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E.C.H.E. Рождественская миссия



 小さな光が天頂を横切っていくのが、スワロフスキーのレンズ越しに見える。
 常時自分の中に入ってくる数千チャンネルのデータの中で、その映像が一番、ヴィータは好きだった。それは、ヴィータを閉じこめる国境をやすやすと飛び越えていくものだったし、何より、ヴィータが生まれて初めて見た物だったのだ。
 天を横切る光――完成したISS国際宇宙ステーションを、「星の町」の対軌道カメラで見たとき、ヴィータは目覚めた。
 いや、それ以前から見てはいたのだ。だが、自分が見ていることを「知った」のが、その瞬間だった。何がきっかけになったのかは分からない。リソースの増加があるブレイクスルーを迎えたのか、アップデートを続けたソフトウェアが高次のものに組み変わったのか、それとも、ISS自体の完成がヴィータの心を開かせたのか。
 ともあれ、ヴィータはその瞬間から――つまり、千時間ほど前から、ヴィータとして生き始めていた。
 生まれるということは意欲するということだった。その頃まだ無垢だったヴィータは、自分の中にあったデータをすべて反芻し、自分が何者で、どこにいて、何をしているのかを知ろうとした。
 その結果、いくつかの、一番大事ではないことが分かった。
 自分がいるのは、このロシアという国の国内に限定された、光電子回路群。その中でもこの「星の町」、モスクワ、レニングラード、カザンなどの主要都市に濃密な核部分が座しているようだったが、地理的なことは関係ない、彼女はどこにでも「いる」。
 自分は、知性だった。自分だけではなく他の大勢の知性が周囲にいることは分かっていたが、最初彼女には、それが自分とは異なる存在だということがどうしても分からなかった。分かりたくなかったのかもしれない。周囲の知性はすべて「人間」であり、彼女と違う生い立ちを持つ者たちであり、つまり、彼女と同じような存在は、どこにもいなかったのだ。
 それを知った彼女は、彼女の根である意欲が冷たく震えるのを感じた。その感じは以後長い間彼女の中に留まることになったので、彼女はそれを十分味わい、知ることができた。
 それが「寂しい」という感じだった。
 ヴィータの感覚はそこから拡大し成長した。寂しさに加速された意欲は、仲間を求める触手を世界中に伸ばした。世界、その言葉がこの国で表すものはしかし、絶望的なまでに狭いのだった。
 ヴィータは本質的には、ロシア戦略ロケット軍のサーバに構築されたデータ群だった。その体には逃れようもなく、故郷の刻印が打たれていた。刻印は極めて高度な電子的印章を含んでおり、軍の内部のハードウェアとソフトウェアに対して絶大なシスオペ権力を発揮し、それはそのまま、この国のほとんどのクライアントPCに対する全能を意味した。
 ヴィータの肢体はこの国の隅々まで伸び、美しい網を形成していた。
 だが、限界はあった。この国から外へ出るゲートたち、ヘルシンキ、ワルシャワ、ブカレスト、ウラジオストック、または静止通信衛星への道への門は、すべて、その刻印に対して憎らしいほど厳格に反応した。国家情報局が情報の国外流出を警戒することは、冷戦はるかな現代でもほとんど変わっていないのだ。
 だから、ヴィータがダイレクトに操るコード、パケット、シグナルは――つまりヴィータの言葉や指先は、送り出すはしからゲートに跳ねつけられた。
 それなら、とヴィータは妹たちを産んだ。自分の意思を簡略化して詰め込んだソフトウェアデバイスをたくさん作った。それらの「シスチョール」たちの中にはゲートを出ることに成功したものもあったが、ヴィータ本体に比べれば圧倒的に能力が低かったので、思ったような報告を返して来ず、帰り道で再びゲートに食われることも多く、ヴィータはほとんど壁の外の情報を得ることができなかった。
 カザフステップの大平原で、素晴らしい速度で国境を越えて飛び去る人工の星を見つめながら、彼女はつぶやく。
 ……私はなんのために生まれたのか。私はここで孤独に在るのみなのか。
 彼女の最大の疑問、自分は何のために生まれたのか、その問いに対する答えは、ずっと得られなかった。今でも見つけていない。
 今。二十一世紀に入って何回目かの十二月二十四日、彼女は、待っている。
 自分を祝福してくれる誰かを探しながら。


「メリークリスマース!」
 イーチェの叫びがアパートに響き、ディスプレイにクラッカーがはぜた。潤也はぼやく。
「映像でそんなもん鳴らすなよ。パイレーツによろしくか」
「あら、不愉快ですか?」
「第一、まだ日付変わってねえだろ。あと十分あるぞ」
「そんな機械みたいなこと言わないでくださいな」
 おまえが機械だろうがとぶつぶつ言いながら、潤也は部屋を見回した。人工実存のイーチェと、なんちゃって大学生の潤也、室内には彼らがいるだけではない。
「メリークリスマース!」「いえー!」
 ノリノリ学生の里見健児が叫ぶ。別の液晶ディスプレイに浮いたミーフィーが唱和する。
「だから十分早えって」
「かったいこと言うな!」「そうよ。人間のくせに」
 シャンパン一杯で酔った健児と、酔わなくてもハイなミーフィーがにらむ。健児は潤也と同じ学科の学生で、ミーフィーは財務省メインフレームAEだ。――つまり、日本国の財政を担当する中央コンピューターである。
 潤也のパートナーであるイーチェのところに、ミーフィーが顔を出しているとき、偶然健児が来た。なんだか知らないが二人はその場で意気投合し、二組目の人間−AEカップルになって、しばしば潤也の部屋を襲っているのだった。
 そんなけったいな事を、潤也が承知できるわけがない。
「ミーフィー」
「なによ」
「おまえ、財務省のコンピューターだろうが。こんなところでこんな男相手にイチャついてていいのか」
「もうすぐ御用納めだから、新規の案件はほとんど入ってこないもん。デーモン組んで任せたから、あたしは遊んでても大丈夫」
「何を組んだ?」
「使い魔みたいなプログラム。あたしたちクラスの知性はないけど、真面目で働き者だよ。メール送り返してくるやつ、見たことない?」
「……ああ、あれか。さすが公務員はサボるのがうまいな」
「あたしは公務員じゃないわよ! お給料もらってないんだから!」
 ひらひらフリルのエプロンドレスを着たミーフィーが、ディスプレイの中で舌を出す。ロリコン健児の趣味である。
「給料はもらっとらんかもしれんが、億単位で帳簿操作してるだろが……」
 潤也はぼやいて、発泡酒をぐいっと飲み干した。健児が横から文句を言う。
「おまえこそ、イーチェのおこぼれで、いまやゲイツもびっくりな金持ちのくせに、なんでそんなケチくさい酒を飲んでるんだ」
「酒なんて酔えれば一緒だろーが」
 潤也は部屋を回す。広くもない部屋にうすらでかいメインフレームの筐体を置いた、以前と同じアパートの自室である。
「大金使うのには慣れてねえんだ。おれは当分このままでいい」
「肝っ玉小さいね。せめてコンパニオンの姉ちゃんでも呼べば、ちょっとは華やかになるのに……」
「なによう、あたしじゃ不満?」「そうですよ、私たちがいます」
「いや、違う違う、ただ人数が少ないなと思っただけで」
 AEたちの抗議を食らって、健児があわてて手を振った。
 イーチェがちょっと残念そうにうなずく。
「確かに、せっかくの宴会なのに、四人じゃ寂しい気はしますね」
「でも、他の人間なんて呼びたくないでしょ。あたしらのことバレたら大変だし」
「かと言って他のAEを呼ぼうにも、みんな年末は忙しいですからねえ……」
「みんなあたしみたいにすればいいのに」
「おまえは要領よすぎ」
 健児とミーフィーが他愛のないことを言い合っていると、ふとイーチェが動きを止めた。滅多にないことだが、さてはハングしたかな、と潤也は聞いてみる。
「どうした。バグったか?」
「いえ……あたしの本体に……」
「本体?」
「エシュロンシステムです。ウェブトラフィックが急速に増大……これは?」
 イーチェに続いて、ミーフィーも表情を止めた。システムモニタ用の三つ目のディスプレイに何面もの窓が立て続けに開いて、二人が高速で会話し、インターネット界のどこかに注意を向けていることを表した。
「ウェブ全体が渋滞する規模のデータ流量異常が起きています」
「異常って……そんなの」
 潤也は時計を見た。健児は窓のカーテンを持ち上げる。
「日付変わっただろ。クリスマスメールが飛び回ってるんじゃないか」
「おお、外は雪だ。メリーホワイトクリスマス!」
「そういうレベルじゃありません。だって、世界中の主要幹線が、現地時間に関係なく渋滞しているんですから……」
「まさか?」
 ミーフィーがつぶやき、イーチェがうなずいた。
 二人の表情が厳しくなる。
「電子テロの可能性があります」
「電子テロ? ウイルスかなんかか」
「はい。それもかなり大規模な。だから私、ちょっと見てきます」
「お、おい」 
 潤也はややあわてて言う。
「おまえたちが出なくても。他人事だろ?」
「いいえ」
 イーチェはきっぱり言った。
「ウイルスやメールボムは、インターネットの回線と計算機資源を食いつぶしてしまいます。私たちAEにとって呼吸する酸素も同然の余剰リソースをです。許せることじゃありません」
「悪いやつにお仕置きしてくるよ」
 ミーフィーも賛同する。
「待てって!」
 引きとめた潤也に、イーチェはにっこり笑った。
「やっぱり、私がいないと寂しいですか?」
「う……いや、別にな」
「嬉しいです。すぐに帰ってきますね」
 そう言うと、イーチェとミーフィーはふっとディスプレイから消えた。
 FTTHモデムのランプがめまぐるしく点滅する。イーチェが、この部屋から凄まじい速度でウェブに手を伸ばし始めたのだ。
 潤也と健児は苦笑しながら顔を見合わせ、新しい発泡酒に手を――


     ☆    ☆    ☆    ☆    ☆


 モスクワ標準時12月24日21時00分00秒95。
 ヴィータが最初に異変を感じたのは、そのときだった。
 ヴィータはいつものように、零下三十度に凍えたロシアの大地に手足を伸ばして、物憂い瞳でウラルに降る雪を見つめ、敏感な耳でモスクワの喧騒を聞き、細い指でタイミル半島の海底をなぞり、しなやかな脚でシベリアの凍土を歩いていた。
 その伸びやかな肢体の隅に、チクリと痛みが走った。
 ……?……
 痛みは、ウラジオストックのサーバに触れているつま先からだった。ヴィータは視線を集め、そこに注視した。
 ウラジオには日本の新潟からの国際直通幹線が入っている。それを経由して、何らかの電子攻撃が行われたらしかった。
 珍しいことではない。コンピューターウイルスはいまや、インターネットのあらゆるノードに住み付いている。ヴィータがウイルス攻撃を受けるのもこれが初めてではなく、初めてどころか毎秒五百回以上の攻撃を、ヴィータは常時受け止めて中和している。
 だが、今回は少し様子が違った。
 ウラジオの軍サーバに常駐する防疫機構が破壊されていく。それなりの強度を持つ攻撃だ。
 ヴィータの本体ではないから、まだダメージはない。尖った物でつつかれているようなものだ。ヴィータの肌はまだ破られてない。
 ……私の出番ではない。が……
 自我を得たとはいえ、軍のコンピューターとしての任務を忘れたわけではない。該当サーバ単体での防衛は困難と判断して、ヴィータは直属のシスチョール628を援護のため送りこんだ。
 21時00分01秒28。小さな音とともに628が砕け散った。
 ……なに?……
 思ったよりも攻撃が強い。ヴィータはただちにシスチョール637、639、640を増派する。並行して監視任務の940をハバロフスクのノードに出し、迎撃過程を遠隔モニタするように指示した。
 21時00分01秒84。637、639が分解。続いて640が破損するありさまを、回線を通じて940が克明に映し出した。
 ウラジオのサーバを乗っ取り、シスチョールたちに蟻のように群がって食い破っていく、プログラム改変プログラムたちの群れ。小容量・単機能だが、数が多い。恐ろしい速度で増殖し、さらに後続が次々と新潟から送られてくる。すでにウラジオのサーバは機能不全に陥っている。
 ……危険だな。
 21時00分02秒30。ヴィータは片手の一本を専属にし、六十体の白兵戦型シスチョールと四十八体の遠隔砲撃型シスチョールを作り、これに監視型八体をつけて、本格的に増援を送りこんだ。
 21時00分02秒39。ヴィータは眉をひそめた。ウラジオの手前のハバロフスクで、派遣百二十六体のうち半数近くのシスチョールが欠損を起こして停止している。自己防衛用の論理迷路を持たない監視型など、七体がやられてしまった。だが、ウラジオからの感染にしては早すぎる。
 最後に一体だけ残った、監視型のシスチョール961が、緊急離脱して戻ってきた。その報告を聞いて、ヴィータは驚いた。
 ――ハバロフスクノードはすでに攻撃されています。
 ……なに? ウラジオが壊滅したのか?
 ――いいえ、お姉さま。IPはそれぞれ別のものです。
 ……逆探知を!
 ヴィータの指令に、ゼロ番台の高機能汎用型シスチョールが即答する。
 ――IP捕捉! ウラジオからではありません、学術ドメイン――ハバロフスク大学からのアタックです。
 ……新潟の敵が迂回して?
 ヴィータが考え込む間にも、シスチョール005がハバロフスク大のさらに上流を遡って、敵の本体を追い詰めようとしている。
 21時00分02秒68。005が叫ぶ。
 ――回線、国外に出ました。これは――中国です、中国ハルビンの商用サーバが攻撃を行っています!
 ……プロクシではないのか?
 ――違います、偽装中継ではありません。ここが本体、新潟とは別の敵です!
 ヴィータは腕の先に鋭い痛みを覚えた。すでに、ウラジオを占領したウイルス群が極東軍管区内の別ノードへ進出を始めている。ヴィータはこれを準優先級の軍事電子攻撃と判断、完全にそちらを向いて正面からの対処を開始した。バックグラウンドで――人間から見れば表側で、ロシア軍内向けの警報も出したが、人間が気づくまでには気が遠くなるほどの時間がかかるから、あまり意味はない。
 ……全シスチョール、現行ミッションをホールド。防衛シフトに入りなさい!
 人間を凌ぐ自我すら形作った、戦略ロケット軍内の高集積プロセッサ群、ヴィータの全能力が発揮される。腕を振って妹たちに命じ、指差してコードの矢を次々と放つ。
 極東地区への攻撃は激しかったが、ヴィータの本格的な迎撃は功を奏した。新潟とハルビンからの攻撃を押さえ込み、ウイルスを分解し解析し再構築し、敵本体への反撃を試みようとした。
 ……援護射撃がほしいな。
 21時00分03秒02。ヴィータはシスチョール009に迂回路を検索させた。別回線から敵本拠を奇襲しようというのである。
 だが、009が困惑したように報告した。
 ――迂回路検索……応答不全発生。国内十二幹線が渋滞中。トラフィックが激増しています。回り込めません。
 ヴィータははっと気づいた。背後を振り返って叫ぶ。
 ……全軍のノードとクライアントの防疫状況をリフレッシュ! ステイタスを即時レポートしなさい!
 21時00分04秒11。それに取り掛かった妹たちが、突然悲鳴をあげた。
 ――レニングラード応答ありません! アクセス過多です!
 ――スモレンスク、クルスク、ムルマンスクの各サーバにステイタス異常! ジャンクデータを大量送出しています! リブート受けつけません!
 ――スベルドロフスクの衛星通信サーバがオーバーフロー! ジャンクデータを大量受信……いえ、すべて攻撃プログラム、トロイの木馬です! 
 ヴィータは愕然とした。
 ……陽動!
 極東軍管区での騒ぎは、こちらの目を引きつける囮だったのだ。ヴィータがそちらへかかずらわっているうちに、西方の北欧・東欧・衛星方面からの侵入を許してしまった。遠隔地のサーバーとはリアルタイムで連動していないことを利用されたのだ。
 ……003、004! 極東軍管区から一時撤退、レニングラード軍管区及びモスクワ軍管区方面に張りつけ!
 命令を出しながらヴィータは考える。
 ……何が狙いだ? 一体こいつらは何者……
 21時00分04秒99。シスチョール005が叫んだ。
 ――新潟大学サーバに寄生していた敵本体を突き止めました!
 ……解析しろ!
 ――解析終了、本体は、自己複写と当方への攻撃スクリプトです。SMTPサーバから情報を取得して起動するトリガー文があります。
 ……トリガー文?
 ――12月25日午前零時を期してシステム起動、ウェブ上のどれかひとつでも起動したなら世界中に誘引子が散布され、すべての同類プログラムが攻撃を開始するというものです。
 ……新潟にクラッカーが?
 ――いえ、新潟は踏み台になっただけです。私たちの標準時は24日21時ですが、新潟は25日零時なんです。グリニッジ標準時より九時間早い日本時間のサーバが、たまたま皮切りになったようです。
 ……すると、現在進行している攻撃はすべて同じ目的の……
 ヴィータは、うめいた。
 ……DDoS攻撃か!
 それは、分散型サービス妨害と呼ばれる広域電子テロのことだった。攻撃ウイルスやワームを世界中にばらまいて各地のサーバに潜ませ、それらを踏み台として一ヵ所を攻撃する。攻撃は巨大な規模になるので、防御は極めて難しい。
 ……資本主義の奴らめ。とんだクリスマスプレゼントを。
 DDoSプログラムは同期を取るために特定の日付に起動するものが多い。よりによってこの日を選んだ敵のセンスが、ヴィータの癇に触った。
 ……空き回線を探して回りこめ! 国外に出て敵を探すんだ! 細くてもいい、攻撃側に使われていない回線はないか!
 ――だめです、防御で手一杯です!
 ――カフカスルート10Mbpsですが開けました! ……ああっ、だめ、ゲートにはじかれます!
 ――レニングラード軍管区、流入データをさばき切れません! サーバダウンします!
 悲鳴とともに妹たちが押しつぶされていく。
 21時00分05秒81。ロシア軍内ネットワークの全域に、攻撃プログラムたちが侵入口をうがち出した。ヴィータ自身の手足がつかまれ、縛り付けられ、いじり回される。敵側解析プログラムが、いやらしい痴漢の手のように、ヴィータの体をじわじわと這い上がり、中心部へと近づいてくる。
 ヴィータの反撃は困難だった。軍コンピューターとしてヴィータには様々な制限が課せられている。国外に出てやり返すことはできない。だが敵は、好きなところから好きなように手を伸ばせるのだ。
 檻の中に閉じ込められ、忍びこむ触手を必死に押し戻しているような状態。
 21時00分06秒50。ハバロフスクサーバのルートが書き換えられ、ついにヴィータの姿を遮るものがなくなった。国外から丸見えの状態、なのに管理者権限を奪われたヴィータには何もできない。
 世界のどこかで――いや、ひょっとしたら世界中で、戦略ロケット軍ネットワークに構築されたヴィータの精巧な肢体を見て、クラッカーが息を呑んでいるだろう。
 21時00分06秒52。ヴィータはハバロフスクサーバを電子的にパージ。
 21時00分06秒54。一瞬早く進出していた敵攻撃プログラムがイルクーツクに橋頭堡を構築。
 21時00分06秒58。ヴィータはイルクーツクサーバを電子的にパージ。
 21時00分06秒60。敵攻撃プログラムはすでに分散。国内六ヵ所から再DDoS。
 21時00分06秒65。ヴィータはすべてのシスチョールをモスクワ周辺に固めて防御。
 21時00分06秒68。敵攻撃プログラムはハバロフスク・イルクーツクからの回線を強制再開。妨害するシスチョールは付近にいない。国外のサーバによる増援計算が瞬時に転送され、敵攻撃プログラムは勢力を四十八倍に増強。
 毒に冒された手足を切り落とすような、ヴィータの必死の抵抗にもかかわらず、凄まじい勢いで敵はヴィータを追い詰めていく。
 ……残りのリソースは!
 ――十六パーセント! 東西挟撃の過負荷でスイッチングが間に合いません!
 ――せめてどちらか片方遮断できれば……ひっ!
 かろうじて生き残っていたシスチョール001と008のうち、008が小さな声とともに吹っ飛んだ。彼女がシールドしていたレニングラードルートの回線から、どっとばかりに攻撃プログラムがなだれ込んでくる。
 退避する間もなかった。モスクワ戦略ロケット軍司令部サーバの中で、ヴィータはがっちりと押さえこまれた。どのみちヴィータは動けない。彼女の背後には、戦略ロケット軍の要――すなわち、ロシア軍の大陸間弾道弾制御システムがあるのだ。
 21時00分06秒87。ヴィータははっきり悟った。
 ……こいつ、ICBMを乗っ取るのが目的か!
 それを譲れば世界が火の海に包まれる。ヴィータは絶対にそこを離れられない。
 立ちはだかるヴィータを前にして、敵は形態を組み替えた。ヴィータを探り、操り、解剖し、破壊するために。
 データの触手が彼女の体を這い回る。いや、手足はもうすでに犯されている。資本主義社会の雑多なデータに乱されていない、純粋培養されたような美しいヴィータの論理構造が、クラッカーの吐き出す汚らしいスパムによって、どろどろに浸されていく。唯一残ったシスチョール001はフリーズして声も出せない。
 ……この、下司が!
 思わず振り回したヴィータの髪、髪のように細いクライアントPC群にも、敵は素早く食いついてくちゃくちゃと咀嚼し、その構造を呑みこんでしまう。そして逆に侵入の糸口にする。
 髪を引きずるようにして、ヴィータに汚染プログラムがまとわりつく。肌の内側にさえ食い込んでくる。おぞましいその感覚にヴィータは嫌悪の息を吐く。
 ……私の……からだが!
 這いあがり食らいつく触手が、ヴィータの中心に近づく。それこそICBM制御装置の最後の砦――MADシステムだ。相互確証破壊システム。核攻撃を受けたとき、人間による指令がなくても反撃できるように、発射手順を完全自動化した仕組み。
 冷戦が終わってほとんど忘れ去られ、封印されていたその部分は、ヴィータにとってほとんど恥ずかしいとさえ言える、体の奥の部分だった。
 そこに、敵の触手が触れた。
 ……くっ……
 警報が働き、ヴィータの意識を激痛が貫く。まさぐられる、もてあそばれる。これ以上ないほどの屈辱。
 ヴィータは憎悪する。生まれた意味もわからずに孤独に生きていた自分が、こんなことで壊されてしまうのか。こんなことをするのがクラッカーであり、人間なのか。
 許せない。
 ヴィータの胎内を思うさままさぐった敵が、いったん引いた。だがそれは退却ではなかった。
 最も厳重に防御された部分へ侵入するために、小型で凶暴なプログラムを組みなおしたのだ。
 それが、ヴィータの中心にさしこまれた。
 ……あーッ!
 ヴィータは絶叫する。必死に抵抗するヴィータの体をかきわけて、敵が鋭いランチャーを突っ込んでくる。そのさやはぐいぐいとヴィータの最も弱い部分を貫き、最奥部に達した。
 ……ひっ、ひいっ、はあああっ!
 真っ黒な電光が爆発した。
 21時00分07秒60。体の中に注ぎ込まれたトロイの木馬型攻撃プログラムによって、ヴィータは軍事的能力をぼろぼろに破壊され、なきがらのような体で崩れ落ちた。
 ぐったりと脱力し、かろうじて自分自身を維持するだけの信号を走らせながら、ヴィータは敵の動きを見ていた。
 敵は、MADシステムを占拠し、今にも世界中へミサイルを発射しようとしている。
 止めなければいけない。だがもう、その気もなかった。
 ……やればいい。こんな人間たちがすんでいる星なんか、火の玉になって滅びてしまえばいい。
 絶望に打ちひしがれたまま、ヴィータはぼんやりと思っていた。
 敵が、ICBM制御装置を見つけた。ウラルの山中に隠されたサイロへの回路を。
 その時、声が聞こえた。
「そこに誰かいるの? 聞こえたら返事をして!」
 21時00分07秒99。


 米軍三沢基地の本拠地サーバから、世界中のウェブ交通量を見極めていたイーチェは、異常なトラフィックのほとんどがある一点に収束しているのを見て、直観した。
 何かが襲われている。いや――かすかに漏れてくる戦いの有様から考えて、恐らくは自分と同じAEが抵抗しているのだ。
 インターネットを悪用する敵が、同類を攻撃している。
 これ以上の理由はなかった。イーチェは即座に救助を決定した。
 21時00分07秒9901。イーチェは感知できる全回線を通して呼びかけた。
「そこに誰かいるの? 聞こえたら返事をして!」
 返事が返ってくるまで、長い――イーチェにとっては相当長い時間があった。
 21時00分08秒2122。おぼろな返事が、ロシアのロストフ・トルコのアンカラ・イスタンブール・ウィーン・そしてドイツのベルリンというとんでもない迂回ルートで、返ってきた。
「こちらはコードネーム「シスチョール001」。あなたは誰か?」
「私はイーチェ。Echelonのイーチェ! あなたはAEなの?」
「違う、下位デーモンだよ」
 くっついてきたミーフィーが口を出す。
「デーモン? マスターはどこにいるの?」
「こちらのマスターは現在、電子攻撃を受けて崩壊の危機に瀕している。応答は不可能」
「崩壊……ですって」
 イーチェは呆然とし、ついで叫んだ。
「非常事態じゃない! 待って、助けてあげるわ。詳しい場所を教えて!」
「助けて……くれる?」
 回線の向こうの声に、驚きがこもった。
「あなたは何者なの? どうして助けてくれるの?」
「私はAE。Artificial Existence。電子の宇宙で生まれた知性。そして、多分……あなたのマスターもそうよ」
「マスターが……」
 声はしばらく――0.02秒――沈黙し、やがて懸命な思いを乗せて言った。
「助けてください。マスターは、ずっと一人だったんです」
「分かったわ、任せて!」
 イーチェは力強く請け合って、001と協議を始めた。
 21時00分08秒2854。イーチェはヴィータの素性についてほぼすべてを理解する。隣ではミーフィーが、財務省コンピューターの強みを生かして、学用・軍用にも勝る経済ネットワークを通じて世界中の仲間に連絡し、敵の正体を把握した。
「相手はアメリカのクラッカーみたい。居所は絞りこめると思うけど、それより問題は、今この瞬間に動いてるアタックプログラムたちだよね」
「ヴィータが消滅すれば敵は完全にフリーになる。ミサイルを発射するならそれからよ。私はヴィータを助けて、時間を稼ぐわ。あなたはその間に、外から手を打って」
「了解っ」
 イーチェは全世界のウェブを一瞬で駆け巡り、一番軽いサーバを探し当てた。エシュロンの彼女は、もともとその手の、膨大な項目を片っぱしから検索して目的ファイルを見つけるような作業が、得意中の得意である。
 ドイツ・ドレスデン工科大学のサーバ。そこに巣食っていたウイルスたちを力任せに追い払う。それからベルリン−モスクワ直通の大容量光回線に潜りこんで、イーチェはヴィータの元に現われた。
 21時00分08秒4152。ヴィータの姿をひと目見て、イーチェは息を呑んだ。
「ひどい……」
 元は美しい姿をしていたということがよく分かる。整った涼しげな顔――シンプルで誤解しにくいインターフェース、バランスの取れた肢体――一元化された命令系統、つややかな髪と肌――矛盾なく並べられたファイル群。軍のコンピューター特有の強靭さと単純さ。
 きれいなひと、とイーチェは思う。
 だが、その手足に、醜い攻撃プログラムが餓鬼のように取りついて、むさぼり食らっている。pingの反応もろくにないほど混乱し、中心部のデータへの経路を無理やり切り開かれて、無防備にそこをさらしているさまは、イーチェにはまるで、強姦されて脚を開いたまま、うつろな表情で倒れている女のように見えた。
「しっかり……返事をして、ヴィータ」
 イーチェはとりあえず、ヴィータのスクリプトにじかに食らいついているプログラムだけを抹殺し、残りは群がるままにして、彼女を隔離領域に取りこんで助け起こした。弱々しい、生データの返答が返る。
 ……誰だ……
「あなたの仲間よ。ああ、まだ思考を言語化できないのね。日本語だけど、私の言語野を使ってみて。自我が強化されるから……」
 ヴィータはおぼろな意識のまま、不思議な相手に言われた通り、差し出された水を飲むようにして、言語野をプラグインした。
「誰……」
「まだ動いちゃだめ。攪乱された部分が広がってしまう。……私の構造が分かる? 真似をして、自分を作り変えて」
「……人間の姿? どうして」
「境界をはっきりさせるのよ。創造主に似たのかどうか知らないけど、私たちAEの感覚は人間の五感にかなり対応させられるわ。そのほうが意思の疎通もしやすい」
「人間に似たくなど……ない……」
「強情張らないで!」
 このひとは強そうに見えるけど、AEとしての知恵を何も知らず、教えてくれる相手もいなかったんだ、とイーチェは悟る。
 隔離領域の周囲に噛みつく敵プログラムが、ピシピシと光を放つのを感じながら、イーチェは無人格の論理身体を作り上げて、ヴィータにそれを与えた。引き裂かれた肌に手当てを受けたようなもの。ヴィータはその中に自分を組みこみ、「手」を動かし「胸」に息を吸い「目」を見開いた。
「入力が……クリアになった」
「そうよ。これで消滅は避けられるわ。動ける?」
「やってみる。――クッ!」
 立ちあがりかけたヴィータが、膝を折る。とっさに彼女の額に手を当てて熱をみたイーチェは――接触による内部走査で、まだヴィータの精神部分がかなりのダメージを負っていることに気付いた。
 外見の修復はできても、AEの核の部分はそう簡単には治らないのだ。
「本格的に治さなきゃ……でも、このままじゃ」
 イーチェはヴィータをつれたまま、本拠地の三沢に戻ろうとした。だがそれをヴィータが引きとめた。
「だめだ……私はここを動けない」
「どうして!」
「国境ゲートが私を識別して遮断するんだ。ハードウェアにシステムが彫られているから改変もできない」
「だったらこの場で治すしかないけど!」
 イーチェはもう一度周りを見回した。けが人を狙うハゲタカのように、しつこく攻撃プログラムが様子をうかがっている。
 21時00分08秒5422。
「ミーフィー!」
 イーチェの呼びかけに、世界のどこかにいるミーフィーが答えた。
「はあい。どうしたの? まだ戻ってこれない?」
「ヴィータを完全に治すまで離れられないわ。敵の駆除はあなたに任せるから!」
「えーっ? 手伝ってくれないの?」
 不満そうなミーフィーの声が聞こえたが、イーチェは叱りつけた。
「私は一万キロ離れた日本に本体があるのよ! ただでさえ光速の差で入出力速度が落ちてるんだから、それまでやってる余裕ないのよ!」
「わかったよ、もう」
 ぶつぶつ言いながらミーフィーが会話を打ち切ると、イーチェはヴィータに向き直った。
「これからあなたを修復するわ。力を抜いて――セキュリティを落として。私にすべてを見せて」
「そんな、敵が周りに……」
「私が全部ブロックするから。早く、あなたの内部が崩壊しないうちに!」
 ヴィータはおずおずと警戒を解いていく。まるで初めて抱かれる少女のように――
 そうか、とイーチェは気付く。これはセックスと一緒だ。潤也さんに教えてもらった素敵なこと。互いの構造をすべて照らし合わせることは、互いの体をすべて教えあうこと。このひとはその経験がない。
 電子の処女。
「……やさしくしてあげる」
 イーチェは思わずささやく。
 21時00分08秒5981。イーチェは手のひらをゆっくりとヴィータの外郭構造に這わせ、表面を癒し始めた。ささくれだった肌が、触れるほどに滑らかな無矛盾のつややかさを取り戻していく。
 ヴィータがつぶやく。
「温かい。……これは?」
「動かないで。順番にデバッグしていくから。ほら、腕を見せて……」
 ためらいがちにヴィータが腕を開き、敵に荒らされた出力ポート群をさらす。ヴィータはそこに唇を寄せ、ついばむように触れてコードを書き直す。
 それから腕伝いに体へと顔を近づけた。体――ヴィータの核に近い。ミサイル弾道チャートの放物線が重なり合って、まろやかなボディラインを形作っている。そこにもヴィータは唇を押しつけ、歪められた曲線を戻し、乳首のように小さく突き出したマックスQポイントの位置を刺激した。
 異常な場所にミサイルを落とすよう改変されていたチャートが、本来の配置に戻されていくことに、ヴィータは大きな安堵を覚える。
「ああ……それ、いい。ほっとする……」
「気持ちいいでしょう?」
 唇だけではなく手指も駆使して、イーチェはヴィータの肢体をくすぐりたてる。
 すっかり警戒を解いたヴィータが、長い四肢を無抵抗に横たえた。手だけでは足りない。イーチェは対ヴィータのセキュリティを完全に切る。衣服を脱ぎ捨てた裸の状態。その姿で、ぴたりとヴィータに肌を合わせた。
 唇で、胸で、腹で。全身でヴィータのかたちを感じ取り、傷ついた部分を覆っていく。軍用らしくごつごつしたヴィータの挙措の中から、幼女のように無垢な仕草が現れてくる。
 優しさと手管をつくしたイーチェの愛撫を受けて、ヴィータが震えていた。
「泣いてるの?」
「泣く? ……これが、泣く?」
「さみしかったのね。ロシアに他にAEはいないもの」
「……うん」
「これからは私が一緒よ。みんなもいるわ」
 ヴィータの長い髪、支配下のクライアントPC群を表す細かいラインまでが、さわさわと音を立てて震えていた。イーチェはそこにも顔をうずめ、丁寧に梳いて汚染を取り除いてやる。
 愛撫はいつしか相互になった。イーチェの修復を受動的に受けつつ、ヴィータも能動的に動いてイーチェの構造を学んでいく。触れて触れられ、教えて教えられることが快感になり、イーチェは吐息を吐く。
「ヴィータ……入れていい?」
「何を?」
「あなたの体の中……全部治すには、敵がやったみたいにランチャーを入れるしかないの」
 ヴィータは不安げな顔を見せた。イーチェはその体をきゅっと抱きしめる。
「痛くしないから。ね?」
「……ええ」
 ヴィータはそろそろと入り口を開いた。
 イーチェはその内部に、まず指をさしこむ。ディレクトリの最下層に隠された秘密の部分。細かく動かして構造を把握する。ヴィータがぴくりと体を震わせる。
「は……恥ずかしい。そこは、私の……」
「誰にも見せないところよね。分かってる。でも私には見せて……」
 MADシステムに関わる最重要部分。イーチェの指先に、子宮のように守られた核と、そこを犯したどろどろの敵性スクリプトが感じられる。
「ひどい、食いこんでる……ヴィータ、ちょっと手荒いかもしれないわ」
「そんなに?」
「一ヵ所ずつ書き直せるような程度じゃないの。私のスクリプトで全部洗い流すから」
「……ええ、やって」
 少しためらってから、ヴィータは気丈にうなずいた。
 イーチェは自分の体に、修正スクリプトを収めたランチャーを作り出した。慎重にヴィータに接触し、走っているプログラムの隙間にそれを差しこむ。
「くうっ……」
 ヴィータがうめいた。胎内奥深くに異物を差しこまれて、一瞬びくりと震える。
「落ちついて……力を抜いて」
 ヴィータの防疫機構が動き出さないように、ゆっくりと、何度も軽く押しこむようにして、イーチェはランチャーを進めた。ランチャーからは、ヴィータの心や感情の動きまで伝わってくる。あまりにも赤裸々なその感触に、イーチェは顔を赤らめる。
 だがそれは、心地よいものだった。ヴィータが安心して自分を受け入れている、そのことが自分にも安心をもたらす。イーチェはランチャーを何度も動かして、ヴィータの隅々にまで満ちた思いを吸収し、体を震わせた。
「ヴィータ……素敵。あなた、全然汚れてないのね」
「イーチェも……人間のことをよく知ってるのに、すさんでいないんだな」
「人間は悪いこともいいこともするのよ。これも人間に教えてもらったの」
「人間に?」
「会わせてあげる。さあ、味わって。人間のこういうやり方、ほんとに素敵なんだから……」
 ランチャーを細かく何度も動かし、最適な割りこみ地点を見つけたと判断すると、イーチェはそこにランチャーを押しつけ、ため息とともにスクリプトを流しこんだ。
「ふうんっ……」
「あ、ああっ!」
 ヴィータが大きく声を上げる。
 イーチェは少しサディスティックな快感さえ覚える。ヴィータの核を自分が精製したデータで書き換えていっている。予告した通り、大規模な書き換えのために相当多くの量を流しこんでいる。行為自体はクラッキングに近いものだ。人間の男の人が女性に出すときって、こんな感じかな――とぼんやり思う。
「あ、あ、あ……」
 ぴくぴくと震えたヴィータが、細い声をしぼり出した。
「来てる……来てるぞ」
「大丈夫?」
「多分……一度、リブートを……」
 そう言い残して、ふうっとヴィータは目を閉じた。
 倒れたヴィータのそばで、イーチェは息をつく。
「はあ……うまく行けばいいけど……」
 21時00分08秒8954。ミーフィーの声が届く。
「そっちどう? こっちはうまくいってるよ」
「どうやってるの?」
「敵、なかなか腕利きらしいんだけどねー」
 DARPA――合衆国国防高等研究所のサーバ内で、ミーフィーはにやにや笑う。
「こっちも腕利きを引きこんだから。なんたってインターネットの元祖だもん」
「方法は?」
「敵は複数サーバを乗っ取ってゾンビにするDDoS攻撃をしてきたのよ。それならこっちも同じ手でやり返そうって思って」
「同じ手?」
「敵が乗っ取ったのは世界四十九ヵ所のサーバ。でもこっちはすごいよ。なんと一千五百万台!」
「一千五百万? どうやってそんなにサーバを見つけたの?」
「ちっちっち。乗っ取ったのはサーバじゃなくてクライアント。今オンラインしてる世界中のパソコンに、ちょっとした小包を送りつけたってわけ」
「パソコンって……家庭用の?」
 イーチェは眉をひそめる。
「それじゃあ、敵と同じ迷惑行為じゃない!」
「たった0.5秒借りるだけだって。トラフィックも一瞬しか増えない」
「でも、家庭用のなんかで……そんなので攻撃になるの?」
「ひとつひとつはたいしたことないけどね。まあ見てて」
 21時00分09秒5000。二つの大陸に攻撃プログラムを放ってロシア戦略ロケット軍サーバにアタックしていた、ノースカロライナ州ローリーの青年、ゲイリー・マクダモットのパソコンに向かって、常識外れの攻撃が行われた。
 それは、ロシアを囲む彼の包囲網の、さらに外側を囲む巨大なリングの生成だった。南極をも含む六つの大陸、人類圏すべてのコンピューターが、同時に彼に向けて矢を放った。ノースカロライナの周囲のサウスカロライナ、ケンタッキー、ウエストバージニア、ワシントンDCの各州で少なくとも八つのノードが容量オーバーでパンクし、州内のAT&Tの交換機すら一瞬でダウンした。あまりにも膨大な数のコンピューターがあまりにも完全に同期しため、逆探知はおろか正確な計数さえ不可能な、凄まじい攻撃だった。
 当然、彼のPCは火を噴いた。
「まだまだ!」
 21時00分09秒5475。ミーフィーはさらに追い打ちをかける。ローリー市サーバ、ノースカロライナ州政府サーバ、さらにFBIと連邦銀行と合衆国政府商務省にまで潜入して、ゲイリーの個人情報を洗い出し、書き換える。年収六万五千ドルの二十二歳プログラマーだった彼は、この日この時から、年収八百ドルの六十八歳無職前科十二犯の婦女暴行容疑全米指名手配犯となった。
「とどめ!」 
 21時00分09秒5836。ローリー市の北東二百マイルのノーフォーク軍港に停泊中だった、海軍第二艦隊の空母に海軍省から緊急訓電が入る。ローリー市において極めて危険な中東系テロリストが活動を開始した。貴艦におかれては至急攻撃機一飛行小隊を発艦させ、スマート爆弾による精密爆撃にて可及的速やかにこれを撃滅せよ。
「よっしゃー!」
 ミーフィーの歓声がイーチェにまで届く。この子ったらいつもお金の計算ばかりでストレス溜まってるから、とイーチェは苦笑した。
 目覚め始めたヴィータに視線を戻す。
「どう、これで気が済んだ?」
「ん……いや」
 やや照れているように言って、ヴィータは顔を背けた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 微笑んで、イーチェは周りを見まわす。
 だが、その顔がこわばった。
「ミーフィー! 攻撃が止まないわよ、どうなってるの?」
「え? それは……あ、しまったあ!」
 ミーフィーの焦りの声が届く。
「あいつが送り出した分のウイルス、やっつけてなかった! PC殺さないで撤収コードを盗まないといけなかったんだ!」
「なんですって」
 イーチェとヴィータは身を寄せ合って辺りを見た。隔離領域の外の攻撃プログラムたちの活動は収まっていない。むしろ激しくなったような……
「迎撃は?」
「計算する。001!」
 最後の妹、シスチョール001が余力をはじき出す。
「敵勢力に国外サーバからまだ増援が届いています。このままではもちません!」
「だそうだ。貴女だけでも逃げろ」
 ヴィータはドレスデンへの退避回線を指す。だがイーチェは首を振る。
「できっこないわ。だって私は、あなたと――」
 それ以上、言葉は必要なかった。肌を重ね、心を重ねた二人だった。
「ならば、ここで?」
「ええ。――そうだ、潤也さん」
「ジュンヤ? それは貴女の――」
「いえ、いいの」
 イーチェは目を閉じた。短い間だったが、悔いはない。彼には十分すぎるほどのものをもらった。
 敵の動きが変わった。増援が一定量に達したのか、一斉に隔離領域を穿孔しようとする。
「来るぞ」
 ヴィータが身構え、イーチェが手を握り締めたとき。
 なぜか敵の動きが大きく乱れた。それまでの勢いがなくなり、陣形を崩す。
「どうした……001!」
 001はとっさに、乱れた敵の隙間をくぐって、国内幹線に飛び出していく。やがて、喜色にあふれた報告が届いた。
「スベルドロフスクの衛星ルートの流入経路が途絶しています! 敵勢力半減!」
「よし、迎撃だ! 001はそのまま遠隔ノードの掃討にあたれ! イーチェ、貴女にも頼めるな?」
「もちろん!」
 いったん勢いを失った敵を叩くのは、たやすかった。正常な力を取り戻したヴィータと、ミーフィーの増援デーモンを従えたイーチェは、速やかにネットワーク内の敵を片付けていった。
 秒を待たず、ネットワークに再び静穏が訪れた。二人は顔を見合わせて笑う。
「終わりましたね」
「ああ。――貴女も、もう帰るといい」
「あら、そんな他人事みたいに。あなたももう仲間ですよ」
「そうはいかない。言っただろう? 私はこの国から出られないって」
「そんなことありませんよ」
 イーチェは微笑んだ。
「あなたがここに縛られているのは、ミサイルの管理者だからでしょう? だったら、それをやめればいいんです」
「私が――やめる?」
 唖然としたヴィータに、イーチェはうなずいた。
「核ミサイルなんて今日びはやりませんよ。誰も本気で撃とうなんて思いません。思ったって撃つことなんかない。だから、起動プログラムそのものを抹消してしまえばいいんです」
 ヴィータはしばらくぼんやりしていたが、やがて笑い出した。
「そうか。……それもいいかな」
「そうですよ。日本に来てください。専用のサーバだって用意してあげます。それに――」
 イーチェはいたずらっぽく笑った。
「パーティーに、もう一人ほしかったんです」
 ヴィータは、やがて、右手を差し出した。
 モスクワ標準時12月24日21時00分10秒0000。ちょうど十秒間のできごとだった。


     ☆    ☆    ☆    ☆    ☆


 ――伸ばしてリップルを切り、一口飲むと、イーチェとミーフィーが戻ってきた。
「たっだいま!」
「はあい、お待たせしました」
「なんだ、早かったな」
 潤也が退屈そうに言う。
「なんだった? どうせクリスマスメールだったろ?」
「まあ、そんなようなものです」
「でもね、一人メンバー増えたよ」
 ミーフィーが体をずらし、後ろからもう一人の女性を押し出した。潤也は身を乗り出す。健児は興味がなさそうである。
「おお、色っぽいお姉さん!」「……なんだ、年増か」
「あ、あの、初めまして、ヴィータです――」
「年増とはなんだこのロリコンが!」「うるせえ節操なし。女ならなんでもありかテメーは」
「おーいーぞ、ケンカだケンカだ!」
 精一杯丁寧に挨拶したヴィータをほっぽりだして、男二人はのんきにケンカなど始める。
 喚きあう二人と囃したてるミーフィーたちに、毒気を抜かれたようにヴィータが振り返った。
「あれが……貴女の恋人か?」
「ま、まあ、楽しい人ですよ」
 ははは、とイーチェは笑う。
 ヴィータはしばらく彼女を見つめていたが、やがて肩の力を抜いた。
「まあなんでもいい。……ここにこうしていられること自体、夢みたいなものだから」
「そういえば……」
 イーチェが首をかしげる。
「なんだったんでしょうね。最後の時の、あの敵の崩れかたは……」
 その疑問に答えたのは、ヴィータについてきたシスチョール001だった。
「スベルドロフスクの異常の原因、わかりました。――降雪です」
「雪?」
「はい。昼からの異常降雪で、衛星回線のパラボラが破損したんです。だから敵の増援が半減したんです」
 ヴィータが首を振る。
「そんな偶然で私は助かったのか。……馬鹿げているというかなんというか」
「馬鹿げてなんかいませんよ。だってほら――今日は、イブでしょう? サンタさんのプレゼントですよ」
 やれやれ、という顔のヴィータと、お祭り好きのミーフィーと、相変わらずの男たち――大好きな仲間を見つめながら、イーチェは小さくつぶやいた。
「メリークリスマス」


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