• [種別]寺院
  • [名称]宝蔵院鉄眼一切経版木収蔵庫
  • [宗派]黄檗宗
  • [地域]萬福寺より少し北にある。JR奈良線か、京阪宇治線の黄檗駅(京阪なら宇治から2駅)。駅より、徒歩10分弱。
  • [特徴]萬福寺開山の隠元禅師に教えを受けた鉄眼のプロデュースになる、一切経の版木を所蔵。
  • [拝観料]手元に記録が残っていない。
  • [+α]萬福寺の脇にある、一切経(大蔵経)の版木。質量ともに圧倒的。

概略

黄檗宗総本山萬福寺の塔頭。江戸初期の創建。

当初は本山の中の一院であったが、延宝1年(1673年)、塔頭東林庵を譲り受けると、そこへ宝蔵院を移転したと伝えられています。

整然と並ぶ版木の棚

萬福寺より少し北に歩くと、一切経(大蔵経ともいう)版木収蔵庫という文字が目に入ってくるので、すぐにたどり着けるでしょう。

受付から入って階段を上ります。中は版木が棚に整然と並んでいます。棚の中に入ることはできませんが、ところ狭しと並ぶ棚を見ながら、さらに上のフロアに同様の光景が展開される至って、その物量に圧倒されます。収蔵庫、丸ごとが経典の版木。一切経の質量、そしてそれをすべて版木で残そうとした執念に圧倒されます。

一切経(あるいは大蔵経)とは、漢訳仏典の集大成です。唐時代、仏教をインドから輸入して体系化する際に、多くの経典の体系化が進めれました。そして、大乗・小乗の経・戒・論の3つにまとめられました。経典は教えを記録したもの、戒律は仏教教団の戒律をまとめた文書、そして論は経典など教えに対する解釈や考察をまとめた論文集。これら3つを三蔵といいます(三蔵法師とは、三蔵に通じた偉いお坊さんという意味)。こうした区分は、文献学の発達により、年代別による新しい大蔵経(大正新脩大蔵経)に至るまで、長く保持されてきました。そして、朝鮮半島や日本列島に伝えられてきました。たとえば高麗大蔵経は朝鮮半島に伝えられたものとして有名です。

日本では仏教は官営宗教として輸入されたため、大蔵経を一般の人が手にすることはほとんどありませんでした。江戸時代には天海僧正(徳川家康の懐刀と言われ上野寛永寺を創建した)が徳川の世が続くことを願って、宋時代の大蔵経を元に制作していますが、もちろん一般には出ていません。

萬福寺で隠元禅師についた鉄眼は、読み解くことに苦労した経典を、版木を残しておけば、多くの人が必要に応じて得られるようになると考えました。そのためには、制作を喜捨だけでまかなうべきだと発願します。

鉄眼の指揮のもと、驚くべき分量の一切経を、13年かけて版木で残しました。しかも最初の発願通り、喜捨のみで貫きました。驚くべき粘り強さに、驚嘆します。

これにより、注文に応じて刷ることが可能になりました。今でこそ図書館で大蔵経を読むことが出来ますが、当時では考えられなかったことでした。鉄眼の描いたイメージは相当に斬新なものだったと言えます。実際、今でも刷られており、収蔵庫内部で作業をする様が見えます。

なぜ版木?

この頃、すでに木製活版技術は使われていました。木製の活字一文字ずつを枠に組んで面を作り、刷り上げるもので、今の活版にも通じる技術です。ただし、活版は一度組み上げても、崩してしまえば残りません。天海版大蔵経は活版ですが、このように幕府の記念事業として行う分には、活版でも問題はなかったのでしょう。

一方、版木の場合は、一枚の板に文字を彫っていきます。ページ数分、版木が必要になります。ただし、きちんと版木を管理すれば、いつでも刷って渡すことが出来ます。普及のことを見据えた事業だったのでしょう、今でも見て、活用することが出来ます。

ちなみに、版木制作の参考として、明時代に制作された万延版が使われました。つまり、明朝体の字を彫っていったことになります。江戸時代には、明の活版書体を受け入れた明朝体が取り入れられていますが、明文化の直系である黄檗発の事業も、明朝体普及の一助になっていたのでしょう。

特に美しい庭や美術品があるわけではありません。しかし、歴史の中で事業を発起して完遂させた重みが、現在も物理的に直感できる、貴重な場所です。