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紺天宮秘事集 −こんのあめのみやひめごとあつめ−
弐 葡萄の章
檜皮の屋根に座り込んで、透き通った玻璃の天蓋越しに、東方はるかな地平線を葡萄は眺めていた。
「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる……」
旧詩に詠われた景色さながらに、暗い地上に夜明けが訪れる。村落を覆う薄い朝霧が光に撫でられてぼうっと燃え上がる。
しかしここには夜明けは来ない。地上より十里の天上にある、この紺天宮には。昼になり日が高くなっても、昏い星空に鋭い太陽がぎらぎらと輝くだけだ。
「にくきこと」
葡萄はつぶやく。紺の空がにくらしい。この宮から出てみたい。
だから、杏が好きだ。彼女の暖かさは、宮を囲む冷たい虚空を忘れさせてくれる。
虚空と同じ、冷たい色の自分の髪のことさえも……。
どれほどそうして座り込んでいただろうか。宮のあちこちから、目覚めた媛たちの、遣戸を開けたてするぱたぱたという音が聞こえてきた。
葡萄は立ち上がった。見つかったらまた叱られる。叱られるだけならいいが、禁足など食らってはたまらない。彼女が一人で見つけ出した多くの隠れ場所の中でも、ここは特にお気に入りなのだ。
周囲を見回して、人の目に留まらないかを気をつける。見る限りの簀子に人は出ていなかったが、中庭の花の散った桜のあたりで、白い石碑――金烏が、じっとこちらを見ていた。
わずかに驚いたが、胸を押さえて自分を落ち着かせた。彼ならば、見られてもどうということはない。
葡萄はひとつ伸びをしてはしごに這いより、内裏東端の照陽舎の屋根から下りた。
飛香舎に夏風のような張りのある声が響く。
内裏の西側、最も位の高い太白媛が住まう棟である。下位の媛の日課として、葡萄たちはそこで学問の教えを受けていた。
読み手は太白媛。それに黒い石碑の玉兎が注釈をつける。飛香舎に響く声は太白媛のものである。
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
「国祖倭建命のお詠みになられた歌です。このようにわたくしたちの祖は、感じ入ることのあったときに、美しい歌を作って驚きを残されたのです」
葡萄は杏と並んでいる。位が低いのでまだ文机も与えられず、長細い台盤を二人で使っている。ただでも眠い春の日に、長たらしい玉兎の話が子守唄となって、杏はこくりこくりと舟をこいでいる。葡萄は笑いをこらえてその横顔を見つめる。
「あなたさま方も、機においては咄嗟の間に歌を作れるようにならなければなりません。そのためには多くの歌に触れることが肝要です。好きな歌集を暗誦するのがよろしいですね。杏さま! あなたさまのお好きな歌はどんなでしょう?」
「杏ちゃん、杏ちゃん、好きな歌」
葡萄が脇をつつくと、杏ははっと目を覚ました。意味もなくだいだいの髪をかき回してから、寝ぼけ眼のまま声を張り上げる。
「わっわたしの好きなのはこれです! 歌詠みは下手こそよけれ 天地の動き出してはたまるものかはっ!」
「なんですって。いずれの御時の歌ですか?」
玉兎がいぶかしげに赤い瞳を回す。横にいた太白媛がくつくつと笑って言った。
「宿屋飯盛、古今集をひねった狂歌ですね」
「狂歌……後代の禁歌ですかっ! それも古今集をからかうとは、な、なんと恐れ多い!」
怒り狂う玉兎を横目に、二人の媛が寸評を吐く。
「咄嗟の間に引いたにしては洒落っ気があっていいわ。ねえ、湖藍?」
「格調のない」
太白媛は楽しげに、湖藍媛はつまらなそうに言った。縮み上がる杏に、玉兎が霹靂を落とす。
「粗相も極まります、今上のおん前でこのようなことがあってはなりませんよ!」
「星帝は全然来ないじゃないですか……」
「口を慎みなさい!」
他の媛たちが嘲りの視線を向け、杏はますます小さくなる。そんな杏を、葡萄だけは優しい眼差しで見つめている。自分はこんなにあけっぴろげに言えない。元気な杏がうらやましい。
玉兎がわずかに視線を動かして言った。
「では葡萄さま。あなたさまのお好きな歌は?」
葡萄は、心の中から一つの歌を選び出す。ただの知識の入れ物にしか過ぎない玉兎には、絶対にわからない歌。
「私はこれが。……逢ひみての 後の心にくらぶれば 昔は物を 思はざりけり」
湖藍媛がぴくりと眉を上げ、太白媛は何度か瞬きした。玉兎は単純に感心した様子で誉める。
「敦忠ですね。勅撰になった良い歌です。みなさま、このような歌に多く触れてくださいね」
葡萄は目礼して、隣に視線を移した。杏が少し驚いたような顔で見ている。
「葡萄ちゃん、今の……」
「ええ」
葡萄はにっこりと笑って、台盤に隠した指先を杏に向けた。
「杏ちゃんに、逢ったから」
「葡萄ちゃん……」
ほんのりと頬を染めて、杏が笑った。そのまま静かに見つめあう。
深緑の髪の媛が、そんな二人をじっと見ている。
杏の手際が妙に悪いので、もしやとは思っていた。
台盤の片付けにてこずりすぎて、太白姫たちはあきれてしまい、頼むわよと言って出ていった。最後の台盤を杏と二人で持ち上げて、物置代わりになっている飛香舎の西庇に運びこむと、それが起こった。
「葡萄ちゃん」
傾いた几帳を直していた葡萄の背に、すっと気配がかぶさる。はあ、と重い息が耳にかかる。
抱かれた。
濡れた葉のように背中に張りついてくる。
くちなわのように腕が脇に入ってくる。
杏が、人目につかない几帳の陰に葡萄を押し込むようにして、ぐいぐいと体を押し付けてきた。首元から膝まで全身を使って自分を感じ取ろうとしている杏に、わずかな戸惑いと意外な喜びを、葡萄は覚える。
「ぶどう……ちゃ……」
震える声とともに唇が近づき、さらさらとこすりつつためらってから、抑えきれなくなったように耳たぶを噛んだ。
「あくっ……」
たったそれだけの接触がもたらした、氷よりも冷たい快感に、葡萄は思わず目を閉じる。
杏は許しを乞わなかった。乞うて拒まれるのを恐れたように、無言で葡萄をまさぐり続けた。唐衣の中の薄い胸を、袴の中に伸びるしなやかな脚を、何かに憑かれたように、しつこいほどさする。
葡萄はじっと立ち尽くす。拒めば杏がすぐやめることはわかっている。他人の宮だ、今にも誰かが来るかもしれない。拒まなくてはいけないのだ。
だが、拒めなかった。杏に体を与えられるのが嬉しい。違う、杏に触られるのが喜びなのだ。
指を葡萄に溶けこませるつもりのような、飢えた愛撫を重ねながら、杏が心を吐き出す。
「葡萄ちゃんにね……好きって言われて、ね……わたし、抑えられなくなっちゃった……」
小袖の上を這っていた手が、するりと中にもぐりこんだ。手の平がじかに肌に触れる。
二人同時に、ぴくりと跳ねた。
「杏ちゃんの、手……」
「葡萄ちゃんの、はだぁ……」
指先が肌に滑って、きゅくっと音を立てた。
杏のたががまた一つ外れた。右手に続いて左手までもが、逆の袷を無理に開いて、腹のところに入ってくる。乳とへその両方が、きゅむと挟まれ、くりりと刺された。
ぎゅうう、と思いきり力がかかる。指先があばらの間に腹の筋に深深と食いこみ、痛みに葡萄は息を吐く。
「か……はぁッ」
「すべすべだよ……柔らかいよぉ」
もはやうわごとのように杏がうめく。
「触りたいの……わたし葡萄ちゃんに触りたいの! どうしてかわからないけど、葡萄ちゃんの肌がほしいの。のどが乾いて水がほしいみたいに、わたしに葡萄ちゃんのあったかさが足りないの!」
「いい……よ」
ぎりぎりと刺さる爪に耐えて、葡萄はかろうじて笑う。
「盗んで……いいよ」
「好きだから、だよ……?」
そう言い訳して、杏がさらに力をこめた。
音がしたのは最初だけだ。二人でともに汗を浮かべる。杏は塗り広げるように手の平を滑らせる。葡萄は指紋一筋にまで喜びを受ける。
薄ぐらい庇の室内で、重なってくねっていた影が、さらに細くなった。
杏が、それまで引いていた腰の部分を、ついに押し付けたのだ。
影が動きを止める。
「杏ちゃん……」
「ん」
「これ……」
「これも、なの」
ほんの少し振り向いた葡萄の目に、赤く汗ばんだ鼻の頭と、不自然に瞳孔の開いた大きな目が映る。
「これも……ううん、これが葡萄ちゃんをほしがってるの。葡萄ちゃんに……甘えたいっ、て!」
袴越しにも露骨な杭が、ぐりりと音を立てんばかりにきつく、葡萄の尻に食い込んだ。
はああ、と甘くとろけた息を吐いて、杏が懇願する。
「お願い、待って。少しだけこのまま。汚さないから、痛くしないから、ちょっとだけこの根、当てさせて」
「……いい、よ……」
んん、と嬉しげに鼻を鳴らして、杏がそれを動かし始めた。
ぐりり、ぐりりとそれがにじる。練りものを練るへらのように、葡萄の柔らかな丘を何度もこねる。細く鋭く猛ったものの硬さと、懐炉のような封じられた熱が、じわりじわりと葡萄に伝わる。それでなくても胸と腹を弄られている。
髪の中に、蜜の蒸気と化した杏の息が吹きこまれた。
「はふぁ……きもちぃ、葡萄ちゃんのおしり……根がとけちゃう、どろどろになっちゃうよぉ……っ」
必死に息を整えていた葡萄も、もう限界だった。
袴の笹ひだに手を忍び込ませた。股間はもう、体の輪郭が崩れるほど目立っている。誰も、杏でさえも見ていないことがためらいをかき消した。葡萄はそれをじかに握った。
「ひゃ、ぶどうちゃ、はゃ、ふわぁ!」
杏はもう、突き付けるだけではすまなくて、腹と尻で根を挟みこんで、腰ごとぐいぐいと押して来る。そのせいで腕を動かさずとも済む。激しくむさぼる杏に抱かれて、声を殺して葡萄はしごく。
背骨も折れよと抱きしめた杏が、妄想そのものとしか思えない言葉を垂れ流す。
「はぁ、入りたいっ、葡萄ちゃんに入りたいっ! 葡萄ちゃんのやわらかい体に、わたしの硬いの入れたいの! なんでなのぉ、ねえなんでぇっ?」
「わ……わかんな……」
「わかって、お願いわかってぇ。嫌がらないで、おねがいぃっ!」
爪先立ちでがくがくと動いた杏が、何かの拍子に一度離れ、こわばりで葡萄の股の奥を突き上げた。ぞるっ! と妖しいしびれがはじけ、葡萄は思わずのけぞった。
「はひんっ!?」
「入れてよぉ!」
間を置かず杏は元の丘に押しつけてくる。けれども、葡萄は今のことで悟った。
そこなら、杏が入ってこれる。
杏を迎えて、体で包んでやれる。
その際の杏の心地よさを想像すると、ただちに連想がつながった。自分ができるなら、杏にもできる。
杏にこのはしたない根を埋めることができる!
口にしたら舌が腐ってしまいそうなほど淫らなその考えが、葡萄の昂ぶりを頂点に押し上げた。いま抱かれている愛しい人のことを思いながら、もう隠しもせずに左手を上下させた。
背中の杏が首を噛む。
「ぶ、ぶどう、ぶどうちゃ……っ!」
葡萄が今まで見た杏の中で、一番せっぱ詰まった態度だった。離せば落ちるとでもいうように必死で葡萄の体を抱き、持ち上げるようなつま先立ちで、ぎゅうっ、ぎゅうっと腰をぶつけてきた。
「ひうっ、ひうっ、ひううん……っ!」
小さな脈が尻にはっきり伝わる。張り詰めた杏の根の収縮が。杏が感じている全身を灼く快感を、葡萄は我がもののように感じ取る。私も出そう、と自分を許す。
薄目で宙を見上げ、杏と同じ爪先立ちになって、ひとりでに動く左手のまま、葡萄は激しく子種を放った。
伸び上がるようにもたれあった可憐な二人が、同じ動きで打ち震えた。その最後の震えにしばらく縛られてから、どっと音を立てて膝を折った。
後の始末はここではできない。淑景北舎まで耐えるしかない。
取り澄ました顔で、渡殿を行く。二尺を隔て、手もつながない。ひとに見られても何一つおかしなところはない。けれども二人は後朝の思ひ人同士だ。
先を行く杏がちらちらと視線をくれる。この上ない親しみとともに微笑み返していた葡萄は、杏の肩越しに一人の媛を見て顔をこわばらせた。杏も気づいて前に向き直る。
湖藍媛。緑青の髪も長き涼やかなる麗人にして、刃よりも鋭く恐ろしい人。
その媛が、つと指を伸ばして、杏の足袋を指した。
「汚れていてよ」
はっと葡萄は杏の足元を見た。青白く光る滴が跡をひいて流れている。ただちに後悔が葡萄を襲う。
自分の欲に負けて流されてしまった。杏を悲しませてでも制止して、戻ってからにするべきだった!
「葡萄、あなたも」
足袋ではないが、慰めにもならなかった。首筋の赤い痕に気づかれたとあれば、言い逃れのしようもない。
「媛同士のたわむれは忌むべきこと……わかっているわね?」
鼠を追い詰めた猫の顔で、湖藍媛は楽しげに微笑んだ。