メニューへ  同行二人 ――外伝・北鎮将軍隠密行


 正確に言うとその女はハックの元を訪れたのではなかった。
 ハックのところに降ってきたのだ。

 しゅるしゅると風を切る音とともに、空中を滑ってきた何かが、ものすごい勢いでハックのいるやぐらにぶつかった。
「うわあっ!?」
 ぐらっ! と強い衝撃とともに、やぐらがゆっくりと傾いた。梯子を降りていては間に合わないととっさに判断して、二十ヤード下の地面まで側面のロープをつかんで滑り降りた。
 大地に足をつけてほっとする間もなく、ずうんと鈍い地響きを立ててやぐらが倒壊した。土ぼこりではなく泥水が飛び散る。夏の初めで、雨が降っているのだ。
「何が来たんだ、一体……」
 ハックが近づこうとすると、出し抜けにバサッと突風を叩きつけられた。思わず顔をかばうと、きーああ、と鋭い響きが耳を突いた。ばさばさと材木と泥水が撒き散らされ、やがてひときわ強い突風とともに、大きな影が空中に飛び上がった。腕をかざして見上げたハックは叫ぶ。
「――エピオルニス!?」
 きーああ、ともう一度鳴き声を残して瑠璃色の翼が上昇していく。間違いなく、ジングリット軍疾空騎団の巨鳥だった。そいつはふらふらとよろめきつつ、雲に入って見えなくなった。
「エピオルニスがなぜこんなところへ……」
 つぶやいたハックは、ふと、エピオルニスに鞍が乗っていたことに気づいた。
 それは空っぽだった。
「……まさか!」
 泥水を蹴立ててやぐらに駆け寄り、折り重なった材木を取りのけた。太い木を使っていなかったのが幸いした。何本かの柱を持ち上げると、手甲をはめた腕が見えた。
 やはり人が乗っていたのだ。ハックはあわてて残る柱を押しのけ、その人を救い出そうとした。頭に近いところで赤い色が見えたので、あきらめかけた。瀕死の大出血と思ったのだ。
 だがよく見れば、それは血ではなかった。濡れて渦巻く真紅の髪だった。
 瓦礫をすべて取りのけて全身が現れると、ハックは息を呑んだ。
 泥の中に目を閉じて横たわっているのは、半甲冑を身につけた女だ。ジングリット帝国で軍役につく者が、その姿を見まごうはずもなかった。
「じ……ジングピアサー将軍?」
 ハックは驚愕に打たれてしばらく立ちすくんだ。
 
 ハックはヴォース領の領兵である。歳は十八歳。両親とは幼いときに死に別れ、僧院で育った。二年前、十六のときに立身出世を望んでヴォースの領主に仕官した。
 しかし、孤児上がりの雑兵がそうそう栄達できるはずもなかった。今のハックはたった一人で関所の番兵をしている。関所といっても他国との国境ではない。領内の峠にある小さなもので、賊の手配書が来れば旅人を誰何し、山火事があれば近在に触れて回り、冬になったら遭難を防ぐために道を閉ざす、その程度の役目しかない。要するに、まったくつまらない仕事だ。出世の見込みなどまるでなかった。
 この日までは。

 抱きかかえた重い体をどさりとベッドに横たえ、紐で引いてきた女の長剣を壁に立てかけると、ようやくハックは息をついた。
「ふう……」
 関所の小さな番小屋である。ハック一人が暮らしているだけだから、ベッドも一台しかない。だが、この相手なら喜んで明け渡すつもりだった。ジングリット軍の総司令官だ。命を救ったとなれば相当な褒美をもらえることだろう。ひょっとしたら王都へ取り立ててもらうことも……。
 それにしても、なぜ将軍がこんなところにいるんだろう? ハックはデジエラの体を手ぬぐいで拭きながら考える。ヴォースは王都フィルバルトから南東に五十リーグほど離れた田舎だ。国軍総司令が来るような事件は起こっていない。大体どんな事件だったら将軍がエピオルニスで急ぐんだ。戦の時でさえ軍団を率いて騎馬で移動するのに。
 待てよ。本物のジングピアサー将軍とは限らないじゃないか? 自分の勘違いかもしれない。将軍のことは、大陸戦争の時に一度遠くから見たことがあるだけだ。
 ハックは改めてそう考え、拭く手を止めて目を落とした。
 そして思った。――こんなきれいな人が偽者のわけがない、と。
 髪の色つやは言うまでもない。肩でもつれて胸のあたりまで届く流麗な髪は、鮮血をつむいだような不吉な美しさがある。髪に縁取られたおもては日焼けしているが、肌はつややかで光を帯びている。今年三十四歳と伝えられる年齢、それに武人という生業でありながら、こんなに滑らかでいいのかと思ってしまうほど。
 顔立ちには、鞘に納まった剣のような静かな冴えがある。目鼻の線はくっきりと際立ち、眠っていてさえ意志の力を発散しているように見える。特に眉が厚く、すらりと長い。唇も薄くないが、髪と同じように紅くて瑞々しいので、強さよりも艶が感じられた。
 そして、肢体だ。並の女とは体が違う。同じ年齢の市場の小母さんたちなどとは、比較にもならない。
 防具と戦衣の類はハックが外したので、厚手の白いチュニックとズボン姿になっている。濡れているので透けている。その体の線が目を奪われるほど美しい。乳房や尻が豊かなだけでなく、長い手足に重そうな肉がみっちりとついているが、単純に部分部分が優れているというのとは違う。骨格全体の正しさと筋肉のしなやかさが表に出ているのだ。十代の娘よりもよほど厳格に磨き上げられた身体、それがデジエラの体だった。
 女に触れたことのないハックにすら、生ける宝石のようなその体の価値はおぼろげにわかった。さすがに十万の大軍を率いるひとは、体からして違うなあ、と感心する。
 見ているうちに、ハックはくらくらしてきた。ただでさえ女の子と縁のない関所暮らしで不満が溜まっている。我慢するには相手が魅力的すぎた。
「き、着替えさせなきゃ風邪引くからな……」
 ごくりと唾を飲んで、チュニックの襟元に手を伸ばした。
 その瞬間、消えているように見えた炎が燃焼を再開した。
 デジエラがぱっと目を開き、ハックを見るが早いか、腕をつかんでベッドに引きずり倒した。「あっ?」とあわてるハックと一瞬で体位を入れ替え、腕をひねり上げながら背中に馬乗りになる。
 ハックが気づくと完全に自由を奪われていた。肩越しに振り向いて、ぞっとした。
 見たこともないほど強烈に光る瞳がハックを射抜いた。
 本能的に悟った。 ――これが、殺意なんだ。
 微塵の震えもない、強く静かなアルトが耳に入る。
「答えろ、貴様の無事を確かめに来る人間がいるか」
 いないと言えば終わりだと直感した。ハックは首を縦に振った。
「い、います――」
 途端に、口を顎ごとわしづかみにされた。叫んだら顎を外す、と平板な声が言う。ハックは必死に悲鳴を噛み殺す。
「その人間はいつ来る」 
「十分後――」
「何人だ」
「さ……五人」
「追い返す方法はあるか」
「あります。俺の合言葉で――」
「ふん?」
 声に初めて感情がこもった。妙だな、というような。
 顔が近づき、耳元で寒気がするような言葉をささやいた。
「領兵の装束だな。それにしては賢いが、王都の者か?」
「な、なんのこと――」
「殺されないような答えを考え出したな。それも四度も。雑兵にしては上手すぎる嘘だ」
 ハックは慄然とする。この女はハックの嘘を当たり前のように見抜いたばかりか、一瞬でそれ以上の洞察をしてのけた。田舎者のハックのかなう相手ではない。それどころか上司の兵長や領主の侯爵でもあしらわれそうだった。
 即座に格の差を悟って、ハックは叫んだ。
「領兵です、関所の番兵です! 将軍閣下が鳥で降りていらしたのでお助けしました! 敵ではありませ――」
「なぜ私が将軍だと思う?」
 腕をねじ切られるような痛みが襲う。ハックはうめく。
「つぅッ! お、お顔で! とてもお綺麗だったのであァッ!」
 突然痛みが消えた。背中の重みがすっと去る。
 振り向くと、デジエラは床に立って小屋の中を見回していた。ハックにはすでに興味をなくしたようだった。
 おそるおそるハックは聞いた。
「あの、閣下……もう吟味はいいんですか」
「ああ」
「なぜ……?」
「どこの間諜が、顔が綺麗だから信じたなどという寝言をほざく」
 ハックは赤くなった。言われてみれば色ボケのようなことを口走ったものだ。
 しかし気になるのはデジエラの言葉だった。許されたことに勇気を得て、ハックは尋ねてみた。
「王都の者とはどういうことですか。また敵が……?」
 デジエラはしばらく答えなかった。壁から長剣――噂に名高い『ロウバーヌ』だろう――を手に取って調べる。次は衣装棚に近づいて勝手に開ける。服を見繕いながら言う。
「着替えを貸せ、濡れてしまった。貴様のでいい」
「はい、いくらでもどうぞ。でも閣下、王都の者とは? まさか、また『遷ろう者ども』が現れたのですか」
 おぞましい嫌悪感とともに、ハックは思い出す。その者たちはここヴォースでも猛威を振るった。ハック自身はたぶらかされなかったが、村の知り合いが何人も惑わされ、皇帝が敵の首領を倒してくれるまでに、村人同士の関係がかなり悪化してしまった。
 ほぼ二年前のことで、今ではその傷も癒えつつある。しかし、それがまた現れるというのは考えたくもなかった。
 女将軍はハックの着古しを取り出すと、背後をはばかりもせず着ているものを脱ぎ始めた。ハックはあわてて背を向けたが、一瞬だけ、黒い下着で区切られた引き締まった背中と、豊かな尻のまるみが目に入った。
 衣擦れの音とともに声がする。
「貴様はこの土地の者か。地理に明るいか」
「はい、ここの生まれです。六つからはふもとの僧院で育ちました」
「孤児か、なら身寄りの心配もいらんな。道案内を頼めるか? 領主は気にするな」
「はっ、御命令とあらば。しかし閣下……」
「それほど聞きたいか。ならば名を言え。僧院の育ての親も」
 着替えの気配が消え、声が近づいた。ハックは振り向く。ねずみ色のみすぼらしいチュニックとズボンを着たデジエラが立っていた。丈はハックと変わらないほどなのに、胸がかなりきつそうだったが、それよりも大事なことにハックは気を取られた。
 自分の名に加えて育ての親の名まで明かせば、何があっても裏切れなくなる。つまり、裏切るなということだ。誓いを立てろと言われているのだ。
 ハックは迷わなかった。これこそ待ち望んでいた機会だった。この人を助けて、うまく敵のひとりも倒せば、将来は!
「……名はハック。、十八歳です。育ての親はナッサ僧院のエンディル先生。学者様で、イフラ僧ではありません」
「そうか」
 うなずくと、わずかに目を逸らして、デジエラは言った。
「謀反が起きた。私は王都を追われたんだ。ここまで逃げたが、上空で追いつかれた」
「謀反……!」
 ハックは目を見張る。確かにそれはとんでもないことだ。デジエラの警戒ぶりもわかる。
 だけど――とハックはいぶかしむ。田舎者の自分でも知っているぐらい、人望篤いこの将軍を追い出すとは、いったい誰が謀反を起こしたのだろう?
 いくらも考えないうちに答えが出た。そんな人間は一人しかいない。デジエラに匹敵する実力を持つ人間といえば――言い換えれば、自分も知っているような王都の実力者といえば――しかし、そんなまさか!
 デジエラは無表情なひとことで、ハックを呆然とさせた。
「宰相レンダイクが皇帝陛下に弓引いたのだ」

 ベン・ネフの沼沢地を、悪名高い霧が覆っている。
 左手に愛用の(ただし、まだ一度も血を吸っていない)槍を持ち、右手にデジエラの手の温かみを感じながら、ハックはいまだに、夢でも見ているような気分だった。まだ十八歳の田舎者の自分が、大陸全土に名の轟く女将軍と、二人きりで逃避行をしているなんて!
 しかしそれは現実だった。手のぬくもりも、命の危険も。
 歩きながら、ハックは峠の小屋で聞いた話を思い出す。
 デジエラが語ったレンダイクの謀略とは、恐るべきものだった。彼はあの伝説のプロセジア占星団の生き残りを味方につけて、デジエラの偽者を作り出し、その偽者に様々な悪事をさせた。その一方でクリオン皇帝に嘘を吹き込み、デジエラを遠ざけけるようにした。デジエラは皇帝に本当のことを伝えられないまま悪人に仕立て上げられてしまい、裁判にかけられることになった。出廷すれば吟味なしで断罪されることが確実だったので、鳥を奪って逃げたのだ。
 逃げたデジエラを、レンダイクはもちろんただでは置かず、疾空騎団に命じて追撃させた。それだけではない。総数三万もの国軍をこのヴォース領に投入したらしい。
 デジエラただ一人を追うために、三万とは! そこまで聞いてハックは後悔したが、後の祭りだった。デジエラはロウバーヌの柄に軽く手を置いて、わかっているなと短く言った。一蓮托生という意味だった。事情を知ってしまった以上、たとえデジエラが討たれてもハックが解放されることはない。ともに彼女の冤罪を晴らすしかないのだ。
 事態を覆す方法はただ一つ、クリオン皇帝に直訴して弁解することだけ。幸い、皇帝はレンダイクの出兵に同行していた。三万もの兵を宰相に預けっぱなしにするようでは皇帝も頼りにできないが、親征に来ているのだ。まだ皇帝は信用できそうだった。
 ハックに課された任務は、それだった。デジエラとともに軍の目をかすめて皇帝の居場所を探り、そこへ赴くことだ。
 一部始終を聞いたハックは、もっとも気になったことを尋ねた。
「それにしても、なぜ宰相閣下はそのようなことを? それに、ニッセン様やネムネーダ様はお止めしなかったのですか?」
「皆それぞれ不満があったのだろうな。……深く聞くな」
 デジエラが苦しげに顔を背けたので、ハックは口を閉ざした。
 それからハックはデジエラをつれて徹夜で山を下り、このベン・ネフに来たというわけだった。
「夜が明けるぞ」
 デジエラに言われて、ハックは我に返った。十ヤード先も見えない灰色のヴェールだった霧が、ぼんやりと乳色に光り始めている。あたりを見回すと、東と思しき方角に日の出の輝きがあった。
「一度どこかで休んだほうがいい」
 デジエラに目を戻す。彼女はハックのシーツをローブのように頭からかぶって姿を隠していた。フードの下の険しい美貌には、まだやつれは見えない。
 それでもハックは尋ねた。
「お疲れですか」
「まだいけるが、この湿地は危険だ」
「危険?」
「見通しがよすぎる。霧が晴れたら一リーグ向こうからでも見つかりかねん」
 左右に視線を飛ばしてデジエラは言った。――この湿地が見通しがいいのは確かだった。高さ一フィート以上のものは何もない。泥田のような水浸しの地面をのっぺりと草が覆い、まばらに黄色い花が生えているだけだ。
 周りの泥に軽くブーツを入れて、デジエラは舌打ちする。
「泥もいいところ半フィートだ。潜るわけにもいかん。……貴様、どう隠れる?」
 デジエラはこの地の環境をすでに見抜いていた。さすが軍の高官はすごい、とハックは舌を巻く。
 でも、よそものの想像もつかないことがここにはある。
「大丈夫です。ここにはヤチの魔物がいるから」
「魔物だと?」
「はい。それは――」
 言いかけたとき、出し抜けにハックは地面に引きずり倒された。デジエラが薄れつつある霧の向こうを見つめながら言う。
「何か動いた」
「本当ですか? 夜明けのベン・ネフに人が来ることは滅多にありませんよ」
「滅多にないのだったら、それこそ追っ手かもしれんだろう!」
 それはそうだった。デジエラが低い声でささやく。
「いま、魔物と言ったな。もしや貴様、迷信深いたちか」
「迷信では――」
 ピィーッ! と笛の音が霧を貫いた。デジエラがはっと目を見張ってささやく。
「軍の呼子……! 間違いない。やむをえん!」
 腰の剣に手をやって立ち上がろうとする。
 それをハックは引き止めた。なんだ、と振り返るデジエラには目もやらない。
「何かいたぞ!」「集まれ!」
 近づく叫び聞きながら、必死にあたりを見回した。

「いたか!」
「いや、いない。見間違いかもしれん」
「『櫛』を入れてみろ。網も目を離すな!」
「気を抜くな。ここは閣下の墜落地点に近い。見つかってもおかしくないんだ」
「馬鹿、何が閣下だ。今は敵将だ!」
「そ、そうだったな」
 叫びとともにたくさんの影が動き回る。
 兵士たちは細長い平底の船に乗っていた。干潟舟だ。大部隊の投入しにくいこの地に、ジングリット軍はそういうものを使うことで兵力を集中させた。
 泥の上をすべり、戸板ほどもある『櫛』で泥をかきわけて、彼らはしらみつぶしにあたりを探した。舟と舟とは網でつないであり、脱け出すことは不可能だ。あきれるほど念入りな捜索態勢だった。
 その最中、ハックはデジエラを片腕で抱いて、兵士たちの真下にいた。
「これがヤチの魔物か?」
「そうです。ここだけ壺みたいにぐっと深くなってるんです。うっかりはまって死ぬやつが毎年何人も出ます」
 耳元で尋ねるデジエラに、ハックはうなずく。敵が近づく直前、彼がデジエラを泥の中へ引きずりこんだのだ。驚いたことに、深さ半フィートしかないはずの泥は二人を頭まで飲み込んだ。それどころかさらに深く引きずり込もうとしたので、ハックが底に槍を突き立ててしがみついた。
 それが、ベン・ネフの湿地に特有の、ヤチの魔物と呼ばれる泥の穴だった。
 デジエラが言う。
「なぜここに魔物がいるとわかった?」
「それです、その岸の黄色い花。――その花は三ヤード地下から養分を吸っているんです。花のあるところがヤチの魔物です」
「そうか……来たぞ」
 泥から顔だけ出していた二人は、また体を沈めた。すぐ横を舟が通り過ぎる。真水と違って濁っているので見つからない。舟が近づいた時だけ潜ればいい。根競べをすればいずれは勝てそうだった。
 ただ、ハックにとっては、一つだけ問題があった。しばらく顔を出したり引っこめたりを繰り返してから、彼はデジエラにささやいた。
(閣下、すみません)
(なんだ)
(もう少し強く抱いていいですか。滑ってずり落ちそうです)
 ハックは左腕で槍にしがみつき、右腕でデジエラの腰を横から抱いて、支えていた。離せば泥に飲みこまれるからそうしている。
 そのつもりだったが、行為としてはデジエラを抱擁しているようなものだ。どうしても意識してしまい、わざわざ断らなければいけないような気になった。
 しかしデジエラの返事は肯定ではなかった。
(それならこちらのほうがいいだろう)
 言うなり体を回してハックの首に両腕を回してきた。抱擁のようなものではなく、抱擁そのものになる。二人の体の間には硬い防具があったが、防具に包まれた体の柔らかさはハックに伝わった。
 ハックはうろたえて、叫びそうになった。
「ま、まずいです」
(静かに。もう少しだ)
 よそを見ていたデジエラが体重をかけて引いた。首を締め付ける腕のしなやかさに鼓動を高めながら、ハックはまた泥の中に身を沈めた。

 ジングリット軍の捜索は一刻近く続いたが、二人はとうとうそれを切り抜けた。
 ベン・ネフの湿地を渡ると、湿地から北へ流れる小川についた。ハックはそこを下るつもりでいた。軍の監視がなさそうな、道のない渓流だからだ。流れが集まってズィーリー川という大きな川になるまでは、谷沿いに歩けるとハックは踏んでいた。
 しかし谷川に入ったところで、デジエラが水浴びを命じた。
「こんな泥だらけの目立つ格好で人里に出られるか。怪しい者ですと叫んで回るようなものだ」
 言いながらさっさとローブを脱ぎ捨てている。続いて防具もブーツも脱ぐ。季節は六月で寒くはないし、両岸に山肌の迫る狭い谷だから他人に見られる心配はない。
 しかしハックがいるのである。ハックはまたあわてて背中を向けて叫ぶ。
「は、はい! ただちに水浴びをしてきます!」
「待て」
「はっ?」
 立ち止まったハックに、デジエラが脱ぎながら淡々と言う。
「気遣い無用だ、貴様もここでやれ」
「で、でも、しかし」
「言わんとわからんか――第一軍の隠密なら、貴様自身が気づかないうちに首を刎ねるぞ」
「はあっ!?」
 思わずハックは振り向き、肌もあらわなデジエラの姿を見て目をそらそうとしたが、彼女の言葉を聞いて凍りついた。
「私を狙う者がいれば、まず私を裸にする。貴様が真っ先にやられるんだ。第一軍のネムネーダなら常識としてそれをやるし、奴は近くに来ている。私の墜落から一晩で兵を展開させる素早さはあれの手配としか考えられん」
 今来ているのは精鋭の帝国軍正規兵なのだ。酒をかっ食らって居眠りばかりする領兵とは訳が違う。そう言われてハックは震え上がる。
 岩の上からそろりと足を伸ばして清水に入ると、デジエラは羞恥のかけらもない目つきでハックを見つめた。
「わかったらさっさとこっちへ来い。ロウバーヌの射界から出たらどうなっても知らんぞ」
「わ、わかりましたっ!」
 こうしてハックは、恐怖に震えながらジングピアサー将軍の裸身を目にするという、非常に珍しい体験をすることになった。
 実際、目にしただけだ。脱げ、浴びろ、洗え、絞れ、着ろ、と氷の風のごとき冷たく乾いた声で命じられ、からくり人形のようにてきぱきと手順を済ませた。すぐそばでこぼれんばかりに豊かな肢体のデジエラが同じことをしていたが、のんびり眺めるような余裕は少しもなかった。見るなと言われたわけではない――言うほど親切な女ではないのだ。少しでもでれでれしたら即座に斬られる、ハックがそう信じ込んでしまうほどの迫力だった。
 水浴びと洗濯の合わさった行為を済ませて、元通り衣服を身につけると、ハックは底抜けに気疲れしてその場で休みたくなった。しかしデジエラは慈悲の一滴も垂らさずハックを見下ろして申し渡した。
「行くぞ。歩けば乾く」
「でも閣下、徹夜ですし……」
「可能な限り距離を稼ぐ。できれば馬を手に入れたい。現時点で相手に知られているのは私が峠に落ちたことだけだ。離れれば離れるほど有利になるんだ」
「閣下、それではせめて、何かご褒美をくださ――」
 ハックは言葉を飲み込んだ。ただでさえ冷たいデジエラの視線が、冬の星のように冷ややかになったから。
 しかしハックは、その眼差しに強い反発を覚えた。
 ――沼地で助けてやったのに。俺はあくまでも下っぱってことか、くそっ!
 腹の中で文句を言ったが、口に出せることではなかった。行きます、とハックはしぶしぶ立ち上がった。

 渓流を下り、山地の終わりで野宿して、翌朝に里へ出た。近くにはズーミャ、デルフィン、カリョールといった村々があり、そのどこかで馬を手に入れてからまた里を離れる、という予定を立てた。
 それまでのハックは、帝国の田舎のただの一兵士であり、王都の貴人に認めてもらって、財産なり勲章なりをもらおうと考えている、俗な少年にすぎなかった。
 しかし、この日までだ。
 ハックは、田舎者でも少年でもなくなった。

 ズィーリー川に出た二人は、結局、一番近いカリョールの村へ向かった。
 防風林と麦畑に囲まれた小さな村だった。入る前に二人は街道で相談した。村の外に兵がいるようであればあきらめて他の村へ向かう。いなければハックが村へ入って馬を買う。どちらにしろ二人ともできるだけ正体を見られない、明かさない、騒がない。村人が忘れてくれるぐらい、さりげなく入って出てこられれば最高だ。
 ハックは、馬を買うために渡された金貨を見つめて、デジエラに目を戻した。
「俺、フラグム貨とバク貨しか見たことがありません」
「十メルダで二頭買えるかどうか怪しいが、無理なら一頭でいい。潰れにくい輓馬を買え。よすぎる馬や乗馬は目立つから避けろ。あまり値切りすぎてもよくない」
「俺が持ち逃げしたらどうします」
 つい口を滑らせてから、まずいと思ってハックは首をすくめたが、叱責はされなかった。デジエラは街道沿いに建てられた五星祠の裏へ回りながら、薄く笑った。
「どうもしない。他の三万と同じように、私の敵になるだけだ」
「……必ず戻ります」
 首筋にひやりとしたものを感じて、ハックは足早に歩き出した。
 ――三万を「私の敵」って言い切った。どういう神経だ、あの人……。
 防風林を抜けて村へ近づいても、王都の兵は見えなかった。懸念はそれだけだったのでハックは安心して家並みに入る。彼はまだ敵に顔を知られていない。地元の人間として、生まれ育った領地の村へ入って買い物をするだけだ。恐れる理由はなかった。
 カリョール村の家屋はたった二十軒ほどだった。家屋以外では雑貨屋と、中央広場の教会があるだけだ。教会では尖塔にロープをかけて、正面バルコニーから鐘を引っぱりあげている最中だった。大陸戦争で割られた鐘が鋳直されたのか。
 村が小さすぎて博労などなかったので、農家を一軒一軒覗いて馬のいる家を訪ねた。畑仕事の季節なので難しいと思ったが、戦で主人の死んだ家があり、持て余していた馬を一頭、鞍つきで買うことができた。
 鼻歌を歌いながら中央広場まで戻ってきたところで、彼女たちが来た。
 どうっ、どうっ! と重い羽音を叩き付けて、突然、二羽の巨大な鳥が降りてきたのだ。ひと目で疾空騎団のエピオルニスと見てとり、ハックはとっさに逃げ出そうとした。
 三歩ほど走ってから、致命的な失敗を犯したことに気づいた。
 立ち止まって振り向くと、鳥の背から敏捷に飛び降りた女が、あからさまな不審の目でこちらを見ていた。
「おい、そこの。今なぜ逃げた?」
 危惧が的中した。ハックは必死に言い訳を考えた。
「いえ、疾空騎団の方を見るのは初めてなので、驚いて」
「誰が疾空騎団だと名乗った」
「ち、違うんですか?」
「最近、疾空騎団の鳥を見たのか? その馬はどうする? その服装はヴォース領兵だな。名を名乗れ」
 矢継ぎ早に聞かれて、ハックは頭が真っ白になった。その女のデジエラとよく似た雰囲気にも威圧された。気がつくと背を向けて一目散に逃げていた。
 叫び声がかけられる。
「止まれ! 止まらないと謀反人と見なすぞ!」
 無視して教会に飛び込み、樫のドアを閉じてかんぬきをかけた。幸い、礼拝堂には誰もいなかった。一度だけ深呼吸してすぐに走り出す。裏から逃げなければ。
 しかしそのとき、表から信じられない叫び声が聞こえて、ハックは思わず足を止めた。
「閣下!?」「マイラか!」
 間髪入れず、剣と剣のぶつかる耳障りな音が上がった。表の様子を見るまでもなかった。デジエラがここへ来たのだ。
「何しに来たんだ?」
 ハックは唖然とする。デジエラが帝国兵と鉢合わせしたら一発で見咎められるのに。
 剣戟の音が激しくなる。ハックは扉の隙間から表を覗いた。二人の女が嵐のように剣を交わしていた。そこへ、女とともにやってきた部下らしい鳥使いが戦いに加わる。さらにやっかいなことに、村のどこにいたのか、ハックと同じヴォース領兵が二人やってきて疾空騎団に加勢した。動機もハックと同じだろう、手柄を立てたいのだ。
 四対一だ。誰が見てもデジエラが不利だ。そうなることはわかっていただろうに、なぜ来たんだ? 何を考えているんだ?
 いきなりハックは理解した。
 ――俺を助けに来たんだ!
 それ以外に理由がない。ハックがボロを出すと思ったのだろう。腹の立つ推測だが、事実そうなったから文句も言えない。彼女が来たからハックは助かった。
 ハックはどうすればいいのか。決まっている、出て行って四人に加勢すればいいのだ。五対一ならさらに楽だし、倒せば今までデジエラと同行していたことも帳消しになるだろうし、うまくいけばレンダイク宰相から褒美をもらえるかもしれない。
 かもしれないどころじゃない、他にどんな選択があるっていうんだ!
「……あっの馬鹿将軍!」
 うめいてハックは駆け出した。階段を登って礼拝堂の天井近くを巡る中二階を走り、説教用のバルコニーへ出る。尖塔に鐘を吊り上げようとしていた職人が、突然始まった立ち回りを驚いて見下ろしていた。
 その後ろからハックは謝った。
「おっさん、ごめんな!」
「え?」
 鐘を吊るロープを彼の手から奪い取って離した。とたんに、大人三人分ぐらいの重さがありそうな青銅の鐘が、ガラガラと転がり落ちてきた。バルコニーで一度派手に跳ねて、広場へ落下する。
 ハックは叫んだ。
「閣下、気をつけて!」
「上出来!」
 その瞬間のデジエラの反応は、まさに百戦錬磨の戦士にふさわしいものだった。
 何事かと見上げる鳥使いたちを尻目に、見上げもせず音だけで落下地点を推測、後ろへ跳ねてそこへと動く。ハッと目を戻して鳥使いたちが殺到するが、わずかに追いつけない。両者の間に一抱えもある鐘が降ってくる。そこでデジエラが鋭く一声――
「昂ぶれ、ロウバーヌ!」
 ザバッ! と異様な音がはじけた。デジエラが長剣の一振りで金色の熱波をぶちまいたのだ。それは溶解した青銅だった。鐘を一瞬で溶かして武器にしたのだ!
「くっ!」「ひいっ!」
 溶けた銅は惜しくも四人にかからず、地に落ちて土を焼いただけだったが、立ち上る異臭と蒸気が、目を侵し喉を焼いた。たまらず四人は体を折って咳き込む。
 デジエラは脱兎のすばやさで駆け出している。広場の隅のエピオルニスに向かい、一羽の手綱を切って、もう一羽に飛び乗った。実の飼い主のような鮮やかさで鳥の首を巡らせ、軽くひと蹴りくれて舞い上がらせた。
 どうっ! と羽ばたきがハックの頭上にやってくる。
「乗れ!」
「はい!」
 鞍上から差し出された腕にしがみついて、ハックは空へ飛び立った。

 顔を叩く風も、羽毛の下でもりもりと動く鳥の太い筋肉も、生まれて初めてだった。鞍によじ登るのに夢中で、気がつくとカリョール村は背後の平野の染みになっていた。
 それでも振り落とされそうで落ち着かず、体をふらふらさせていると、前のデジエラが言った。
「腰につかまれ。貴様が動くと鳥がくすぐったがってかなわん」
 言われたとおりにデジエラの腰に腕を回し、腹筋のなだらかな丘をぎゅっと抱きしめた。この時は純粋に怖くてそうやった。
 するとようやく落ち着いた。
 先ほどの出来事を思い出して聞く。
「閣下、なぜ……」
「なぜ村へ出たのか、か?」
「はい」
「友軍を助けるのが変か?」
 何か不思議な言葉を聞いたような気がして、ハックは顔を上げ、デジエラの表情をうかがおうとした。だが彼女は前を向いていて、横顔にはためく赤い髪が頬を隠していた。
「友軍、ですか」
「それ以外のなんなのだ。私も貴様も軍人で、敵が存在していて、陛下の元へおもむくという行軍行動をしていた。今は戦の最中なんだ。勝つための戦略を取る必要があった」
「たかが領兵を助けに来るのが戦略ですか!?」
「全戦力の五割だぞ?」
 ハックは噴き出しかけたが、デジエラはにこりともしなかった。冷静に言葉を続ける。
「貴様はちゃんと道案内ができるし、自然に村に入ることもできる。どちらも私にはできん。なおかつ、現在もっとも信用できる勢力だ。あそこで見捨てるわけにはいかなかった」
「じゃ、完全に打算なんですか」
「貴様はどうなんだ」
 いきなり厳しい反撃を食らって、ハックは沈黙した。
「それ以外のなにものでもないだろう。私への忠誠心があるか?」
「忠誠心は――」
「ない。迷うな、あるわけがないんだ。私は貴様の何かを守ったことなどないんだから。……まあ、貴様のいる帝国は私と陛下が守ったものだが」
 ハックが息を呑むようなことをさらりと言ってから、デジエラは首を振って、つまらなさそうに続ける。
「貴様に無理な期待はかけない。だから貴様も変に忠誠のそぶりを見せなくてもいい。できる範囲で任務をこなせ」
 だんだんデジエラの言っていることがわからなくなって、ハックは首を振った。僧院で教えを受けたことはあるが、しょせん田舎学者の片手間に教わっただけである。話が理屈じみてくるとついていけない。
 自分にわかる答えを得ようと思った。
「閣下、あの鳥使いたちを焼かなかったのはなぜですか」
「あれは元部下だ。殺すにはしのびなかった」
「それは打算じゃないでしょう」
 デジエラの返事は、少し遅れた。
「……まあ、そうだな」
 ハックはうなずいた。それだけで十分だった。
 この人はとんでもなく打算的な人だ。それなのに、情まで持っているのだ。

 エピオルニスはとても速い。ヴォース領を渡ることなど朝飯前だとデジエラは言った。
 だからそうするのかとハックは思ったが、考え直した。自分たちが鳥で去ったことはさっきの鳥使いたちに知られている。連中はただちにヴォース全体に捜索の手を広げるだろう。だからその裏をかいて先ほどのカリョール村に戻れば、以前よりも手薄になっているんじゃないか。
 それを伝えると、デジエラは少し驚いた顔になったものの、すぐに首を振った。こちらが相手の裏をかくことは相手に読まれているし、その逆もまたしかりだ。だからヤマを張ること自体が得策ではない。相手がどう判断しようと不利にならない行動をしなければいけない。つまり、最後に目撃された地点からできるだけ離れること。相手の捜索範囲は距離の二乗に比例して広がる。
 そう言ってから、少しして、裏をかこうとするのは間違っていない、とデジエラは言った。彼女が今言ったばかりのことと矛盾するような気がして、ハックはまたわけがわからなくなった。
 ともあれ、デジエラは鳥をヴォース領から出してしまい、領地の周辺をまるまる一周半してから、今朝までと反対方向の西部地方に下ろした。(追っ手を撒くための行程だったが、期せずしてその飛行で、ハックは自分が十八年過ごしてきた全世界を見た。それは、みじめになるほど狭い、でこぼこのある平凡な盆地だった)。
 中規模の林で鳥を降りたデジエラは、大飛行の余韻など感じてもいない様子で、あっさり鳥を解放した。もったいなくないかとハックが言うと、デジエラは苦笑した。
「餌がないだろう?」
 今回は降りる前に十分地形を観察してあった。クリオン皇帝がいるのは、おそらく領都ヴォースだ。足止めされている、というべきか。皇帝がじかにデジエラを探すようなことをレンダイクは許すまい。最も守りの堅い領都に置くのが順当だろう。
 だから、できるだけ意外な方法で領都に潜入するのが、デジエラたちのなすべきことだった。
 二人はまた川沿いに移動したが、昼過ぎにはねぐらを探した。これから領都までしばらく徒歩の旅が続く(明日の朝には、半径百リーグ以内の全域で馬を買う者が誰何されるようになっているだろうから)。移動は夜に限るのが賢明だった。
 森の外れに古い猟師小屋を見つけ、使われている気配がないことを入念に確かめてから、二人はそこにこもった。日暮れまで仮眠をするのだ。

 そうはいってもハックが眠れるわけがなかった。
 まだ日が高い。疲れてはいたが、昨夜にかなり眠った。関所の番小屋から持ち出した保存食ばかりで、慢性的に腹が減っている。そのうえ猟師小屋は暑さがこもっていて、寝床は土にベタ敷きしたローブだ。どれをとっても安眠を妨げる条件ばかりだった。
 そして最悪の妨害――隣に横たわるデジエラ。
 鳥の背で下手に好感を抱いてしまったのが失敗だった。人使いが荒くて情の薄い年増だと自分に言い聞かせたが、ぜんぶ嘘だった。ハックは、この意志と行動力の化身のような女に惹かれてしまった。
 いや、そういったことすら、ハックが自分自身にしていた言い訳だったかもしれない。
 ハックはデジエラに背を向けて横たわり、ズボンの紐がちぎれそうなほど勃起していた。
 ――なんでこんなにいい匂いするんだよ、この人……。
 恨んでみてもどうしようもない。二フィート隣からオレンジに似た甘酸っぱい汗の香りが漂ってくる。この暑い季節にさんざん動き回ったから無理もないが、締め切った小屋の中では気を逸らすこともできないほど香っていた。
 匂いに鼻をくすぐられてイヤでも妄想が沸き返る。たった二日の間に何度も見せ付けられた素肌。目にした当座は欲情するどころではなかったが、いまは叱る声もない。ハックは閉じたまぶたの裏に思うさま記憶を投影して、細部にいたるまで眺め回した。
 股間がびくついて性器が震える。なんとかしなければ眠るどころではなかった。
「……見張りしてきます」
 そう言って体を起こすと、ふうっと大きな溜め息が聞こえた。デジエラが背中で言う。
「待て」
「あ、その、用も足すんで……」
「わかっている。盛ったんだろう」
 さ、とつぶやいてハックは凍りつく。ズボンの中を直接覗き込まれたような気がした。必死で弁解しようとする。
「さ、さかっ、さっ」
「うろたえなくていい、おまえは男で、兵士で、十八だ。女と二人きりになって変な気を起こさないほうがおかしい歳だ。起こしたんだろう、違うのか?」
 デジエラがごろりと体を回し、豹を思わせる瞳を向けた。笑っていないことだけが救いだった。ハックは真っ赤になってうつむく。
「……はい……」
「寝られんか」
 こくりとうなずく。情けなさで体が縮みそうだった。デジエラは静かに言う。
「あまり恥ずかしがるな。私は慣れている。戦で何度も野宿した」
「そ、そうなんですか?」
「女で、武人だ」
 短い言葉だった。どう苦労したか想像しろということらしいが、ハックにはおぼろげにしかわからない。
「男がそうなるのをさんざん見てきたということだ。おまえなどまだ可愛いものだ。激戦後の陣中では、他人もはばからずにまわり中で手こすりの音がしたからな。抱きつかれたことも何度あったか……」
「そうなんですか!?」
 今度の叫びは、嘘であってほしいという悲鳴だった。デジエラが形のいい眉をひそめる。
「もちろん、殴った。犯されたことは一度もない」
「そうですか……」
「……しかしそれも昔のことだ」
 ふ、とデジエラの眉間が緩んだ。ハックは思わずそこに見入る。
「最後にそんなことがあったのはいつだったか……もう五、六年。とんとしていない」
「やっぱり、将軍閣下ともなると野宿なんか」
「野宿以前の問題だな、皆、恐れるばかりで寄り付かなくなった」
 その表情が寂しさに見えたのはハックの錯覚だっただろうか? 一瞬で消えてしまったのでわからない。デジエラは半眼になってハックを見つめた。伏せられたまつ毛に宿る影がハックの背筋をぞくりとさせる。
「そうか、盛ったか……ふむ」
 しばらく黙ってしまった。ハックは居心地が悪くて体をもぞつかせる。ズボンを持ち上げる勃起がデジエラの顔の正面にある。収めようとしてもさっぱり収まらない。
 ぽつりとデジエラがつぶやき、ハックは耳を疑った。
「していいぞ」
「……え?」
 瞬きして見直す。デジエラが前髪をさらさらとかきあげて、うっすらと笑った。嘲笑や苦笑ではない。――いたわりのように見える。
「していいって、何を」
「ひとまず、なんでも」
「な、なんでもって?」
「なんでもだ。おまえが好きなことを好きなだけ。名はハックだったな?」
 デジエラは体を起こし、かすかに顔を傾けてにこりと笑った。ハックは心臓が止まるほど驚く。この人がそんな顔をするなんて――幼な子か、いっそ赤ん坊のような無垢な微笑み。
「ハック。私に触れてみろ」
「そ、そんな……いいんですか?」
「かまわん。おまえの年でできることなど知れている。十八でどこまでできるか試してやる」
 顔は無垢でも、言葉は過激な挑発だった。ハックは目の前が赤くなるほど興奮した。「そんなこと」とか「いいの」とか脈絡のない言葉を漏らしつつも、腕と体が勝手に動いていた。
 両腕で、正面から思い切り抱きしめた。
「くふ……」
 中身がたっぷり詰まった体の弾力が腕に入り、耳元に呼気がかかった。デジエラは防具を外している。半袖のチュニックとズボンだけが遮るものだ。その中に肌と体がある。二日前に見たあの洗練の極致のような肢体が。
「か、閣下!」
 理性も何もなくハックはその体を押し倒した。信じられないことに、デジエラは言葉通りハックのすべてを許した。首筋を嗅いで香りを吸おうが、服ごと乳房をつかんで揺さぶろうが、尻から太腿をむやみにがさがさと撫で回そうが、拒む声ひとつ上げなかった。
 それどころか――
「ふんんっ!」
 ハックは目を閉じて強くうつむく。性器をしびれるような快感が襲っていた。デジエラが片膝を立てて太腿をハックの股に押し付けていた。両手で尻を押さえつけながら、糖蜜のように甘く透明な声でささやいてくる。
「触られるのはいいだろう?」
「は……は……」
「こすりつけていいぞ、そこでも、どこでも――ここでも」
 デジエラが足を動かした。股をわずかに開いて、自分の股間にハックの膝を軽く引き寄せたのだ。
 その瞬間に彼女は、いくつものことを同時にしていた。――ハックの膝に無防備な股間を感じさせる。ハックの勃起しきった性器を太腿でさする。ハックの胸を抱きしめて乳房を押し付ける。ハックの耳を甘噛みして深々と舌を入れる。
 女の子と口付けをしたこともなかったハックは、ひとたまりもなく興奮の限度を越えた。体のあちこちをデジエラの優しい肌に覆われたせいで、すっぽり包み込まれたような気分に――それこそ体内に挿入したような錯覚に溺れてしまう。
「ふんーっ! んーっ! んぅーっ!」
 激しい息を漏らしながら、股間をおしつけてびくびくと射精した。彼は気づきもしなかったが、その時デジエラの細く強い指が背後からハックの股間に入っていた。それは縮み上がった袋の裏側をなぞって、溜まっていたものが残らず噴き出すよう、巧みに手助けしていた。
 そのおかげで、ハックの射精は何度も何度も長く続いた。脳髄が溶けて何も考えられなくなるほど。間違いなく、ハックが生まれてから今までで最高の快感だった。――死ぬまでの、ではなかったが。
「んんぅー……っ」
 少しも肉のえぐれていないデジエラの首筋に、思うさま唇で噛み付きながら、ハックは精を吐き尽くした。たゆたう乳房の上で、たふっと脱力する。
 はー、はー、と呼吸を整えていると、少しだけ残念そうな声が言った。
「それまでだな?」
「はー……は?」
「もう盛りが落ちただろう?」
 ハックは我に返る。股間のやるせない衝動はきれいに抜けてしまった。代わりにふわふわした虚脱感が体に満ちている。
 デジエラが軽くハックの肩を押して、すとんと横に落とした。かすかに笑う。
「十八ならまあこんなところだろうな。これから精進しろ」
 そう言うと、ごろりとむこうを向く。すぐに何事もなかったように寝息を立て始めた。
 ハックは初体験の余韻にどっぷりと浸っていて、返事をすることができなかった。疲労がすみやかに睡魔に代わっていき、眠りこむ前にぼろ布でズボンの中を拭うのが精一杯だった。

「誰にでもするわけではない」
 デジエラがそう言ったのは、その日の夜半だった。仮眠をして、日暮れすぎに目覚め、出発して、森から農地に入り、延々と続くとうきび畑を黙々と歩いている最中に、だ。
「それに、いつでもするわけではない」
「じゃ、どうして……」
「救われたからな」
 星空の下、三ヤード先を歩いているデジエラの表情はもちろん見えないが、穏やかな好意の響きが口調にあった。
「峠で介抱されたし、湿地で姿の隠し方を教わったし、村では掛け値なしに命を救われた。三度も救われて礼をしないほど恩知らずではない」
「お礼だったんですか……」
「金のほうがよかったか?」
 振り向いたデジエラがちゃりんと巾着を揺らす。ハックは激しく首をふる。
「金で買えませんよ!」
「それは光栄だ」
 含み笑いしているような返事だった。
 礼だったのか、とハックは歩きながら考えこむ。三度命を救って、一度の同衾。村娘や街娼と比べたら罰が当たるだろう。このひとの一夜は、国を動かせる。
 そう思うと激しい後悔が襲った。なんでもしていいと言われたのに、軽く抱きついただけで果ててしまったのだから! そう言われたこと自体もだが、情けないにもほどがある。
 駄目でもともとという気持ちで、つい言ってしまった。
「もらっていません」
「なに?」
「まだお礼を。……その、昼間のあれは、俺が勝手に果てちまっただけです。だからまた――」
 言葉は尻すぼみになった。デジエラが足を止めて振り返ったからだ。
「一度では足りんと言う気か?」
「いえ! いえっ、決してそんなわけじゃ!」
 ハックはあわてて両手を突き出した。せっかく気に入られたのに怒らせたら元も子もない。
 しかし、デジエラは別段怒ったわけではないようだった。考えこむように細いあごに手を当てて、つぶやく。
「おまえは、あれか、年上が……ああ、そうか」
 急に納得したようにうなずく。
「孤児だったな、ハック」
「はあ」
「そうか」
 もう一度うなずくと、デジエラは近づいてハックの目の前に立った。それでも表情は見えないが、声の楽しさはわかる。
「いいだろう、こうしてやる。――私が終わりと言うまで、何をしてもいいぞ」
「……はっ? そっそれは、今ですか?」
「今から、ずっとだ。おまえが望む限り」
「本当ですか?」
 ハックは思わずデジエラの両肩をつかんだ。その時のデジエラは体にしゃんと力を入れていて、つかまれても少しもふらつかなかった。
「な、なんでですか? いいんですかそんなこと? そんなの、話がうますぎ――」
「うまいか? 敵は三万だぞ?」
「……は」
 ハックは口を閉じる。デジエラが低い声で笑う。
「私が安売りをしているのではない。おまえの値が高騰しているんだ。自信と自覚を持て。知っているか? おまえはな――死と背中合わせのことをしている英雄なんだ」
「英雄」
 ハックは細かく震えだした。俺が英雄? そうなのか? そうかもしれない。現に雲の上の人が目の前にいる。この人を抱いても分不相応じゃないのかもしれない。むしろ当然なのかもしれない――
 ハックはその場でデジエラを抱きしめようとした。
「閣下……!」「しかし英雄は任務を果たさんとな」
 ものの見事にハックの両腕は空気を抱きしめ、するりと抜けだしたデジエラが親指で背後を指した。
「どっちが町だ? さっきからおまえの指示を待っているんだが」
 とうきび畑が小川に突き当たっていた。だから立ち止まったらしい。ハックはため息をついた。
 ――そうだよな、俺は戦士でも聖人でもなくて、道案内なんだよな。
「ええと……こっちです。下流がタンネ村のはずなんで」
「朝までに村を二つ抜くからな」
 ということは、夜通し歩き続けるということだ。「好きなことをする」機会はありそうもない。
 早足のデジエラを追って、ハックは駆け出した。

 その時から、ハックが生涯忘れられない五日間が始まった。
 二人は蛇行しながら領都を目指した。夜に動き、橋や街道は外したので、畑や原野や森を突っ切るめちゃくちゃな路程になった。あらゆる人を完璧に避けた。つまり、ずっと二人きりだった。
 一度目は朝だった。畑地を渡りきって村に近づくと炊煙の立つ時間だった。青く明けた空の下でねぐらを探し、小さな岩山に目をつけた。少し探しただけで大岩の隙間が見つかって、二人でそこに入り込んだ。
「日暮れまでは長いが、眠れなくてもいい、じっとしていろ。耐えるのも兵の勤めだ」
 デジエラはそう言うと岩にもたれて早々と目を閉じたが、ハックがおとなしくするわけがなかった。最初はおそるおそる隣に並び、肩を近づけたり足を触れ合わせたりしたが、反応がないのですぐに大胆になった。息も荒く抱きついて横へ押し倒した。デジエラもわかっていたらしく、ふふっと小さな笑い声が一度聞こえた。
 彼女の服装はずっと変わらない。姿隠しのローブと、手甲・すね当て・胸と腹を覆う半甲冑、それに色気もへったくれもないハックのチュニックとズボン。
 ひとまず防具はすべて外した。全身がばねのようなデジエラの身体を抱きしめられる状態になる。でも待て俺、とハックはこらえる。今抱きついたら昨日と一緒だ、あっさりイっておしまいだ……。
 服を脱がせることにした。仰向けのデジエラにかがみこみ、チュニックの胸元に手をかけてボタンを外す。左右に開くと、飾り気のない黒い下着が現れた。たっぷりした乳房に持ちあげられてはじけ飛びそうな下着が。
 してはいけないことをしている感じがどうしても消えず、助けを求めるようにデジエラに目をやる。
「あっ、あのっ、ほんとにこれっ」
「おまえが恥ずかしがってどうする。それは私のだ」
「かっ、閣下は恥ずかしくないんですか?」
「おまえも一度、十万人の前に立ってみろ。骨まで見られている気分になるから」
 ハック一人の視線など痛くもかゆくもない、というように微笑む。ハックはデジエラ一人で手一杯になっている。
 唾を何度も飲みこんで呼吸を落ち着かせようとするが、どうにもならない。はあはあと息が荒くなる。股間はとっくに突っ張っている。もうこの時点でわけがわからなくなりかけていたが、とにかく必死で下着の脱がせ方を考えた。全然わからない。仕方がないので乳房の下から手を突っ込んで無理やり持ち上げた。
 ずるぅっ、ぶるん、と音を立てそうなほど重い動きで、二つの丘が下着から流れ出した。つややかな小麦色の肌がふるふると揺れ、暗い赤の乳首がくっきりと立っている――それを目にした途端、ハックの頭の中でぷちんという音がした。意味のない声を漏らす。
「うわっ」
 両手で握りしめて、顔を突っこんで、舌を押しつけながら滅多やたらに揉み回していた。頬がぺったり張り付いてしまうほど滑らかな肌と、鼻孔が溶けてしまいそうな汗の香りのせいで我を忘れた。吸い込んでへこませるだけでは飽き足らず、つい思いきり肉を噛もうとした。
 がぢぃっ、と歯ごたえを感じる寸前――デジエラが、ハックの後ろ髪をものすごい力で引き戻した。のけぞったハックを憮然とした瞳がにらむ。
「それは、だめだ」
「は、はふ、はぁ」
「わからんか……まあいい。食い気が出たらまた止めるからな」
 そう言うとデジエラは再びハックの顔を胸に抱きいれた。後で思い出してハックはあきれた。この人は「食われそうになる」ことにまで慣れてるのか。しかし、している最中には考えが回らず、噛むと叱られるということだけを覚えて、はしたなく唾液を垂らしながら舐めまわした。もう動物と変わらない。
 目を血走らせてしゃにむに乳房をむさぼるハックを、デジエラは穏やかに見下ろしている。左腕を枕に頭を支えて、右腕をハックの肩に当てている。時おり、歯を立てられたり乳首を思いきり吸われると、片目をしかめるぐらいはする。けれども息はまったく乱さない。十人斬った後、そうであるように。
「う、くふぉ、むは」
 ハックは股間が限界になって、腰を振りたてる。雌を犯したいと本能が喚いているが、理性が飛んでしまったので脱ぎ方も脱がし方もわからなくなっている。ごしごしとデジエラの足に股間をこすりつけるだけだ。
 デジエラは丸めたローブのそばの小物入れに片手を伸ばす。隙ができたわきの下をハックがめざとく見つけて、犬のように鼻を鳴らしながら舌を突っこむ。しゃりしゃりとわきを濡らされたこの時だけ、デジエラがくすぐったさに悶えた。「こら」と頭を押し戻す。
 それから、小物入れから出した手ぬぐいを持ち、片手をハックのズボンに滑りこませた。がちがちに硬くなった性器を包んで軽くひとこすりする。
「んふぁぁあっ!」
 だぷっと乳房に頬を突っこんで、ハックがだらしなく口を開ける。それと一緒に力いっぱい射精し始める。乳房と腕を思いきり握って、母親に抱かれた幼児のように嬉しげに、ぶるるっ、ぶるるるっ、と尻だけをしきりに震わせる。
 ……だいぶ立ってから、ぱちりと目を開ける。気がつくと床に転がっている。横ではデジエラが平然とした顔でチュニックの前ボタンを閉じている。ばつの悪い思いで見上げながら言う。
「あの、閣下。俺……」
「今回は胸を見るところまで持ったな」
 ちらりとハックを見て、そばに丸めた手拭いを指差す。
「これだけ放てるのに、もったいない。早く注げるようになれ」
 べっとりと白い粘液にまみれた手ぬぐいを見て、ハックはがっかりと肩を落とす。またしても目標のはるか手前で挫折してしまった。
「閣下、次は!」
「ああ、粘れ。今はもう猛るまい」
 デジエラはごろりと向こうむきになり、ひらひらと手を振る。言われたとおり、ハックは空っぽになっていた。邪心のかけらも残っていない。
 こういうことか、とハックは悟る。冷静さを保てるなら最後までできる。できずに一度でも果ててしまったら、その一度ですべて絞り出されてまた次までお預け。
「……つっても、勝てるわけねえよこんな人……」
 嬉しくもあり、しかし情けなく、ハックは額を押さえてため息をつく。

 夜を待ち、先を急ぐ。果物を盗み、腹を満たす。人を見れば避け、避けられなければ去るまで待つ。
 そんなことをしていればろくに進めるわけがなく、日の出が来て時間切れで休むことも何度かあった。それは旅の延長を意味し、二日目、三日目、四日目と、ハックには何度でも機会が巡ってきた。
 五日目、ツェリエの村の村はずれ。朝から激しい雨が振り、村も畑も灰色の雨幕に塗り込められている。そんな中、街道を無数の影が行く。鎧の兵士や大荷物の牛車、整然とした騎馬の列が、篠つく雨を背に受けながら、黙々と道を行き、小川にかかった木橋を渡る。ジングリット軍の一軍団、一万数千名が移動している。
 ハックとデジエラは、なんとその橋の下にいた。夜のうちに見当をつけてねぐらを決めたら、朝になって軍が来て、動けなくなってしまったのだ。
 ギシギシと鳴る低い橋桁の下で二人は息を潜めている。橋の両側は夏草が岸を覆っていて、そう簡単には橋の下は見えない。しかし幅三ヤード、長さ十ヤード程度の小さな橋だ。二人が横へ三歩動けば即座に発見される。
 四つん這いになることもできない狭い空間で、ほとんど抱き合ったまま丸一日。動くことも眠ることもできないこの一日が、ハックを勝利に近づけた。
(閣下……閣下ぁ……)
(声を……出すなと……っ……)
 デジエラの胸でハックがもがく。防具を外して、乳房もあらわにさせている。さらにハック自身も胸をはだけてズボンを下ろしていた。反り返った性器でデジエラのズボンをじかにこすりあげている。
 そして、デジエラの引き締まった腹に、小さな鶏卵を割ったような粘液溜まりがある。ハックはすでに達した後なのだ。それも朝から三度も。
 いくら初心で抑えが利かなくても、同じ相手に同じ姿勢で触れっぱなしで、連続三度も射精すれば、冷静にならないほうがおかしい。それに加えて、もう八度目だった。――ここまでの五日間で、八度もハックは挑んだのだ。
 今度こそ征服してやる、とハックは気負っていた。もう悲願といってもいい。
(閣下、したいです、お願いです……!)
 耳元でささやきかけ、右手で乳房をぐるぐると押し潰しながら、左手でデジエラのズボンの股間をこすり立てる。ようやく見つけたハックなりの責め方だった。上手というにはほど遠い。
 しかしそれでも、半日続けてやったおかげで、さすがのデジエラにも効いているようだった。
 肌が温まり、柑橘の香りがひときわ強い。こすりつける性器に応じて時おり震える。それに顔に朱が差している。瞳が潤んでぞっとするほど艶めいている。
(三度達してまだ盛るとは……若いな、ハック)
 そう言ってハックの性器を指で包みに来る。(くううっ……!)とハックは唇を噛んで耐える。強く熱い指が、じわっ、じわり、と性器を絞る。下手に忙しくしごかれるよりも心地よい。朝にやられたときは一分も持たずに達した。
 今ならかろうじて耐えられた。ひくつく根元に力をこめて必死にこらえながら、手をデジエラのへそにやって、とうとう股間にじかに滑りこませた。じっとりと蒸れたそこを闇雲に探って、茂みの下の谷間を探し当てた。
 指を曲げると、とぷりと濡れた感触がして、熱い潤みに包まれた。
 ハックは目を見張ってささやく。
(……濡れてます!)
(不感症ではないからな)
 デジエラが、もうこの頃では平常の息を保てず、大きく胸を上下させながらささやき返す。
(岩山の時から濡れていた。心はそれと別というだけだ。考えてもみろ――)
 腹の上にたまった精液を手ですくって、デジエラはハックの性器に塗りつけた。
(女だと言っただろう? これだけかけられて濡れないほうがおかしいんだ)
 汗ばんだ顔に浮かんだ微笑は、誘惑以外のなにものでもなかった。ハックは、デジエラのズボンを破るつもりで引っぱった。
(すみません、もう我慢できません!)
(――ここで私が叫ぶわけにはいかんな)
 つぶやいたデジエラが、ハックの手をつかんで止める。え? と顔を見つめ直すと、デジエラは潤んだ瞳に優しい笑みを浮かべていた。
「叫ぶんだ。されると」
 いきなりハックは、寝技のような凶暴な動作で押し倒された。上下ところが変わり、デジエラがのしかかる。ハックの唇を奪って、酒よりも熱い舌を差しこみ、背伸びした乳房で胸板をくすぐる。そうしながら、手慣れた動作で自分のズボンを降ろした。
 ぷふ、と唇を離して言う。
(誘ってすまなかったが、あれだけ盛られると体が勝手に、な)
(か、閣下?)
(侘びだ。ひとまずこれでこらえろ)
 初めて彼女が攻めに出た。舌と指、乳房と腹がハックの全身を愛撫した。下着だけは脱がなかったが、太腿を初めて見せた。脂が乗り切って輝くそこでハックの性器をなぞり上げた。
 デジエラは同じ立場で半日耐えたが、ハックは一分も持たなかった。
「くひぅ……っ」
 袋から空気が漏れるような小さな音を聞いて、橋を渡る兵士が不思議そうに下を見る。しかし後続につつかれて歩き出す。
 声が消えたのは口づけで塞がれたからだ。呼吸も許さないような激しいキス。だがハックは抵抗の素振りも見せない。
 抱きしめられて達する至福に、文句のあるわけがなかった。

 体の上から重みが消えても、少年はしばらくぐったりと放心していた。
 受身になって、初めてわかった。その人はどうやってもかなわない相手だった。当たり前かもしれないが、やっぱり、帝国にただ一人しかいない女だった。
 橋桁の陰から頭上をうかがっているその人に、ハックはぽつりと言った。
「閣下……その……デ、デジエラ」
 恐ろしく勇気のいる呼び方だったが、閣下などと呼んでいては伝わる気がしなかった。
「デジエラ、惚れました。好きです。一緒になってください」
 紅の頭はしばらく動かなかった。やがて雨音にまぎれそうな声が言った。
「安いぞ、私は」
「安い……?」
「七人。――いや、八人か。今まで八人と寝た。純潔などとは口が裂けても言えん」
「そんなこと! 八人でも八十人でも関係ないです!」
「それにな、おまえに恋することはない」
 振り向いた顔が、慈しむように微笑んでいた。
「死ぬまで惚れない女だ。そんな女に値をつけるな」
「惚れさせます! 俺ががんばって――」
「服を着ろ、動くぞ」
 人が変わったように声が冷えた。ハックは瞬きする。女の瞳が光っていた。
「貴様は兵で、私は将だ。わきまえろ」
「は……」
「軍列にまぎれ込む。木を隠すなら、というやつだ。……急げ」
 デジエラはローブを裂いて髪を巻き、炎の色を隠した。最初に番小屋で見たときの、生きた凶器のような苛烈さを再び発していた。
 ハックはひとことも言い返せず、服を着なおした。
 
 普通の状況で、普通の人間だったら、いくらなんでも行軍中の軍隊にまぎれ込むことなど不可能だったろう。しかし雨が兵の間隔を乱し、デジエラは図抜けた戦士だった。橋の上をうかがい、前後と離れた二人だけの兵が来ると、引きずり倒して当て落とした。手に入った歩兵の甲冑と面頬を身につけて、二人はジングリット軍に入りこんだ。
 ツェリエ村は領都の一つ手前で、そこを通り抜けて領都につくまで、三つも関所があった。しかし軍隊は調べられず、雨はもった。街門をくぐって市中に入ると、二人は急いで列を離れ、下町へ向かった。
 辻辻に哨兵が立ち、石畳の街路のあちこちでひづめの音が響いた。物々しい警戒ぶりで、誰何されることもたびたびだった。軍の事情に通じたデジエラが答え方を伝授してくれたが、切り抜けるたびにハックは生きた心地がしなかった。しかしデジエラは満足げに言った。
「見込みがあるな。これだけ備えを固めているということは、やはり陛下がいらしている」
 ハックが買い物がてら適当に聞いてまわっただけで、その推測は裏付けられた。クリオン皇帝がこの街に来ていることは周知の事実だった。頭のはげた薬屋の主人は、不思議そうに言った。皇帝が来ると商いが振るっていいんだがねえ、こんな湿気た土地へ何をしに来たのだか。この季節ならシッキルギンの高地へ向かわれるほうがよっぽど塩梅がよかろうに。――髪染めを手に、無言でハックは辞した。
 裏路地で待っていたデジエラの元に戻り、報告をして買った品を渡すと、ハックは最も気になっていたことを尋ねた。
「閣下……俺の任務はここまでですか。もう道案内の必要は……」
「まだ少しある。陛下のもとへ参上するのに手伝いが要る。が、危険だ」
 デジエラは、将としての厳しい眼差しのままでハックを見る。
「私の見るところ、貴様では任に耐えるかどうかわからん。だから強いて来いとは言わん」
「他にあてがあるのですか。もっと頼りになる部下が?」
「いや、誰でも一緒だ。そんな者がいればとっくに会っている」
 そんなことを言われたら、ハックの返事も一つしかなかった。
「だったら、たとえ危険でも俺がお手伝いします。――貴女の道連れなら本望です!」
 デジエラはハックから目を逸らし、雨滴の来る曇天を見上げて、長い間沈黙していた。
 ぼそぼそと言った。
「決行は明日だ。手は考えてある。今夜はこの辺りで宿を取ろう」
「閣下……」
「ハック、おまえのは」
 振り向いた。頭の布から紅の流れが一条こぼれ、濡れて片頬に張り付いていた。
「勘違いだ。それを教えてやろう。今夜一晩かけて」
 そう言ったデジエラに、ハックは片手を握られ、迷子のように引かれていった。

 雑魚寝が当たり前の木賃宿で、個室を取り、しかも湯を使わせてもらうのは簡単ではない。しかし、ここはハックの出番だった。ヴォース領兵の軍監である貴族の名を出して、一世一代のハッタリで宿の主人の部屋を借り上げた。
 たらいに張った水を鍋の湯で割り、手ぬぐいを浸して体を拭く。それだけのことでも、生き返ったような心地がした。買った品には着替えもあった。小ざっぱりしてハックが寝室に戻ると、先に湯を済ませたデジエラが鏡台の前にいた。
 ちょっとした衝撃だった。この女が白麻のシュミーズに身を包んで、しかつめらしく髪をすいているのは。
 むき出しの肩やふくらはぎが、ランプの光に輝いて目がくらむほど悩ましい。ハックは戸口で棒立ちになる。
「あの……」
「少し待て。今夜は髪を乱すわけにはいかない」
 長い髪を小器用に紐で縛っていくさまを、ぼんやりと見ていたハックは、言いようのない懐かしさを覚えた。そんな光景を以前見たことがあるような……。
「母が恋しいか」
 ハックは短く息を呑んだ。
 デジエラが体ごと振り返り、悲しんでいるように目を伏せて言った。
「六つで孤児となったのなら、母の記憶は残っているだろう。似ているか? 私は」
「わ……わかりません。ぼんやりとしか覚えていなくて……」
「覚えているんだ。おまえは、私に母を重ねている」
 かっとハックの頬が熱くなる。羞恥と怒りの血が上っていた。大声が口をついて出る。
「俺は貴女を女として見ました! は、母に見立てたわけじゃ」
「あれだけ甘えておいてか?」
 ハックはデジエラに飛びかかった。両肩をつかんで椅子から引きずりあげ、唇を重ねる。デジエラは抵抗せず、静かに見つめている。視線が重くてハックは顔をそらす。一挙一動を試されているような気がする。
「くそっ!」
 デジエラをむこう向きにベッドに突き倒した。ふっくらとシュミーズを持ち上げる張りつめた丘と、油を塗ったような光沢を放つ内腿が目に入る。下着が一番細くなる合わせ目も。じゅぅっと血が集まるのが感じられるほど激しく勃起して、ハックはそこへかがみこんだ。下着を引きずりおろして腿まで下げる。最後の場所が目の前にあった。――ぎゅっと引き締まったつぼみと、ぽってりとした堤に縁取られた、幾重もの昏い赤色のひだ。
「ハァッ」
 犬のように舌を出し唾液を垂らして、顔を突っこんだ。あの甘酸っぱい匂いと潮の味が入り混じって鼻と口に入ってきた。胸が破れそうに心臓が高鳴る。かき混ぜられた粘液の音が露骨に上がる。
 性器が限界まで反りあがって、ずきずきと痛んだ。かまわずズボンを脱ぎ捨て、手でしごいた。入れるために体を起こす。神殿の柱のようにどっしりした太腿と、並べた月のような尻が目に入り――物問いたげに振り向いているデジエラと目が合った。
 赤い唇が小さく動いた。
「それで惚れさせているつもりか」
 挑発ではなかった。新米の太刀筋を目にして、なっていないとさとす時の口調だった。
 デジエラが汗の玉の一つも浮かべていないのを見て、ハックの衝動はたちまちしぼんでいった。尻をつかんでいた指が滑り落ち、彼女の顔を見られなくなった。
 ふ、と小さなため息が聞こえた。デジエラが向きを変えていた。ハックの手を引いてベッドに座らせ、その前に立つ。何か粉のようなものを指で股に塗りこんでから、右膝、続いて左膝をベッドに乗せて、ハックの腿をまたいだ。
 そして、何をする気かと見守っているハックの前で、ゆっくりと尻を降ろして、まだ上を向いていた性器にひだの中心を押し当てた。
 くぷぅ――と、心地よい抵抗の後に、ぬるぅっ! と潤んだ粘膜の摩擦感がハックを呑みこんだ。
 目を見張る。声が出ない。息も出ない。呑まれてしまった性器だけが意識を占めている。
「わかっているか?」
 声に続いて、さらりと目の前で何かが落ちた。デジエラがシュミーズを引き下げ、乳房を現したのだ。
 強い筋力のおかげで高々と盛り上がった丘の間に、ハックは両腕で抱きしめられた。頬を肉がたぷりと挟む。
「あ、あふ」
「――男なら、私を満足させなければいけないんだぞ?」
 言葉とともに、一気に体重がかけられた。乳房ごと、体ごとデジエラがのしかかってきた。ハックは倒れないように支えるので精一杯だった。股間からふっと力が抜けた。
「ふわっ!」
 溶けた肉になかば吸い出されるようにして、ハックは放っていた。びゅるっ、びゅるるるっと、糸を吐くクモのように、細く白い流れを吐き出し続ける。二人の股間はぴっかりと重なり合っていて、外にこぼれるような状態ではない。デジエラはへその内側にその痙攣を感じ取った。
「くっ……」
 一瞬、両目を閉じる。額にじわりと汗が浮いたが、それもわずかだ。快感を覚えたのではなく、単に精液を感じただけ。
 二度ほど深呼吸してから、ハックの頭の上で言う。
「……早すぎだ。それでは私は叫ばない」
「くぅ……ぅ……」
「答えろ、ハック。おまえは――私の男になれるのか。それとも、こうして何も考えずに包まれているのがいいか」
 射精後の虚脱に襲われているハックに、最高の抱擁が訪れた。きうぅ、と背筋がまっ白になるほど性器が締め付けられ、温かい両腕が背を抱き、口元にツンととがった芽が当たった。目を開けると、汗に光る美しい乳房が突きつけられていた。
 意地よりも、本能が勝った。
 ハックはそれを吸った。ちうちうと音を立ててしゃぶり、幼児のようにデジエラの腰に抱きついた。
 苦笑しているような声とともに、頭がなでられた。
「わかったな。……おまえは私に恋したのではないんだ」
 悔しかった。だがハックはうなずかないわけにはいかなかった。

 その晩どんなことがあったのか、ハックは細かいところを覚えていない。後のほうは泣いていたような気がする。それは、自分で積極的に挑むよりも、デジエラにいいように抱かれるほうがずっと心地よかったための、純粋な悔し泣きだったと思う。
 とにかくその夜、ハックが抱いていた邪念はすべて引き出され、それをすべて、デジエラは楽々と呑み込んでしまった。まったく、ハックがどうあがこうと、肉体的にも精神的にもまったくかなわない相手だった。恋人にしたいという願いは消えた。みじめに叩きつぶされ、きれいに蒸発させられたのだった。
 朝になるとデジエラがおらず、わけのわからない不安を覚えた。一刻ほどして彼女が戻ってきたくると――朝のうちに髪を暗く染めていて、まったく印象が違ったので驚いたが――ひどく安心した。
 それで、自分の変化に気づいた。
 ――ああ、この人は俺のおっかさんになったんだ。
 そんな気がしたし、そう自分に言い聞かせた。かなわぬ恋を願うよりずっと楽だったからだ。母だと思っていれば離れることもできるだろう。皆やっているんだから。
 その代わりに、離れるまではしっかり守ってやる。
 そう考えると、ふわふわしていた自分が固い地面に降り立ったような気持ちになった。任務が成功しようとしまいと、二人の道行きは今日終わる。それまではデジエラに忠誠を尽くすのだ。
 ハックの思いは態度に出ていたらしく、顔が変わったな、とデジエラに言われた。その彼女は妙に昂揚しているようで、ハックはさすがだと思った。――これから裏切り者の宰相と会うのに、ぜんぜん沈んでいないなんて。
 デジエラが出かけたのは、盗みのためだった。一体誰をどうごまかしたのか、馬車を一台くすねてきた。貴族の家紋の入った立派なものだ。さらにその中に正装のドレスと従者の服まで用意していた。
 貴族の婦人に扮して皇帝に謁見を願う。それがデジエラの策だった。彼女ならば化けること自体は難しくない。しかし皇帝に謁見できる位の貴族が供も連れずに出歩くのはおかしい。だからハックの手伝いが必要なのだった。
 着替えた二人は出発した。もちろん目的地は皇帝のいるヴォース城だ。門衛に偽の貴族の名を名乗り、馬車を降りて案内を受け、控えの間から控えの間へ次々と歩かされ、ようやく謁見の順番が告げられる。――仰々しいしきたりが満ちた威圧的な世界を、ハックはうろたえることなく潜り抜けた。先を行くデジエラに綿密な指示を受けていたし、デジエラが着ている、どこかの能天気な姫が好みそうなピンクのドレスの内には、強力無比のロウバーヌが収まっていたからだ。
「怖いか」
「いいえ」
 小声の問いかけに、きっぱり答える余裕があった。そうだ、たとえ露見して討たれたって、この人と一緒なら悔いはない。何を恐れることがあるものか!
 午後もなかばまで待たされたものの、とうとう謁見の許しを得ることができた。ハックは幸運に感謝する。フィルバルト城の皇帝に謁見を求めた使者が、待っている間に飢え死にしたという笑い話があった。
 その皇帝は、意外にも、謁見室などにいるのではなかった。二人は屋外に連れ出された。ヴォース領主とともに庭にいるのだという。植え込みの間の小道を歩き、いくつかの彫刻に囲まれた中庭に出たところで、デジエラが言った。
「ハック、終わりだ」
「終わり?」
 聞き返そうとすると、二人を案内した侍従が言った。
「あちらが皇帝陛下にあらせられます。ご挨拶を」
 先ほどから高鳴りっぱなしだったハックの心臓が、どきん! と大きく脈打つ。中庭の様子が目に入る。噴水のそばの石畳に、たくさんの鳩と数人の人がいる。ハックが見たことのあるのは、壮年で人のよさそうなヴォース領主と、部下の領兵二人だけ。その他には――
 青い長髪の青年。噴水のそばで腕組みして立っている。
 豪奢な金髪を背に下ろした、白い夏服姿の娘。走り回って鳩を蹴散らしている。(頭に尖った耳が生えている!?)
 黒の尼僧服、いや、尼僧服を思わせる質素で品のいい長袖を身につけた、銀髪の大柄な娘。(水盤に腰かけて、耳娘を不機嫌そうににらんでいる)
 そして緋のマントの少年。ほがらかに笑って声を上げる。
「フウ、約束が違うよ! おなかがいっぱいの時は狩りをしないって」
「陛下」
 ハックの隣でデジエラが言った。喜びにあふれた声だった。会えなかった主君にようやく会えたための――
 違う。
 ハックは愕然として振り返る。デジエラが唇の端を吊り上げている。逃げ惑う獲物をようやく見つけた、というように。
 気づいてこちらを向く人々の前で、デジエラは大胆にも太腿までスカートをたくし上げ、足の外にくくっていた長剣をずらりと抜いた。
「――お命、頂戴いたします」
 
 耳娘があきれるほど速かった。デジエラが剣を抜くか抜かないかという時にもう地面を蹴り、疾風のように飛びかかってきた。
「ハアーッ!」
 ギャリッ! と鋼が歪む音が上がった。はなから異様な立ち合いだった。耳娘は駆け寄りながら鋳鉄の椅子を引っつかんでデジエラに叩きつけた。しかしそれをデジエラが長剣で真横にはね飛ばしたのだ。
 剣を振りぬいたところに耳娘が突っこんでくる。かぎ爪がぎらりと光ってデジエラの喉を狙う。しかしデジエラの足のほうが速かった。ドレスの下から猛烈な勢いで蹴りを放ち、耳娘の脇腹に食らわせて植え込みの向こうまで吹っとばした。
 次は青い髪の青年だった。耳娘が吹っ飛ぶのと入れ替わりに駆けてくる。狼のように凶暴な笑みを浮かべて、一気にデジエラの懐まで。ドレスの裾を踏んで動きを封じる。
「ずいぶんめかし込んできましたね、将軍閣下!」
「ひさびさの謁見だからな」
 答えの語尾は、ビーッ! という音でかき消された。拳をデジエラの腹に打ち込もうとした青年が、ぎょっとする。
 彼が踏んで止めたと思ったのは、ドレスの裾だけだった。デジエラは即座にそれを引き裂いて後ろへ跳躍している。長剣を両手で掲げて腹の底から叫ぶ。
「ロウバーヌ!」
 青年が驚いて動きを止めた。それを見たデジエラがにやりと笑った。
 次の瞬間、デジエラは豪快極まりない深い踏み込みで青年の目の前に戻り、曲げた肘を水月に叩きこんだ。「がふっ!」と苦鳴を上げた青年に、すかさず高い回し蹴りを一発。
 こめかみに足の甲が見事に入り、青年は半回転して倒れ伏す。
 三人目、黒衣の娘も駆け寄ってきた。樫板を楽々と割りそうな重い拳を続けざまにデジエラに浴びせる。しかしデジエラはすべて避け、いきなり伏せて低い蹴りを放った。足を取られて転がる娘に、固めた双拳を全力で振り下ろす。
「くあっ!」
 体をくの字に跳ね上げて、娘は動かなくなった。 
 あっという間に三人を倒して、女将軍は悠然と少年に近づいた。
「王手です、陛下」
「……さすが」
 少年は目を細めると、その歳にしては鋭利すぎる眼光を浮かべて、腰の剣に手をかけた。
 呆然としていたハックがようやく行動を始めたのは、この時だった。
 ――なんだ? どうなってんだ? なんで閣下が陛下を襲うんだ!
 彼にとっては、まさに異世界のできごとだった。デジエラの意図がわからない。今しがたの戦いりやり取りもろくに理解していない。第一、実戦は初めてなのだ。
 しかしわかることが一つだけあった。
 デジエラに向かって全力で走り、飛びついた。
「閣下、だめです! 皇帝陛下に刃向かってはいけません!」
「なっ、こらっ! 離せ!」  
 不意討ちになった。泡を食ってもがくデジエラを、ハックは必死に引き止める。
 彼にわかっているのは、デジエラが本物の謀反人ではないということだけだった。
「おとなしくお裁きを受けましょう、そうすればきっと――」
「だめだよ」
 笑い出す寸前のような声を聞いて、ハックははっと見上げた。少年が細身の剣を振り上げていた。
「許さない。反逆者は……こうだ!」
「閣下!」
 ハックの悲鳴に続いて、コン、と軽い音がした。
「……え?」
 少年が、デジエラの頭をふざけたように小突いた音だった。
 デジエラががっくりと膝をつく。
 気絶したはずの三人が次々に起き上がる。
 ハックは、
「――こ――」
 顔の下半分を口にして、忙しく首を回し、一同を見比べた。事情がまったく、かけらも、さっぱり理解できなかった。
 デジエラが振り返り、気の抜けきった苦笑で言った。
「演習だ」
「えん」
「軍事演習。私一人対、国軍三万。陛下に触れれば私の勝ち、私が捕まればジングリット軍の勝ちだった」
「謀反は。その、宰相閣下が」
「あれは嘘だ。済まなかったな、ハック」
 デジエラが頭をかき、いぶかしげにハックの顔を覗き込んだ。
「……ハック?」
 ハックはへろへろと腰を抜かした。

 ヴォース城駐屯の疾空騎兵が領内へ伝令に飛び、午後になって続々と兵が戻ってきた。その中に、カリョールの村で見たマイラという鳥使いや、最初にデジエラを探しに来たはずのネムネーダ第一軍団長、さらに諸悪の根源という触れ込みのイシュナス・レンダイク宰相の姿まで現れても、ハックはまだ実感を覚えられなかった。この数日間の思い込みが焼きついていた。
 あの後、放心したハックに、デジエラはきちんと説明してくれた。
 そもそもの始まりは、大陸戦争が終わってから大きな戦いがなくなったことだった。軍隊の強さは戦闘経験によって大きく左右される。平和になったのはよいことだが、軍が弱くなってはもしものときに困る。演習をやって練度を保たなければならない。
 しかし、大陸の情勢を鑑みると、大明は内紛に明け暮れ、シッキルギンやフェリドは友好的になったので、この先は当分、国対国の大規模戦闘が起こる見込みはない。むしろ、大陸戦争が引き起こした国内の歪みが尾を引いている。イフラ教会の残党、『遷ろう者ども』を失って悲しむ者、戦没者の遺族、没落貴族など、皇帝と帝国府に不満を持つものは数多い。争いが起こるとすれば、そういった者たちとの戦いだろう。
 だから――多対少の、皇帝防衛演習をする。
 少数精鋭の敵は、正規軍にとって意外と戦いにくいものだ。単独行の暗殺者ならなおのこと。以前も「麗虎」という前例があった。腕利きの暗殺者が皇帝を狙っているという設定で演習をすれば多いに役に立つだろう。さてその場合、暗殺者の適役は誰か。決まっている、帝国最強の人間だ。すなわち、デジエラ・ジングピアサー北鎮将軍。
 準備は整い、演習は開始された。初期配置は皇帝がヴォース領のどこか、デジエラが領外。デジエラは領外で鳥を盗んでヴォースに入ったが、マイラたちによって予測され、峠の上の空中戦でいったんは墜落した。しかし関所のハックが救ってくれたので、これを絶好の支援者と見て、襲撃を続行することにした。後はハックも知っての通り、彼の手を借りて巧みに領都へ向かい、あわや皇帝を仕留める寸前までいったのだった。
 レンダイクが謀反を起こしたという話は、デジエラがハック一人だけに騙った、真っ赤な嘘だった。
「それで謀反の理由を説明してくれなかったのかよ……くっそお、何が深く聞くな、だ!」
 ヴォース城の大広間の片隅で、ハックは頭を抱えている。特別な協力者ということで列席を許されているのだ。テーブルには領内の地図が広げられ、武将や文官たちに囲まれて、デジエラと少年皇帝が交互に経過を話し合っていた。
 やがて、皇帝が溜め息をついて言った。
「デジエラがうまかったのはわかったけどさ、これはずるいよ。君が案内人を頼むなんてこっちは考えてなかった。足手まといを連れて歩くはずがないと思ったからね」
「暗殺者が土地の者を脅して利用しないと、なぜ言えるのです」
「ごもっとも」
 両手を挙げた皇帝が、ちらりとからかうような視線を向ける。
「でも、負けはしなかったよ。最後の最後でアレだったから」
 彼の顔がこちらに――ハックに向いた。二十ヤードは離れているのにはっきりした視線を感じる。ハックは息もできずに硬直する。誰に言われたわけでもないのに、姿勢を正さずにいられない。何しろ相手は教会の神様を殺した皇帝だった。
 ただ、目が合ったときに少しだけ思った。
 ――あれ、俺に似てる……?
 皇帝がすぐに目を逸らしたのでよくわからなかった。年が近いせいか、と力を抜く。俺は十八歳、あの方は十七歳だから……って、ひとつ下なのに、あの迫力か!
 別世界の人間なのだとしみじみ感じた。
 デジエラはハックを見てくれなかった。あの負け方は不本意でした、とぶっきら棒にいう。ハックは身が縮む思いだ。暗殺の邪魔をしたことと、デジエラを負けさせたこと、二重の意味で彼女に背いてしまったのだから。ここ数日の彼女との夜も、あれで帳消しになったに違いない。
 いや帳消しどころか、あれが彼女の素顔だったかどうかも疑わしい。ハックを信じさせるために誘惑していたと考えるほうがずっと自然だ。あの人ならそれぐらいはやるだろう……。 
 ハックが意気阻喪しているうちに会議が終わったらしかった。皆が一斉に立ち上がり、緘黙の礼をする。ハックが見よう見まねで同じことをすると、皇帝が退出していった。
 ハックが声をかけられることは一度もなかった。
 皇帝に続いて高官たちが出て行く。先頭は赤い羽根付きの丸帽をかぶり、右肩からゆったりした白の礼帯を下げたレンダイク無地公爵。ハックに一瞥もくれず通り過ぎる。
 その次がデジエラだった。
 彼女はすでに着替えていた。赤の半甲冑と象牙色のマント、金の肩章といった美々しいいでたちだ。いつのまにやら毛染めも落とし、紅の髪を、艶もまぶしく肩に波打たせている。非の打ち所のないあで姿だった。
 ハックは思わず声を上げる。
「かっ……」
 デジエラは無言でハックの前を通り過ぎた。
 ハックは落胆してうつむいた。いくつものブーツの音が止まらずに流れていく。夢が醒めたんだ、と思った。美女を守る英雄から、戦士でも聖人でもないただの番兵に逆戻り。
 それが分相応だとわかっていたが――叫びたいほど、悔しかった。
「……くそっ!」
「おまえがハックか?」
 顔を上げると、ふっくらした顔と体の青年がハックの前で足を止めていた。糸のように目を細めてハックの爪先から頭まで眺める。
「関守りのハックか?」
「は、はい。ハックです」
「そうか、おれはロン・ネムネーダだ」
「ネムネーダ……第一軍団長閣下!」
 あわててハックは背筋を伸ばす。デジエラより格下とはいっても、一万以上の兵を動かす男だ。ヴォース領主より偉い。
 その偉い男は、ハックの肩をぽんと叩いて冗談のような気安さで言った。
「閣下はくすぐったいなあ。しかし呼び捨てってのもなんだな。ロン様、ぐらいでいいぞ。うは、自分で言うと偉そうだな」
「は? あの閣下?」
「ロン様だ。おれ、この後まだ部隊を回らなきゃならんから、先に部屋いって荷物まとめといてくれ。たいしたもの持ってきてないからすぐ終わると思う」
「はあ? あ、ご命令ですか?」
「命令というか」
 ふとネムネーダは何かに気づいた顔になり、ぱちんと自分の額を叩いた。
「こいつはやられたかな? おいハック、ジングピアサー閣下から何も聞いてないのか」
「は、はい」
「やっぱりか! あのな、おまえはおれの従卒になったんだ」
「俺が……ネム、ロン様の?」
 ぽかんとするハックに向かって、ネムネーダは大げさに肩をすくめてみせた。
「頼まれたんだよ、道中いろいろ世話になったから、おまえの面倒を見てくれって。おれもまだ嫁さんいなくて身の回りが不便だったから受けた。おまえだって国軍に仕官したかったんだろ? それとも金貨や勲章のほうがよかったか?」
「それは……その、ええと」
 ハックはしどろもどろになって問い返す。
「俺、閣下にお払い箱にされたんでしょうか。というか、これ、ご褒美なんですか?」
「あのなあ、おれの従卒にされて、お払い箱ですかってのは失礼じゃないか? おれに」
 ぱかんとハックの頭の横を叩くと、ネムネーダはにやにや笑った。
「閣下がおれにただの雑兵を押し付けるわけがない。おまえ、見こまれたぞ」
「どうして……」
「さあ、詳しくはわからんが、どこかの村で、おまえが閣下を売らなかったから、とおっしゃってたな」
 カリョール村でのことだろうか。確かにあの時は鳥使いに加勢するほうが得だったのに、デジエラを助けた。しかしデジエラがそのことに気づいていたなんて……。
 口を閉ざしたハックを見て、迷っていると思ったらしい。ネムネーダが気さくにいった。「まあ一、二年苦労してみなって、そのうち目の玉飛び出るぐらい大層な地位にされるから。何騎ほしい? 百か? 二百か?」
 わはははは、と大笑いしてネムネーダは去っていった。
 ハックはしばらく、ぼんやり突っ立っていた。それから大あわてでネムネーダの部屋を探しにいった。荷物をまとめなければいけない。
 それは地味な仕事だ。美女の護衛とは比べ物にならない雑用だ。
 けれども、今度こそ夢ではないのだ。

 長い軍列が城門をくぐって進む。演習を終えて王都へ帰っていく軍団だ。
 デジエラはヴォース城のバルコニーから見下ろしている。
「閣下、疾空騎団三十騎、揃いました」
 背後にマイラが現れて呼んだ。デジエラが動かずにいると、隣に並んで見下ろした。
 デジエラは言う。
「マイラ、聞くが」
「はい」
「陛下以外の男に惚れたことはあるか」
 唐突な質問だったが、マイラはすぐに答えた。
「ありません。あったとしても陛下とは比べ物になりませんから、どうということもありません」
「そうか。私もだ」
 うなずいたデジエラは、しばらくして横顔に突き刺さるマイラの視線に気づき、ああ、と片手を振った。
「心配するな。誰にも惚れていないという意味だ」
「……そうですか」
「それが残念でな。私を惚れさせるような男がいないというのが……」
 じっとデジエラを見つめたマイラが、疑うように聞いた。
「あの列にいるのですか?」
「まさか」
 デジエラは軽く首をふる。
「ちょっと生きのいい雛がいたというだけだ。まだ目も開いていない。私は産毛をむしってやったんだ」
「雛なら、いずれは羽ばたきます」
「そうかもしれんな」
 何を見つけたのか、軍列の中に少しだけ目を据えると、デジエラはすぐに手すりを離れて歩いていった。マイラはもう一度、軍列に目をやった。
 ちょうど第一軍の団長旗が城門をくぐっていくところだった。


―― 了 ――





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