次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第八話 中編

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「もう一度申し上げておきますが、このような使い方をすればただでは済みませんぞ」
 ラブリス・ベクテルはそう言って背後を振り返った。五十歳ほどの精悍な男がわずらわしそうに答える。
「よい。……その者は信仰篤きイフラの下僕じゃ。心配には及ばぬ」
「はあ……」
 ベクテルは前に向き直る。そこには一人の討伐僧が立っている。屈強な男で、背丈より大きなハルバードを手にしている。
 奇妙なのはその右手だった。手の甲から肘まで覆う武骨な篭手をつけており、そこにいくつもの黒い玉がはめ込まれている。聖霊を封じ込める封球である。
 封球は五個もあった。
 ジングリット国軍工武廠の工匠であるベクテルは、その篭手に道具を当てて封球の位置を合わせながら、内心の恐怖を懸命に押さえ付けていた。血と力に従う聖霊は一体を操るだけでも術者の体力を激しく消耗させる。それを五個もつけたら……
 結果は想像したくもなかったが、断った場合の自分の運命はもっと想像したくなかった。かつて同じ皇帝の臣下であり、教会の手先だったと判明したジューディカ老は、些細なことで男の不興を買い、全身の骨を一本ずつ折られて苦しみながら死んだ。
 五個の調律を終えると、ベクテルは後ろへ下がった。
「終わりました」
「うむ。……始めよ、ガスタン司教」
「はっ」
 ガスタンと呼ばれた討伐僧は、歩を進めてテラスの端に立った。
 フィルバルト城を一周する外壁上にそびえる北の塔である。昼間ならフィルバルトの家並みがはるか四リーグも先まで見渡せるだろうが、今は明け方近い夜更けで、家々が青い闇の中に沈んでいる。
 ガスタンはハルバードを斜めに突き出し、詠唱を開始した。
「我、イフラの理に服せし神の子、ペレロ・ガスタン。神と我と使徒の名において力ある者たちに命ず、目を開き、同胞の息吹を聞け。いざや、聞かん?」
 ちりっ、と封球の一つが鳴った。――次第に複数の封球がちりちりと鳴り始め、やがて五つの封球すべてが篭手そのものを揺らして震動するようになった。
「うおっ!?」
 ぼうっ! と五つの封球がそれぞれ異なる色の光を浮かべた。赤、紺、金、白、黒。ガスタンの右腕ががくがくと痙攣する。彼は左腕で篭手をつかんで抑えようとしたが、とても抑えきれず、震動は上半身全体に波及した。
「ぐっ、うおっ、おおおっ!」
 大地震のように体を揺さぶられつつ、ガスタンは懸命にハルバードを構え続けた。五色の小さな閃光が蛇のようにハルバードを這い上がり、鋭い先端で互いにぶつかり合って、パッ、パッ、と火花を散らした。
 ベクテルが悲鳴のような声を上げる。
「五種すべて発動しております! もうよろしい、そこで止めて――」
 その瞬間、紺と黒の封球が小さな音を立てて砕けた。途端にハルバードを這い回っていた光の蛇が腕を駆け上り、討伐僧の肩に突き刺さった。
「ぐわーっ!」
 ガスタンの恐ろしい叫びとともに、光は消えた。思わずベクテルは顔をかばう。
 しばらくして恐る恐る目を開けると、ガスタンは床に倒れて気を失っていた。僧衣の右肩が無残に焦げてしゅうしゅうと煙を上げている。篭手は外れて転がっていた。
 息を呑むベクテルに、壮年の男が無感動な声で問う。
「失敗かの」
「い、いえ……成功です。ただ、この司教殿が聖霊のぶつかり合いに耐えられなかったようです」
「方策は?」
「より体の丈夫な方に……より短い時間で済ませていただければ」
「そうか」
 そこでやっと男は付き人を呼び、ガスタンの手当てを命じた。
 ガスタンが運び去られると、男はベクテルを振り返って笑顔で言った。
「ご苦労。そなたの仕事は終わりじゃ」
「は……では、もう工武廠に戻ってもよろしいでしょうか」
「その必要はない。工武廠の仕事ももうないからの」
 男は胸に下げた五星架をつまみあげた。
「戻る手間を省いてやろう」
 ベクテルは言葉を失う。この男の聖霊は、王宮が占領されてから何人もの不幸な人間を焼いてきた。それは慈悲の光だという。いかなる抵抗も許さず、すみやかに人を燃やし尽くす超高熱の炎。
「『ベテルギュース』よ……」
「ひいっ!」
 ベクテルは身を翻して走った。すぐそばがテラスの手すりだった。越えれば三十ヤード下の濠までまっさかさまだ。逃げるよりもむしろ身投げするのにふさわしい。
 しかし、他に逃げ場はなかった。ベクテルはためらわず宙に身を躍らせた。
「ふむ……」
 男は五星架から手を離し、テラスの端に立った。見下ろすと、はるか下方の暗闇に、ほの白い水柱が見えた。
 水音を聞きつけたらしく、塔内にいた僧たちがテラスに登ってくる。
「猊下、何事ですか?」
「ベクテルが飛び降りた」
「ただちに濠を捜索させます!」
「よい。本当に手間を省いてやろうとしただけじゃ」
 僧たちはいぶかしげな表情になる。男は振り向き、精気にあふれた笑顔を見せた。
「粛清はもう終わりじゃ。五星は止められぬからの」
 男の名はキンロッホレヴン四十九世。――大神官はもはや老人ではなかった。

 夜明けの直前にクリオンの一行は王都に到着し、闇にまぎれて郊外の丘の陰に下りた。そこからは徒歩での道行きとなった。
 やがて、東の地平線に現れた朝日が町を茜色に染め始めた。
 ――王都フィルバルト!
 それは南北二リーグ、東西四リーグに及ぶ広大な市街だ。大陸各地の諸都市と同じように壁に囲まれた街区もあるが、旧市街と呼ばれるその領域の外側にも家屋はあふれ出している。中央にある城の北側には大河オン川が東西に流れ、南側では家々は次第にまばらになりながら田園に接している。
 クリオンたちはその南側から街へ入っていった。
 朝市の頃だった。大通りには暗いうちに農村からやってきた牛馬車が列をなし、道沿いには数々の露店が並んでいる。農民のために旧市街への大門は開け放たれ、そこをくぐって城へ近づくと、大きな広場にやはり露店が並んでいる。ただしこちらは通りのそれとは違って、何十列、何十軒もが連なる一大交易場だ。さまざまな品物が店先に並び、数千、数万もの人々が行き交っていた。
 先頭をシエンシアが行き、マイラとクリオンが並び、その後に鳥使いの騎士たちが従っている。全員マントとフードで姿を隠しているが、冬の始めの寒い朝だから別に奇妙な姿ではない。
 そう、吐く息が曇るような朝なのに、市場は熱気に満ちていた。競りの声や客引きの叫び、子供の笑い声や女たちの話し声が響く。ざわめきの中を歩きながら、クリオンは不思議な気分になった。町は活気にあふれている。これのどこが『遷ろう者ども』の巣窟なんだろう?
「シエンシア、どこもおかしくないみたいだけど……?」
「忘れたのですか。『遷ろう者ども』は姿を偽ります。この周囲にも数知れぬ眷族が潜んでいます」
 クリオンたちはぎょっとして周りを見回した。――おかしな者はいないし、こちらを見ている者もいない。
 クリオンはレイピアに触れてみた。『ズヴォルニク』は沈黙している。それで少し安心した。
「近くにはいないよ。『ズヴォルニク』は眠っているもの。――そうだ、逆にこいつを目覚めさせて、「見極め」るのもいいかな」
「彼は出番を心得ているんです。今はもう、彼一人が敵と立ち向かう段階ではありません」
「……どういうこと?」
「すぐにわかります」
 シエンシアはちらりと振り向いて、肩に背負った大きな麻袋をゆすった。その中には、四つの聖霊武器が入っている。
 彼女は雑踏の中を黙々と歩いていき、やがて一軒の古い寺院の前で足を止めた。クリオンはそれを見上げる。――両隣の民家とたいして変わらないほど小さく、石造りの壁や階段は苔むしている。屋根には草が生えている。が、五星架がない。イフラ教の教会ではないのだ。
 戸口の上に、五つの丸を正五角形に並べた銘盤がかけられていた。一見して五星架の代わりのようだが、配置が違った。五星ならば上下左右と中心に一つずつ配置される。
「ここです」
 シエンシアに続いて、一行は中に入った。
 中は礼拝堂だった。といっても、やはり仰々しい装飾はない。祭壇があり、参列席が三列ほど並んでいるだけだ。
 祭壇の前で、白いトーガをまとった数人の男女が待っていた。クリオンたちが入っていくと、一番背の高い、白髪を綺麗に結い上げた初老の女性が頭を下げた。
「ようこそ、クリオン皇帝。待っていました」
「……あなたは?」
「プロセジア占星団団長、プラグナ・プロセージャ」
「プロセジア……」
 わかってはいたが、伝説の集団の指導者と出会ったというのは、やはり驚きだった。クリオンは沈黙して彼女を見上げる。
 プラグナはシエンシアに目をやって微笑んだ。
「シエンシア。永の務め、大儀だった。道化に扮して皇帝を守るのはさぞかし苦労したろう」
「そうでもありませんでした」
「ふふ、そう言うと思った。我らの中でもひょうきんなおまえのことだからな」
 ひょうきん? クリオンとマイラは顔を見合わせる。正体を明かしてからのシエンシアの様子はとてもひょうきんどころではない。――が、シエンシアの顔を見たクリオンは思わず吹き出しそうになった。彼女は顔を赤らめてうつむいている。
 案外、マウスとしての行動のほうが地なのかもしれないな、とクリオンは思った。
 シエンシアは顔を上げ、なにやら意を決した様子で言った。
「団長、一つ頼みがあります」
「なんだ」
「グレンデル湖で箱舟を沈めた件、クリオンたちに謝罪してください」
「明かしたのか」
 プラグナは厳しい表情になって言った。
「あれはやむを得ぬことだった。敵の脅威は迫り、備えが必要だというのに、ゼマントや貴族たちは放蕩に明け暮れ、こちらの申し出などとても受け入れられぬ状態だった」
「それでもです」
「どちらにしろ後回しだ。今はそれどころではない」
 クリオンたちは一様に眉をひそめた。それどころではないのは分かるが、殺した相手の息子の目の前で言うようなことではない。それに、これはシエンシアもそうなのだが、プロセジアの人々はどうもこちらを見下しているようなところがあった。
 マイラが険悪な口調で言う。
「陛下は好意でここにいらしたんだぞ。それも、軍団を離れ、わざわざエピオルニスに乗って」
「御足労には感謝しますが、我らの都合で呼んだわけではありません。五星の巡りと敵の動きに対応せねばならないからそうしたまで」
「なんだと?」
 マイラが剣の柄に手をかけ、プラグナの周りの者たちが身構えたとき。
 低い声が場を圧した。
「皇帝の妃よ、こらえてくれ。時は本当に差し迫っているのだ」
 クリオンは誰か別の人間が現れたのかと思って礼拝堂を見回した。が、誰もいない。するとまた声が言った。笑うように。
「その気になればこういうこともできる。……これだけ敵に囲まれ、刺激されていればな」
「――『ズヴォルニク』!」
 クリオンは思わず叫んでいた。腰のレイピアが封球を明滅させ、声を発していたのだ。それも、今までのような思念の波ではない。肉声である。
 レイピアはかたかたと震えながら鞘から滑り出し、クリオンの前に刃を下にして垂直に浮いた。さらに驚いたことに、シエンシアが床に置いていた袋が開き、他の四つの武器までがひとりでに浮き上がった!
 一列に並んだ聖霊たちを見つめて、クリオンは呆然と立ち尽くす。マイラは口を開け、騎士の中には畏怖のあまり床にひれ伏してしまったものもいる。さすがにプロセジアの人々はそんなことはないが、それでも緊張していることは、その表情と額の汗で分かった。
 二本の剣、一振りの杓、一振りの槍、一枚の羽衣――聖霊たちが言った。
「我は海王、ズヴォルニク」
「我は明王、ロウバーヌ」
「わたしは天王、シリンガシュート」
「……もりのおう、チュルン・ヴェナ」
「私は淵王、闇燦星アンサンジン
 名乗りの声に続き、ズヴォルニクが苦笑するように言った。
「よくぞ集めた、ジングの裔よ。中には人の手を借りたものもあり、まだ汝に服していないものもあるが……」
 ロウバーヌと闇燦星が同意するように震えた。
 クリオンの心を満たしたのは、畏怖ではなく感動だった。彼らは一体一体が途方もない力を持つ存在だ。仰々しく光り輝いたり、大きな音を発したりはしていないが、内に秘めた圧倒的な力は見えない風のように肌を打っている。なのにこちらを威圧せず、ただほのかに、心臓の鼓動のように封球を瞬かせているだけだ。――その有様に、新たな友人と出会ったような喜びを覚えたのだ。
 ズヴォルニクが言う。
「プロセジアの長よ、いまや我らは敵の気配を感じ、すべての使命を思い出した。ゆえに我らを束ねる者を必要とする。――その備えはあるな?」
「……ええ、海王よ」
 ごくりと唾を飲んでプラグナが言った。
「皇帝を試す想念の世界――統精系誘起界の構築は進んでいます。が、それはまだ八割ほどしか……」
「そのしきたり、こたびは我らがじかに行おう」
「なんですって?」
「ところは神具律都ジングリット、家々には敵。わざわざ架空の世界を築かずとも、膳立ては十分だ」
 自分に関わることのようだが、意味がわからない。クリオンが説明を求めようとすると、プラグナが振り向いた。
「クリオン皇帝、五聖霊を御するには、彼らにそれを認めさせねばならないのです。我らプロセジアはその審判者として準備をしていたのですが……聖霊たちは、自らそれを確かめたいと」
「それはつまり……演習だったはずが、実戦になったってこと?」
「演習という言葉はふさわしくありません。現実とまったく変わらない再現性のある界で――いえ、およそその通りです」
 プラグナは言葉の途中で首を振って認めた。クリオンに分かりやすく言おうとしているのだろうが、それでもまだクリオンにはよく理解できない。
「それはどんなことをさせられるの?」
「むずかしくない」
 チュルン・ヴェナが――フウが言葉を話せたらそんな口調だろうと思われるような声で――面白そうに言った。
「おまえがいままでしてきたことをくりかえすだけ。……それがどんなばあいにもできるものならば」
「能書きはもうよかろう。言った通り、時間がない。これよりただちに始める」
 ズヴォルニクが言うと、プラグナとシエンシアが同時に声を上げた。
「待ってください!」「クリオンが行くなら私も――」
「道化の娘よ、見届け役として認める」
 ズヴォルニクが言った。
 次の瞬間、暗い穴にいきなり放り込まれたように、クリオンの視界が閉ざされ、体が宙に浮いた。

 その時、フィルバルト城北の塔に詰めていた討伐僧が、身に着けた篭手の激しい震えを感じて立ち上がった。

 国立汎技術学校エコール・ポリテクニク中等部コレージュの女子寮では、爆薬に火がつけられる寸前だった。
 爆薬とは、寮を根城とする男女二百人近い学生たちの不満だった。そして火は――
 その朝も寮の食堂では結束の会が開かれていた。だが、集まった学生たちの顔には疲労と焦燥の色が濃く、彼らの人数も、前日より数人減っていた。今日初めて減ったわけではなく、一ヵ月ほど前のあの日から、ずっと減り続けているのだ。
 学生たちは思い思いに椅子に腰掛け、中央の人物を見つめている。教師にして男子寮の居候であった若き貴族――レグノン・ツインドである。
「レイピアの先生」として親しまれている貴公子然とした青年だったが、長い黒髪をかき上げる仕草から余裕が失われて久しかった。
 学生たちを見回し、ため息がちに言う。
「今朝は何人残ったかな」
「女子百十一名、男子八十名。合わせて百九十一名です。……昨日より五人減りました」
 答えたのは女子寮寮長のジョカだ。四年生筆頭の秀才として男子からも一目置かれている、この眼鏡をかけた少女も、暗い表情を隠せてはいなかった。
 レグノンはジョカを見つめる。
「きみは意志が強いな」
「そんな……そういうわけじゃ」
「強いよ。連中はおれ本人よりも男前の顔をしてくる。よく耐えられるものだ」
「冗談でも先生がそういうことを言わないでください!」
 ジョカがテーブルを叩いて立ち上がり、真剣な顔で言った。それから顔を赤らめてつぶやく。
「私は……本物のレグノンさまが好きなんです」
「ありがとう。おれもきみが嫌いじゃない。……今はそれだけで我慢してくれ」
「わかってます」
 ジョカは腰を下ろした。目に涙を溜めていた。
 周囲の学生は複雑な表情でそんなやり取りを見守っている。愛する人が身近にいて、しかも必ずしも嫌われていないというジョカの状態を、うらやみ、また同情する顔だ。
 ここにいる学生たちは、全員がそういった苦悩につきまとわれているのだった。
 レグノンが一同を見回して言う。
「もう何度も言ったが……みんな、よく頑張ってくれている。やつらは格好こそ完璧だが、何か邪悪なものであるのは間違いない。どうか最後まで持ちこたえてほしい」
 そう言ってから、付け加えた。
「おれも……妹は、見かけ次第斬る」
「もういや!」
 突然、一人の女子が顔を覆って泣き崩れた。
「最後って、最後っていつなの! 毎日毎日、ロルトが笑いながらキスしてくるのをみんなに見られるなんて……しかもそれを追っ払わなきゃいけないなんて、こんなの耐えられない!」
 慰めようとした両隣の女子も、悲痛な叫びを聞いて肩を落とし、同じように泣き始めた。
 それが、爆薬に近づく火だった。
 一ヵ月ほど前――教会が王宮を占拠し、大神官が触れを出した日から、異変は始まった。
 その日、学生たちすべてが、思い人から愛を告げられたのだ。同級生、上級生、下級生、あるいは教師など、相手との関係や気持ちを問わずに。
 最初の混乱は並大抵のものではなかった。相手が「本物の思い人」でないことは明らかだったからだ。本物はきちんと別に存在していたし、歴史上の偉人や小説の中のヒロインまでが現れたのでそれとわかった。何か別の存在・・・・・・が思い人に化けて近づいてきたのだ。
 これは誰なんだという当然の恐怖、自分でない自分が好きでもない人に愛をささやいているという生理的な嫌悪感、それに、思春期の少年少女たちが共通して抱く、恋を他人に悟られたくないという羞恥心があいまって、最初はエコールが崩壊するかと思われるほどの騒ぎになった。
 ところが奇妙なことに、その騒ぎは三日もすると急速に鎮まってしまった。僧たちがエコールにも現れ、心配はないとふれ回ったことは、騒ぎを抑える一助でしかなかった。より大きな理由は、その相手が完璧な存在・・・・・だったことだった。
 それは美しかった。――本物よりも。
 それは優しく、あるいは厳しかった。――本物よりも。
 それはおとなしく、危害を加えようとはしなかった。――本物よりも、あるいは本物と同じく。
 そして、決してこちらを見限ろうとしなかったのだ。罵りの言葉を浴びせ、平手打ちし、冷たく突き放してやっても。服を引き裂き、裸身をあらわにさせ、誰にも見せずに秘めてきた欲望をぶつけても。――本物と違って。
 自分を狂おしく悩ませる異性への憧憬、それに肉欲といったものを、拭ったように解消してくれる存在。拒むにはあまりにも甘美なその誘惑は、受け入れてしまえば他の些細なことなどまったく気にならなくなった。――本物の恋がそうであるのと同じように。
 多くの者がそれを受け入れ、奇怪な形でエコールの秩序は回復した。むしろ以前よりも素晴らしい状態になった。誰も悩まない。誰も争わない。悩みや争いの萌芽が生まれても、「恋人」のところへ行けば、優しく癒し、厳しく諫めてくれる……。
 わずかな者だけがそれに抵抗し、レグノンがその核となった。エコールの誰よりも「生死に関わる恐ろしさ」というものを知っている彼だから、そうなりえたのだ。
 彼は初日、現れたソリュータを斬った。
 そして中等部の女子寮が牙城となった。レグノンを頼る少年少女がそこに住み着いた。
 だが……
 抵抗は極めて困難だった。寮がよそ者を拒むことのできる場所だとはいえ、完全に篭城するわけにはいかない。食料も水も着替えも限られている。それに学院では授業すら開かれているのだ。抵抗者にとってそれどころではなくても、寮の外では平穏な日常が流れ、笑顔の友人たちが招いているのだ。
 レグノンも、他の誰も、仲間が毎日寮から出ることを禁じられなかった。学生たちは朝になると寮を出て、歪んだ平和の続く学院で過ごし、夕方になると誘惑への抵抗で疲れ果てて戻ってくる。――そうすることができず、誘惑に負けて二度と寮に戻らなくなる学生が増えるのも、仕方のないことだった。
 そんな毎日が、三十日以上。
 寮生たちは消耗しきっていた。
 外の平和は、中の不和を招いていた。ある女子は、寮生の男子が学院で「自分」に言い寄られているところを見た。つまりその男子はこの自分を恋い慕っているのだ。寮に戻ってからもその女子は相手の視線にいたたまれず、体調を崩して寝込んでしまった。
 別の女子は、ある男子と相思相愛だった。二人とも寮生で、お互い「本物」と愛し合おうと誓ったが、毎日外へ出れば、本物よりも完全無欠の「相手」が寄り添ってくる。恋人が翻意するのではないか、捨てられるのではないかという心配のあまり、その女子は恋人に刃物を向けて無理心中をしかけた。――これはレグノンが止めたが、男子の方が耐えられなくなって寮を出ていった。
 さらに、ジョカとレグノンのような例もあった。片思いにもかかわらず、一方は本物だけを愛そうと努力し、もう一方もその思いを破綻させないように、つかず離れずの距離を保つという例だ。これは片足でがけっぷちに立つような至難の技だった。寮の正常さを保つために、好きでもない相手に優しく接することのできる者は、ごくわずかだった。――たいていはレグノンと違って相手を拒絶してしまい、失意に陥った相手は優しい「偽者」を求めて寮を出た。
 破綻寸前の複雑なバランスの上にある寮の食堂で、一年生の少年が力なく尋ねる。
「いつまで続くんですか」
「皇帝陛下が戻るまでだ」
 レグノンは精一杯きっぱりと言う。
「異変が起こったのは教会が王都を乗っ取ってからだ。陛下の軍が教会を追い払えば、必ず世界は正常に戻る」
「それはいつなんですか」
「それはわからん。……だが、永遠にこのままということは決してありえない。頑張るんだ、みんな」
 食堂の鳩時計がのどかな声で時報を告げた。ジョカが機械的に、授業が始まるわ、と言った。
 席を立つものは三分の二ほどだった。残りは疲れ果てて動こうともしない。レグノンも無理強いはしなかった。寮にいて気が休まるものならそうしたほうがいい。
 ざわめく食堂が、ふと静まった。一同の目が入り口に集まる。そこに飾り気のないコートをまとった、黒髪の娘が立っていた。彼女に気づいた寮生たちはレグノンを振り返る。その娘は――ソリュータなのだ。
 眉間を揉んでいたレグノンが、彼女に気づいてうめいた。これまで「その者」たちは、拒否されるような場所にまでは入ってこなかった。考えを変えたのだろうか。
 レグノンは立ち上がり、憔悴した顔で愛用のレイピアを手にした。皆の視線の中、ソリュータに近づいて向き合う。
「……こりないんだな」
「お兄様……」
「何度来ても答えは同じだ。お前が本物でない以上、斬り捨てる。つらいことだが、やめはしない。――それが、みんなに対するおれの節度だ」
「お兄様」
「ソリュータ」は柔らかい笑みを浮かべ、ささやいた。
「……わかってますか? わたしを抱いてもいいんですよ」
「やめて!」
 ジョカが悲鳴を上げて立ち上がった。
「汚らわしい! レグノンさまは、レグノンさまはそんなことしないわ!」
 ソリュータは何も言わずに彼女を見つめる。――その視線を受けて、ジョカはわなわなと肩を震わせる。
「うそ……いくらあなたたちが相手の心を反映するからって……そんな……」
「ジョカ、偽りだ」
 レグノンが険しい顔で言う。
「おれのソリュータへの愛は、兄妹愛以外のものじゃない。こいつはきみの心をかき乱そうとしているだけだ」
「本当に? 本当なんですね? レグノンさま!」
「本当だ!」
「じゃあ、じゃあ……」
 だっと駆け出したジョカがレグノンに抱きついた。
「抱いてください、レグノンさま!」
「ジョカ?」
「お願い、私をつなぎとめて! もうぎりぎりなんです、私レグノンさまに抱いてほしいの! このままだと「あいつ」にそうしてって言っちゃう、そうなる前に、お願いッ!」
 死を前にしたような切迫した叫びだった。レグノンはジョカを振り払うこともできず立ちすくむ。学生たちが固唾を呑んで見守る。
 その時だった。
 廊下に足音がして、一人の少年がやってきた。振り返った学生たちが目を見張る。
「シロン……?」「シロンだ」「シロンが来たぞ!」
 食堂に現れたのは、夏休みの短い間だけ学院にやって来た彼らの友人だった。だが、同時に学生たちは戸惑いの顔になる。この子は確かにシロンだけど、どうして少年の姿に……?
 シロンはソリュータとレグノンの間に立った。ジョカがハッと気づく。
「シロン……」
「そうか、これがぼくのすることか……」
 つぶやいたシロンがジョカを見た。懐かしさと――深い慈しみと、悲しみのこもった目で。
「ジョカ、久しぶりだね」
「あなた、今までどこに……それに、どうしてここへ」
「いろいろあってね」
 軽く笑うと、シロンはジョカに近づき、固くレグノンを抱きしめていた腕をそっとはがした。
「大丈夫、レグノン卿はソリュータを抱こうなんて思っていないよ。ぼくはよく知ってる」
「……本当?」
「本当だよ」
「でも……それでも私、もう……」
「……レグノン卿はまだきみを愛してない」
 ちらりとレグノンの顔を見上げてから、またジョカを見てシロンは言った。
「愛していないのに抱かれても、嬉しくないでしょう?」
「それでも!」
「まだ、って言ったでしょ」
 シロンが人差し指でジョカの額を突いた。夢から覚めたようにジョカは瞬きした。
「この先はわからない。ジョカの努力次第で愛してもらえるかもしれない。ううん、ぼくの見るところじゃ、そうなる可能性はかなり大きいと思うよ」
「……この先……」
「がんばって」
 シロンは子猫にするように、ジョカの頭を撫でた。
「クリオン……ずいぶん大きな口を利くようになったな」
 レグノンの軽口には、安堵と信頼があふれていた。見上げたシロンが笑う。
「ぼくだって経験を積んだんだよ、レグノン卿」
「ぬかせ。誰がジョカを愛するって?」
「すれっからしのレグノン卿のことだから、逆に素直で純情な子ほど好きになるかもしれないと思って。……違う?」
 レグノンはジョカを見下ろし、すがるような眼差しを受けて苦笑した。
「なるほど……いいところを突かれたかな」
 それからふと眉をひそめて言った。
「ところでクリオン、なぜここに?」
「また今度話すよ。今は時間がないんだ」
 そう言ってシロンは学生たちを振り向いた。
「ぼくだってきみたちと同じ年頃だから、気持ちはよくわかる。……でも、我慢して。つらくても頑張って。なんの苦労も不満もない恋なんか、あるわけないんだ。それを乗り越えることが……」
 急にシロンの声が小さくなった。恥じ入るようにうつむく。
 やがて顔を上げたときには、今までの張りのある声ではなく、自信のない、むしろ誰かに頼るような声になっていた。
「……ごめん、本当いうと、ぼくもいま好きな人とけんかしてる。頑張ってなんて人に言えた義理じゃない。とても悲しいし、苦しいし、何度も泣いた……」
 少し顔を傾けて、照れくさそうに言った。
「仲直りできるように頑張ってみる。……これだけ言っておくよ。ぼくも楽はしない」
「あの……あなた、まさか」
 女子の一人が、震える声で言った。
「今レグノン先生が、クリオンって……」
「そう。ぼくはクリオン一世、皇帝だ。嘘ついててごめんね」
「こ……」「皇帝陛下……」
 押し殺したため息が広がる。驚愕、学生たちの表情はそれ一つだった。――しかし、徐々に変わっていった。それならば納得できる、という風に。
「へ、陛下がどうしてここへ?」
「ぼくは今、大きな敵と戦ってる。帝国を揺るがすような敵だ。それを倒すのに、みんなに会って問題を解決しなきゃいけない……らしいんだ」
「敵って、教会?」
「教会も、だね。大神官とか、この怪物たちとか」
 軽い答えが、かえってまた驚きを誘った。もう声を出す者もいなくなる。
 シロンは決まりが悪そうに頭をかいたが、「ソリュータ」に向き合ったときには、もう表情を引き締めていた。強い眼差しで見つめる。
「さあ、『遷ろう者ども』よ、立ち去るんだ。おまえたちの術はもう効かない」
「ソリュータ」は、本物の彼女ならば絶対にしないような薄笑いを浮かべ、身を翻して外へ出ていった。
「陛下……」「そうなんだ、陛下も……」
 誰か一人が始めたわけではない。学生たちは自然に床に膝を突き、頭を下げていた。皇帝とその侍女ソリュータの親しさは、遠い世界の伝説として彼らの耳にも届いていた。シロン――クリオンが何のためらいもなく「ソリュータ」を追い払ったことは、彼と「本物」との揺るぎない信頼を感じさせることだった。彼が本物と仲違いしているというのだからなおさらだ。
 あわてたのは、ぬかずく学生たちに囲まれたクリオンだった。声をかけながらみんなの肩を叩いて回る。
「ちょっと、やめてよ。そんなことされたって嬉しくないよ。みんな立ち上がって」
「あは……陛下はやっぱりシロンなのね」
 ジョカが泣き濡れた顔をゆがめて笑っていた。クリオンも笑い返した。
「わかるでしょ? 命令なんかしない。……ただ、元気を出してほしいだけだよ」
「やってみるわ。あ、そうだ。ポレッカは元気?」
「元気だよ。大丈夫、王都にはいないけど軍隊に守られてる」
「そう……」
 ジョカがうなずくと、クリオンは歩き出した。立ち上がった学生たちが声をかける。
「シロン、どこへ?」
「次のところ。王都は広いからね」
 廊下で待っていた、砂色の髪を高く結い上げた娘をつれて、クリオンは去っていった。
「がんばって、シロン……皇帝陛下」
 遠ざかる背を見送っていたジョカは、ふと身を固くした。
 そばを見上げると、レグノンが目を細めて見下ろしていた。彼の手が、初めてジョカの肩に置かれていた。
 素敵だ、とジョカは思う。肩に触ってもらっただけでこんなにどきどきできるなんて。
「……本物だものね」
 ジョカはそっとつぶやき、力強い手に頬を乗せた。

 廊下を歩きながらクリオンはシエンシアに尋ねた。
「これでよかったの? 学院のみんなを元気付ければ」
「さすがは王様、優しい王様、剣も振らずに魔物を退治――はい、今のはいい手際でした」
 シエンシアがうなずいた。どことなく、からかっているような風がある。
 頭上から幼子のような声がした。
「よかったよ。シリンガシュートはクリオンを認める……」
 それとともに、礼拝堂からずっとクリオンを圧し続けていた気配が、一つ消えた。クリオンは足を止めて天井を振り仰ぐ。
「他の四人は?」
「まだまだだな。次はここだ」
 挑むような女の声とともに、クリオンは再び穴に落ちたような浮遊感を覚えた。寮の廊下の光景がすうっと薄れていく。
 暗転――

 こつり、と床に足がついた。クリオンは目を開ける。周りの光景が戻ってくる。が、暗い。
 そこは古い建物の中のようだった。足元は磨り減った石の床で、周囲に厚ぼったい緞帳が何枚も下がっている。背後は闇だったが、前方の緞帳はぼうっと光っていた。向こうに明かりがあるらしい。
「……ここは?」
「フィルバルト城、百花館フロール・パレス
 女の声――ロウバーヌのものだろう――にクリオンは驚いた。
「百花館って……レザや前帝陛下のお妃が住んでいたところじゃない。あそこは封鎖したはずだけど」
「再び開かれた。今は……見ればわかる。ゆけ」
 声は消えた。クリオンはシエンシアに一つうなずいてみせると、歩き出した。
 何枚もの緞帳をかき上げると、次第に濃い匂いが漂ってきた。麝香や龍涎香、鼻の奥がツンとする煮詰めた蜜のような香り……それに、粘膜の生臭いにおい。
 最後の緞帳を上げたクリオンは、眉をひそめた。
 その広い部屋には巨大な寝台が置かれていた。――いや、床全体が寝台になっているというべきか。差し渡し三十歩もある広間に、毛皮や厚手の布が隙間なく敷き詰められ、食べ物の盆やワインの瓶、香炉や得体の知れない小道具などが転がり、部屋全体に青白い煙が漂っている。
 そこで、無数の裸体がからみ合っていた。
「どうだ、どうだ……? いいか……?」
「はアっ、いっ、いいれすぅ……っ!」
 男が蛇のように女の体にからみつき、股間を割り開いて醜悪な張型をねじ込む。あるいは女が男を床に押し付け、尻を持ち上げて顔を押し付ける。並べたいくつもの女体の上を男が転げまわる。愛撫しあう二人の女を陰惨な目でじっと見つめる。あるいは縄で縛り上げた女を激しく蹴りつける。顔をまたがせて小水を飲み干す。股間をしゃぶりあう男同士がうめきを上げる。乳房に何十本もの針を突き刺していく。腹を切り裂いて内臓に陽物を突き立てる。さらには文字通りむさぼるように互いの肉を喰らいあう――唾液と精液と愛液と血と糞尿の中で、男女が亡者のように蠢きまわる。
 およそありとあらゆる類の淫靡で凄惨な性の宴が、そこでは繰り広げられていた。
「なに、ここ……」
 酸鼻とさえいえる光景に、クリオンは思わず口元を押さえる。と、そばに誰かが音もなく近づいてきて声をかけた。
「お召し物をお預かりします……」
 振り向くと、頭からすっぽりと赤いローブをまとった女が、無表情に両手を差し出していた。クリオンは首を振る。
「い、いいよ。ぼくは――」
「ここでは裸体になっていただく決まり。仮装用の衣装はあちらにございます……」
「クリオン、言う通りにしましょう」
 シエンシアが小声で言って女の腰を指した。剣の柄とおぼしき膨らみがあった。
「でも」
「怪しまれます。早く」
 シエンシアは自分から旅装束のマントと衣服を脱ぎ始めた。仕方なくクリオンも服を脱ぐ。
 脱いだものを渡すと、ローブの女は一礼して去っていった。よく見ると、この場の召使いと思しきそんな女が壁際に何人も立ち、裸体の人々の求めに応じて道具を渡したり、あるいはローブをはぎとられて自らも餌食となっていた。
 裸になったクリオンが様子を見ながら立っていると、不意に温かい肌を押し当てられた。シエンシアが寄り添っていた。だぶだぶの道化の衣装をまとっていた時には想像もつかなかった肢体が、細身の手足や形のいい乳房が押し付けられる。
 クリオンは戸惑い、離れようとした。が、シエンシアは腕をからめて抱きついてきた。クリオンは小声で叱りつける。
「雰囲気に流されたらだめだよ!」
「演技です。わかるでしょう、一人身では捕まって犯されます」
「……!」
 クリオンは気づく。手近にいた髭面の男が、どんよりとした目に欲情の色を浮かべてクリオンの股間を見ていた。シエンシアがクリオンの首筋に口付けしたので、残念そうにもぞもぞと這いずっていった。
 シエンシアが、はたから見れば睦言をささやいているとしか思えない顔で言う。
「あなたはもう女の体に慣れているはず。それとも、自分を抑えられませんか?」
「……わかった」
 クリオンはシエンシアの腰に腕を回した。シエンシアはクリオンの股間に手をやって指を動かす。滑らかな肌の感触と巧みな指使いに本能をかきたてられ、クリオンは勃起する――しかし、心にはしっかりと理性を保って、辺りをうかがっていた。
「どうすればいいかな」
「あなたの心のままに。何をするのかも聖霊たちは見守っています」
「……誰か、話のできる相手を探そう」
 二人は愛撫しあいながら、横たわる体を避けて歩き始めた。
 しばらく行くと、クリオンは妙な二人組を見つけた。陰惨きわまりないからみあいを演じている男女の中で、その二人は身動きもせずに並んで座っていた。一人は黒服の小柄な老人。もう一人は華麗なドレスをまとった群青の髪の娘。
「……レザ?」
 見間違えるはずがなかった。それはレザだった。いや、レザがここにいるはずがないから、彼女を装った『遷ろう者ども』なのだ。ということは、そばにいる老人が彼女をこいねがった者なのだ。
 近づいたクリオンは気づいた。その老人に見覚えがある。彼は……
「トト?」
「……これは、皇帝陛下ではございませんか」
 やはりそうだった。レザが赤ん坊のころから世話をしてきたという執事だった。クリオンに礼をしかけて、ふと顔をしかめる。
「いや、ここに陛下がいらっしゃるはずがない。そちらの女性のお相手ですかな……」
「本物だよ。この子はマウスだ」
「本物……?」
「今は事情を話してる場合じゃない。でも、予は知ってる――『はばかりながらおむつきのころからレザ様にお仕えしている執事』、でしょ?」
 以前、シッキルギン遠征の折に自分が口にした台詞を聞いて、トトは顔を輝かせた。
「……それをご存知とは……まごうかたなきクリオン陛下」
「あなたの相手はレザなんだね。まあ当然とは思うけど……」
 クリオンは「レザ」を振り返った。美貌の令嬢は穏やかな笑みを浮かべてトトを見つめている。トトがしわに埋もれた顔を赤くしてうなずいた。
「さようにございます。この老骨めにとって、レザさまは全てでございますので……」
「でも、何もしないんだね」
「恐れ多いことです。このトトの願いは、レザさまにお健やかに暮らしていただくこと。邪念など抱くわけがございません」
「……立派だねえ。あなたは素晴らしい人なんだ」
「ありがたきお言葉……『レザ様』はご無事でしょうか?」
「大丈夫、ぴんぴんしてる。城から逃げたときにあなたを一緒に連れていけなくてごめんね」
「そのお言葉だけで十分でございます」
 老執事は深々と頭を下げた。
 お礼はいいから、とクリオンは顔を近づけてささやく。
「ここは一体なんなの?」
「教会が用意した貴族のための臥所でございます。なぜか執事の私も押し込まれましたが、周りのお方はすべて貴い方々ばかり」
「貴族……」
 クリオンはつぶやき、周囲の顔を確かめた。言われてみれば、ザナゴードの広間の国議で見た顔がいくつもあった。
 シエンシアが言う。
「教会の策ですね。ジングリットの国政を骨抜きにしているんです」
「恐らくそうでしょう。しかし、貴族の方々がこうも淫らなことばかり考えていらしたとは……このトト、はなはだ情けのうございます」
 トトは肩を落とした。それからふと裸のクリオンとシエンシアを見比べた。
「私とレザさまの服は仮装用ということで押し通したのですが……もしやお二方も、ここでお楽しみを?」
「違う違う」
 あわててクリオンは両手を突き出した。シエンシアが悪戯っぽい笑みを浮かべて歌うようにささやいた。
「足腰立たぬはお年寄り、お立ちになるのはお若い王様、マントをつければ怪しまれ、マントを脱げば叱られる?」
「……なるほど、その方が目立ちませんな」
 トトは得心がいった顔でうなずいた。
 クリオンは赤い顔で話を続ける。
「ここで一番位が高いのは誰だかわかる? これをやめさせたい」
「それは……さよう、ホレイショ伯でしょうな。あちらにいらっしゃいますが、ご存知ですか」
 トトが指差したのは、三人の男女だった。――三人のうち誰かまではわからない。その三人は一つに重なり合って交合していたので。顔を見ればわかるはずだった。ホレイショ伯爵ノルド・メルチンは、国議の場で何度も抗議してきたことがある。
 しかし、教えたトトは首をかしげた。
「あの方も他の方も、話の通じる状態ではございません。この事態を打開するのならば、むしろ外の教会のものどもを成敗した方がよろしいかと存じますが……」
「それじゃ解決にならないと思うんだ。貴族たちの心の中の泥が病根になってるみたいだから」
「では、どのように?」
「……さあ。でも、なんとかできると思う」
 このときクリオンの胸には、多くの娘たちと心を通わせてきた経験に根ざす自信があった。
 ――こんな肉欲だけに溺れた交わりは、本物じゃないんだ。
「行ってくる」
「お気をつけて……」
 トトたちから離れて、クリオンはホレイショ伯の元へ向かった。
 意外なことに、先に気づいたのはホレイショ伯のほうだった。彼はもう一人の少年とともに、仰向けの女を上下から挟み込んで犯していたが、クリオンに目を留めるとぱっと体を起こして口笛を吹いたのだ。
「やあ、これはこれは……皇帝陛下ではござらぬか。そちらのご婦人、陛下を伴われるとは大胆不敵なお方だな」
「予は本物のクリオン一世だ。ホレイショ伯爵、きみに話がある」
「本物だって?」
 ホレイショ伯は顔をのけぞらせてはじけるように笑った。それから、まだつながっていた女を乱暴に横へ放りのけると、下にいた少年を叩いてクリオンを指差した。
「エルコット、本物の皇帝陛下だぞ! 濡れ毛布みたいな女なんか抱いてる場合じゃない、お捕まえ差し上げて、お縛り申し上げろ!」
 エルコットと呼ばれた色白の少年は――彼自身、誰かの寵童であっていてもおかしくないような十五、六歳の美少年だったが――クリオンをみるとホレイショ伯と同じように笑い、そばに落ちていた縄を手に飛び掛ってきた。
「こ、こいつ!」
 クリオンが抵抗しようとすると、不意に後ろから手が伸びてがっしりと肩をつかまれた。振り向くと、いつの間にか何人もの男女が集まって、この椿事に参加しようとしているのだった。
「やめろ、離せ!」
 クリオンは激しくもがいたが、四人もの男に押さえつけられてしまった。四肢を動かされ、縄が滑り、股間を開いた形に手足を縛り上げられてしまう。そばを振り返るとシエンシアも同様にされていた。
 満足したようにクリオンを見つめたホレイショ伯が、クリオンの後ろに回って太腿をつかみ、体ごと持ち上げてぶらぶらと振った。
「ほれ、しーしー。おしっこは出ないかな?」
「やめろ!」
「ハハハハハ! いいぞ、『本物』はそうでなくちゃな! さて、陛下をどうして差し上げるべきか」
 おれにくれあたしにくれと手を伸ばす他の者をはねつけて、ホレイショ伯はクリオンとシエンシアを見比べた。
「腹が裂けるほど水を飲ませて転がしておくのはどうかな。先に漏らした方が負けだ。勝ったほうにはおむつを当ててやる」
「伯爵さま、それよりも」
 エルコットがシエンシアを後ろから抱き上げて言った。
「『皇帝陛下』を放っておくなんて不敬なことです。ぜひ陛下にも楽しんでいただきましょう。私たちでお動かし差し上げて」
「……ふふん、その通りだな。我ら臣下は陛下のおんためにこそ汗を流して働かなければな」
 そう言うと二人は、クリオンとシエンシアを抱き上げて近づけ、向かい合わせに押し付けてしまった。ホレイショ伯が口の端から唾液を垂らしてささやく。
「ほらほら! どうです、陛下! とびきりの御婦人のお体ですよ!」
 クリオンの胸でシエンシアの乳房がぐいぐいと潰れ、シエンシアの股間にクリオンのものが食い込む。クリオンは息を詰めて耐えながらささやく。
「シエンシア、まずいよ。このままじゃいいようにもてあそばれちゃう」
「構いません、やらせましょう。私のことは気にせずに。犯されるぐらいなんでもありません。クリオンでも他の者でも」
「でも、伯爵たちがこれだけで満足するはずが……」
「だから?」
 シエンシアはやや吊り上がった感じの美しい目を細めて、あざ笑うように――あの大胆な道化がよくやったように――ささやいた。
「皇帝陛下が下々の戯れ程度に屈しなさるか?」
「……マウス」
 クリオンは目を見張り、やがてかすかな笑いを浮かべて、歯を覗かせたシエンシアの唇に口付けした。
「……やってみようか。どこまで耐えられるか」
「それでこそ我が陛下」
 シエンシアは恭しく目を閉じて舌を吸い返した。――その瞬間、ホレイショ伯に腰をつかまれたクリオンが、エルコットに押さえられたシエンシアを貫いた。
「くうっ……!」
 弾力に富んだしなやかなシエンシアのひだと、細くこわばったクリオンの茎がこすれ合う。二人は眉をひそめつつ、互いの顔に余裕を見出して微笑む。
「いいよ、シエンシア」
「クリオンこそ……さすがはお妃たちすべてを喜ばせられる人。んくぅっ!」
 ひときわ強く――クリオン自身ならやらないほど強く子宮を突き上げられ、シエンシアがうめく。クリオンも快感より痛みを覚えて、シエンシアの肩に顔をうずめる。
「そら、どうだ! 心地よいか? そらそら!」
 ホレイショ伯がわめきながら、上側のクリオンをゆさゆさと動かす。エルコットはシエンシアの背から脱け出し、二人の股間の下に顔を突っ込んで笑いながら叫ぶ。
「つながってます、つながってます! あははは、陛下のご立派なものがどろどろになって出たり入ったり!」
「どうかね、エルコット? 陛下はご満足のご様子か?」
「はい、とっても! 真っ赤になってびくびくして! でも少し濡れ方が足りないみたい――」
 びくん、とクリオンはあごを跳ね上げた。幹の裏側におぞましい快感が湧いたのだ。エルコットがクリオンの袋を口に入れ、その周りごと唾液をなすり付けている。
「く……こ、これすごい……」
「わかります。私の中で跳ねている……クリオン、降参ですか?」
「……ぜんぜん?」
 作り物の――しかし、本人としては余裕のつもりの――笑顔を浮かべて、クリオンはシエンシアの額に浮いた汗をなめる。
「体を気持ちよくされるだけなんて、どうってこと……くひっ! ど、どうってことないよ。こんなの手慰みと変わらない。……し、シエンシアは?」
「とても心地いいですね。それだけで――んくぅっ! そ、それだけです」
 きゅっ、きゅんんっ、とシエンシアが痙攣し始める。まだ笑みを浮かべているが息は相当荒い。クリオンは薄い胸板で乳房をふわふわと押しながらささやく。
「きみは初めて?」
「一応は。自分でしたことならば何度も」
「んんっ! ――へえ、きみもしてたんだ」
「それはもう。何度陛下の睦み事を見せられたと思って――はぁうっ!」
 クリオンのものが異常なほど反り上がっている。エルコットがクリオンの小さな肛門に舌を使っているのだ。びくびくとうずきが高まるのを感じて、クリオンは尋ねる。
「いきそう……なんだけど……いい? シエンシア」
「お妃たちに……悪いですね」
「違うよ、きみも妃になっちゃうって……ことだよ」
「私が?」
 驚いたように目を見張り、シエンシアは笑った。
「それは傑作! 道化が妃に――いいでしょう、こんなに笑えることもない、ひぃんっ!」
「言ったね?」
 その時、ホレイショ伯がクリオンの尻を音高く叩いて言った。
「そろそろかな、そろそろだぞ! エルコット、やってしまえ!」
「はいっ!」
 エルコットが喜色を浮かべて、クリオンの肛門に指をねじ込んだ。
「くうぅんっ!」
 蹴られた子犬のようなうめき声を上げて、クリオンは射精させられた。せきこむようにしてシエンシアの中に噴きこぼす。シエンシアも目を細めて息を吐いた。
「あハ……っ、これはいい、これはとてもいいですね……」
「どうだ? エルコット、どうだ?」
「はい、どくどく出てます! 陛下の袋の下がぷくっ、ぷくって! あっはは、イっちゃったあ! あ、垂れてきた、すごーい!」
「ようし、楽しんでいただいたな」
 自分も汗だくになっていたホレイショ伯は、震える二人の体を乱暴に投げ捨てると、ぎちぎちにこわばった自分のものをさすって血走った目を向けた。
「では我らが楽しんでも差し支えあるまい!」
「伯爵、その……」
「ああ、わかってるわかってる。おまえは陛下がいいんだな」
「はい!」
 目を輝かせるエルコットの前で、ホレイショ伯は二人を合わせたまま裏返し、シエンシアの背に抱きついて仰向けになった。――エルコットの前に、ホレイショ伯、シエンシア、クリオンと三つに重なった股間がさらされる。
「私は御婦人の後ろをいただこう。さあ、いいぞ! エルコット」
「はあい」
 余韻の中で息をついていたシエンシアとクリオンは、悲鳴を上げそうになった。――二人同時に、肛門にいきり立ったこわばりを突き立てられたからだ。
 ろくに許してもいない肉の中へ、情欲に狂った器官が容赦なくもぐりこんで来る。顔をしかめつつ、二人はささやいた。
「ふふ、この程度じゃ、んぐっ、たいしたことないよね」
「レグノン卿のおかげですね」
「知ってたの?」
「あの場にいたでしょう? ――くあっ!」
 顔にかかってうっとうしいとばかりに、シエンシアの結い上げた砂髪を、ホレイショ伯がつかんで引いたのだ。首をねじ曲げらたシエンシアに、クリオンは素早くキスした。
「降参?」
「……まさか! 間抜けのマウスがこの程度のことで――ひ、ひきぃっ!」
「無理なら逃げたら? ぼく一人でいいよ」
「とんでもない!」
 ぐしぐしと上下の二人が狂ったように動き、つながったままの部分にも望まない刺激を与えられながら、二人は刃を交わすように微笑みあった。
「これはもうクリオンとの勝負ですね」
「受けて立つよ。――はぁんっ!」
「おっおっ、おおっ、い、いいぞっ!」
「私も、私もぉっ、もう出ちゃいそぉっ!」
 動物のようにはしたない喚き声をまき散らす貴族たちが、じきに二人の中へ汚れた体液を注ぎ込んだ。

 数時間もたっただろうか、それとも、濃密なだけの数十分だったのかもしれない。どちらにしろ貴族たちは精魂使い果たしてぐったりと横たわった。
 激しい動きで縄は自然にゆるんでいた。クリオンは戒めを解いて立ち上がり、ふらつく足を必死に踏みしめて壁際に向かった。赤いローブの召使いに近づく。
「借りるよ」
 情事の余熱と、それ以上の気力をたたえて光る瞳は、召使いを金縛りにした。クリオンはローブの中から剣を抜き取り、壁に沿って歩いた。
 そして、緞帳を切り裂いた。
 ざん、ざん! という刃のうなりともに何枚もの緞帳が床に積もり、透けた光が次第に強くなる。室内の貴族たちが何事かと顔を上げる。その前で、ついにクリオンは最後の一枚を両断した。
 バルコニーからまばゆい冬の日がなだれこんで、室内に白と黒の陰影を焼き付けた。顔をかばってうめく男女の中、クリオンはホレイショ伯のそばに行って、顔に剣を突きつけた。
「起きろ!」
「う……あ……」
 青年貴族たちは力なく仰向けになる。汗に濡れた肌やだらしなく萎えた股間を、陽光がくっきりと照らし出す。それは控えめにいっても、醜悪極まりない光景だった。
 顔を覆うホレイショ伯を見下ろして、クリオンは静かな声で尋ねた。
「満足したか?」
「ま……まぶしい、閉めてくれ……」
「子種を出し尽くして、それで満足したか?」
 裸足でホレイショ伯の股間を強く踏みつける。陽物はもはやぴくりとも動かない。快感を味わい尽くしてただの肉の紐と化したそれは、あるじに痛みしか与えない。
 ホレイショ伯は恐ろしい形相で悲鳴を上げる。
「ううああああ!」
「結局、おまえたちがやったのはそれだけだ。汗を流して汚らしい汁をまき散らしただけ……」
 ちらりと他の者に目をやる。華麗なドレスと宝石を身に付けていたこともある二十歳ほどの女が、濡れた裸体を抱きしめてうつむく。
「情欲は予にもある。でも、それは好きな人と交換するものだ。ただぶつけるだけなんてけだものと変わらない……ううん、けだものは子供を造るためにするからまだましだ。おまえたちのはもっと汚らしいことだ!」
 剣先がわずかに下がる。クリオンは自分の言葉の痛みに耐えている。あの異国の少女に――姉に対して、まさに自分はそれをやった。
「……ホレイショ伯」
 首を振って、膝を突く。
「どう、満足したの」
「……したともさ」
「それで、今はどんな気持ちなの」
 クリオンは剣で伯の頬をつつく。伯は悲しそうに首を振る。何も言わない彼の代わりにクリオンは言う。
「空っぽでしょう。自分は一体何をしていたんだ、って気持ち。それがあなたのしたことの中身だ。後に何も残らない。そのくせ、時間がたつとまたしたくなる。麻薬と一緒だよ」
「だから……なんだ? 情交ってのはもともとそういうものだろう」
「違うよ。好きな人となら、終わったあとは胸がいっぱいになる。……もちろん、している最中も。それはなかなか手に入らないものだけど、探してみたいと思わない?」
「知るか」
 吐き捨てるように言うと、ホレイショ伯は寒そうに身を丸めた。ごつごつと骨の浮いたその体に、クリオンは哀れみの眼差しを投げかける。
「そう、あなたは今まで、それを知らなかったんだね。……でも、覚えておいて。それはある。それを探すのが人間だと思う……」
 クリオンは剣を投げ捨てた。
「あの……」
 一人の女が、手ぬぐいを持って近づいてきた。避けようとすると、女は細い声で言った。
「お拭きします。汚れていらっしゃるから……」
「……ああ。それなら頼むよ」
 クリオンは裸身を向け、女が手を動かすのに任せた。――柔らかな冬の日が、華奢な手足の輪郭を白く光らせ、金髪がきらきらと美しく透けた。室内の男女は、何か神聖な啓示でも示されたような顔で、少年の動きを静かに見つめていた。
 拭き清めが終わると、クリオンはあたりに散らばっていた仮装衣装の中から、まともそうなものを二つ拾ってシエンシアに近づいた。彼女はクリオンほど耐性がなく、もう少しで終わるというころになって力尽き、ぐったりと倒れていた。――だが、クリオンの介抱を受けると息を吹き返し、やや恥ずかしげな顔でチュニックとズボンを身につけた。
「行こうか」
 シエンシアの手を引いて、クリオンは奥の緞帳へ向かった。去り際にちらりと振り返ると、呆けたように座り込んでいるあまたの男女の中で、ひとり黒服の老人が深々とこうべを垂れていた。

「力押しだったな」
 奥の薄闇に入ると、女の声が含み笑いしているように言った。クリオンは首を振る。
「ぼくは説得って上手じゃない。とことん相手に付き合って、実際に示してみせるしかないと思ったんだ。……それじゃだめなの?」
「いいや、力押しは好きだ。――ロウバーヌはクリオンを認める……」
 頭上の気配がまた一つ消えた。この調子で五人の難題に答えるの? とクリオンはシエンシアを見る。
 シエンシアは壁に片手をつき、かろうじて立っているという風情だった。クリオンはあわてて片手を握る。
「大丈夫? 無理だった?」
「よく知っているつもりでしたが……クリオンがここまで強いとは……」
「あー、その……なんかそうらしいんだ、ぼく」
 クリオンは照れくさそうに微笑んだ。シエンシアはふいと顔をそむけ、背筋を伸ばして腰のあたりをパンと叩いた。
「大丈夫です。道化がくたびれては話になりません」
「ほんとに? ――そういえば、シエンシアって初めてじゃなかった?」
「だからなんです?」
 シエンシアは冷たい顔で背を向ける。クリオンはくすりと笑い、彼女の肩を叩いて、おつかれさま、と言った。
 硬質の声が降って来て、クリオンはハッと頭上を振り仰いだ。それは少女の――霞娜のものに似た声だった。
「なるほど、皇帝は房事にも強いと……。それならば、まったく違うことならばどうかしら」
「まったく違う?」
 答えの代わりに、すうっと景色が溶け消えた。――暗転。

 そこは光に満ちていた。といっても陽光ではない。金属と鉱物の輝きだ。
 ランタンの光を反射して燦然と輝くのは、金貨と宝石とさまざまな宝物だ。おびただしいメルダ金貨が床を覆い、壁の棚には金銀細工の杯、冠、宝杓、磨きたてられた壺、精巧な彫刻など東西の宝物がずらりと並び、蓋の開いた小箱には紅玉、青玉、鋼玉、翡翠、瑪瑙、真珠、珊瑚の目にもあやな指輪や首飾りが雑然と押し込まれ、反対側の壁には一目で名匠の手になるとわかる大小の絵画が、これも高さと位置とを問わずむやみとかけられていた。
 その十ヤード四方ほどの部屋には、小太りの――と言って悪ければ中背で幅のある体つきをした男がいた。
「ビアース……」
「皇帝陛下?」
 室内にただ一脚だけある、大理石を削りだした安楽椅子で目を閉じていた男が、驚いて顔を上げた。エメラダの父親にして、フィルバルト一の豪商、ジュゼッカ・デ・ビアースに間違いなかった。
 ビアースは目を細めてクリオンを見つめながら言った。
「どうやってこの宝物室へ? まさか地下十五ヤードまで隧道をお掘りになりましたか? いや、それはありえんな。隠し扉を見つけられたか」
「方法と理由は後にして。それに、あなたの財宝を奪いに来たわけでもない」
「……まことにございますか」
 クリオンは、ビアースの声に、以前デジエラに脅されたときのようなおびえがかけらもないことに気づいた。六つの指輪をはめた太い指で椅子の肘掛をぐっと握り、野性の動物のように体に力を溜め、いつでも飛び出せるようにしている。シエンシアが半歩踏み出した。
「気をつけて、クリオン。――攻撃しようとしています」
「ビアース、敵意はないったら」
「申し訳ありませんが、それでも許しかねます。手前はこの部屋のことを誰にも明かさぬと決めておりますので」
 瞳は炯々と輝き、線の太い顔に強い決意が現れている。どうやら今までの卑屈な態度は驚くべき忍耐心から発した演技に過ぎず、こちらが彼の本性であるらしかった。
 その時クリオンはあることに気づいた。
「ビアース……ここには誰もいないの?」
「はい」
「遷ろう者――あなたが会いたいと願う相手は」
「おりませぬ」
「それは……屋敷にも、どこにもいないの?」
「さようで」
 クリオンは唖然とした。それはつまり、この男がまったく他人を好いていないということだ。心の底から。情欲の対象としてさえも。
「それじゃあなたは……何も好きな者がないのに生きていられるの」
「はて? ご覧のとおり、この部屋が手前の生き甲斐にございますが」
「どんな人間よりも財宝の方が好きだっていうの!」
「仰せの通り。物言わぬ財貨は、裏切りも刃向かいもいたしませぬ。もっとも立ち去りはしますが……だからこそこの部屋を築いたわけです」
 このような人間がいたのだ。
 クリオンは困惑する。この男は『遷ろう者ども』にとっても厄介な相手なのではないか。愛や欲情で取り込むことができないのだから。そんな人間に一体何を話したらいいのか、想像もつかない。
 ビアースは首を振って言う。
「非常に残念です。あなたは名君ですから。できれば帝国に君臨し、手前どもを潤していただきたかった。しかしここを知られたとあらば生かしてはおけませぬ」
 その瞬間、シエンシアが飛びかかった。――が、一瞬早く小さな音があがった。ビアースがはめた六つの指輪の一つから、小さな針が飛び出してクリオンの太腿に刺さったのだ。
 続いてビアースは、首筋に手刀を叩きこもうとしたシエンシアにももう一本の針を放った。さっと飛びのいたシエンシアが鋭く尋ねる。
「何を撃った?」
「すぐにわかりますよ」
 シエンシアはビアースをにらみ続けたが、不意に、支えを失った人形のようにくたりと倒れた。クリオンは叫ぶ。
「シエンシア!」
「ご心配なく、セッカ鉱石の眠り薬です。命に別状はありません。――タンザリヤ蛇の毒針は一本しかありませんのでね」
 ビアースはクリオンに向き直った。
「陛下にはそれを放ちました。効き目はやや遅いですが、その分、苦痛のない死に方ができますよ。……こう、眠るようにね」
 戻ろうか、とクリオンは考えた。プロセジアの人々なら解毒できるかもしれない。だが、すぐにあきらめる。それができるものならばとっくに聖霊が運んでいるだろう。
「く……」
 クリオンは床に膝を突いてしまった。痛みも気持ち悪さもないのに、足の力が抜け始めていた。この空虚な感覚が心臓まで来たときに死ぬ、とわかる。
 ここで死ぬわけには――少なくとも何もせずに死ぬわけにはいかない。ここへ運ばれたのには意味があるはずだ。せめてそれを果たさなければ。
「ビアース!」
 クリオンは懸命に言った。
「予はあなたから何も奪わない」
「すでにお答えしました」
「聞いて。予は財宝よりもっと大事なものを持ってる。それは好きな人がいるっていうことだ」
 顔を上げて必死に訴える。
「エメラダを……あの子を、予は好きだよ。ソリュータや他の子もだけど、エメラダだって本当に好きだ。ビアースにはそういう気持ちがないの? 実の娘なのに?」
「もちろんあれのことは愛しております。……が、しかし、娘はいずれ離れてゆくもの。すでに陛下にお捧げしました。残るのは財貨だけです」
「お金お金って、卑しいとは思わないの?」
「陛下は、金がないということがどんなことなのか、ご存じないのです」
 すでに虚無感は腹の下まで迫っている。へたりこんだクリオンに、ビアースは勝ち誇るでもなく淡々と語る。
「金がない者がいかに迫害され、いかに飢え、いかに凍え、いかに病で苦しむか……手前は知っております。今の身分にのし上がるまでは、ただの粉挽きの息子でしたからな。あの、パン一切れのために兄妹七人で殴りあうような恐ろしい暮らしには、二度と戻りたくありませぬ……」
「予だって知ってるよ、グレンデルベルトで過ごしたもの! それでも予はお金が惜しくない、あの子たちがいれば帝国の財宝が全部なくなったってかまわない! ぼろを着て森の獣を追いかけるような暮らしになっても!」
 ビアースは首を振るだけだった。虚無感がさらに広がり、胸から下が消えたような感じになった。どっと床に横たわって、クリオンは涙を流し始める。
「いやだ……まだ死ねないのに……」
「誰でもそうでございます。失うものがあるうちは」
「違う……失いたくないんじゃない」
「ほう? それは、陛下のいわゆる愛もですか?」
「死んだってそれはなくならないよ。みんなはずっとぼくを思ってくれる。そうじゃなくて……みんなが悲しむのがいやだ。ソリュータやエメラダを泣かせたくない」
 クリオンは首を動かしてビアースを見上げた。肺が動かなくなりつつあり、細い声しか出ない。
「ねえビアース、わかってる? あなたもいずれ死ぬんだよ。……死んだ後のことはわからないけど、死ぬ瞬間……自分が満足していると思う?」
「少なくとも陛下がご満足なさっているようには見えませんな」
「みんなと離れてるからだよ。ありがとうとも、好きだとも言えない……でもそれが言えれば、ぼくもみんなも納得できると思う……びあー……す……」
 喉を動かして、かろうじてクリオンは言った。
「お金は……死んだら他の人の手に……でもあの子たちは……ずっと……」
 最後の瞬間、ビアースがかすかに身動きしたように見えた。――だがクリオンの意識はそこで途切れた。

 暖かい空気に体内を洗われて、クリオンは目を開けた。
 目に入ったのは、胸の上で上下するシエンシアの顔だった。彼女が両手を付いてクリオンの胸を押していた。
「しえ……あ……?」
「気づいた。――もう少し待ってください。まだあなたの心の臓は私が動かしています」
 そう言うとシエンシアは手を止め、口付けした。少し薄い唇の感触とともに、力強い呼気が吹き込まれてきた。
 クリオンは目を閉じ、自分の体が自力で心臓と肺を動かすのを待った。
 やがてそれが始まると、クリオンはまた目を開けて周囲を見た。そこは寝台のある部屋で、ビアースの寝室のようだった。
 窓際に主人が立ち、葉の落ちたカエデの木を見つめていた。クリオンが声をかけると背を向けたまま答えた。
「どうして……」
「解毒剤なしで毒を持ち歩く馬鹿はおりませんよ。誤って自分を撃ったらどうするのです」
「そうじゃなくて……」
「わかっております。助けた理由ですな」
 振り向くと、ビアースは疲れたような顔で歩いてきた。
「しゃくだったから……ですかな」
「しゃく……? 何が?」
「手前が死んだら、財貨もなくなってしまうことがです」
 陛下が最後におっしゃったことですよ、とビアースは言った。
「そんなことは先から承知でしたが、陛下をお助けすれば、うまい手を打てることに気づきました」
「……もしかして、あなたのお墓に財宝を供えろとでも?」
「いいえ、その程度のことでは満足できませんな。手前は強欲な商人ですので」
 ビアースは頬に小さなえくぼを作って微笑んだ。
「帝国史にこう書いていただきたい。――ジングリット帝国の富を支えしは、ジュゼッカ・デ・ビアースその人であったと」
 クリオンはぽかんと彼を見つめた。
「それだけ?」
「それだけではございません。未来永劫、人の世が続く限りです」
「それだけ?」
「活字の大きさは他の文の五倍がいいですな」
「……それだけ?」
「かなうものなら他国にも攻め込んで吹聴してください」
「ビアース!」
「そうすれば」
 豪商は両手を広げた。
「後世の人々は思うでしょう――手前の財産が、今の十倍、百倍、国府そのものに匹敵するようなものであったと」
「どうして……」
 冗談めかした言葉でごまかされはしない。彼が、憑き物が落ちたように妄執を捨ててしまったことに、クリオンは気づいていた。
 ビアースは背を向け、つぶやくように言った。
「まあ……手前とても人間ですからな。死を賭けて訴えられれば考えも変わります。あなたは命乞いをなさらなかった。嘘偽りなく富が空虚であることを示してくださった……」
 もういいでしょう、とシエンシアが体を離した。それまで彼女はクリオンに寄り添って温かみを補うように抱きしめていた。クリオンは起き上がり、ビアースの背に近づいた。
「ごめん……って言っていいかな」
「なぜ?」
 ビアースは勢いよく振り向いた。そして目を丸くした。
「寂しさに気づかせてしまったから」
 ビアースは長い間クリオンを見つめ、やがて老父のように穏やかな顔でため息をついた。
「そこまでおわかりですか」
「それこそぼくが言いたかったことだもの。お金が好きだから人を愛さないんじゃない――愛せるような人がいないからお金にしがみついていたんでしょう?」
「この年になると、いろいろ好みがうるさくなるのですよ」
「あは。好きな人ができるといいね」
「むしろ思い出さねばならんのでしょうな。マリーダのことを」
 ビアースは壁の暖炉に目をやった。その上に、エメラダによく似た婦人の細密画が置いてあった。
 クリオンはシエンシアをつれて戸口に向かった。振り返ると、ビアースはじっと細密画を見つめていた。

「――彼は逆に、『遷ろう者ども』に付け込まれる隙を持ったかもしれないわ」
 大明産の天井まで届く磁器の壺の陰で、クリオンは頭上を見上げた。
「そんなことはないよ。奥さんの偽者に惑わされたりはしないと思う」
「断定できない。彼の変心は不十分よ。――闇燦星はクリオンを認めない」
 また一つ気配が消えた。ズヴォルニクの太い声がした。
「きやつのあるじは汝に従っておらぬからな……不信も深い」
「これは失格ってこと?」
「失格も合格もない。きやつが認めねばきやつの力を得られぬだけだ」
「……挽回の機会があるといいんだけどな」
 ため息をつくクリオンに、躍るような楽しげな声がかけられた。
「チュルン・ヴェナはどちらでもいい。ただ、おまえがこまるところをみたい」
「なに? その理由」
「いこう」
 ビアース邸の豪奢な階段と廊下が薄れ、近くにいたメイドが驚きの顔になった。
 クリオンはまた闇に包まれた。

 次に目を開けた途端、クリオンに刃が振り下ろされた。
 反射的にレイピアを抜いてはじこうとする――が、今は腰にズヴォルニクがない。横っ飛びに転がってクリオンは避けた。
「なんだ!?」
 叫びはクリオンのものであるとともに、斬りつけた兵士のものでもあった。分厚い装甲に第二軍の部隊長の徽章がある。下級兵ではない。
 クリオンは叫んだ。
「予は皇帝だ、剣を収めよ!」
「皇帝陛下――!」
 幸い、彼はクリオンの顔を知っていたらしかった。驚きの顔になる。だが構えはとかずに言った。
「おどきください!」
 そして大剣を振り下ろした。――クリオンの真横でざくりと肉が切り裂かれる音がした。
 振り向くと、首を失った女ががくがく震えながらなおも手を伸ばそうとしていた。兵士は横一文字になぎ払い、女の胴を両断して倒した。
 ばらばらに散らばった体の切断面からは肉の鞭のようなものがこぼれ、ひくひく震えた。『遷ろう者ども』だった。
 そこへシエンシアも現れ、状況を一瞥して言った。
「クリオンは聖霊の力で王都を回っています。あなたは第二軍の兵?」
「第二軍第二十一歩兵連隊のベルグ重歩兵長であります! 聖霊の力で、でありますか?」
 兵士は剣を収めて敬礼したが、不思議そうな顔になった。シエンシアがきっぱりと言う。
「説明しているひまはありません。あなたは一人ですか。誰かの指揮で動いているんですか?」
「私はガルモン軍団長の指揮下にあります!」
「……ガルモンの!」
 クリオンは驚いて立ち上がった。あの寡黙な禿頭の巨漢、エイレイ・ガルモンが生きて指揮を取っているというのだ。
「連れていって!」
「はっ!」
 兵士は再び敬礼し、こちらです、と歩き出した。
 そこは下町の一角だった。路地裏を歩きながら、クリオンはガルモンの言動などを細かく形容して、本物の皇帝であることを証明してみせた。次いで兵士の話を聞くと、彼らは教会の手を逃れて王都に身を潜め、有害な『遷ろう者ども』を狩りたてているとのことだった。
 連れていかれたのはオン川沿いの倉庫だった。見張りと合言葉を交わして中に入ると、意外な人物がクリオンを迎えた。
「クリオン陛下!」
 顔を輝かせて走ってきたのは、青い髪の青年だった。彼がいたせいと、彼の笑顔をめったに見たことがなかったせいで、クリオンは喜色を浮かべた。
「シェルカ! 無事だったんだね!」
 クリオンの親しい護衛官であり、剣の師範ともいえる青年は、恨みごと一つ言わずうなずいた。クリオンは彼の手に触れて尋ねた。
「どこもけがはない? 審問軍に捕まってから拷問されたりしなかった?」
「多少はされました。でももう治りました。おれはそんなにヤワじゃありません」
 心配御無用ですと言ってから、シェルカは期待するように言った。
「陛下が戻られたということは、第一軍が来ているんですか? ジングピアサー将軍やマイラさまは……」
「残念だろうけど、軍はまだなんだ。予が来たのは私用なんだよ」
「私用?」
 それを話す前にクリオンはガルモンとの対面を求めた。シェルカは振り向いて倉庫の奥を示した。
 荷物が端に寄せられた広い倉庫は、脱走者たちの根城になっているようだった。どこから調達したのか、野戦用の毛布や厨具などが置かれて兵士が休んでいる。歩いていくと、奥に敷かれた毛布に、ひときわ目立つ巨体の男が横たわっていた。
「閣下、クリオン陛下です」
「あら……」
 そういって、ガルモンに付き添っていた子供が顔を上げた。年のころは十三、四歳。草色の髪を男の子のように短く切り、サイズの合わない革鎧と半ズボンを身に付けた利発そうな少女だ。
 少女は立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。
「プレータ・ガルモンです。父のためにわざわざこのようなところへお越しくださり、ありがとうございます」
「父……ガルモンに娘さんがいたの? 前にいないって聞いたような」
「娘ですよ」
 少女は野花のようにほがらかな笑みを浮かべた。
 それからガルモンを指して言った。
「父は地下墓地から脱出した際の傷がまだ癒えておりません。でも、口は利けます。今起こします」
「ああ、眠っているならいいよ」
 上半身裸のガルモンの腹に包帯が巻かれていた。
 シェルカがシッキルギン戦の戦場でいつもやっていたように、汚いところですがと言いつつ、椅子を持ってきてクリオンを座らせた。クリオンは兵士たちを呼び集め、話を聞いた。
 ここにいるのは第二軍の生き残りと、他の部隊や王宮から逃げ出した衛士など五百名あまりだった。彼らは教会に反感を持つ市民たちと協力して『遷ろう者ども』を狩り、第一軍が戻ってくるのを待っているとのことだった。孤独な戦いを続けてる者たちだけに、クリオンがフェリドとの講和や大明軍への勝利の様子を話して聞かせると、我がことのように喜んだ。
 小さなプレータは、話の合間に茶を持ってきたり皿を下げたりと気の付くところを見せた。クリオンが誉めてやるとはにかんで笑い、ガルモンの看病に戻っていった。
 それからクリオンは訊いた。
「王都にいる『遷ろう者ども』はどれぐらいなの?」
「ほぼ王都の人口に匹敵します」
 シェルカの返事に、クリオンは絶句した。忠実な護衛は暗い表情で言った。
「陛下がおっしゃるとおり、やつらは人間が慕う相手に化けています。つまり市民一人につき一匹の偽者がいる。小さな子供などは親を完全に信用しているので、偽者など求めず、その分はいないようですが……別の理由で、いないはずの者も現れました」
「別の理由?」
 シェルカは口をつぐむ。クリオンは兵士たちを見回したが、他の者も説明しなかった。
 首を傾げて、クリオンは倉庫内に目をやった。五百名の反抗者のうち、今いるのは二割ほどだろうか。横たわっている者や武器の手入れをしている者がいる。その間を十数人の女が歩き回り、食べ物を渡したりけがの手当てをしていた。軍人ではない。
「あれは近所の人?」
「いえ、まあ……」
「教会ににらまれる危険を冒して手伝ってくれているんだよね。お礼を言いたいから呼んでもらえないかな」
 兵士たちは立ち上がらなかった。居心地悪そうに顔を見合わせるだけである。
 仕方ない、という感じでシェルカが言った。
「あれは……一部の兵の、娘や恋人です」
「身内なんだ。それでも苦労をかけているのは同じだから――」
「その一部の兵というのは、戦や病気で愛する人をなくした者です」
「……え?」
 クリオンはシェルカを振り向いた。シェルカがため息をついて言った。
「あの女たちは『遷ろう者ども』です」
 クリオンは驚いてシェルカを見つめた。
「どうして……敵じゃないの」
「陛下……おれたちがどうして敵を倒しているか、おわかりですか」
 シェルカは疲労のにじむ声で言った。
「それは、敵が偽者だからです。本物が別にいるのにその相手になりすましてこちらを惑わすからです。そうされると、恋人のいる者は気持ちが揺らぐし、本物を冒涜することにもなる。おれの前にもエメラダ様が現れましたが、斬りましたよ。腹が立って。……でも陛下。本物の相手を失った者ならどうですか」
 シェルカは、厨具を使って鍋を煮込んでいる三十歳ほどの女を指差した。そばには同じ年頃の兵士が立って、仲睦まじく食事の支度をしている。
「あのベルスという男はつい三ヵ月前に幼馴染の女と結婚しました。それが式の翌週に、荷馬車に轢かれて女房を失ってしまった。後追い自殺をしかけたほどの悲しみようでした。それは周りが止めたんですが、もう誰も愛さない、死ぬまで一人身で暮らすと誓ったそうです。無理もないです、二十五年も付き合ってきた女だったんだから。多分、本当に死ぬまで思い続けるでしょう。……そんなベルスの前に、死んだはずの女が現れた」
 シェルカは投げやりに笑った。
「誰が斬れるんです、そんなもの」
「でも」
「実害もないんです。女はベルスのために、ベルスの仲間のおれたちのために、本当によく働くんです。ベルスが望まないから、教会にも告げ口しない。……誰も困らないし、助かるんですよ」
 周りの兵士たちがうなずく。
「だからおれたちは……もう本物と会えない者に限って、あれと一緒にいることを許しているんです」
 沈黙が座を満たした。クリオンは迷う。言われてみればそういうこともあるのだった。エコールや貴族たちの場合と違って、これは非の打ち所のない素朴な愛だ。
 ひょっとしたらビアースも同じ迷路に入り込むかもしれない。そうなったら、どう止めればよいのだろう。
 クリオンの様子を見ていたシエンシアが口を開いた。
「皆さんは不満ではないんですか。自分たちは『完璧な偽者』と暮らせないのに、彼らだけが許されていることが」
「そりゃあ」「不満はありますが……」「ベルスたちに比べればただのわがままみたいなものだしなあ」
「それが本当ならいいでしょう。しかし――理性でそう抑え込めるものですか?」
 シエンシアはクリオンを振り向いて言った。
「クリオン、ジャムリンのことを思い出してください」
「ジャムリン……フェリドの、ウォラヒア支族の族長だね」
「彼は偽の妻を守ろうとするあまり、目先しか見えなくなって暴走しました。あれがここでも起こったらどうしますか。また――」
 再び兵士たちを見る。
「こういうことに気づいていますか。ベルスたちは人質を取られたのだと」
「人質?」
「そうです。『遷ろう者ども』は彼らのあるじに従っています。あるじの命令があれば一夜にして凶暴な怪物となる。――妻を怪物にするぞと脅されたとき、ベルスたちは妻とこちらと、どちらを選ぶと思いますか」
 兵士たちは慄然とする。偽者たちは人質であり、間者でもあるのだ。
「おい、まずくないか」
「そうだな。思った以上に危険だ」
「獅子心中の虫か……」
 ざわつく兵士たちにシェルカが言った。
「斬れる……か?」
 皆はいっぺんに静まり返った。それができないから黙認しているのだ。
 視線がクリオンに集まった。苦しかったが、もう彼は決めていた。立ち上がって静かに言う。
「勅命だよ。……偽者はすべて斬れ」
「プレータも?」
 誰かの言葉が、一同に激しい衝撃をもたらした。クリオンは身を硬くして、顔を動かした。
 少女がこちらを見ていた。話を聞いていたのは間違いなかった。愛らしい顔を恐怖にゆがめてつぶやく。
「わ……私、殺されるの?」
「プレータ……きみもそうなの?」
 青ざめた顔で、こくりとプレータはうなずいた。シェルカが苦い顔で言った。
「ガルモン閣下は三年前にはやり病で娘さんを亡くされたんです」
 その場に膝を着いてしまいそうな重苦しさをクリオンは覚えた。同時に、敵に対する怒りも――
 シェルカに向かって手を伸ばした。
「剣を」
「で、でも陛下……」
「剣を!」
 ためらう彼に強い声をかける。
 湾刀を受け取ると、クリオンはプレータに近づいた。床に尻もちを突いたプレータは、かちかちと歯を鳴らして後ずさり、横たわるガルモンの大きな体の向こうに飛び込んだ。
「お父さん、助けてお父さん!」
 クリオンは、巨漢の声を初めて聞いた。
「陛下……まことに、この者らは敵となるのですか」
 獅子のうなりのような太い声を聞いて、クリオンは振り返る。シエンシアが無言でうなずく。
「本当だよ、ガルモン。それに……敵にならないとしても、死者が蘇るようなことは正しくないんだ」
「なぜ?」
 ガルモンがゆっくりと体を起こした。上半身だけでクリオンの背丈に匹敵するような巨体が立ちはだかる。プレータがその背に身を預ける。
「なぜ死者が蘇ってはいかんのです? なぜ、わずかな間だけでも娘と暮らしてはいかんのです?」
 突き出した額の下で、ぎらぎらと光る目がクリオンを睨みつけた。クリオンは見つめ返すだけで精一杯になる。
 なぜ? なぜ死者が蘇ってはいけないのか? 答えられる問いではない。それを禁じる法や習慣は何もない。ただありえないというだけだ。そして、ありえないからという理由だけでは、この男の心底からの願いに、とても対抗できなかった。
 その時、シエンシアが言った。
「『遷ろう者ども』は歳を取りません。現れたときのまま、相手が最も望む姿のままで居つづけます。……ガルモン、想像してください。仮にその子が敵にならなくても、その子は子供のままあなたのそばにい続けるんです。恋もせず、子供も産まず、あなたが歳を取って死ぬまで」
 試すように顔を覗き込む。
「父親として、そんなことを望むんですか? あなたは……死んだプレータに何を求めていたんです?」
「わしは……わしのプレータは……」
 ガルモンは血を吐くように吠えた。
「なぜだ、なぜ放っといてくれんのだ! なぜそんなことを教えるんだ! わしはこの子を守りたいだけなのに!」
「……お父さん」
 小さな声がした。プレータがおずおずと前に回りこんできた。
「いま、感じた……お父さん、決めたね」
「プレータ……」
「最初からわかってたのに、今まで自分をだましてたんだね。私がいちゃいけないのに、いてほしいって」
「言うな……いいから、わしの後ろへ……」
「でも決めたでしょう。私を……殺すって」
 プレータはがくがく震える膝を健気に伸ばして、ガルモンの前に立った。
「お父さんが決めたから……私、覚悟する。お父さんの望む通りにしたいから」
「違う、そんなこと思っちゃおらん! やめるんだ! な?」
「殺して……」
 プレータはぎゅっと目を閉じて、祈るように頭を下げた。
 ガルモンは毛布のそばの戦斧を取って、振り上げた。――が、それは長い間振り下ろされなかった。熊のように太い腕がぶるぶる震え、何度も前に傾きかけて、そのたびに頭上へ振れ戻った。
 見るに耐えず、兵士たちが顔を背ける。が、クリオンは目を逸らさなかった。血の気の失せた顔でガルモンのそばへ寄り添った。
「予がやるよ、ガルモン」
「それはならんです!」
 ガルモンは激しく首を振った。
「この子は……わしに斬れと言ったんです。わし以外は、たとえ皇帝陛下でも」
「ガルモン」
「やらせてくだされ! わしが決めたことです!」
 ガルモンは迷いを断ち切るように腕に力をこめた。――その時、ふっとプレータが目を開けて、哀願するように言った。
「怖いよ、お父さん。早く」
 ガルモンの手から戦斧が落ちた。
「――ぐおおおおぉ!」
 巨漢は絶叫し、どん! どん! と床を殴りつけた。涙のしずくがぼたぼたと滴った。そして彼はやにわにプレータに腕を伸ばし、抱きしめようとした。
 彼の苦しみを終わらせてやれるのは、クリオンしかいなかった。
「ごめん、ガルモン!」
 クリオンは横から左手を伸ばしてプレータを抱き寄せた。あっ、とプレータが驚いたように言った。
 クリオンが、右手の湾刀で彼女の胸を貫いていた。
 強く痙攣したプレータがふとクリオンを見て、安心したようにささやいた。
 ――ありがとう。
 そしてずるずると床に崩れ落ち、動かなくなった。
 ガルモンは呆然と小さな体を見つめ、そっとすくい上げて抱きしめた。クリオンは口に湧いた苦い唾を飲み込んで、もう一度つぶやいた。
「ごめん、ガルモン……」
「よいのです」
 聞き取れないほどの声でガルモンが言った。
「この子は、ありがとうと……わしの苦しみを陛下が代わって下さったから……」
 その次のささやきに、クリオンは底知れない怒りを覚えた。
「本当のプレータでもそう言うでしょう……」
 クリオンは彼のそばを離れた。シェルカに湾刀を返し、誰も引き止められないほどの勢いで歩き、倉庫の外へ出た。
 そして、地面に叩きつけるように叫んだ。
「あんなひどいことってあるか!」
「クリオン……」
 追いすがってきたシエンシアを振り返って、クリオンは怒りに輝く目を向けた。
「あそこまで、最後まで本物のふりをするなんて! あんなに徹底的にガルモンを悲しませるなんて! 正体を現せばいいのに、笑ってガルモンを馬鹿にすればいいのに!」
「……それが『遷ろう者ども』のやり口なのです」
 シエンシアが深いため息をついて言った。
「優しく近づき、手管が効かなければ襲う。効いたならばとことんまで人間の感情を食い物にし、心をぼろぼろにする。ギニエの町で、ポレッカを餌食にしかけたように。……恐ろしい敵です。わかりましたか?」
「わかったよ! 絶対に許せない! 戻って全部殺してやる、みんなをガルモンみたいに悲しませるぐらいなら予がやってやる!」
「その必要はないでしょう。軍団長が範を示したんです。……皆、従いますよ」
 シエンシアは言葉を切った。クリオンはぎゅっと唇を閉じて、涙をこらえていた。
 頭上から声が聞こえた。
「よくころせたな。おまえはみのがすとおもっていた」
「殺すさ! あれは毒入りの餌だよ! みんなに食べさせちゃいけない!」
「とてもこまっていておもしろかった。チュルン・ヴェナはクリオンをみとめる……」
「面白かった、だって?」
 クリオンはキッと頭上を振り仰いだが、もう気配は消えていた。ズヴォルニクがからかうように言った。
「本来我らにとって、人の思いなど瑣末なこと……情けがあるなどとは思わぬことだ」
「なんだって。じゃあ、どうして力を貸してくれるんだ?」
「きやつらが、人と関わりなくとも脅威であるからだ」
「……聖霊にとっても脅威なの?」
「この星に息づく力あるものすべてにとって」
 謎めいたことを言ってから、ズヴォルニクが宣言した。
「次は我だ。安心せよ、ジングの裔よ。我の問うことはただ一つ」
「なにを?」
「汝、力ありや」
 クリオンは闇に突き落とされた。

 そこは氷室だった。シエンシアの姿はない。
 吐く息も凍るほど寒い、蒼い石の洞窟。左右の高い壁には遥かな古代より伝わる伝承が、人々や獣の躍動的な絵姿となって彫り込まれている。
 前後は廊下だ。背後には遠く入り口の光が見える。前方は行き止まり。暗く高い天井に向かって巨大な石版がそびえている。
 石版に刻まれしは、異形の水獣を踏む戦乙女――皇帝紋。
 フィルバルト城、皇帝霊廟だった。
 そして、石版のふもとの石棺に、金髪の魁偉な男が大きく股を開けて腰掛けていた。
 クリオンは言葉を失う。石棺は代々の皇帝のうち直前に在位した前帝が安置されるものだ。だがそれは現在、空のはず。そこに入るべき男は湖に沈んだはず。その男は死んだはず――
「クリオン・クーディレクト・ジングラ。……息子よ」
 男はズヴォルニクの声で――そしてその人の声そのもので言い、立ち上がった。
「強くなったか?」
 ゼマント・ロフォーデン・ジングラ。皇帝ゼマント四世は緋のマントを跳ね上げて剣を抜いた。

 クリオンの前の床に、一振りの剣が突き立てられている。使い慣れたクリオンのレイピアだ。ただ、封球だけがない。
 その意味は明白だった。だがクリオンは理解できずにいた。
「父上……」
 歩み寄る男を見つめる。クリオンと同じ金髪を肩まで無造作に流し、鼻の下には薄い口ひげを蓄えている。顔立ちは精悍でありながら端正。クリオンが鏡の中にいつも見る、少し頼りないと思ってしまう顎の線を、彼も持っている。
 だが、細められた眼窩の放つ圧倒的な視線は、自分とはまるで違う。背丈も、肩幅も、床を打つブーツの音の重さも。鍛えられた胸筋が斜めの肩帯を持ち上げ、右手は重い長剣を完璧な水平に保っている。
 剛毅さと華美さを謳われた彼の父親に間違いなかった。
 しかしその人は――
「……生きていらしたのですか?」
 返事は斜めに降りそそぐ白光だった。剣を振り上げる瞬間をゼマントは見せなかった。
「ハッ!」
 反射的に息を吐いてクリオンは飛びすさる。風音を残して、長剣は膝ほどの高さで静止した。ゼマントは床のレイピアを軽く引き抜いてクリオンに放り投げる。
「腕を見せろ」
 クリオンが柄をつかむが早いか、腰だめの刺突が疾走してきた。避けても腋に来る、そう悟ってクリオンはレイピアを斜めに垂らすように構える。
 ヂャアッ! と鋼が滑りあった。刃はクリオンの左腕の裏を浅く裂き、鍔と鍔がぶつかった。クリオンの前に厚い胸がそびえ、鼻先で父が嗤った。
「流したな」
 ずん! と鳩尾に拳が叩き込まれ、クリオンは後ろへ五ヤードも吹っ飛んだ。すぐさま跳ね起き、調息して吐き気を逃がす。逃がしきれなかった。こみ上げた胃液をクリオンは唾のように横へ吐き捨てた。
 散歩するように軽やかに歩いてきたゼマントが真横から長剣を振った。やや高い。クリオンは重力が許す限りの速度で上体を伏せ、右に引き込んだレイピアを撃ち出した。
 音を立てて頭上を刃が旋回した。避けた。しかし太腿を狙った刺突は手甲をはめたゼマントの左手ではじかれた。両者の態勢がクリオンの頭に閃く。こちらは突きの勢いで前のめり。相手は両足をしっかり踏みしめ、剣を振りぬいた後。
「避けたな」
 予想通り、振った後の剣を体重で引き戻すような垂直の斬撃が落ちてきた。かわそうにも脚に力を入れていない。跳ねられない。
 左手にレイピアの峰を握って頭上へ差し出した。落下する天井を支えるような姿。天井よりもよほど恐ろしい衝撃が、ギォン! とレイピアの中央を叩いた。クリオンは右足を踏ん張って重心を入れ直し、両腕に渾身の力をこめてこらえる。
「受けたな」
 体重以上の重量はかけられないはずなのに、噛みあう刃をギチギチと震わせて、岩にも等しい重みがかぶさってきた。顔を上げて視線を返す。ゼマントの顔に凄絶な戦意が浮かんでいる。
 だしぬけにすっと重みが消えた。両腕で斬りつけていたゼマントが動く。次は――
 振り上げられた鉄のブーツを、クリオンはひねったレイピアで叩き返した。ぎゃんん……と異種の鉄同士が喚き、残響が石壁を跳ね回った。
 地を蹴って下がり、五歩を置いてしっかりとレイピアを構える。ゼマントが左手であごを撫でた。
「はじいたか……」
 ハアッ! とクリオンは山猫のように息を吐いた。
 ここまで、両者ともにおよそ正統な斬り合いをしていない。ゼマントの攻撃は変幻自在、対するクリオンも定石を忘れ、本能のみに従って動いた。今になってわかってきた。ゼマントは一合ごとにこちらの対処を調べている。殺す気ではない。
 ただ……調べた結果殺しても仕方ないとは思っているようだった。次に何が来るかもわからない。
 彼がそれをする目的、彼が存在する理由など、もはやクリオンの念頭から消えていた。今なさねばならぬのはこれを凌ぐことだけ、そうせねば死ぬ。
 ゼマントはじっとクリオンを見て、余裕の表情を消した。年老いた竜のように目を細め、長剣を深く引いて息を吸う。
「せいやァッ!」
 滑るような接近に続いて、力を絞った打撃が来た。全身の肌でゼマントの風を捉えながらクリオンは迎え撃った。
 続けざまに澄んだ響きが飛び散った。短く速い斬撃の応酬。ゼマントが振り、引き、突き、打つ。クリオンが弾き、薙ぎ、返し、斬る。四つの爪先がめまぐるしく床を叩き、焼けた鉄粉が燦然とはねる。
「イーィヤッ!」
 食いしばった歯の間から声ならぬ声を漏らして、クリオンは一瞬開いたゼマントの左腰を突いた。ゼマントはわずかに横へすべり、レイピアに剣の鞘を当てた。キャン! と細いレイピアの刀身が揺れ、クリオンは必死に手のしびれに耐える。
 ゼマントが怒声を放った。
「殺せ! 手加減するなァ!」
 びりびりと四囲の壁を振るわせる叫びに、クリオンは気づかされる。
 手加減――手加減はしていない。だが身を守ろうと思っていた。それは攻撃ではない。攻撃とは、相手を切り裂き貫き破壊し滅ぼし完膚なきまでに打ち伏せること。
 命を奪うこと!
 再び襲いかかる長剣に応えながら、クリオンは自問した。殺せるか? 実の父親を、かすかに記憶に残る大きな手の持ち主を、おぼろに覚えている慈しみの声の主を。
 殺せる。――クリオンは答える。
 親しくなかったからではない。悪王だったからではない。ましてや憎しみからではない。
 逸らすことも打ち消すこともできぬ力を突きつけられたとき、それに相対して我と我が魂を守るためには、同じ力で立ち向かうしかないから。
「予は――」
 拡散していた意識が絞られたように収束した。クリオンの視界はゼマントの生命だけを捉える。躍動する肉体に宿る致命の一点だけを。
「――ジングリットの主だ!」
 閃光のように突き出された刃が、長剣をくぐってゼマントの肩帯の中央を貫いた。心臓の直下、動脈と静脈と脊髄を断ち切る位置だった。寸秒も間をおかず剣を引き抜く。
 すうっ、と強大な嵐が収まった。
 ゼマントは瞳に果てしなく深い笑みを浮かべ、クリオンを見下ろしていた。
「よくやった」
「……父上」
 クリオンは瞬きして彼を見上げた。祝祭を終えた人々が帰っていくように、体に満ちていた戦気が霧散していった。
 十五歳の少年に戻った息子を、父は力強く抱きしめた。
「そうとも……おまえがこの世界のあるじだ。クリオン一世」
「父上!」
「行け」
 ゼマントは腕を離し、身を翻した。広いマントが大きく回った。
 こつこつと音を立てて彼は歩いていき、石棺の中に身を沈めた。夢の中のような気分で見守っていたクリオンは、はっと我に返って石棺に駆け寄った。――しかしそれは分厚い蓋に塞がれていた。何年も封じられていたもののように。
「父上……」
 幻だったとは思わない。自分を抱きしめた腕は、確かにあの遠い日の腕だった。――しかし、『遷ろう者ども』のような偽者でもないような気がした。あれは本物の戦意、そして本物の愛だった。
 闇に呑まれるまで、クリオンはじっと石棺に手を触れていた。

 礼拝堂に戻ってきたクリオンを、プロセジアの人々の感嘆したようなため息が迎えた。駆け寄るマイラに無事だと目顔で言って、クリオンは聖霊たちを探した。
 五つの武器は祭壇の前の床に並んでいた。クリオンは尋ねる。
「ズヴォルニク、あの父上は……本物?」
「我らにも死者を蘇らせる力はない。あったとしてもやらぬ。――あれだけはプロセジアの力を使って作り上げたものだ」
「じゃ、偽者だったの」
「否。本物との違いはない。あれはゼマントとまったく同じ存在だ」
「同じって……なぜそんなことが言えるの?」
「我、汝の父を知れり。――城の底深く眠りつつ、あの男を常に見ていたからな」
 それでクリオンはようやく得心がいった。ずっと知っていたズヴォルニクの声が、なぜ父と同じものだったのかを。この聖霊は今まで父のものだったのだ。
 クリオンは身をかがめてレイピアを取った。封球はもう不安定に明滅することなく、穏やかな蒼い光を放ち続けていた。
「おまえはやっと予のものになったんだね」
「そうだ。汝は王都を巡り、人々の過ちをただした。それはとりもなおさず、神具を律する都の主として、ふさわしさを示したということだ」
 ズヴォルニクが安心したように言った。
「我らは汝に服し……これでようやく、五星を妨げることができるようになった」
「どうやって?」
「やってみせよう」
 封球の光が増し、同時にシリンガシュート、ロウバーヌ、チュルン・ヴェナも強い光を放ち始めた。ただ、闇燦星だけは、羽衣全体に散りばめられたかけらの輝きを、かえって失ったように見えた。
 突然、音のない風のようなものがクリオンに吹きつけた。覚えのある感覚。シッキルギン戦でのときと同じように、聖霊がどこかへ思念の咆哮を放っている。その余波だ。プロセジアの人々やシエンシアも顔をしかめてこらえる。
 それは数分も続いた。――しかし、やがて薄れて消えた。クリオンは首を傾げる。何も起こらなかったように思える。
「……ズヴォルニク?」
「我がこと、成らず……」
「失敗したの? 何をしようとしたの!」
「五星を封じられぬ」
「五星って」
「ザナゴード、プランジャ、シムレス、エラフォン、ジー。あれらを殺そうとしたのだ」
 それが比喩や何かの別名ではなく、文字通り、毎夜頭上を巡っている五つの星・・・・・・・・・・・・・・のことなのだと気づいて、クリオンは目を見張った。
「おまえたちは……天の上にまで声を届かせられるの!」
「それをしくじったのだ」
「闇燦星のせい?」
「否。闇燦星なくとも成しうるはずだった。しかしこれは――何者かが我らの声を知っていて、同じ声でかき消したかのようだ」
「何者か……」
 クリオンはつぶやく。自分たちの行動を邪魔するものといったら一つしかない。しかしそれを確かめるよりもっと気になることがあった。
「そうすると、どうなるの?」
「五星は目覚めの声を織る。我らはその時が来たるのを恐れていた」
「それは――」
 その時、突然プロセジアの人々がはっと顔を見合わせ、礼拝堂の入り口に走った。しかし彼らが戸口を出るより早く、五星架の刻まれた武骨な鎧をまとった者たちがなだれ込んできた。マイラが剣を抜いて叫ぶ。
「討伐僧! 嗅ぎつけられたか!」
 他の者も次々に直剣をかまえ、僧たちを迎え撃つ。彼らはいずれもマウスに匹敵する手だれのようだった。しかし勝ち目のないことは明らかだった。討伐僧は後から後から入り込んでくる。百人以上いるようだ。
 プラグナが手に握った銀の糸の輪をしごきつつ、命じた。
「シエンシア、クリオンをつれて一時退却しろ。ここは我らが防ぐ」
「団長!」
「僧兵ごときにやられはしない。身を隠すから第一軍をつれてこい。いいな?」
「――了解」
 マイラと鳥使いたちがクリオンを囲み、シエンシアが床の聖霊武器を手早く集めて言う。
「屋根伝いに逃げましょう、クリオン」
「……わかった」
 クリオンはうなずいた。反撃するべき時でないことはわかっていた。そのためにはまだまだ多くのことを知らなければいけないようだから。

 夕刻だった。冬の弱々しい太陽を西に臨み、大神官は北の塔に立っていた。
 足元には僧の死体がある。彼はきょう一日、五色の封球を備えた篭手をつけ、不可思議な方法で王都を移動して回る皇帝の動きを追っていた。皇帝の五聖霊に自分の五聖霊を同調させて。
 それはたやすいことではなく、ただでさえ困難な「聖霊の声の盗み聞き」を、五種も同時に行ったことで、彼は心身の力を使い果たした。――そして死んだ。
 しかし篭手は残った。
 大神官がそれをはめている。五つの聖霊はもちろん彼に対しても反抗の唸りを上げている。だが、それを上回る高圧の恫喝が聖霊たちを押さえ付けていた。篭手をした手に握る五聖架――『ベテルギュース』が。
 天空の炎を呼ぶ聖霊は、五つの聖霊を力ずくで従え、彼らが聞いた皇帝の聖霊の声をも取り込んだ。そして大神官の命じるまま、放ったのだ。
 ズヴォルニクたちの声をかき消したのは、この『ベテルギュース』の声だった。プロセジアの者がそれを知ったなら、事態を理解しただろう。複素界面波の波形解析と、逆位相波による中和が行われたのだと――。
 大神官はそのようなことを知らない。だが彼にとっては差し支えない。開祖イフラの志を継ぐ五星の使徒として、千二百九十年の時を経て重なる五星の命ずるまま、ベクテルに道具を作らせて使っただけだ。それは狙い通り皇帝を邪魔し、その居所までも彼に教えた。それで十分だった。
 大神官は五星架を高く掲げ、薄暮の空を仰ぐ。現れ始めた星々の間を、ひときわ明るい光点が悠然と横切っている。この数年というもの、天を縦横に走る五星の軌道は極めて近くなり、今まさに大神官の見守る前で、一点に重なろうとしていた。
 大神官は祈りの声を上げる。
「グルドの甲羅はベルガインに刺された。だが時を経て甲羅は癒え、今再び水面を裂く――五星よ目覚めの声を織れ! 守りあれ、嘉せよ我が神セベル・ウーレー・イフラ!」
 その瞬間――
 千二百九十年前、すべての人々が加わった瀕滅大戦により、大気のない空の彼方へ追放されていた五つの孵化体が同緯度・同経度の点に重なった。
 それらは長い間、ささやくような声を放ちながら、異なる高度で大地の周りを回っていたが、それらの五種の異なる声が重なることは今までなかった。
 しかし、それらの軌道は驚異的な精度で設計されていた。遥かな未来に再び重なるように、主がそれらを天に播いた。――あたかも星を巡る時計の針のように。
 それは今、地上から見て重なった。最外軌道のザナゴードの声は一つ下のプランジャを目覚めさせ、プランジャの声はさらに下のシムレスを目覚めさせた。五つの星が連鎖的に目覚めていき、最後に目覚めた最内軌道のジーは、地表に向けて声を放った。
 大陸を声が覆った。――ジングリットを、シッキルギンを、ガジェスを、大明を、プロセジアを。
 それは大気と海水を貫いて海の奥深くまで届き、やがてあるじの耳に入った。
 北海、氷雪吹きすさぶカリガナ群島。
『遷ろう者ども』の主である矯惑複体グルドは、数百万の擬手を深淵に突き立てて、城砦に匹敵する体節を一つずつゆっくりと持ち上げていった。


―― 後編に続く ――



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