、自分の陵墓を東山に作せています(陵墓は後に徳川家が立ち入り禁止にして、記憶から薄れていった)。

ただ、戦国武将ファンでなくとも、このあたり、鴨川を渡ってから何となく気持ち良くなる地域です(厳密な洛中とは違うからかもしれない)。三十三間堂の裏手にも寺院がありますし、イタリアンレストランやら、すっぽん料理の店やら、楽しく散歩できるでしょう。

五条通・東寄り

先の豊国神社、方広寺から北上して五条通を渡って少し進むと(住宅街、地元の商店などがあり、繁華街とは異なる空気)、六波羅蜜寺があります。平清盛ゆかりのお寺であり、清盛の座像、空也上人像など教科書でよく見かける美術品があります(お寺自体は小さく、地元のお寺)。あまり混雑していませんし、小さなお寺の宝物館とは思えぬ内容です。

また、その北東、八坂通に面して六道珍皇寺があります。実は建仁寺の塔頭ですが、小野篁が冥界への入り口に使ったという伝説で有名。8月の六道詣り期間は文化財拝観も可能。

八坂通を東に進めば、八坂の塔、ここから東山散歩コースにも入れますし、八坂通り近くにある料亭の雰囲気などを眺めつつ歩くこともできます。ここではまた北西方向へ少し戻りましょう。塔頭を通り過ぎれば、日本に臨済禅を持ち帰った栄西禅師の創建になる建仁寺が現れます。枯山水、俵屋宗達の風神雷神図など、見どころ多数(特別拝観をチェックすることもお勧めします)。ここから祇園美観地区は目と鼻の先、まっすぐ北へ進んで四条通に面するお茶屋は、忠臣蔵で有名な一力茶屋。そこからは北も東も西も、祇園が広がります(西へ進んで四条大橋を渡れば最大の繁華街である河原町界隈に至る)。

祇園美観地区は、建仁寺の北側の他に、そこから北上して巽橋を渡った白川近辺にも広がっています。四条通の観光客向け商店街、美観地区の整った京風建築、そこから外れたスナックなどの入る雑居ビルの様子、少しだけある風俗店、さらに北にある門前通・新門前通の骨董街(ここまでくると東へ進めば知恩院)など、現役の花街を核にした祇園という名前の様々な顔が、通りや辻ごとに変わっていく様子も、ぜひ目に留めておくべきでしょう。美観地区だけが京都ではありません。また、美観地区のお店もお茶屋だけでなく、ステーキやフレンチ料理、割烹などもあります。街は生きています、そうでなければその街は衰退します。千年の都がまったくの虚構であり、そうとわかっていても惹かれるのはなぜか、もはや山紫水明などふっ飛んでしまっているこの地帯を歩くたびに思います。

四条通〜三条通

四条から三条とはいっても、東西に広いものです。ここでは河原町から烏丸通あたりの繁華街にあるスポットを扱います。祇園とは、四条大橋を経て賑わいが続いている地域でもあります。

この地帯の最大のスポットとは、どう考えても三条から四条の間に南北に走る河原町、さらに並走する先斗町と木屋町などを中心に栄える街そのものです。祇園に並ぶ花街として鴨川の西沿いに細く走る先斗町(最近はお茶屋は減りつつある)、高瀬川沿いに飲食店の雑居ビルが建ち並ぶ木屋町(先斗町より一本西)。河原町が明治・大正・昭和を経て発展してきた様子を継いでメインストリートとなっているのに対して、少し裏にある、少し濃い空間として、微妙に違う色で棲み分けています。この南北の通りを横に結ぶ細かい道にも、様々な店が広がります。最近はカフェも増えてきました。

一方、河原町からちょっと西には、観光客の土産物調達の街である新京極(私はここじゃ買いませんが)、アーケード続きで少し落ち着いた商店街である寺町京極があります。寺町通は南北に広がる通りですが、信長・秀吉時代の施策により、散らばっていたお寺がこのあたりに集められた経緯もあります。寺町四条より南に多数あり、また、三条と四条の間にも縫うように多数の寺があります。有名な錦天満宮(ここを始点に東西に延びるのが食品問屋街の錦小路)、蛸薬師堂本能寺(信長が討たれたのは、ここに移る前)などもこのあたり。

話がだいぶ先へ進みました。三条通は寺町京極や新京極を北上すると東西を横切るところに出くわします(三条通の北に、本能寺などがあります)。三条通自体は細く小さな通りで、その北にある東西に渡る大通りは御池通。京都市役所、京都オークラホテル(旧京都ホテル)などに面し、地下鉄東西線も開通して(これ、風水的に大丈夫なんですかね…)、東西の要となる通りの一つ。大繁華街はこのあたりで終わり、その先の二条近辺からは賑やかさを引きつつも、少し落ち着いた商店街やオフィスビルになっていきます。

先へ進む前に、三条通を西に進んでみましょう。新旧の建築物を利用して、様々なカフェがオープンし、1999年以降「三条カフェ通り」とでも呼びたくなる活況を呈しています。それ以前は烏丸通を含めて洋館を眺める目的で歩く人も多く、もちろん今も旧日本銀行京都支店の建物を活用している京都文化博物館や郵便局、さらに六角堂といった古くからの観光名所も健在。さらに、三条通や蛸薬師通を西に進みつつ、時々南北にそれると、意外な飲食店やカフェを見つける楽しみもあります。名店イノダコーヒー本店もこのあたり。

二条・中部

御池通から横断歩道を渡って、市役所の西脇、寺町通を進みます。寺町二条界隈、ここは地元のための名品が、そのまま全国区に通用するようになったお店をいくつも抱えています。茶の一保堂、洋菓子の村上開新堂などの有名店があり、紙、書や骨董、下駄や和服、凝り性な本屋(三月書房)、最近はカフェや雑貨・家具の店など、地味ながらも魅力的なラインナップが揃います。横浜の元町商店街と、東京の神楽坂のような空気が一緒になったような場所とでも言えばいいでしょうか。

そのまま寺町通を北上すると、丸太町通。緑豊かなそこは、京都御苑の、南東の角。ここからは御所です。ちょっと歩けば、源氏物語ゆかりの廬山寺、九条家の公家屋敷遺構である拾翠亭があります。また、京都御苑でも通り抜け可能な道を歩いてみるのも一興。なお、御所は春と秋の特別公開がありますが、単にぷらぷら歩くのも気持ちいいでしょう。

さて、御池通に戻りましょう。その名の由来は天皇陛下の池(御がつくのは天皇家所有や御用達の証)であり、河原町御池から西へ進んで堀川通の先にある神泉苑がそれです。平安京創建当時の大池はすでに小さくなりましたが、現在もその一部をとどめています。その目前が、二条城。徳川幕府が天下統一後に、京都への強い影響力を見せつけた城が、現在も残っています。

なお、御所の北側、今出川の北には、洛北で触れた同志社大学、相国寺などが広がり、東には下鴨神社や出町柳の街が広がっています。京都駅の南側から始まって、洛北や洛東との接点まで到着しました。

西陣・北野天満宮

今度は二条城の堀川通から北上していきましょう。一条戻り橋は陰陽師、安倍晴明ゆかりの橋。そこからやや北に、清明神社があります。清明ゆかりの地としては大阪の安倍晴明神社のほうが本来は有名だったかもしれませんが、実際には京都に住んでいたのですし、ここは現在脚光を浴びています。なお、一条戻り橋から南東へ向かって徒歩十数分のところにある京都ブライトンホテルは、当時清明の住まいがあった場所と伝えられています。今は静かな地域であり、高級ホテルにふさわしい落ち着きですが、ファンは回ってみるのも一興。

堀川通をもっと上りましょう。今出川通に交わる手前に、西陣織会館が見えてきます。そして、このあたりから北にある、一見住宅街のような地域に、西陣が静かに広がっています。高層建築が減り、京都の繁華街が現在のようになる以前の様子を、断片的に残しているともいえましょうか。東山観光地帯のくるくる変わる京都に対して、京都を支えた絹産業を生業にする人々の心意気もあるでしょう。

上立売などの東西に走る細い通りから戻って、堀川通をそのまま上ると、茶道資料館が見えてきます。その裏には、裏千家と表千家の本家があります。千家は拝観する場所ではありませんが、茶道資料館を見て目の保養をするにはじゅうぶん。茶道具の店も周囲にあります。

今度は、堀川今出川から、今出川を西に進んでみましょう。しばらく進むと上七軒。ここは北野天満宮を控えた花街、そして歴史はもっとも古いともいわれます。もちろん、その先には北野天満宮。言わずと知れた菅原道真公を祀っている神社。天神様の祟りを畏れた平安の人々が盛んに祀り、ここが活況を呈していたことが伝わってきます。え、地味だって? そう、今となっては地味に映りますが、むしろ京都の人々が畏れて辺境(平安京では端の方だった)に祀った空気、北の寒い空気が今も残っているとも思えてきます。

なお、北野天満宮に至る前に北に進めば千本釈迦堂、南に大将軍神社、西に平野神社といった古い神社もあります。

今出川をさらに進めば、北野白梅町。洛西を貫く京福電車の始発駅です。つまり、洛西の入り口であり、同時に洛北への接点に辿り着いたことも意味します。空が大きく感じられるようになってきました。長い文になりましたが、言葉の洛中巡りも、ここで終着としましょう。