洛中:五条・東

(六波羅〜建仁寺・祇園)

 

五条の北

五条通は、非常に幅の広い、東西を貫く通り。御池通(神泉苑や京都市役所に面する)と並ぶ、いやそれ以上の道幅です。

もっともこの幅は、第2次大戦の進行状況をにらみつつ、民家を疎開させ、軍事目的で道路拡張と整備を行った結果です。戦後はそのまま、京都の東西を貫く幹線道路になり、自動車産業の飛躍的増加と高度経済成長を支えることになりました。いずれにせよ、長い歴史で見ればつい最近まで、こんなに広い通りではなかったわけです。それを思うと、平安京の大火、鎌倉時代(鴨長明の頃)の大火、応仁の乱の壊滅的荒廃、維新前の大火と何度も焼けては立ち直ってきたこの街は、やはり大きく変わってきていることに気づきます。

話がそれました。五条通の鴨川寄り、川端五条(鴨川の東側)から東山五条へ向かうと、途中から陶器の店がたくさん並びます。その手前で北に上がるあたり。古くは六原と呼ばれ、後の六波羅と呼ばれるようになった跡をとどめる場。ここから始まって、建仁寺から祇園までのコースです。

なお、七条・東でも触れたように、このあたりも鴨川から東なので洛中ではありませんが、分類の便宜・現代は街が地続きに発展していることも考慮して、洛中に含めています。

六波羅

六波羅(ろくはら)といえば、六波羅入道大相国、あるいは六波羅探題といった単語が思い浮かびます。六波羅入道大相国は平安末期に太政大臣にまで上り詰めた平清盛のこと。このあたりで寺から借りた敷地に邸宅を建て、一族を呼び寄せて一大勢力となりました。後に平家が滅亡し、平家の痕跡を一掃すると、鎌倉幕府が反幕府分子の監視と京の治安維持のための組織をおきます。それが六波羅探題。

いずれも平安末期のこのあたりの地名からきています。ただし、平安京が出来た頃の六原(ろくはら)は、現在の清水寺あたりから続く、鳥辺野と同義だったといいます。つまり、風葬の地です。山になっている清水寺のあたりはまだしも、いまは普通の街であるここが野ざらしの墓場だったというのは、にわかには想像しがたいかもしれません。もっとも、鴨川から東が洛外だったということがわかる話でもあります。

そうして、殿上人ではない身分で、ある程度収容できる人数の邸宅を、平安京にほど近く交通の便もよい地に建物を構えるには、むしろよい地になります。

六波羅蜜寺は、空也上人ゆかりのお寺。平安京遷都前に創建されたお寺を引き継いでいます。住宅街の中で、忽然と現れるのが印象的。歴史の教科書に登場する平清盛像を安置するお寺としても有名です。清盛像や空也上人像など、宝物館には重要文化財が多数。

その手前、洛東中学の角には六波羅探題がかつてあったことを示す史跡があったのですが、度重なる事故もあって、現在は中学校の敷地内に移されているとのこと。(最近はここを訪れていないため、現在、観光目的で入れるかどうかの確認を、私はとっていません。)

平安初期の六原

さて、六原から東に広がる鳥辺野が風葬の地だったこと、平安京遷都の際に、桓武天皇が珍皇寺を建てて葬送の場としたことから、このあたりが葬場と認識されていました。

六波羅蜜寺から北へ歩くと西福寺、東西の道は清水道。ここを東に数分歩くと、六道珍皇寺です。

延暦年間に創建され、少し後に小野篁(貴族=官僚、歌人としても有名)が整備しました。小野篁は閻魔大王のもと、冥界の官僚でもあったという伝説の持ち主。ここの井戸から冥界に通ったといういわれもあり、最近では「京都の魔界の旅」といった企画で、晴明神社とともによくとりあげられるようです。もともと平常時はそう拝観者の多い寺ではなかったはず、重要文化財などの宝物拝観は事前に申し出る必要があります。

ただし、8月7日〜10日、六道詣りの期間中は、宝物が公開されます。もっとも、お盆に先祖を迎えるための行事であり、かなりにぎわいます。観光目的の行事でないことは念頭においたほうがいいです。

小野篁の伝説といい、六道詣りといい、この地の記憶の層にあるものが、なんとなく感じられます。もっとも、いまでは普通の住宅街であり、あたりのお寺もむしろ庶民的と言いたくなる境内の空気です。

建仁寺と祇園

六道珍皇寺は東寺の末寺でしたが、南北朝期の衰退後、建仁寺が塔頭として再興しました。六道珍皇寺の北側を東西に走る道は八坂通。東へ進めば八坂の塔ですが、西へ進めば建仁寺勅使門。その手前で北に入れば建仁寺塔頭がいくつもあります。

建仁寺は、栄西禅師が日本に臨済禅を本格的に持ち込んだお寺としてつとに有名。臨済宗総本山として、伽藍・宝物ともに見どころ多数。俵屋宗達「風神雷神図」(ただし通常は写し)も有名ですが、特別拝観の寺宝が出ることもあります。方丈や枯山水も含めて、日本に禅宗の様式をもたらした場の空気を味わえます。(ただし、現在の伽藍は16世紀の再建になるもの。)

建仁寺の北門から出れば、祇園甲部歌舞練場まではすぐ。ここに隣接されたギオン・コーナーは、都おどりの会場ですが、通常営業でも様々な伝統芸能が披露されています。

そして、そこから北は、花見小路。お茶屋が続く祇園美観地区。格子窓に犬矢来のお茶屋、その意匠を引き継いで営業している飲食店。祇園の祇園たる街並みが広がります。まっすぐ進まず、ちょろちょろ曲がりつつ歩くのも楽しいでしょう。

大通りに出る直前、右手(東側)の大きなお茶屋が有名な一力茶屋。そして、出会う通りが四条通。東に進めば八坂神社、西に進めば四条大橋を経て四条河原町。この通り沿いにも、名店が並びます。

ここは四条通を渡って西へ、和菓子老舗の鍵善良房の前を通ってから、最初の路地を曲がりましょう。スナックなどの入る雑居ビルが囲む道を通り、さらに細い切り通しを経て巽橋。そこを渡れば再び祇園美観地区。東西に走る白川の流れ、お茶屋の意匠が残るこちらのほうが、美観地区としては有名かもしれませんね。

このあたりがはじめてなら、まずはこの建仁寺→美観地区の流れを押さえてしまうのがよいでしょう。

 1)巽橋から北、東西に走る門前通と新門前通に骨董屋

 2)四条通を東に突き当たり、八坂神社から東大路通を北上すると、東側に知恩院

 2−1)上記通り沿い西側に一澤帆布(鞄)あり

 3)巽橋から西へ進み、川端通を北上すると、京阪三条ターミナル

 4)四条通を八坂神社に至る手前、何必館京都現代美術館などあり

 5)四条通を西に進んで、鴨川の手前に南座あり

 5−1)南座隣ににしんそばのまつや、他にも飲食店多数

新門前通の南にある新橋通や末吉町通、富永町通などをぶらぶら歩いてみるとわかりますが、現在の祇園は雑居ビルの酒場・飲食店、一部に存在する風俗営業などの店舗がほとんどです。夜、ネオンが広がる風景は猥雑ではありますが、もちろん繁華街とはこういうものです。生きてどんどんビル化する繁華街と、風情を残す古い繁華街とが同居する様を見ながら、街の変遷を思います。

河原町は繁華街ですが、もともと河原とは町中に住めない人々の居場所でした。見せ物などを中心に人を集めるようになり、数々の洗練を経て歌舞伎劇場の南座に至っています。一方、その東奥には祇園社(八坂神社)が古くからある場でもありました。室町期以降、商業の大きな発展とともに人が集めることが出来る場として発達した地域。そのような場は、やはり独特の猥雑な魅力に満ちていたはずであり、それを引き継いでいるのでしょう。現在何があるかは、それぞれの肌で感じることができます(見ることが出来ないところもありますけど)。

葬場から河原のあたりに寺や花街が生まれ、そこに人々の喜怒哀楽と商業が集中していき、今も繁華街として変化していく。そういう場だからこそ、人が集まるのでしょう。

隣接地域

六道珍皇寺や六波羅蜜寺から東へ行けば、八坂の塔や清水寺に至ります。東山散歩コースに入れますが、その手前のなんてことない道も意外に楽しめます。おそらく地元の人が使うであろう料亭などもあります。

また、六波羅蜜寺から西へ向かうと、鴨川の手前、南北に宮川町が広がっています。ここも祇園や先斗町と並ぶ料亭街。街の風情が気になる方はぜひ。

四条通に至れば、八坂神社を経て東山散歩コースはすぐ。また西へ進んで鴨川を渡れば、京都の中心街もすぐです。