次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第八話 前編

 1

 骨の髄まで染みこむような冷気が去ったその朝、エイグの野は見渡す限り銀のヴェールに覆われた。
 五星暦一二九〇年十一月十四日――初降霜。ジングリット帝国は冬将軍の訪れを受けつつあった。
 ギニエより北へ百リーグ、王都フィルバルトまで残すところ五十リーグの地点に、四万五千名のジングリット皇帝軍は陣を張っていた。エイグという地名の大穀倉地帯で、周囲は何十リーグも続く麦畑である。この季節はすでに夏小麦の刈り入れが済み、点々と散らばる農家と揚水の風車以外は、ほぼ何もない平地と言っていい場所だった。
 ジングリット軍の主力は騎兵である。騎兵の威力が発揮されるのは平地だから、それがここを会戦場に選んだ理由の一つではある。
 しかし今回は相手が普通ではない。他にいくつもの理由が平地での戦を要求し、しかもなおそれと相反する要素が残っていて、ジングリット軍首脳部は今でも作戦を練りこんでいる最中だった。
 半径約五百ヤードの円形に組まれた陣の、ほぼ中央にある皇帝陣幕では、早朝のこの時間から、朝食を兼ねた作戦会議が開かれていた。
 臨席者は総司令官デジエラ・ジングピアサー、第一軍団長ノストラ・フォーニー、遊撃連隊長ロン・ネムネーダ、打撃連隊長シャプリン・ドーズ、同メトル・エトナ、再設置された疾空騎団長マイラ・ニッセン、そして皇帝クリオン一世とその側室にしてフェリド総族長であるフウ、チェル姫などだった。
 会議で考えるべきことは多かった。だが、会議の目的は、極論すればただ一つだった。
 空から来る大明軍の天舶を、地上軍で撃ち破ること。
 ジングリット軍四万五千に対し、敵の兵数は一万八千と判明していたが、状況はとても有利とは言えないものだった。
 ジングリット軍に空を飛ぶ船はない。飛行兵力である疾空騎団はギニエ市で大幅に増強され、巨鳥エピオルニス二百五十羽を擁するまでになったが、これとても十分ではない。ジェンと称される戦闘専用の小型飛行兵器は、マイラの言によればエピオルニス三体分の戦力に匹敵し、それが大明軍には百二十以上もあるという。また、会議には東の国境での戦闘に参加した第四軍の兵が呼ばれていて、彼によればジングリットの対空火器である火箭での攻撃も、あまり有効ではないとのことだった。
 大明軍の目的は――合衆帝国大統令霞娜シャーナの目的は、それだけは明確にわかっている。クリオンの抹殺だ。フィルバルトを占領した彼女が、一ヵ月ととどまらず南方へ侵攻しはじめたことが、その何よりの証だった。
 彼女はジングリット軍の中でも皇帝を狙ってくる。ジングリット軍がもしなんの策もなく皇帝旗を押し掲げて会戦すれば、結果は火を見るよりも明らかだ。本陣に空から集中攻撃を受けて一巻の終わり。船が頭上に来たったらすでに遅い。まずそれを避けること、かつ敵将を討ち取ることが、この戦の勝利なのだった。その他の方法――たとえば、一時退却して大明軍を引きずり回すなどの方法は、有効とは言いがたい。少数精兵の敵軍は、その気になればジングリット領のどの町でも攻め落として、民を人質に越冬するいう方法が使えるからである。
 いま王都を人質にしていないということは、将来もしないということを意味しない。大明軍は霞娜の一存でそれをしかねない。彼女が野戦に出てきているというのは、ジングリット軍にとって災厄なのではなく、好機なのである。だから彼女の思惑はともかく、これを逃すわけにはいかなかった。
 とはいえ、この地に布陣した時点で、すでにジングリット軍の大まかな方針は決定していた。ただ、エピオルニス部隊の増員などで軍行に時間差があり、全軍が集結したのは昨夜のことだったので、幕僚たちの認識の相違を揃えるため、この会議が開かれたのだった。
 その雄弁さから、自然に幹事役になったネムネーダが話す。
「この地を選んだ理由はいくつかあって、まず敵が地上部隊と飛行部隊の二つに分かれると予測されるからです。歩兵が船に乗ったまま沈められる危険を冒すとは思えませんからね。その地上部隊へ対抗するには、平原を選んだ方がいい。そしてもう一つ、戦火の波及を避けるためです。町の近くでガチャガチャやろうものなら、いざ敵の形勢が悪くなったとき、民を人質に取られるかもしれない。何しろ向こうはこっちの防御線なんか飛び越えていけますから。ここなら誰にも迷惑はかからんってわけです」
「それと、そのほうが目立つ・・・からな。――陛下をお守りするのは大事だが、陛下を隠したばかりに国中を焼き討ちして回られてはかなわん。ジングリット皇帝ここにありということを歴然と示すのが、少なくとも戦略段階では必要だった」
 デジエラが腕組みしてうなずく。彼女はポレッカが調理し、トリンゼたちが配膳した食事を、一同の中でも最初に食べ終わっている。
 対照的に、戦場だろうが墓場だろうがこの美味を堪能しなければ損だという顔で、悠然とスープをすすっていたフォーニー軍団長が、言った。
「戦術段階では、無論お隠し申し上げるのでしょうな」
 この年三十七歳になる、がっしりした体躯の銀髪の壮漢は、上座のクリオンにちらりと目をやった。その瞳には息子を見る実父のようないたわりが浮いている。
「本陣の他に偽の本陣をいくつも作って、上空からの観察を欺瞞する。いや、全部偽物にするべきですな。それで陛下にはどこか安全なところで待っていただく」
「偽の本陣はやるとも。しかし、陛下には逆のことをお願いしなければならん」
「逆?」
 眉を上げたフォーニーに、デジエラが険しい顔で言ってのけた。
「強行突入」
「それは――」「それはいけないでしょう!」
 フォーニーの言葉を遮って叫んだのはマイラである。立ち上がった拍子にテーブルのスープ皿を落とす。もっとも彼女も早々にそれを空にしている。
「閣下は陛下の『ズヴォルニク』の力をあてにされているのですね。しかしそれがあっても危険すぎます。虎を狩るために虎の口へ入れるのは、食われてもいい餌とするべきです。私がやります!」
「まあ待て、最後まで聞け。……気持ちはわかるが」
 デジエラの眼差しはかすかな笑いを含んだものだった。マイラは憮然とした顔で腰を下ろす。大明軍の兵種分析をとデジエラが命じ、ネムネーダが言った。
「大明軍は飛行兵器を備えていますが、他にも我が軍との相違があります。指揮官が聖霊攻撃をしないという点です。こりゃ当然で、連中はそれを犠牲にしたから、引き換えに鴆などの聖霊兵器を多数用意できたわけですね。その結果、連中は突出した強力な聖霊を失ってしまった。――対して我が軍には、おれの『タングスタイン』、デジエラ閣下の『ロウバーヌ』、フォーニー閣下の『サガルマータ』など、個人が持つにしちゃ度外れた威力の聖霊が、中隊指揮官程度まで含めて百以上もあるわけです。陛下の『ズヴォルニク』にいたっては一撃で砦を吹っ飛ばすっていうとてつもない代物で。だからこれをうまく使えば、飛行兵器に対抗できる。……というよりそれしかないんです」
「僭越ながら質問を。――ことは単純に思えるのですが。『ズヴォルニク』で天舶を撃ち落してしまうことはできないのですか?」
 挙手して言ったのは、美髯をたくわえた打撃連隊長のドーズ。それは、とデジエラが言ってクリオンを見た。
 隣のフウが皿をなめようとするのを苦労してやめさせていたクリオンが、顔を上げて嘆息した。
「知らない者もいるだろうけど、予の『ズヴォルニク』は、性格も他の聖霊と違うんだ。彼はどうやら、『遷ろう者ども』との戦いだと俄然やる気になるみたいなんだよ。……逆に言うと、それ以外のときは言うことを聞かせるのがとても難しい。ミゲンドラ侵攻のときのこと、覚えているでしょう?」
 ドーズやエトナたちがうなずいた。四ヵ月前の遠征戦争で『ズヴォルニク』は暴走し、味方の兵にも被害を与えてしまったのだった。
「『遷ろう者ども』……あの悪魔か。もし今回も奴らが関係していたら、厄介なことになるでしょうね」
 つぶやいたマイラに、いいや、とネムネーダが首を振った。
「それはむしろ助かる。『ズヴォルニク』が目覚めてくれるんだから」
「ああ、それはそうだが、どちらが有利かというと……」
 やや混乱した体のマイラに、ネムネーダが白い歯を見せて笑った。彼は愛嬌のある丸っこい姿とは裏腹に、頭もよほど切れる。
「やつらが来た場合の有利不利は、後回しにしよう。作戦の基とするには不確かな要素だ」
 ううん、と首をかしげるマイラから、ネムネーダはクリオンの左右に目を移した。
「フウ様、チェル様」
「ふー?」「なあに?」
 半人半獣の少女と、黒髪のあどけない幼女が顔を上げた。――それまではどちらも場違いな食事の食べ方をして、クリオンを困らせていた。
 二人の、およそ軍事向きではない娘たちに向かって、ネムネーダはきっぱりと言った。
「聖霊攻撃をお願いします」
 それで一座の者は思い出した。この二人がともに、雷天錫『シリンガシュート』と、瀑布霊の『チュルン・ヴェナ』という強力な聖霊を従えていることを。
 思い出したというよりは、視野に入れたといったほうが適切かもしれない。誰もがそれを知っていたが、あまりの頼りなさに無視していたのだ。だが、ネムネーダはそれで済ませるつもりはないようだった。
「今回の戦は、陛下のお命がかかった大事な戦いです。お二人とも、陛下のお為ならやっていただけますね?」
「……う、うん。チェルがんばるよ……」
 ずらりと並んだ大人たちに、しかもクリオンの名を出されては、幼いこの姫もわがままを言うべきではないと気づいたようだった。獣人の皇帝はといえば、クリオンが止めるにもかかわらずぴかぴかになるまでスープ皿をなめ上げてから、泰然とした顔でクリオンのレイピアに触れた。――思念を受け取ったクリオンが通訳する。
「事情は知らないけど、予の命令ならなんでもやるってさ」
「まずは皿をなめるなと言っていただけませんか」
「それが……予の命令でもやりたいことはやめないんだって」
 頼んだマイラも答えたクリオンもしごく真面目な様子だったので、かえって笑いが起こった。
 冗談が苦手なマイラが、しかめ面でデジエラを振り返る。
「しかし閣下、今の話を聞いても、陛下に突入していただかなければならない理由が私にはわかりません」
「だろうな。聖霊攻撃が目的ではないのだから。陛下にしていただくのは、大統令との講和だ」
 一座はしんと静まり返った。講和? とエトナが呆れたようにつぶやく。
 マイラが身を乗り出す。
「なぜそんな必要が? 『ズヴォルニク』なくとも、他の聖霊の一斉攻撃で敵の旗艦を落としてしまえば済むでしょう!」
「そこに大統令が乗っていなかったら?」
 デジエラの鋭い指摘にマイラは口をつぐんだ。将を隠せるのは向こうも同じだ、とデジエラが言う。
「少なくとも大統令本人の確認は必要だ。確認後に斬るか講和するかは、まあその場の余裕によるだろうが、目的は講和としたい。その方が後々やりやすい。これは天領総監の意向でもある」
「そのために陛下を? 代理でいいでしょう! 捕縛した後でも!」
「マイラ」
 口を開いたのはクリオンだった。
 少年は、今や彼の愛する娘の一人となった女武官に、深い思いを込めたまなざしを向けて言った。
「これは予のわがままなんだ」
「陛下……」
「霞娜がジングリットを恨んでいるのは、前帝陛下が彼女にひどいことをしたからだ。予はその後を継いだ者として、彼女に会って謝りたいんだ。それで許されるかどうかはわからないけど、彼女の恨みを受け止める他の方法は話し合えると思う。……ねえ、マイラ。そういうときに、予が自ら乗り込んでいって話すってことは、誠意を示すことになると思わない?」
 粛然とマイラはうなだれたが、胸中の葛藤は隠しようもなかった。
 ――こういうお方なんだ。でも、それははたで見ていてあまりにも危なっかしい!
 きゅう、と胸が締め付けられるような痛みを覚えて、この人を命に代えても守らなくては、とマイラは思う。
 デジエラが言う。
「今までの説明は、すべてこの結末を目的としている。陛下を大統令のもとへお運びする・・・・・・・・・・・・・・・。そのために他の多くの聖霊攻撃で陽動をかける。そのために地上軍は敵軍を引き付ける。そのために――マイラ、わかっているな」
「当然です!」
 マイラは身を乗り出して叫んだ。妃にして鳥使いである自分がクリオンを守らなくて、誰が守るのか!
 デジエラは微笑んで言った。
「いいな。……そしてこの作戦で得られるものは、天舶の撃沈や地上軍の撃退など、他のどんな方法でも得られない、即時的かつ完璧な停戦・・・・・・・・・・だ。危険への見返りとして不足か?」
 否やはなかった。デジエラが言わなかった一言について、誰もが承知していたからだ。――「そして私は、最も危険な陽動役をやる」。
 承知しつつ、それに匹敵する覚悟を決めた男がいた。
「されば拙者も、大盤振る舞いいたしましょうかな」
「フォーニー」
 デジエラは歴戦の勇士に目を向け、責めるように言った。
「それはおまえも天舶の陽動をやるということか?」
「おっしゃる通り」
「許さん。おまえの役は敵地上軍との決戦だ。頭の上を気にしながら陣頭指揮ができるか。陸戦に集中しろ」
「しかし閣下は総指揮をおとりになりながら、『ロウバーヌ』を振るわれるのでしょう」
「む……」
「ご心配めさるな。聖霊も使えぬ大明軍の雑兵など、空を向きっぱなしでも蹴散らしてやり申す。――実を言うと拙者」
 フォーニーはわざとらしく口元に手をやって、とっておきの秘密を話すように言った。
「閣下や皇帝陛下ばかりがお目立ちになられるのが、悔しくてたまらんのです。たまには拙者も派手をやって、兵どもの受けを取りたいですな」
 彼の顔を見つめたデジエラが、ふっと表情をゆるめて肩をすくめた。ネムネーダが何度もうなずいて、そういうことなら俺もやりたいですねえと言ったが、馬鹿者とフォーニーに怒鳴りつけられて逃げるように後ろを向いた。
 フォーニーはクリオンに目をやる。
「陛下……拙者は一介の武弁とて、いつなんどき野に果てるやもしれぬと覚悟して参りました」
「……うん」
「しかしその覚悟を、このように進んで決められるようになったことはございませぬ。陛下のお為とあらば、不肖ノストラ・フォーニー、一万の敵にも立ち向かってご覧に入れましょう。陛下におかれては、必ずや帝国の輝かしき繁栄をお建てになりあそばしますよう……」
 そう言うと彼は不意に立ち上がり、片手を広げて朗々と歌ったのだ。

 血陣にある漢 功やこれいかなるか
 霞兵を斬り首級を挙げるか 否
 豪敵に互し勲とするか 否
 明君を仰ぎ 郷民に福齎す可し
 譬え身を膾され、百矢に貫かれようとも

 その声は天幕を震わせて野に流れ出し、凍てついた初冬の大気を渡って、多くの兵を振り仰がせた。――彼らは顔を見合わせて、決して悪意ではない笑いを交わした。「詩吟将軍」がまた歌ってやがるぜ、朝っぱらから酒でも飲んだのかな、と。
 会議の面々は、面映そうな、面白そうな顔で、その美歌に聞き入った。
 フウがくあうとあくびをし、奥からひょいと顔を出したマウスが、下手な詞だ、下手な詞だ! と笑い声を上げた。

 会議が終わると、クリオンは天幕の後室に下がり、武装を整えようとした。斥候の報告では、午前中にも敵と接触するはずだった。
 普段のレイピアに加えて革の鎧を身に付けるつもりだったが、着付けにけちをつけるのが大好きなエメラダや、見て当たり前という顔でクリオンの着替えを観察するレザなどはなぜか見えず、ソリュータが一人だけで後室にいた。
 クリオンはさほど気にかけず頼んだ。
「ソリュータ、手伝ってくれる?」
「……はい」
 両手を広げて立つクリオンに、幼馴染の侍女は胸当てやすね当てを差し出し、紐を縛った。それが終わって、野戦用の短いマントを渡される。首元を留めつつ後ろを整えてくれるのを待ったが、背後に立つソリュータが動きを止めたので、振り向いた。
「ソリュータ?」
 ソリュータは沈んだ眼差しでクリオンを見つめていた。
 そしていきなりクリオンの胸をえぐった。
「シャムリスタ様をお抱きになりましたね」
 すうっと目の前が暗くなるような気がして、クリオンはふらついた。
 ソリュータは恐ろしく平板な口調で、なおも言った。
「愛してもいないのに、抱けるんですね」
「そ……」
「抱かれても、愛されてるとは限らないんですね」
「違う……違うんだよ」
「好きです、クリオン様」
 つややかな、こわばった頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
「でも……私、もうだめです。クリオン様が信じられません。そんな自分も死ぬほどいやです。こんな大事なときに、我慢できずに言ってしまう自分もいやです。なんだか……」
 片手を上げて、手の甲で目頭を拭った。
「心の中……ごちゃごちゃで……」
「ソリュータ!」
 差し出したクリオンの手は、鋭く払いのけられた。呆然とするクリオンに、しかしそれ以上の仕草は見せず、ソリュータはするりと背を向けた。
「ごめんなさい、他の娘をお呼びになってください。私、しばらく下がらせていただきます」
 ソリュータは足音を立てずに出て行った。
 入れ違いに入ってきたのはエメラダで、クリオンの顔を見るなりずかずかと近づいてきて、首を脇に抱え込んだ。
「へいかっ! 一体何言ったのよ、ソリュータ泣いてたわよ!」
「……ぼくが悪いんだ」
「あら」
 締め上げていた腕を離して、エメラダは意外そうにクリオンの顔をのぞきこんだ。
「陛下も泣いてるの……ほんとに、どうしたの?」
「いいんだ」
 そっとエメラダを押しやって、クリオンは顔を背けた。
「ちょっと出てて」
 エメラダは重ねて声をかけようとしたが、ふと何かを思いついた様子になり、出て行った。
 やがて、誰か別の女性の、気がかりそうな声がかけられた。
「クリオン陛下……?」
 追い払うつもりで顔を上げたクリオンは、言葉を飲み込んだ。エメラダに肩を押されるようにして入ってきたのは、あでやかな美貌の、金の髪の侍女だった。
「トリンゼ……どうして」
「大体見当がつくから。ソリュータ、少し前から悩んでたのよ」
 横から顔を出してエメラダが言う。
「陛下に抱いてもらってないから、気持ちが不安定になってるみたいで……こればっかりはあたしたちが慰めたって通じるものじゃないし、そんな時にあたしたちが陛下と仲良くしたら、余計かわいそう。でも、トリンゼならいいでしょ」
「あの、エメラダ様。よろしいのですか」
 遠慮がちに聞いたトリンゼの肩を、エメラダが軽く押した。
「あなたが適役だと思うわ。年の功ってやつで」
「……まあ。確かに私は三十歳ですけど……」
「あは、怒らないで。頼れそうだって言ってるの。……じゃ、お願いね。あたしはジュナとチュロスを探して、ソリュータの世話を頼んでくるわ」
 手を振ってエメラダが出て行くと、トリンゼはため息をついたが、クリオンを振り向いた顔には事情を察したような穏やかな笑みが浮いていた。
 トリンゼたち三人の侍女は、ソリュータたち妃が王宮を脱出した際に共にギニエに連れて来られ、そのまま皇帝一行に仕えていたが、このたび王都奪還のための軍が挙げられると、自ら志願して同行してきた。戦陣といえども食事や身の回りの世話は必要なので、クリオンだけでなく他の将官たちからも重宝がられていた。
 しかし、このような役目を仰せつかったのは初めてだった。しかも彼女は以前――
 トリンゼが寝台に歩み寄ってくると、クリオンは顔をそむけて言った。
「やめてよ、トリンゼ。予は今、とてもそんな気分じゃないんだ」
 彼女らは、皇帝の妃となるためにクリオンを誘惑したことがあるのだ。それが余りにも露骨で性急だったために、クリオンは以後彼女らに対して隔意を抱いていた。
 だが、トリンゼはくすりと笑うと、クリオンの隣に腰を下ろし、ぴたりと肩を並べた。
「やめてって……」
「これ以上陛下のお悩み事を増やそうとは思いませんわ」
 トリンゼの声に淫らな響きはなかった。クリオンは振り返る。
「けんかなさったのでしょう? ソリュータ様と」
「……うん」
「事情は存じませんけど、あまり深くお悩みにならなくていいと思います。お二人は本当に信頼なさりあっているようですから。……ただ、こんな騒がしい時期ですから、すれ違いが重なったのですね。それは、時間をかければきっと解決することができますわ」
「……本当?」
「ええ、きっと。だから元気をお出しになってください」
 見上げるクリオンに、トリンゼは包み込むような笑顔を見せる。クリオンはうなずこうとしたが、しばし後にまた肩を落としてしまった。
「励ましてくれてありがとう。でも、これは本当に深刻なことなんだ。元気って言われてもね……」
 そのまま沈み込みそうになるクリオンの頭を、ふわりとトリンゼの両腕が抱きしめた。
 クリオンは、顔をふかふかの柔らかな丘に挟まれた。どこか懐かしい洗濯したエプロンの匂いが鼻をくすぐる。耳元で愛情に満ちた声が言った。
「陛下、男の子でしょ」
「……トリンゼ」
「しっかりして、しゃんと立って。みんながあなたを頼っています。今だけこうしてあげますから……それが終わったら、涙を拭いて、ね」
 胸元からこみ上げた熱いものがクリオンの口からあふれそうになった。その泣き声を、トリンゼがさらに強く抱きしめて胸の間に押しつぶした。声は消されても涙は止まらなかった。無言で激しくしゃくりあげながら、クリオンはたくさんの滴をエプロンに染み込ませた。
 クリオンの母は、どんな姿をしていたかも思い出せないほど昔に亡くなった。だが、エプロンなどつけたことはないはずだ。それをしていたのはソリュータだ。だからこの懐かしさは二人の思い出が混ざり合ったものなのかもしれない――
 だとしても深く考えなくてもいいのだった。この胸は、すべての重みを吐き出してもいい胸だった。
 皇帝になってから六ヵ月、クリオンは初めて、ただの少年のように泣きじゃくった。

 大明軍旗艦『白沢バイズェ』の艦橋は異様な緊張に満ちていた。若い娘の艦橋妓官たちが、恐怖のあまりお互いと声を交わすこともできず、沈黙して計器を操っていた。
 彼女らを圧迫する恐怖は、背後の象牙の玉座から放出されていた。そこに主人である霞娜がいるのはいつもと同じだ。――しかしその傍らに立つ、霞娜とよく似た面影の娘は、尋常ならざる存在だった。
 その娘に、霞娜が信頼しきった眼差しを向けて聞くのだ。
「彼らは本当にこの方角にいるのかしら?」
「いるわ、お姉さま。半日前に鴆を飛ばして確かめたじゃない」
「そうね、そうだったわ。全速で向かわなくてはね」
「手前で止まって、地上軍を降ろすのよ」
「ええ、ええ、分かってるわ。言われるまでもないわよ」
 少し強がるように言ってみせてから、途端に自信のないすがるような顔になる。
「あ、違うわよ、あなたが邪魔だと言っているんじゃないの。気を悪くしないでね?」
「そう言われても……今のお姉さま、ちょっと怖かった」
「怒ってないわ! 怒ってないから、行かないで。お願い!」
 今にも娘が消えてしまうというような脅えた懇願を受けて、娘はにっこりと混じりけのない笑みを浮かべる。
「どこへも行かないわ。私はずっとお姉さまといます」
「ああ、雪娜ジィナ。絶対よ……」
 そう言うと霞娜は娘の美しい手を取って、愛しげに頬をすり寄せる。
 そんなやり取りを背中で聞いている妓官たちは、逃げ出す寸前だった。あの娘が敬愛する大統令に近しい者であることはかろうじてわかる。だが、あそこまで溺愛するとは……あそこまで狂わされてしまう・・・・・・・・とは、一体どういうことなのだろう?
 航行妓官が勇を鼓した様子で立ち上がって二人を振り向いた。
「閣下、一つだけお教えくださいませ。フィルバルトを陥落させたにもかかわらず、わざわざ野戦に出て皇帝軍と当たる意図は、奈辺にあるのでしょうか?」
 他の妓官たちが息を呑む。それは彼女らも疑問に思いつつ、恐ろしくて口にできなかった質問だった。視線を霞娜に集める。
 問われた霞娜は、なんのことかわからないといった顔でしばし航行妓官を見つめていたが、雪娜に何事かをささやかれて口を開いた。
「知る必要はないわ。私の采配に従いなさい」
「閣下の御采配なら従いもいたします。でも、今の指示は実質上そのお方が――」
 その瞬間、霞娜がキッと眉を上げて立ち上がった。
「雪娜の言葉を疑うの!」
 過ちを悟った妓官が両手を上げて謝ろうとしたが、もう遅かった。霞娜が白紗の羽衣を一挙動で振りつけたのだ。しゃあっ! と黒い水しぶきが妓官に浴びせられる。
 仲間が高熱の黒点に食い尽くされ、凄まじい悲鳴を上げて息絶えていくのを、他の妓官たちは必死に目を閉じ、耳を塞いでやり過ごした。
 炭化した肉塊が床に横たわると、霞娜は冷然と処分を命じた。二人の妓官が立ち上がり、嘔吐をこらえながらそれを通路まで引きずり出した。
 艦橋から離れながら、二人は小声で言い交わす。
「あの雪娜というお方、何者なのかしら! あれではまるで霞娜様が操り人形だわ、なんとかしないと……」
「あなた、雪娜様が霞娜様になんとおっしゃったか、聞いて?」
「……いいえ」
 いぶかしげに首を振る一人に、もう一人は細かく震えながら言った。
「私を殺した皇帝の子を、急いで倒して。――そうおっしゃったのよ」
「私を……って」
 妓官は細い声でつぶやく。
「それではあの方は……死人……」
「そこ、何をしている!」
 鋭い声をかけられて、二人は飛び上がりそうになった。振り向くと、紺の髪の秀麗な姿――麗虎リーフーが立っていた。
「し、霞娜閣下のご命令で、不届き者を処分しにいくのでございます」
 焦げた死体を示して言うと、さっさと行け、と麗虎が命じた。二人は力任せに死体を引きずって逃げるようにその場を離れた。
 二人の背を見送って、麗虎が薄笑いを浮かべる。
「気にするな。閣下が正気だろうとそうでなかろうと、どの道おまえたちの運命はすでに決まっているのだ」
 そうつぶやいた彼女の頭上に、伝声管を通じて声が降って来た。
「斥候より報告、一時方向五里にジングリット軍を見ゆ。全艦戦闘配置、全艦戦闘配置、陸兵は降下準備せよ!」
 麗虎は、今や彼女と同じ存在に仕えるようになった主君のもとへと歩き出した。

 2

 昼に近い時刻、ジングリット軍本隊は大明軍を地平線上に認めた。
 かすかな朝もやだけが残る平原に単眼鏡を向けていた指揮官たちは、まず灰色の砂のようなものが地平線に広がるのを見た。それは幅と厚みを徐々に増していき、やがて個々の輪郭を備えた。――大明軍陸兵部隊。その主力は数百両に達する精霊動力の甲殻車で、左右に一万を越える歩兵部隊を従えている。
 続いてその背後から、雲霞のような黒点の群れを引き連れて、三つの鋭角的な影が現れた。『饕餮タオティエ』、『燭竜ズウロン』、そして『白沢バイズェ』の三隻の天舶に間違いなかった。
 両者の距離がゆっくりと詰まっていく間、ジングリット軍はある危惧を抱いていた。それは、天舶の上昇高度だ。もし天舶が、エピオルニスも届かぬ五千ヤード以上もの高みを進んできたら、万策尽きてしまう。しかし一方で、天舶の形状は開放甲板式だという第四軍からの知らせもあった。ならば、人が寒さで凍えるような高度にまでは昇れまい。
 その危惧は、やがて皮肉な形で解消された。――彼我の距離が一リーグ(約五キロ)まで縮まった頃、陸兵とともに天舶が前進を停止したのだ。
 直後、ジングリット指揮官たちは声を上げた。単眼鏡の中の三隻が、きらきらと光る針のようなものを一斉に噴き上げたのだ。その数は一隻あたり五十以上。山なりの放物線を取ったそれが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 それと共に、亡霊の悲鳴のような不吉な高音が降りかかってきた。
 ヒャアアア、ヒャアアアアア――
「空襲ーッ!」「空襲! 総員、身構えっ!」
 盾のある者は盾で、ないものは腕で頭をかばう。ジングリット軍は四万の兵をすでに布列している。今さら避けることなどできはしない。
 直後、弩砲弾が降り注いだ。
 陣列全幅に渡って、百七十数個の爆炎が炸裂した。その一つ一つが十数騎の騎士をなぎ倒し、歩兵を吹き飛ばした。馬がいななきを上げて棹立ちになり、初陣の若い兵が魂消るような悲鳴を上げる。すかさず指揮官が叱咤の声を飛ばし、陣列の乱れを防ぐ。
 陸戦総指揮官のフォーニーに、部隊の被害を見回していた部下がこわばった顔で言った。
「被害、概算一千五百! 火薬弾を使われました。第四軍の報告にあったような鯨用の鏃ならば、さほどの被害も出なかったでしょうが……」
「案ずるな。矢足がかなり遅かった。火薬弾は重いと見える」
 フォーニーはいとも簡単に対策を指示した。
「あれなら見てから避けることもできよう。散開だ! 両端の部隊から落ち着いて間隔を広げよ!」
「はっ」
「ドーズ! 出番だ」
 呼ばれて、第二打撃連隊長のドーズが馬を寄せた。フォーニーは言いつける。
「打ち合わせ通り、重騎兵六千を率いて進発しろ。進路は右寄りだ、本隊に砲を向けさせるな」
「はっ! ――しかし、天舶が接近してきたらいかがしましょう?」
「いや、船は近づいては来ん」
 なぜか、と眉をひそめるドーズに、フォーニーは笑みを見せた。
「今のでわかった。天舶に真下を攻撃する武器があればあんな遠矢は撃って来ん。高く昇ることができてもな。……つまり、きゃつらは接近戦には弱いのだ。だから陸兵を盾にして自分たちは砲台になるつもりだ」
「なるほど」
「本隊が近づくまでは、おまえたちは猛攻を受けよう。やるべきことは――わかっとるな?」
「もちろんです。では!」
 美髯の連隊長は馬首を翻し、部隊へ向かった。
 そこには、甲冑を身に付けたいかめしい重騎兵たちに混じって、二人の場違いな娘がいた。その一人に近づいてドーズは優しく声をかけた。
「姫殿下、出発です。ご準備はよろしいですか?」
「うん」
 緊張のあまり言葉少なにチェル姫がうなずいた。彼女は一騎の兵の後ろに乗り、左手でしっかりと抱きついて、右手に『シリンガシュート』を持っている。
 続いてドーズはもう一人にも声をかける――が、その顔はやや困惑の色に染まっている。
「フウ様、参りますぞ」
「ふー?」
 こちらも騎兵の後ろに乗っているが、あきれたことに後ろ向きである。どうやらクリオン以外の男に抱きつきたくないということらしい。周りのものが寄ってたかって前を向かせようとしたか、とうとう言うことを聞かなかった。
 作戦を理解しているのかどうかもわからない。大丈夫といったクリオンを信じるのみだ。ドーズは二人に一礼して言った。
「お出番までは我らが身命を賭してお守りいたします。皆、よいな!」
 おおっ、と歓声が上がる。頼りない姫君たちではあったが、それだけに、屈強の騎士たちは庇護心をそそられたようだった。
「では、参るぞ!」
 ドーズが腕を一振りし、部隊はひづめの音を立ててゆっくりと動き出した。
 その頭上を、弩砲の第二射が甲高い音を立てて横切り、遅れて「ジェン」たちの飛行音が近づいてきた。 

 弩砲弾に続く戦火は、ジングリット皇帝の本陣で巻き起こった。追いすがる無数のエピオルニスを振り切って降下した一機の鴆が、突如投げつけられた大量の石片をまともに浴び、ぐしゃぐしゃに砕けて地面に突っ込んだのだ。小屋を一つ満たすほどの石片を巨大な籠で投擲する、投石器の仕業だった。
 ほとんど同時に、皇帝の本陣でも、皇帝の本陣でも、皇帝の本陣でも同じようなことが起こった。ジングリット軍には、無慮三十あまりもの皇帝旗が立てられていたのだ。
 それらは投石器と弩弓兵たちに守られた堅固な陣地ばかりで、大明軍にしてみれば、たとえ皇帝がいなくとも放置できない目標だった。百二十羽の鴆は、まずそれらを獲物として攻撃を始めたのだ。
 灰色の冬空に鴆どもが大小さまざまな円を描き、金切り声のような飛行音を地上に叩きつける。それを追うのはヴェスピア疾空騎団の巨鳥たちだ。速度で勝る鴆も衝突の危険がある地上近くでは思うように加速できない。それを利して、低空にやって来た鴆の一機一機に、二倍のエピオルニスが猛然と食らい付く。
 愛鳥の首にまたがった鳥使いの兵が、鳥の首も折れよとばかりに手綱を引く。その命令を汲み取った巨鳥が、肉体が許す限りの力を振り絞って羽ばたき、猛烈な急旋回で逃げようとする鴆を追い詰める。兵が見る地平線はすでに垂直だ。見えない壁を走るような角度にまで鳥は傾いている。
 どうっ、どうっ、と打ち鳴らされる翼の間で、鳥使いの後ろに乗った弓兵が、腹で支える特別な弓を持ち上げる。狙うは鴆の乗り手だ。他の部分は金属だがそこだけは矢が通じる。巨鳥の必死の追撃で、黒い奇怪な飛行機械が肉薄する。
 敵の乗り手が、懸命に首をねじ曲げて背後をうかがう様まで目にしたとき、弓兵が矢を放った。敵が直進していたならばはるかに外れて去るような軌道で矢が突進する。しかし次の瞬間、旋回中だった鴆が自ら矢の前に滑り込んだ。弓兵が血しぶきを目にするとともに、鴆はがくんと傾いて、数秒もたたないうちに地面に激突し、ぱっと青紫の雷光をまき散らした。
「やったぞ!」
 言い終わらないうちに、バシッ! と全身を強打されたような衝撃が襲う。激痛とともに振り返ると、いつのまにか背後にやって来た別の鴆が見える。その真鍮の機首に、雷電を放った後の余燼がちりちりと小さく輝いている――
 しびれてろくに体も動かせないまま、弓兵と、鳥使いと、二人を乗せた巨鳥は、もろともに地面へ転がり落ちて、移動中だった十数名の騎兵を巻き込み、腕や骨や眼球を飛び散らせた。
 鴆の目標が本陣だけで他の敵は振り切ればいいのに対し、疾空騎団の目的は三隻の天舶の迎撃であり、それがやってくるまでに鴆を全滅させることだった。任務は疾空騎団のほうがはるかに難しく、さらに鴆とエピオルニスの根本的な力の差があるため、空での戦いはジングリット軍にとって苦しいものとなった。
 それらの激戦を背に、ドーズ率いる六千の騎兵が、やや孤を描いて大明軍に近づきつつあった。また、第一軍と各地の兵を合わせた三万八千余りの主力も、陣地を離れて前進する兆しをみせていた。
 それを望見した大明軍は作戦を変更した。

「十時方向の騎兵部隊、距離〇・五里まで肉薄しつつあり!」
「敵主力、陣地群を離脱! 一時方向よりこちらへ接近する模様です!」
 妓官の報告を受けた霞娜は、子供のように小首をかしげて言った。
「弩砲を十時の小部隊に集中させなさい。鴆も呼び戻してそちらへ。陸兵はまだ待機。敵陣地と一時の大部隊は放置していいわ」
「閣下、目標は皇帝です」
 かたわらの麗虎が慇懃に言った。
「皇帝は厳重に守られているはず。敵主力か陣地にいるでしょう」
「彼は馬鹿ではないわ。臆病でも」
 霞娜が見返す。意外に強い眼差しに麗虎は口を閉じる。
「のうのうと守られるよりも打って出ることを選ぶはず。それもこちらの裏をかいて。だとすると陣地にも主力にもいない。少数精鋭を率いてこちらの中枢へ――そう考えるのは間違っているかしら?」
「……いいえ」
 麗虎は首を振った。内心では、心を侵されつつあるにもかかわらず、これだけの明晰な思考を持ちうる霞娜に驚いていた。
 霞娜は片手を軽やかに振る。
「殲滅なさい。騎兵の六千ばかり、火炸弾を三斉射もすれば潰せるわ。……ちょっと張り合いがなさすぎるけど、弾薬を節約できるのはいいことよね」

「天舶、斉射! 矢道が違います、こちらを狙っています!」
「後方より鴆群接近、およそ六十!」
 前と後ろを見ていた騎兵が同時に叫んだ。ドーズはさっと傍らを振り返って呼ばわった。
「姫様方、お願いします!」
「うん! フウ、やって!」
 うなずいたチェル姫が、隣の馬であくびをしていたフウを『シリンガシュート』で小突いた。微笑ましいような仕草だったが、それはフウに意思を伝える行為だった。
 呼ばれたフウがすっと目を細め、鋭い動作でやにわに立ち上がった。疾走する馬の尻の上で! 突然の豹変に驚く騎士たちの耳を、いや全身を、彼女の咆哮が打った。
 ふぉああああ!
『チュルン・ヴェナ』の槍を高く掲げ、背を反らせてフウは吠えた。途端に冷たい風が四方からさあっと吹き寄り、見る間に水滴を含む竜巻となって立ち昇った。
 見上げた騎士たちの前で、空がかき曇った。いや、その雲はここへ来るまでにフウがずっと集めていたものだった。笠のようにすっぽりと部隊を覆った差し渡し五百ヤードにも及ぶ雲が、フウの咆哮に応えてにわかに揺れ動き、待ちかねていたように雨滴を落とし始めた。
 ものの数秒で、それは自分の手のひらも見えぬほどの豪雨となった。騎士たちは思い知る。これが「瀑布の主」の力! ドーズが声を限りに絶叫する。
「今だ、散れ! 敵の矢は当たらんぞ!」
 泥しぶきを蹴立てて騎馬が八方に走り、直後、弩砲弾が着弾した。湧き起こる爆炎の大半は、誰もいない地面を虚しくえぐっただけだった。
 しかし、そこへ鴆どもが飛来した。突然の豪雨に驚きつつも、果敢に水煙の中に突っ込み、次々と雷電の矢を落とす。兜に落雷した騎士が体を膨張させてはじけ飛び、また、身を伏せていた騎士は馬ごと雷に両断された。
「抱っこして!」
 チェル姫を乗せていた騎士は、その声とともに小柄な体が腕の中に滑り込んできたので、あわてて手綱を放して抱きしめた。チェル姫は鞍の前にすっくと立つ。胸に押し付けられた、ずぶ濡れの白い布を張り付かせた尻の小ささ、両手の指でつかめてしまいそうな腰の細さに、騎士は不安になる。こんな幼い娘にどれほどの力が……?
 凛とした詠唱が、稲妻ひらめく戦場を駆けた。
「われはミゲンドラの王なり! 王の血脈と名において盟友を呼ぶなり! 陰土の矢、第七の星、岩を呑む者、ただわれとのみ通ぜし友、『シリンガシュート』! はじけ狂えーッ!」
 カアッ! と凄まじい蒼光が天へ走った。鴆どもの人工的な雷が毛皮に散る火花のように思えるほど巨大な雷霆だった。
 巨樹のようにそびえた柱が、無数の竜に分裂してあらゆる方向へ伸びた。それは激しくも一瞬のできごとだった。五千数百の騎士がまぶしさに目を細め、目を開けたときには稲光は消えていた。――が、その時には小ぶりな雷の爆発があちこちで起こっていた。
『シリンガシュート』の雷は、『チュルン・ヴェナ』によって湿らされた大気を駆け、空中にあった金物をことごとく貫いたのである。――鴆の機体を。
「はー……できたあ」
 騎士の腕の中で、くたりと小さな体が脱力した。振り向いた顔には帯電した前髪がぴちぴちとはぜ、浅黒い肌もいくぶん青ざめていたが、あどけない目元には満足の微笑みが浮いていた。
「思いっきりやったから、ちょっと休むね。……いいでしょ?」
「もちろんです、姫殿下」
 騎士は何者をも寄せ付けないというように、しっかりと異国の姫に体をかぶせた。

「強石隊、蒼顔隊、福王隊、水翳隊、星錐隊、万武隊、狂峰隊、応運隊、旋嵐隊、厳輝隊、全滅! 他の隊も損傷多数! 別働隊全翼、戦力喪失しました!」
「弩砲長より報告、水雨により弩砲の照準が不可能です!」
「『饕餮』および『燭竜』も状況同じ!」
 半里先の凄まじい閃光を目撃した直後、精霊を利用した招繋路を使っておびただしい被害報告が届けられ、『白沢』艦橋は混乱寸前の有様となった。麗虎は目を見張って観測妓官に叫んだ。
「何が起こった!」
「不明、物理兵器による攻撃ではありません。二次攻撃の予測立てられず!」
 左舷に立つ観測妓官が泣きそうな顔で叫び返す。続いて右舷の妓官も叫んだ。
「敵本隊前進、接近しつつあります。当方陸兵との接触予測時刻、千五百秒後!」
 麗虎は応急的な指示を口にしようとした。
「残った鴆型は攻撃中止、敵本隊へ振り向けよ! 弩砲もだ! 敵別働隊はひとまず放置――」
「鴆型全部隊を別働隊へ投入。弩砲両舷全門も、引き続き別働隊を攻撃。照準は部隊中心」
 霞娜が静かに言った。麗虎がキッと振り返る。
「敵本隊に接敵されます! 牽制しておかねば陸兵が食われます!」
だからなんなの・・・・・・・?」
 霞娜が立ち上がった。慄然とする艦橋の者たちに向かってきっぱりと言い渡す。
「陸兵は本艦の盾。各隊長には死戦せよと伝えなさい」
「それでは戦況が――」
「戦況は問題ではないわ。忘れたの? 狙うはジングリット皇帝。今の強烈な精霊攻撃を見たでしょう。あれが皇帝を守るものでなくてなんだというの」
 霞娜は血に飢えた獣のような笑みを浮かべる。
「全戦力をあの騎兵部隊に集中しなさい。損害はすべて許すわ。――たとえ本艦以外の全将兵が倒れても」

 東に一リーグ離れているドーズ隊に向かって、最前の凄まじい反撃をものともせず鴆が集まっていくのを見て、主力部隊にいたデジエラは歯噛みした。
「目立ちすぎたか! 時間稼ぎだけをさせるつもりだったが」
「あれでは姫様方が危険ですな。チェル姫殿下は一撃が精一杯だとおっしゃられておった」
「将兵もだ!」
 フォーニーと聖霊を通じて会話を交わしてから、部隊の先頭を走っている別の相手にデジエラは尋ねた。
「エトナ、敵陸兵および天舶に動きはあるか?」
「天舶はドーズ隊への砲撃を再開、しかし天陸ともに位置を変えません!」
「ちっ……」
 デジエラが舌打ちしたとき、フォーニーが声を寄越した。
「いや、これは好機ですぞ、閣下。鴆があちらに集まったということは、上空の危険は天舶の弩のみでござる!」
「……そうか」
 デジエラは愁眉を開いた。胸のうちではめまぐるしく戦況の推移を検討している。
 当初の予定では敵の攻撃を二方向に散らすつもりだった。そのために耐久力のある主力部隊と、耐久力には劣るが強力な二人の姫を擁するドーズ隊の二つに戦力を分けた。敵前で戦力を分けるのは下策だが、もとよりこの戦の目的は敵軍の撃滅ではない。
 最初は目立つこちらに敵をひきつけ、敵がやってきたところでドーズ隊の聖霊で敵を驚かし、混乱したところで主力が陸兵に突撃するはずだった。しかし敵は迷いもなくドーズ隊を攻撃し続けている。これでは目的を達せられない。
 ならば――
「各部隊指揮官は聞け、ジングピアサーだ! 一分後に聖霊攻撃を行う! 詠唱用意!」
『ロウバーヌ』を通じて伝えられた声に、傍らの参謀が驚いて振り返る。
「まだ遠すぎます! この距離からでは陸兵を殲滅できません!」
「誰が陸兵に手を出すと言った? ――各指揮官へ、目標は左端の天舶!」
 絶句する参謀に、デジエラは不敵な笑みを向けた。
「ここからでは天舶を落とせん。陸兵も無傷で残る。が……ジングリットの将兵四万、たとえ聖霊がなくとも戦えよう。それとも見物だけで帰りたいか?」
「閣下!」
 参謀が伸ばした手は空を切り、デジエラは大河のような部隊の流れを追い抜いて、その先頭へと馬を飛ばした。
 長剣を抜き、軽く唇を触れる――そして叫んだ。
「我、王より名を与えられしジングを貫くもの、デジエラ・ジングピアサー!」
 時を同じくして、主力部隊全体から数百の叫びが唱和した。
「我、タイウォンの古き血を引くもの――」
「我、ナグレブを治むテレスに連なるもの――」
「我、サワルの森に潜みし泉精と契りしもの――」
 剣が、槍が、弓が差し上げられて冬の日に輝く。デジエラが一閃を放った。
「焼き尽くせ、『ロウバーヌ』!」
 咆哮とともに渦巻く火炎の竜が中天へ駆け上る。
 それを追うように、細く絞られた突風が、無数の飛礫が、灼熱の火山弾が、鋭い金属の針が、触れたものを粉々にする音の矢が、虹の帯のようなさまざまな色彩を伴って、噴き上がった。

 その衝撃は異様な轟音となって「白沢」艦橋へ届いた。何事かと振り返る人々の前で、右舷の観測妓官が恐慌のあまり髪をわしづかみにして絶叫した。
「ズ、『燭竜ズウロン』大破っ!」
「なに!?」
 舷側へ飛び出した麗虎は目を疑った。右舷に二百丈(約一キロ)ほど離れて浮かんでいた『燭竜』が、黒煙を上げて前のめりになりつつあった。その艦首に近い下面に、艦の長さの三分の一にも達する巨大な傷跡がある。異様なのは、その破口が、一部は焼け焦げ、一部は切り裂かれ、一部は凍りつき、一部は針ねずみのように何かに貫かれていることだった。尋常な被害ではない。
 息も絶えんばかりに驚愕した観測妓官が細い声で言った。
「せ、精霊攻撃です。敵主力部隊より無数の精霊が飛来してあのようなことに……」
「怒濤霊は」
 妓官は振り返り、ひっと息を詰まらせた。そこに立っていたのは雪娜だった。
「怒濤霊の攻撃は含まれていた? 皇帝の『ズヴォルニク』は」
「な、なかったように思われます。最も強烈だったのは火炎霊らしき炎の竜巻で……」
「お姉さま」
 振り向いた顔にはあざ笑うような笑みが浮いていた。
「主力に皇帝はおりません。……でも、別働隊にも『ズヴォルニク』らしき精霊はいませんでしたね?」
「……ええ、そうね。どういうことかしら」
 雪娜の視線を受けた途端、霞娜はそれまでの果断さを失ってしまったようだった。子供のように困惑の顔を浮かべ、雪娜に尋ねる。
「私が間違っていたの?」
「今、一番安全なところはどこかしら?」
 問われた霞娜はあごに指を当てて少し考え、無邪気な笑みを浮かべた。
「……ああ、敵の本陣・・・・じゃないの! そうか、そこにいるのね?」
「そうでしょうね」
 妓官の幾人かは思わずうめき声を上げた。本陣ではないと理詰めで示して見せたのは霞娜本人ではないか! それを翻意させるとは、雪娜は一体なにを考えているのか?
 招繋盤が呼び出し音を上げ、通信を受けた妓官が報告する。
「『燭竜』艦長より懇請、艦中枢の大気霊が逆上して制御困難になっているそうです。墜落する前に大統令閣下にお鎮め願いたいと……」
「お姉さまはご多忙です。艦長自身が鎮めよと伝えなさい」
 雪娜の言葉に、妓官は青ざめた顔で聞き返した。
「天舶の大気霊は閣下が封じたものです。閣下以外の者では、その……命の危険がございますが……」
「ならばそうしなさい」
 あっさりと雪娜は言った。妓官は絶句したものの、雪娜の強い眼差しを受けて、艦長に自殺を命じるその言葉を『燭竜』に送った。
 そして雪娜はさらに奇怪なことを口にした。
「お姉さま、お聞きになって?」
「え?」
「『燭竜』の艦長は死んでしまうわ。ジングリット軍の攻撃のせいで」
「……まあ!」
 霞娜が口元を押さえた。その瞳には怒りの色がある。
「ひどいわ! 私の大事な臣下を殺してしまうなんて!」
「ええ、本当にひどいことです。是が非でも仕返しをしなければ」
「どうしたらよいかしら? ありったけの弩砲を撃ち込む? ありったけの陸兵を差し向ける? いいえ、そんなことじゃ……」
「竜の声を」
 雪娜のささやきに、霞娜は顔を曇らせた。
「それはいいかもしれない。……でも、それは難しいのじゃなかったかしら。それを放つためには敵の真上で長い間船を止めなければいけないし、私の大事な妓官を使わなければいけないし……」
「言ったでしょう、お姉さま。皇帝は本陣にいるのよ。――今、最も無防備な」
「でも、妓官が……」
「それなら」
 雪娜が伸ばした手が、細い手首をつかんだ。ひ、と息を詰まらせて震えたのは、そばにいた右舷の観測妓官だ。まだ二十歳にもならない、うら若い娘――
 雪娜の瞳が娘を射た。黒い闇のような、意思を飲み込む瞳。
「あなた――どんな死が幸せだと思う?」
 その短い言葉は、艦橋の妓官たちには言葉以上の意味を与えなかったが、娘には伝わった。その言葉が示す、一千もの苦痛に満ちた死に様が。
 身震いする娘に、雪娜が微笑む。
「保証するわ。これが最高の幸福だと」
 娘には、雪娜がすべての苦痛を退けてくれる天使のように見えた。
 雪娜に手を引かれるまま、娘は玉座の霞娜に近づいた。肩を押されて、初恋を告白するように初々しく、頬を染めて娘は言った。
「霞娜さま……私を逝かせてくださいますか?」
 霞娜は立ち上がり、花のような笑みを浮かべて娘を抱きしめた。
「あなたが望むなら。……とてもよくしてあげる」
 そのまま二人は肩を寄せ合うようにして艦橋を出ていった。
 残された雪娜は、もう自分のやることはないといわんばかりに壁際に下がり、ちらりと麗虎に目配せした。麗虎が心得顔でうなずいて言った。
「旗艦前進! 目的地、ジングリット軍陣地群! 全部隊は旗艦の移動中、敵軍を釘付けにせよ!」

「敵旗艦、突出してきます!」
 その報を聞いたとき、デジエラは勝機をつかんだと確信した。
 なぜならばジングリット軍の目的は、旗艦を裸にすること、これに尽きるからだ。
 天舶の一隻は傾いたまま空中で停止し、もう一隻は右舷と左舷でばらばらの方向を撃っていてもはや恐るるに値しない。鴆群は『シリンガシュート』の二発目を警戒して(それがもうありえないということを知らずに)、いまだに豪雨に潜んでいるドーズ隊の周りをぐるぐる回るのみ。陸兵はといえばこちらと交戦の真っ最中で、こちらは指揮官が対空攻撃を行っているので統率が取れていない。が、数の有利があるから時間をかければ必ず撃ち破ることができる、という状況だった。
 そこからデジエラは、旗艦の目的を決死の突撃だと判断した。敵の身になって考えてみる――敵はクリオンを狙っていて、彼がどこにいるかを探している。恐らくクリオンの勇敢な性格もつかんでいるだろう。だとすれば激戦地へやってくる。つまり、ここ・・
 多数の聖霊指揮官に守られたこの主力をこそ、旗艦は狙ってくる。接近すれば弩砲の射角を失ってしまうが、真上まで来ればそんなことは関係ない。火薬弾を落とすだけでいいのだから。もちろんそれは下から撃ち返される危険と引き換えだが、敵はもうそんなことを気にしていられる段階ではなくなっているだろう。
 これがデジエラの推測だった。対策はない。混戦が始まり全指揮官での一斉聖霊攻撃など不可能になったから、ただ地道に部隊を指揮して陸兵と戦い、旗艦の爆撃を凌ぐのみだ。
 クリオンが旗艦を制してくれるのを信じて。
 そう思っていたから、しばらくして別の報告を聞いたときには耳を疑った。
「敵旗艦は我が部隊を迂回、本陣群へ向かいつつあり!」
「なんだと?」
 デジエラは戦線から目を離して空を仰いだ。部隊指揮官の聖霊と、大明陸兵の火砲の爆炎が飛び交う向こうに、悠然と進む旗艦の姿が見えた。こちらからもドーズ隊からも攻撃の届かない距離だ。
「なぜ今さら本陣群へ? あんなところに陛下がおわすとでも思っているのか?」
「閣下、好機です!」
 叫びはフォーニーのものだった。彼がどこにいるのか探そうとして――両軍合わせて五万近い将兵の激戦の場では、ひと一人を探すことなどとても無理だと気づき、とにかく声を送った。
「フォーニー、理由は!」
「我らの目的は旗艦を孤立させること、主力を狙ってこないのならばより好都合というもの! むしろこちらへ寄せ付けないほうが損害を防げますぞ!」
「それはその通りだが、旗艦が激戦地を外れると注意を引き付けられん! 天兵が下を向いていなければ、陛下が撃ち落されるという危険もあるぞ!」
「――ゆえに拙者、旗艦を追い申す!」
「なに? フォーニー、貴様どういうつもりだ!」
 デジエラは驚愕して叫んだが、返事はなかった。しばらくして、はるか五百ヤードも離れた戦線の一部から、遠目にもわかる第一軍の籏旗を押し立てた数十の騎兵が離脱し、後方へと走り始めた。
 驚くべきというか呆れるべきというか――彼らは弩砲の数発も食らえば吹き飛ぶほどの小勢にもかかわらず、これ見よがしに旗艦に向かって聖霊と矢を放ち、並走するようにして本陣へ走っていくのである!
 それは事情を知らなければ、強敵の注意を主君のいる本陣から自分へと、必死になって引きつけているように見える光景だった。
「あやつ……」
 デジエラは緊張して見守っていたが、ふとあるものを見つけて目を見張った。旗艦の上空はるかに円を描く数騎の鳥影。クリオンたちだ。
 見る間にそれは旗艦に近づき、手に汗握るデジエラの前で、撃ち落されることもなく無事甲板に消えた。デジエラはどっと息を吐き、苦笑した。
 これで旗艦の敵は、内にクリオン、下にフォーニーの二つの敵を抱えたことになる。どちらか一方に集中されれば危険は大きかろうが、フォーニーの牽制あらばクリオンたちも少しは楽になろうし、クリオンたちに切り込まれながらフォーニーを爆撃することも敵にとっては難しかろう。
 あとはクリオンたちが無事大統令の前までたどりつくよう祈るのみ。そしてこれについては、デジエラは成功を確信していた。
 ……もし彼女があることを知っていたら、蒼白になって作戦を取りやめさせただろう。それの奇怪さは彼女が一番よく知っていたのだから。
 雪娜。十年前に霊石リンシーの村で前皇帝が殺したはずの娘が、旗艦に巣食っているということを。

『白沢』の天兵たちが気づいたときには、すでにエピオルニスたちは艦の真上にまで迫っていた。弩砲長が絶叫する。
「侵入者だ! 迎撃――」
 叫びは鋭い旋風のきしりに断ち切られた。不可視の風の刃が颯々と甲板に降りそそぎ、天兵を切り裂き、弩砲の弦を音高く断ち切った。
 どうっ! と鳥影が行き過ぎたかと思うと、豹のような身のこなしですらりとした影が物見台に降り立っていた。栗色の髪をなびかせたその女が叫んだ。
「ヴェスピア疾空騎団長、マイラ・ニッセンだ! なますになりたくなければ道を開けろ!」
 問答無用とばかりに五人もの天兵が一かたまりになって短弓を構える。すかさずマイラが剣を打ち振った。
「行けっ、キシューハ!」
 処は空、間合いは二十歩――旋風霊が最大の力を発揮する戦場だった。物見台の手すりごと大気を割って、かまいたちが疾走した。一瞬で天兵たちは四肢を切断される。その間にもうマイラは物見台から飛び降り、群れる天兵のただ中に駆け込んでいる。
 彼女の動きは彼女の聖霊と同じく、旋回と高速を旨とした。身をひねり、身をかがめ、勢いよく肢体を回して、振り下ろされる敵の刃を回避する。かと思えば素晴らしい跳躍で頭上を飛び越え、五歩も離れた敵兵に斬撃を浴びせる。
「押し包めッ!」 
 兵長が怒号し、天兵がずらりと半円を描いて並んだ。斬りあうマイラの背後での動きだ。彼女は気づかない。
「やれ!」
 命令とともに天兵が殺到したとき――どん! と床板を揺るがして重い銀色のものが降り、彼らの前に立ちはだかった。甲冑とマントをまとった長身の影だ。
 あっと驚く彼らに、凄まじい力を秘めた銀の孤が叩きつけられる。身軽さを得るために鎧をまとわない天兵たちは、暴風にも似たその打撃を食らって赤子のように吹き飛ばされる。
「覚悟!」
 一人の天兵が決死の面持ちで短剣を突き込んだ。甲冑の戦士は避けようともせず、篭手のひと打ちで短剣を弾き飛ばした。呆然とする天兵に向かって閃光のように得物を突きこむ。――ハルバード。
 打ち払い、刺突する恐るべき制圧武器の直撃を受けて、天兵の腹に大穴が開いた。
 おびえて後じさる天兵たちを、戦士は面頬をあげてにらみつけた。航行風が白のマントをはためかせ、隠されていた鎧の豊かな曲線をあらわにした。
 戦士は静かな声音を投げつける。
「クリオンに仕える者、ハイミーナ。……祈りはしない。それでもよければ討ってやる」
「遅い」
 すっとハイミーナに背中を合わせて、マイラが言った。
「さっさと降りて来い。出番を待っていたのか?」
「この甲冑がどれほど重いと思っているんだ。おまえのように鳥も止めずに飛び降りるのは無理だ」
「……まあいい」
 マイラはサークレットの上に髪をかき上げ、薄く笑って振り向いた。
「陛下がお降りになる前に片付けるぞ。聖霊なしでもやれるな?」
「壁がほしければ戻ってこい。守ってやる」
 重い甲冑にあごをうずめて、振り向きもせずハイミーナが言った。
 およそ似ていない二人だったが、次の動きは同時だった。
「どかぬと言うなら許しはせん!」
 軽捷な旋風と重厚な暴風が、前後に走った。
 マイラが稲妻のようなステップで天兵の間を駆け抜けると、片端から血の噴水が上がった。ハイミーナが大振りな打撃とともに前進するところ、骨折と打撲が数十の単位で天兵を襲い、床や壁までもが容赦なく撃砕された。
 彼女たちだけが降り立ったわけではない。二人に続いて十五名の鳥使いたちが旗艦に突入したが、その役目はもっぱら武装の破壊、非武装者を気絶させることなどだった。
 ものの十分も立たないうちに、『白沢』甲板上から天兵の姿は一掃された。マイラが口笛を吹き、一羽のエピオルニスがやってきた。
 降り立ったクリオンは、全身に血と肉片をまとわりつかせた二人の妃を見て、つかの間、絶句した。
「……何人倒したの?」
「さあ、二、三十名でしょうか」
「十九人。聖霊武器があれば倍はいけたと思う」
 そう言ってから二人は口を閉じ、お互いの顔をうかがった。そこには同じ表情があった。――殺戮の数を誇ることへの恥じらいだ。
 申し合わせたようにうつむいてしまった二人に、クリオンはため息がちな声をかけた。
「殺すななんて言わないよ。でも、無理しちゃだめだ」
「はい……」
 二人は少女のようにうなずいた。
 その時、前方から悲鳴が聞こえてきた。艦中央、ガラス張りの艦橋のあたりだ。先にそちらへ向かっていた鳥使いたちが、矢ぶすまになってまろび出てきた。
 クリオンがそちらを見て言った。
「まだ艦内には手勢が残ってるみたいだね。二人とも、もう少し頼むよ」
「はっ」
 一礼して二人は駆け出す。――が、マイラはあることに気づいていた。ハイミーナに聞かせるでもなく言う。
「陛下のお顔の色が悪くなかったか?」
「喜んで殺せと言うような人ではないと思う」
「それはそうだが……何か、別のご懸念があるような」
 その時、艦橋から新たな天兵たちが駆け出してきた。二人は口を閉じ、武器を構えなおした。

 天舶旗艦が向かう方向には、ジングリット軍主力が抜けてほとんど空になった、三十の本陣群が点在していた。その役割は、開戦直後に必ずあると予想された、鴆群による空襲を分散させることにあった。それは実際に起こり、そしてその段階は終わり、今では部隊付きの非戦闘員のうち退避しなかったものが残っているに過ぎない。
 そちらへ全速で馬を走らせながら、フォーニーは考える。もぬけの殻となっている本陣群を敵旗艦が攻撃しようとしたら、端から火薬弾を落とすだけでいい。それが終われば旗艦は主力部隊の攻撃へ舞い戻ってしまう。いや、ここにクリオンがいないことに気づいた場合も同じだ。できるだけここにいると思わせなければいけない。
 実際はクリオンはすでに旗艦に乗り込んでいる。それは先ほど確かめた。だが、クリオンは霞娜と出会うまで名乗らない手はずになっている。ただの斬りこみ隊と思わせたほうが楽だからだ。――それにしても、何かのはずみで気づかれてしまう危険はある。だから、少しでも地上にクリオンがいるように見せかけたほうがよいのだ。
 それにはフォーニーがおびき寄せるだけでは足りない。もう一人必要・・・・・・だ。
 そこまで考えたとき、フォーニーは行き先を決めた。
「来い!」
 部下に叫んで陣地群へ乗り入れる。旗艦はどうしたわけか速度を落としていたので、多少追い抜くことが出来た。乾いた畑を潰していくつもの円陣がおかれ、天幕や投石器、それにだらりと垂れ下がった皇帝旗が放置されている。その中を走り抜け、本陣ではない一軒の農家へ向かった。そこには――
「皆様方ご無事か!?」
 フォーニーが馬を止めると同時に、数人の女が走り出してきた。それはなんと、ソリュータやエメラダ、クリオンの妃と、その侍女たちだった。彼女らは開戦直前まで部隊の補助を務め、その後は、比較的安全なこの目立たない農家に隠れていたのだ。
 戦況は? と尋ねるエメラダに、フォーニーは手早く説明する。
「先ほど陛下が旗艦に乗り込まれ申した! 旗艦はあの通り、すぐそこでござる! 拙者はこれから旗艦をおびき寄せて参るゆえ、皆様方は反対の方向に退避されよ!」
「分かったわ」
「それと、どなたか女物の服をお貸しくだされ」
「服?」
 いぶかしむ女たちの前でフォーニーは部下の一人を呼び寄せ、小声で言った。
「この者に服を着せて、拙者らはあちらへ走り申す。その隙に皆様方は、申し訳ござらんが徒歩で反対側へ逃げてくだされ。できればその家で農民の服を着て下さるとなおよろしい」
「……もしかして、その兵士を女装した陛下に見せかけるという策なのですか?」
 レザの問いに、フォーニーと騎士たちは歯を見せて笑った。
「いかにも。――何も偽装せず人間を連れ出しても、かえって怪しまれますからな」
 その時、女たちの後ろから落ち着いた声がかけられた。
「お待ちください。その囮、私がやらせていただきます」
 振り向いた妃たちがつぶやいた。
「トリンゼ……」
 現れた侍女は、微笑みながら言った。
「いくら服を変えても、騎士様と陛下では体格の違いが丸わかり。それに比べれば、女の私のほうがまだ陛下に似て見えるかと存じます」
「しかし……危険ですぞ」
「覚悟の上です。それに、こうすれば」
 言うなりトリンゼは、彼女が誇りにしている金の巻き毛を肩の上で一まとめにつかみ、ナイフをあてがって切ってしまった。
 はらりと短くなった髪が揺れ、女たちが息を呑む。――トリンゼは切った髪を惜しげもなく投げ捨てて言った。
「ほら、陛下と同じです。髪の色というものはよい目印になりますでしょう?」
「……かたじけない」
 髪を切るという行為が、女にとってどれほどの覚悟がいるものか、さすが武骨なフォーニーにもわかっていた。一礼するが早いか部下に命じる。
「貴様、この方をお乗せしろ! すぐに出るぞ、お妃様がたからできるだけ距離を取る!」
「待って!」
 声をかけたのはポレッカだった。彼女はフォーニーのような武将に声をかけたことなどない。ないが――この時はどうしたわけか、勇気を振り絞ることができたのだ。
「ふ、フォーニー様! あなたはこれからどうするんですか?」
「なに、どうということもござらん。トリンゼ殿をお連れして戦線を離れるだけ。……うまく行けばこの戦で一番楽をすることになり申す。何しろ、ジングピアサー閣下は今この瞬間にも敵の陸兵と干戈を交えていらっしゃるのですからな」
 そういうフォーニーの顔に、悲壮さは微塵もなかった。ポレッカが信じてしまうほど。
「……気をつけてください」
 ポレッカはそう言って離れた。
 騎士の後ろに引き上げられたトリンゼは、年下の侍女のジュナやチュロスたちに手を握られていた。
「トリンゼ様……」「どうかご無事で……」
「あなたたちもしっかりね。お妃様がたにも陛下にも、粗相のないように」
「わかってます」
「ジュナ」
 呼ばれたのは紅茶色の髪を持つ子供のような娘だった。はい、と顔を上げたジュナにトリンゼが微笑む。
「陛下のお情けをいただけなくても悲しむことはないわ。あなたなら新しい人を見つけられるわよ」
「は……はい」
 ジュナは顔を赤らめた。彼女は以前クリオンを篭絡し、強引に皇帝の子供を孕もうとしたことがあった。
 トリンゼは軽やかに言った。
「私はもう、そんな年でもないわ。後を任せるにもよい頃合」
「……トリンゼ様、それは?」
 ジュナが聞き返したとき、フォーニーが手を振った。
「出発! 間隔を取れ、敵をよく見て避けるぞ!」
 ひづめが鳴り、湿った土を蹴散らして騎馬が駆け出した。
「トリンゼ様……」
 去っていく彼らを女たちはじっと見つめていた。

 戦場にぽつりぽつりと立つ、石造りの風車。水路から畑へと水をくみ上げる灌漑用のものだ。
 その一つの頂上に、ボンボン付きの帽子をかぶった奇妙な姿の人物が立っていた。
「ふむ……」
 額に手をかざして戦場を望見したその人物は、近くの空を旋回する黒い影に目を止めた。鴆だ。ジングリット別働隊に近づけないと見て、くみしやすい獲物を探しているらしい。
 人物はひだの多い衣装に手を入れ、拳ほどの大きさの玉を取り出した。それを足元の屋根に叩きつけると、ぽん、と音がして赤い煙がはじけた。
 高さ五ヤードの風車の上で、さらに五ヤードほども煙が立ち昇る。それは鴆の注意を引いたらしかった。きいんと音を立てて旋回し、こちらへ向かってくる。
 人物は右手を低く伸ばして腰を落とした。――袖からシャッと直剣が伸びた。
 鴆が近づき、真鍮の機首に輝きを宿した。ぱりぱりッ! と乾いた音とともに雷が放たれる。
 雷は風車の羽根の一つに突き刺さった。乗り手が残念そうに翼を傾け、風車のすぐそばを駆け抜けようとする。
 その瞬間、人物が跳躍した。軌跡が鴆と交錯した。鋭い光が閃き、丸いものが宙に飛ぶ。
 人物は柔らかい畑の土に落ち、受身を取って転がった。振り返ると、鴆が機首を下げつつあった。
 ほどなく鴆は土煙を立てて畑に滑り落ちた。
 人物は剣を収め、そちらへ歩き出した。
 
 死体を弔う台のような褥の上に、観測妓官だった青い袿服姿の娘は横たえられ、あえぎ声を上げていた。
「霞娜さま……霞娜さまぁ」
「気を楽に。力を抜いて」
 褥の傍らには霞娜が立ち、半ば覆いかぶさるようにして、娘の首筋に口付けし、体を愛撫していた。
 そこは差し渡し一丈(五メートル)、深さ五尺ほどの円形の穴だ。穴の中には二人だけがいる。そしてその頭上に、直径二丈に達する巨大な灰銀色の球が支えるものもなく浮かび、夜の嵐のような低い音を絶え間なく上げていた。
『白沢』艦底、中枢部。――この巨大な球こそが天舶の動力源であり、霞娜によって強力な大気霊を宿された封球なのだった。
 穴の周囲の床には宦官たちが座し、もつれ合う二人を見下ろしつつ、精霊を制御し、艦橋と連絡を取り合っている。その一人がうつろな声で言った。
「閣下、上甲板に敵が侵入いたしました。戦闘しつつこちらへ向かっております」
「黙っていて。これが済めば戦など終わるのよ」
 頭上に向かってやや苛立たしく言い放ってから、霞娜は腕の中の娘に顔を向ける。
「さあ、心を開いて。痛いことも苦しいこともないわ。私が導いてあげる……」
「ああっ、霞娜さま! お願い、お願いです!」
 娘は空気を求めて大きく口を開け、はあはあと息を荒がせている。紅潮した額や頬にはびっしりと汗の玉が浮き、発熱した病人のようだ。
 だが、娘が感じているのは苦痛ではない。首を吸う優しく暖かい霞娜の唇、乳房をまさぐる丁寧な指、慈しむような眼差し――全身が皮膚をはがれたように敏感になっていて、触れられるたびに快感のこだまが体内に響き、股間は濡れた音を立てるほど潤んでいた。
 何よりも――娘の視界を覆う巨大な球が、ジイッと音を立てて小さな雷を落とす。
「はんんッ!」
 それを食らった途端、強烈な挿入感が全身を貫く。娘は処女だったが、それでもこれが男のものを入れられるのに近い感覚だとわかった。違うのはそれが性器だけにとどまらないことだ。全身の内側に熱を伴った激しいものが潜りこんで来る。
 霞娜が指を触れ、こわばりの抜けた部分に、ジイッ、ジイッ、と次々に小落雷が突き刺さる。首に、腕に、腹に、太腿に、娘は続けざまに挿入される。固体に近いほどの存在感を持つ力が、筋肉の間に神経をこすりつつ食い込んでくる。その都度、失禁しそうなほど強烈な快感が娘の脊髄を駆け上る。
「ひは、ひは……はァっ?」
 ちぅ、と霞娜がまぶたに口付けした。美しい顔が離れていき、娘は期待に打ち震える。――ジャッ! とまばゆい光が左目に突き刺さる。
「ひゃあぁぁっ!」
 脳髄が溶け崩れるような快感が視神経に「挿入」され、娘は弓なりに背を反らせて悲鳴を上げた。ためらいと恥じらいが突き崩され、体中の感覚が快感に支配され、止めようとも思わずにおびただしい尿を放出した。
 小さな乳房をさらけ出し、体液という体液を漏らして痙攣する娘の上で、霞娜がちらりと穴の上を振り仰いだ。
「艦位は?」
「ジングリット本陣群中央――いつでもよろしゅうございます」
 霞娜は気づかなかったが、それは艦橋にいるはずの麗虎の声だった。
 霞娜は娘に目を戻す。いま彼女は、肌の内側から内臓に至るまでを数十の男根に犯されるに等しい快感に蹂躙されているはずだ。それは強力な霊の力が娘の肉体に充填されつつあるということだ。事実、彼女は全身から小さな火花をぱちぱちとまき散らし始めている。それは生身の人間が耐えうる状態ではない。
 ――それこそが、「竜吼砲」が求める状態だ。
「しゃ……な……さ……」
 震える両腕を小さく差し上げて、すでに盲いた瞳から涙を流し、娘がすがるように言う。
「だ……も……だめ……はやく……いか……せ……」
「よくがんばったわね。いいわ。そろそろ……」
 霞娜は娘の袿服の裾を広げ、液体にまみれた白い内股にそっと触れた。霞のようなかすかな恥毛の下で、赤く腫れ上がっている性器に指を近づける。
 それから娘の耳に唇を触れ、愛する臣下を消費する悲しみとともに、ささやいた。
「あなたの最期を看取ってあげる」
「うれ……し……」
 娘が目を細め、この上ない喜びの表情を浮かべた。
 霞娜は熱く溶けたひだの間に思いきり指を食い込ませた。
「ひああああーッ!」
 霞娜の指を引き金として体内にはじける数十の射精――その爆発に娘が喜悦の絶叫を上げ、爪先までピンと体を伸ばした。同時に霞娜は後ろ向きに跳躍し、穴から飛び出した。
 次の瞬間、封球が音もなく降下し、一分の隙間もなく穴を塞いだ。
「ふう……」
 霞娜はそれを見て額の汗を拭う。穴の中の娘の体は、いま高圧の霊力の薄い容器となっている。たとえではない。華奢な娘の肉体だけがそれを一つところに留めているのだ。霊力が肉体の強度を越えれば――
「やったわね」
 霞娜は振り向いた。いつのまにかそばに最愛の妹と、腹心の宦官が立っていた。
 雪娜は霞娜を振り向き、謎めいた笑顔で言った。
「お姉さま、一つ言い忘れていたわ」
「え?」
「ゼマント皇帝は災いのもとになるからとだまされて、実の娘の私を殺したのよ」
 霞娜は瞬きした。意味がまったくわからなかった。
 その時、階段に足音がし、剣を構えた一人の少年が室内に駆け込んできた。霞娜たちとよく似た年頃の、金髪の少年。
 霞娜と彼の目が合った。
 雪娜が言った。
今ぞ姉弟はあいまみえた・・・・・・・・・・・
「雪娜!?」
 振り返る霞娜の前で雪娜と麗虎はすうっと後ろに下がり、通路の闇に消えた。
 ジイッ! と封球が雷をまき散らした。
 
 その瞬間、体内で荒れ狂う快感に耐えられなくなった娘が、生物として手放してはいけないものを手放した。
 生きようとする意志を。――至上の快感により、おのれの生に満足し尽くして。
 娘の意志によって保たれていた肉体は、極限まで圧縮された霊力を封じることをやめた。娘の血と肉と骨と皮は刹那の間に破れ、巨艦を百里進めるほどの膨大な力がその一瞬に解放された。
『白沢』艦艇から咆哮が放たれた。太さ一丈の目に見えない力の束は、五百尺下方の地上に激突し、大地を削って凄まじい土砂の津波を巻き起こした。
 轟音とともに花開いた土津波は、数十の農家と風車と、ジングリット本陣群の九割と、懸命に駆けていた十数騎の騎馬を呑み干した。

 3

 それをクリオンは見た。
 どういう仕掛けかはわからないが、光る窓のような板がいくつも壁にあって、地上の光景を映し出していたのだ。
 土津波に呑み込まれたのが誰なのかもほぼ見当がついた。旗艦への突入前に、火山弾を放つ騎士が陽動を買って出てくれたのを目撃したからだ。
 それと、同じ隊にいた女――顔は分からなかったが、あの色の髪を持つ女は一人だけだ。キオラも似ているが、キオラが囮を買って出るとは思えなかった。
「フォーニー……トリンゼ……」
 その二人が、騎士たちとともに芥子粒のようにすり潰された。
 すうっと頭から血が下がるような気持ちの悪さを感じた。乱心したキンギューを除いて、これまでクリオンは親しい臣下を失ったことがなかった。それも、一人はシッキルギン戦で馬を引いて守ってくれた熱誠な男、もう一人は母のように慰めてくれた温かい女……。
 クリオンは歩き出した。感情は嵐のように暴れていたが、したいことは一つだった。光る窓の前にいた、長いローブ姿の男とも女ともつかない旗艦の乗員たちが、クリオンを目にしておびえたように立ち上がっていた。
「そなた……」
 クリオンはレイピアを突き出し、引いた。その者は心臓を貫かれて声もなく死んだ。
 続く十数秒で、クリオンは五人ほどの乗員を速やかに殺戮した。マイラやハイミーナたちがいればためらったかもしれないが、彼女らは数知れず現れる天兵たちと渡り合って、部屋の外の通路にいた。
 クリオンは銀灰色の球体のそばを通り過ぎた。少女がいた。黒びろうどと銀鎖の華麗な戦衣を見る間でもなく、最初に目が合ったときから合衆帝国大統令、霞娜だとわかっていた。
 ただ、彼女がなぜ取り返しのつかない間違いをしたように震えているのか、それはわからなかった。わからなかったが、どうでもよかった。
 霞娜が、犬に吠え掛かられた子供のように白紗の羽衣を振った。
「あ、闇燦星アンサンジン――」
 電撃のように突き出されたレイピアが、羽衣をからめとって床に落とした。
 霞娜の顔が恐怖に引きつる。クリオンは霞娜の薄い胸にレイピアの切っ先を押し当てて言った。
「どうして」
「な、何……」
「どうしてフォーニーを。トリンゼを」
 クリオンは霞娜の手を見る。――この細い手で、白い指で、臣下を動かしたんだ。
「どうしてマイラに苦しい任務を」
 口元を見る。――この綺麗な唇でひどい命令を出したんだ。
「どうしてガルモンやシェルカを」
 瞳を見る。――この澄んだ目を細めて、笑いながら麗虎を差し向けたんだ。
 ごうん、と音がした。振り向くと銀灰色の球体がゆっくりと浮かび上がっていた。その下面にべっとりとこびりついた、まぎれもなく人体だった赤黒いものが、さらにクリオンの怒りを煽り、声を沈ませる。
「どうして臣下を。どうしてたくさんの兵を――!」
「ひ、ひっ……」
 霞娜が身を翻して走ろうとした。クリオンはその背を突き飛ばした。霞娜の体重は軽く、金属の床につんのめるようにして倒れた。すぐに仰向きになって後ずさりしたが、クリオンがすばやく馬乗りになった。レイピアを置いて強い力で霞娜の両肩をつかむ。
「どうして殺すんだ! どうして一国の主がそんなことするんだ! 人が悲しむってことが、きみはわからないの!?」
「いやっ、離して!」
 霞娜が死に物狂いの力でもがいて押しのけようとした。クリオンは逃すまいと強く戦衣を握る。激しい揉みあいが起こり、ある瞬間、びいッと音を立てて黒い戦衣の胸元が裂けた。
 尖った鎖骨と薄い肩があらわになった。先ほどの儀式でこもっていた乳臭い汗の匂いが立ち昇った。霞娜はハッと片手で破れ目を押さえる。
 だが、防御は逆効果だった。――クリオンは暗い笑みを浮かべて言った。
「きみにも、失いたくないものがあるんだね」
 霞娜が目を見開いた。彼女はクリオンの考えにはっきり気づいた。その禁忌にも。
 ――雪娜が言ったとおりなら!
 クリオンがレイピアを取り、戦衣の合わせ目から腹のほうへと切っ先を潜らせた。その冷たさに霞娜は身を硬くする。クリオンが柄をぐっと引くと、てこになった刃が、戦衣の前を縦一文字に切り開いた。
 クリオンはレイピアを置き、両手を霞娜の胸元にかけた。霞娜も両手で懸命に布を押さえる。が――少年は信じられないほどの力を腕にこめていた。ぶるぶる震えて抵抗する霞娜の腕ごと、クリオンは前を開かせた。
 まだ丸い丘にまで育っていない、うっすらとしたふくらみが現れた。かすかな産毛を帯び、ふるふると震える白い乳房、つまめば潰れそうに小さな乳首――
「いや、いやあ……」
 霞娜は張り裂けんばかりに目を開き、結い上げた髪をさわさわと揺らして、せわしなく首を振る。レイピアの刃にも似たクリオンの冷たく鋭い眼差しが肌をじりじりと焼いている。今まで肌を見せてきた相手とは絶対的に違う。服従させられない、それどころかこちらを殺すことさえできる凶暴な相手。
 もはや霞娜は支配者ではなかった。脆い体を壊されかけている、十六の少女に過ぎなかった。
 クリオンが右手を上げて乳房に触れた。すかさず霞娜は左手で彼の手首をつかむ。引きはがそうと渾身の力をこめる――だがクリオンは冷酷に乳房に指を突き立てる。
 ぎゅい、ぐりっ、と細い指が肉をえぐり、あばらを数えた。すぐ下に心臓がある。このままつかみ出されてしまう、と霞娜はおびえる。
「……こわい?」
 クリオンの声はいっそ穏やかなほどだった。霞娜はこくこくとうなずく。涙をこぼしてうなずく。
 くすっとクリオンが笑った。
「それが、みんなの感じた気持ちだよ」
 ぎちっ! と指で乳首を挟み込まれ、霞娜は激痛にうめいた。
「でも、この程度じゃないよね……」
 クリオンが右手を腰の後ろに回した。彼は霞娜の腹をまたいでいる。霞娜の手は届かなくなる。
 手が戦衣の裾を払って入り込んできた。太腿に指が触れ、すぐに肉を握りこんでくる。腱がぎりぎりとえぐられ、しびれるほどの痛みが走る。霞娜は悲鳴を上げる。
「かあっ、いやああ!」
 左手の指を彼の目に突きこもうとした。しかしクリオンはさっと上体を伏せ、霞娜の乳房に噛み付いた。髪をつかんで引きはがそうとしたが、痛みのあまり手に力をこめられない。
「い、痛い、やめて……」
「みんな痛かったんだよ」
 股間の指が内股のくぼみを滑り、霞娜の一番脆弱な部分に触れた。恐怖のあまり濡れるどころではない――が、その奥には先ほどにじんだ湿りがまだ溜まっていた。
 えぐられると、くちゅりと音がした。屈辱のあまり唇を噛んだ。口の中に血が漏れた。
「湿ってる」
 砂のように乾いた声でクリオンが言い、指を動かした。下手に抵抗したらそこを引き裂かれてしまいそうで、霞娜は身動きもできない。――それはクリオンに、敏感すぎるところをいいようにもてあそばせることになった。
 指は入り口をまるくなぞる。ひだの間をこする。少しずつ入り込み、内側をちろちろとくすぐる。力を抜けばいい、と霞娜は知っていた。そうすれば神経を削られる痛みはなくなる。そして、助かろうとするするあまりそうしかけた。
 途端に指が小さな粒をつまみ、爪の先で挟み込んだ。霞娜は跳ね上がる。
「くひぃんっ!」
 クリオンは恭順を許さなかった。霞娜が少しでも快感を覚えそうになると、とたんに指を突き立て、ひだを押しつぶし、苦痛に変えた。それは延々と続いた。責められているのか愛撫されているのか、霞娜自身にもわからなくなるほど……。
 気がつけば霞娜は、クリオンの指にはしたないほどの潤みを与えていた。霞娜は初めて、自分が今までもてあそんできた臣下の娘たちが、憧憬だけではなく恐怖からも濡れていたことを知った。それは危険を感じた女の体が示す、身を守るための反応でもあるのだ。
 そんな自分の変化に気づいて、霞娜は必死に抵抗した。悲鳴を上げて少年をひるませようとした。
「やめてっ、やめなさい! こ、殺すわよ!」
「霞娜」
 クリオンが目の前に顔を寄せた。名刀のようにまがまがしくも美しい微笑を浮かべたその顔に、霞娜は一瞬、恐怖も忘れて見入った。
 クリオンがささやき、熱い息が顔にかかった。一息それを吸った途端、くらりとめまいのような感覚が襲って、霞娜は戸惑った。
「なんだろう……きみの匂い、知ってるような気がする……」
 それと同じ思いが霞娜を戸惑わせたのだった。体内の何かが、敵ではない、と訴えたのだ。しかしそれは危惧をさらに強めるものだった。敵じゃない、もっといけない相手だ!
 何か弾力のある硬いものが性器に食い込み、霞娜の混乱は頂点に達した。クリオンはいつの間にか腹の上から足の間に体を動かし、腰を押し当てていた。大統令ともあろう自分が、あられもなく股をこじ開けられ、無理やり犯されかけているということに、理性は激しく抵抗していた。――なのに、体が震えてしまうのだ。まるで抵抗したくないと四肢が叫んでいるように。
 クリオンの一言で霞娜は確信した。
「壊したいのに……溶け合っちゃうかもしれない」
「――やめて、私たちきょうだ……!」
 絶叫は断ち切られたように消えた。細く硬いものが下腹を貫き、霞娜の意識にまで衝撃を与えたからだ。
「……はあっ!」
 二人は同時に快感の吐息を漏らしていた。一人は知らず、一人は気づいたばかりだったが、どちらの体も知っていたのだ。――半分同じ血が流れている、懐かしい相手と触れ合ったのだと。
 受け入れたこわばりの、あまりの親しさに、霞娜の意思も本能も溶け崩れた。ひと突きごとに、凶暴な力がこもっているにも関わらず、仲間だよ、とささやきかけるような生温かい快感が摺りこまれ、しどけなく霞娜の下腹を緩ませた。それでも、意識すらしていないわずかな理性の残滓によって、霞娜はかろうじて体を後ろへずり下げようとした。
 しかし、何も知らないクリオンがそんなはかない抵抗を許すはずがなかった。悲痛な泣き顔でずるずると下がろうとする霞娜の姿に、かえって攻撃の炎を煽られ、首絞めにも似た強引な抱擁で少女の肩口を抱きしめ、体重で押しつぶすようにして無理やり押さえ込んだ。
 そして少しの手加減もなく腰を上下させた。小作りなひだと細身のこわばりがとっぷりと濡れてこすれあい、泡立つ滴がまき散らされた。封球の唸りがごうごうと満ちる部屋の片隅に、淫らな水音が際限なく湧き起こり、切れ切れのうめき声が飛び散った。
「だめ、だ、あう、まっ、まって、ねえ、ひゃう……!」
「待たない、やめないよ、きみが、きみが悪いんだから……っ!」
 悲しみと興奮の両方によって頬を紅に染め上げられ、もう抵抗の残りかすでしかない身動きをしながら、霞娜は最後の瞬間のことを朦朧と考えていた。それは二重の意味で初めてだった。
 今まで子種のない宦官にしか注がせたことがない。それに血族と交わったこともない。
 ――身震いするほど蟲惑的で恐ろしい想像だった。
 それが最後の力を霞娜に振り絞らせた。がくがく震えて力の入らない腕で、懸命にクリオンの胸を押し上げ、相手の顔もはっきり見分けられない淀んだ瞳で見つめ、懇願するように言った。
「き、きいて。あなたは、わたしの、おとうと」
「……え」
 ふっとクリオンの動きが止まった。細いあごから透明な汗をしたたらせてクリオンは霞娜を見下ろした。欲情しきり、注がれるのを待つばかりといった上気した娘の顔を。
 彼の心に、信じられないという思いと、まぎれもなく本当だという思いが、さざなみのように広がった。
 ――しかしその思いを深く考えるには、二人は進みすぎてしまっていた。クリオンはいっぱいに張りつめて激しく鼓動しながら霞娜を満たし、霞娜は肌ばかりでなく腹の奥底まで震えてこわばりを吸い立てていた。
 それでもクリオンは、激情が暴発する直前、そこに意思の手を加えた。
「……だったら、きみは一番つらいことを味わうんだね」
「――だめえぇっ!」
 髪をつかんで絶叫した瞬間、凄まじい快感に貫かれて霞娜はのけぞった。
 腹の中でクリオンが力いっぱい脈打っていた。受け入れてはいけない流れがしぶきとなって撃ち込まれた。胸の上の体も同じようにびくびくと震え、おののく霞娜を猛獣のように抱きしめていた。内と外からのその痙攣が霞娜をたやすく燃やし尽くし、世界が蒸発してしまうような純白の快感で打ちのめした。
 砂にぶちまけた水のように、熱流がすみやかに染み込んでくる。自分の胎内が他人のものに占領されていく。おぞましくも甘美なそんな快感が、白光のようなしびれのあとに湧き起こり、霞娜は目を細めて泣きながら微笑んだ。
 やがてクリオンも冷えていった。体を起こす。異国の姉はすべてに負けたあとの投げやりな薄笑いを浮かべて、何物も見ずにひくひくと痙攣していた。
 復讐の心地よさなどかけらも湧いてこなかった。だからといって見逃せばよかったなどとも思わなかった。ただ、こうするか斬り捨てるしかなかったということだけはわかった。
 そのどちらも、まったくクリオンが好むことではなかった。
 機械的に姉と自分の服装を直すと、レイピアを手にし、クリオンはふらふらと階段へ戻っていった。
 残された霞娜は胎児のように体を丸め、汚された下腹に手を当てて、力なく嗚咽し続けた。

「はあッ!」
 通路の向こうに板を持ち出して防壁を築こうとしていた天兵たちを、マイラは『キシューハ』の一旋で吹き飛ばした。それきり敵の抵抗が途絶えたと見て取り、振り返る。
「そちらはどうだ」
 通路の反対側でハルバードを床に突きたて、仁王立ちになっていたハイミーナが答えた。
「現れない。さすがに手勢も尽きたらしい」
「そうか……」
 マイラはつぶやき、二人のちょうど中間に位置する下り階段に近づいた。かすかに聖霊のうなり声が聞こえてくる。一度覗いたクリオンが武装兵はいないと言ったので一人で行かせたが、大丈夫だろうか。剣戟の音は聞こえなかったが……。
 マイラは言った。
「ハイミーナ、ここを頼む。私は陛下を」
「わかった」
 階段を二歩ほど降りるとクリオンが現れた。声をかけようとして、マイラはぎょっとした。
 クリオンは血のついたレイピアを抜き身で下げ、負傷したようにふらついていた。あわてて駆け寄る。
「陛下! ご無事ですか?」
 クリオンは答えず、マイラの手を振り払うようにして上まで登り、通路に出たところでがくりと座り込んだ。そばにしゃがんで傷を探そうとしたマイラは、クリオンのつぶやきに耳を疑った。
「霞娜は予のきょうだいだったよ」
「……陛下?」
「姉上だった。予は……あの子をはずかしめた」
「陛下、どういうことです? それはまことなのですか? い、いえ、霞娜を殺したのですか!」
「もっとひどい、もっと悪いことをしたんだ。予は……ぼくは、どうにも憎くって、めちゃくちゃにしてやりたくて、それで……」
 うつむいたクリオンはすすり泣きを始めた。マイラは手を伸ばしたが、触れたらクリオンが壊れてしまうような気がしてためらった。
 その手に、別の手が重ねられた。ハイミーナがそばに膝をついていた。彼女はマイラの手を重ねたままクリオンの肩に腕を回し、落ち着いた声でささやきかけた。
「何か罪を犯したのか」
「うん……」
「私が許してもいいか?」
「だめ……きみでも、マイラでも。このことは多分、誰にも……」
 ハイミーナは痛ましげに眉根を寄せたが、首を振り、何も言わなかった。それを見て、こういう心の痛みに関わることは彼女に任せた方がよさそうだ、とマイラは思った。
 下に霞娜がいることは確からしい。クリオンとなんらかの接触があったことも。とにかく確かめてこようとマイラは立ち上がった。
 通路を赤光が貫いたのは、その時だった。
「あうっ?」
 右手に焼けるような痛みを感じて、マイラは剣を取り落とした。振り返ると、通路の突き当たりに湾曲した刀を突き出した女が立っていた。
 いや、それは女ではない。マイラは知っている。
麗虎リーフー!」
 隻腕の宦官は薄笑いを浮かべて言った。
「皇帝の『律する力』はほぼ失われた。そして霞娜が代わりとなった。……もはやおまえたちに用はない」
「……なんだと?」
 マイラは立ち上がって麗虎をにらみつける。何を言っているのかわからなかったが、相容れない敵だということは疑いもなかった。
 右手に触れた感じでは傷は浅い。が、今すぐ剣を取れるほどではない。自分は斬れない。となれば――
 マイラはちらりとハイミーナに目配せした。ハイミーナがうなずく。
「陛下には触れさせん!」
 叫んでマイラは飛び出した。勢いよく麗虎へ走る。だが、十歩以上の距離を一息で詰めるのは無理だった。麗虎が嘲笑する。
「串刺しだぞ!」
激光ジーグン』の赤光を放とうとした瞬間、マイラが一歩右へ滑った。麗虎はためらわずそちらへ青竜刀を向ける。三人一度は無理でも、一人ずつ――
 横へどいたマイラの陰から、重いハルバードがうなりを上げて飛来した。
「くっ!」
 麗虎はとっさに青竜刀を振るってハルバードをはじく。わずかに態勢が崩れたところへマイラが飛び掛ってきた。二人はひとかたまりになってごろごろと転がる。上側になった瞬間マイラが馬乗りになり、麗虎の顔を殴りつけようとした。
 麗虎は青竜刀を手放し、左手をマイラの軽甲の脇腹に突き込んだ。乳房もろとも肋骨をえぐる。「くあっ!」とうめいてマイラがのけぞると、すかさず独楽のように体をひねって振り落とした。起き直ろうとするマイラより半瞬早く態勢を整え、まだ背を床につけたままなぎ払うように足を振った。爪先がマイラのこめかみに食い込んだ。
 マイラは頭から壁に激突し、小さな声を漏らして動かなくなった。
 ハイミーナが突進してくる。彼女の鉄のブーツに踏みつけられる寸前、麗虎は青竜刀を手にした。すでに精霊は目覚めている。「『激光!』」の叫びとともに光の針が走り、ハイミーナの太腿を鎧もろとも斜めに貫いた。ハイミーナは顔をゆがめ、勢い余って麗虎の目の前にどうっと倒れこんできた。
 麗虎はゆっくりと立ち上がり、悔しげに見上げるハイミーナの額に青竜刀を突きつける。そのまま殺さなかったのは、クリオンが叫んだからだ。
「待て! その子たちに手を出すな、予が相手だ!」
 クリオンは立ち上がり、レイピアを構えていた。しかし麗虎は恐れない。素早くクリオンに青竜刀を向け変えて、からかうように言う。
「海王の力で私を打つか、皇帝よ。それと私の光とどちらが速い?」
「く……エコールでのことを忘れたのか!」
「忘れはしない。しかしここに邪魔者はいない。見えなくなれば近づいて斬るだけのこと。……それとも霧を作って逃げるか、皇帝よ? 臣下を見捨てて?」
 クリオンがひるむ。麗虎はその機を突いた。
「屈辱、雪がせていただく」
「待て、忌まわしき者」
 竜巻のような勢いで麗虎は振り向き、声がした背後に青竜刀を向けた。――しかしそこには誰もいない。
「むっ?」
「間抜けのマウスの芸は四十八。――腹話術だ」
 天井の換気口を突き破って道化が降ってきた。唐竹割りに直剣を叩きつける。
 麗虎の反射神経は常人離れしていた。頭上に音を聞くが早いか青竜刀を振り上げ、直剣を受け流したのだ。ぎゃりっ! と二振りの剣が耳障りな悲鳴を上げ、火花が散った。
 体をひねった麗虎と地に下りた道化が左右に飛び跳ねる。道化はクリオンの前に降り立った。クリオンは呆然として聞く。
「マウス……どうしてここに?」
「グルドに連なるものを斃すために」
 マウスは振り向いた。クリオンはあっと息を呑む。彼は――いや、彼女は奇怪な化粧を落とし、素顔を現していた。その秀麗な顔は、もうすぐ大人になろうかという娘のものだった。
「私はシエンシア・M・プロセージャ。プロセジア占星団の一員、『遷ろう者ども』を阻む偏正官という者です。今まで姿を偽っていたことをお許しください、クリオン」
「プロセジア……!」
「打ち明け話の時間はないぞ!」
 叫んで麗虎が赤光を放った。マウスの行動にクリオンは目を見張った。
「『アルクチカ』!」
 マウス、いや、シエンシアは垂直に立てた剣を、窓拭きのようにすっと横へ動かした。その軌跡に輝く平面が作り出された。平面によって赤光が完璧に防がれ、やがて消失する。すると平面も床に落ち、涼しげな音を立てて割れた。――シエンシアは空中に氷の板を作り出したのだ。
 歯噛みする麗虎に向かって、シエンシアはひやりとするような笑みを向けた。
「宦官……グルドに屈した者よ。霞娜が力を失った今、おまえから大明軍の事情を聞く必要もない。しかし一つだけ尋ねたい」
「……言ってみろ」
「『万薬房』での問答、まだ答えを得ていなかったな」
「ほざけ!」
 呪いの声のような怒声を上げて、麗虎が走り出した。その体が、数歩踏み出したところでがくんと停止する。麗虎が戸惑って自分の手足を見回した。
「な、なに? 動けぬ――」
「はげ山のサバトにすべての怪物が集まる夜、来なかったのは一体誰か?」
 麗虎はハッと顔を上げた。シエンシアが左手の五指を立て、強く引いていた。そこから伸びる微細な糸が天井の配管を経て自分に絡み付いている。
 先ほど迎え撃ったとき!
「おのれぇッ!」
「――それが答えか」
 麗虎は過ちを悟った。答えるべきだった。どんな答えであれ。
 シエンシアが軽蔑の表情を浮かべて、左手を思い切り引いた。
「竜だ。衣装箱に入っていたから」
 首にかかった糸が麗虎を天井に叩きつけ、鈍い音とともに頸骨をへし折った。
 息絶えた麗虎がどさりと床に落ちると、シエンシアは剣を収め、目を丸くしているハイミーナたちへ近づいた。クリオンが信じられないというようにつぶやく。
「マウス……きみは一体……」
「私はプロセジアの長にクリオンを守るよう言い付かり、キオラの手引きを得てフィルバルト城に入りました。あなたの味方です、お信じください。……大丈夫、神経も大血管もやられていない。立てますか?」
 シエンシアが太腿の傷をみて言ったが、ハイミーナは青ざめた顔で首を振った。仕方ない、と言ってシエンシアはマイラの手当てに移る。
「こちらは気絶しただけか。頭を切ってもおらず……」
 懐から出した小瓶を鼻に近づける。すぐにマイラは首を振って目覚めた。シエンシアを見てさっと身構える。
「誰だ、おまえは」
「味方です。腕の傷をお見せなさい」
 シエンシアが赤光につけられた傷を丁寧に手当てし始めたので、マイラはようやく警戒を解いた。相手の正体に気づいたらしく、戸惑った顔をクリオンに向ける。
「陛下、この女はマウスではありませんか」
「そうだね」
「なぜ……」
「できればシエンシアとお呼びなさい。マイラ、部下の鳥使いを聖霊で呼べますか」
「ああ」
「ではここへ。ハイミーナが負傷しています」
 マイラが『キシューハ』で呼びかけ始めると、シエンシアは階下への階段へ向かった。クリオンが声をかける。
「どこへ行くの?」
「闇燦星を回収してきます」
「アンサンジン?」
「霞娜の聖霊です」
 シエンシアは階段に消え、すぐに白紗の羽衣を持って戻ってきた。
「下の階層に出口はありません。ここを塞いでおけば霞娜を軟禁できるでしょう」
 そう言うとクリオンのそばに立った。ボンボン付きの帽子を脱いで頭をあらわす。くすんだ砂色の髪を馬の尾のように高く結い上げていた。その姿を見ると、やはりこの奇妙な人物は十八、九の娘だった。クリオンに向かい、片腕を折って優雅に礼をする。
「いろいろとご質問があるでしょうが、差し当たり二つのことを説明します。なぜ今まで正体を隠していたか、なぜ今明かしたか」
「話してくれる?」
「はい。私が道化の姿をしていたのは、クリオンの妃たちに付き従い、御懐妊を防ぐためでした」
「……え?」
 クリオンは何度か瞬きする。ホグの根で防いだのです、とシエンシアが繰り返した。
 しばらくしてから、その意味を理解したマイラが顔を赤らめて叫んだ。
「そ、それではおまえは、勝手に私たちの体に触れていたのか!」
「怒るのはわかりますが、続きを聞いてください。そんなことをしたのは、クリオンの血筋が散逸するのを防がなければならなかったからです」
「血筋……」
「ジングリット皇帝の血筋には特殊な力があるのです。……天然なりし猛き精たちを御する力が」
 シエンシアはクリオンのレイピアを指差した。
「それです」
「それと世継ぎを造るのとどう関係があるの?」
「皇帝に血族がいる場合、その力が分散してしまうのです。二人なら二分の一、十人なら十分の一。それでは強大な精たちを御することができません。逆に言えば、血族すべてが死に絶えた現皇帝のあなたは、歴代皇帝の中でも最強の力――聖御力を持つのです。グルドが恐れていたのはまさにそれでした。だから奴らは、クリオンに世継ぎを作らせることでその力を弱めさせようとしたのです。……たとえばジューディカのような者をそそのかして」
 思いもしなかった話を聞いて、クリオンはぽかんと口を開けたが、考えてみれば心当たりもあった。小さく叫ぶ。
「儀典長官がやたら子作りを勧めてたのって……そのせいなの!」
「そうです。彼は最初から教会の手先でした。大神官に命じられ、皇帝の血筋を散らすために、あなたに世継ぎを作るようすすめたのです。――刺客のシェルカがあなたのもとへたどりつけたのも、彼がエメラダの入内予定を教会へ教えたためですが、これは彼にとって不本意だったようですね。彼があなたを暗殺するのではなく、力を失わせる道を選んだのは、王家を重んじるがゆえだったのですから」
「ち、ちょっと待って。どうして教会が関わってくるの?」
「教会の首脳は『遷ろう者ども』と通じております。いえ……『遷ろう者ども』が教会も大明も操っている、というのが適切でしょう」
「そ……それで教会は大明と手を組んだの!」
 次々と明らかにされる事実に、もはやクリオンは驚くばかりだ。
 冷静に聞いていたハイミーナが言った。
「シエンシア、おまえたちこそ回りくどい。血筋が散らばって困るなら、クリオンに子造りをやめさせれば済むだろう」
「それはつまり、あなた方がクリオンと結ばれなければよかったということですか」
 シエンシアの言葉にハイミーナは顔をしかめ、マイラは納得いかないというように首を振った。シエンシアは微笑み、話を続けた。
「私から見ても、クリオンと八人の妃たち――キオラも入れれば九人ですか――との関係は、素晴らしいものだと思いますよ。しかし、もちろんそれを寿ぐだけが目的ではありませんでした。その目的とは、私がいま正体を明かした理由と同じです」
「それは?」
「聖霊の力をクリオンのもとに集めるため」
 シエンシアは再び『ズヴォルニク』を指差した。
「『ズヴォルニク』、『シリンガシュート』、『チュルン・ヴェナ』、『ロウバーヌ』。……『ズヴォルニク』はマイラが渡しましたが、彼女が渡さなければ私が渡すつもりでした。デジエラの『ロウバーヌ』も前帝ゼマントを通じてプロセジアが渡したものです。それとチェル姫の『シリンガシュート』、フウの『チュルン・ヴェナ』の四つが今までに集まりました。それこそ、クリオンが次々に妃を見つけることを、私たちが手助けした理由です」
「……すごく遠回りなことに思えるんだけど、それは本当なの?」
 クリオンの問いに、シエンシアは首を振った。
「他にどんな方法が? チェル姫とフウをさらってクリオンに合わせろと? デジエラ以外の頼りない者に『ロウバーヌ』を預けておけばよかったと? それは不可能ですし、クリオンに力をつけさせることもできません。――ジングリット皇帝みずからが強い意志と力で集めること、そうでなければ意味がなかったんです」
 そして、と言ってシエンシアは手にした羽衣を差し上げた。
「今こうして、霞娜の『闇燦星』が手に入りました。これであなたのもとには、大陸の東西南北と中央――プロセジア、ミゲンドラ、ガジェス、大明、王都から、五つの聖霊が集まったことになります」
「……わかってきた。それが集まったから、おまえの任務は終わり、正体を現してもよくなったんだな」
 マイラが言った。しかしシエンシアは肯定せず、いい線をいっています、と微笑んだだけだった。
「私の任務はまだ終わっていません」
「どういうことだ」
「皇帝の血筋が保たれ、五つの聖霊が集まっても、クリオンがそれを使えなければ『遷ろう者ども』には対抗できません。お忘れですか、聖霊は『血と力に従う』。……これからクリオンには、その力を身に付けるための儀式をしてもらわなければなりません」
「勝手なことばかり言うな!」
 マイラが身を起こして叫んだ。
「今は大明との戦争の真っ最中だぞ? 霞娜は押さえたかもしれないが、地上の戦はまだ終わっていない。それに王都は教会に乗っ取られている! この一大事に、プロセジアなどというわけのわからない連中のために、なぜ陛下がそんなことをなさらなければいけないんだ!」
「大明軍には先ほどこの艦から霞娜の名前で停戦命令を出しておきました。教会のことは――それもこの件と関わりがあるんです」
「どういうことだ?」
「まだ詳しく話せませんが、この儀式によって王都の憂いも払うことができると言っておきましょう」
 シエンシアは超然とした様子で言った。この子はずいぶん強引で勝手なんだな、とクリオンは考え、すぐに思い出した。――別にいま突然、勝手になったわけではなく、マウスの姿をしていた頃からそうだった。
 彼女の話を噛みしめていたクリオンは、ふとあることに気づいた。手招きする。
「シエンシア」
「はい」
 マイラとハイミーナから離れると、クリオンは小声で言った。
「あのね……予はさっき霞娜から聞いたんだけど、あの子は……予の姉上なんだよ」
 そのささやきを聞くと、マウスはすっと表情を抑えて一礼した。
「知っています。だから万が一のことが起きないようにここへ来たのですが、遅かったようですね」
「それって、どういうことなんだろう」
「経緯についてはまた後ほど。ただ、麗虎が先ほど口にした言葉――『律する力』が失われたというのは、誤りです。あれは、霞娜がクリオンの子を宿せば、その子に力が移るという意味でしたが、それは今……防いで参りましたので」
「……そうなんだ」
 少しだけクリオンはほっとした。彼女をはずかしめた罪が帳消しになると思ったわけではない。望まない子を孕ませるのは、彼女に殺された人々への報いとして相応しくないと思ったからだ。
 いくらか聞こえていたらしく、マイラが言った。
「立ち入ったことだが、陛下と霞娜がご姉弟だとすると、先ほどの話と食い違うんじゃないか。その……力が分散されるとかの」
「ええ、正確にはクリオンは完全な聖御力を持ってはいません。霞娜と二分の一ずつです。でも、『闇燦星』の主である霞娜を殺すわけにもいきません。その点には目をつぶるしかないでしょう」
「目をつぶって……何をするんだ。儀式とやらか」
 マイラが投げやりに言った。
「一体何を? 調律武器を五つ並べて、陛下の血をかけたりするのか?」
 それを聞くと、シエンシアは場違いなことを言った。
「ジングリット帝国の『ジングリット』とはどういう意味か知っていますか」
「……なんだって?」
 マイラが眉をひそめる。ハイミーナがつぶやいた。
「意味は知らないが……もともとこの国の言葉ではないそうだ。シッキルギンでもない。確か東方の」
「そう。『神具を律する都』がジングリットの語源です。そして、今フィルバルトと呼ばれている町が、古代ジングリットの中枢でした」
 シエンシアはクリオンを振り返って言った。
「クリオン皇帝……あなたはフィルバルトに行き、そこで五つの神具を統御する術を身につけるのです」
「フィルバルトで?」
「はい。いにしえの初代皇帝、ベルガイン・ベルガド・ジングラが、己が身一つでやってのけたのと同じことを」
 クリオンは、もはや聞き返すことも忘れて、微笑む道化を見つめた。 

 その晩のジングリット軍野営地は戦勝に沸きかえっていたが、皇帝本陣だけは別だった。天幕に集まった人々は重い雰囲気の中で話し合っていた。
また・・陛下がお一人で?」
 ネムネーダがとげとげしい口調で言い、真っ赤に充血した目を向けた。
 視線の先にはシエンシアがいる。プロセジア占星団にまつわる彼女の話や、彼女がマウスだったときと同じように害がないことは、クリオンやマイラが説明したが、それで幕僚たちが納得するわけがなかった。
 シエンシアがゆっくり首を振る。
「一人ではありません。私と、エピオルニスに乗れるだけの方はフィルバルトに来てもらって結構です。本隊と征陣府の方々は行軍して追いついてください」
「冗談言うなよ、今日の作戦だって綱渡りみたいなものだったんだ。教会の連中がうようよしてる帝都に陛下をお送りして、もし万が一のことがあったら……軍団長が浮かばれない」
 ネムネーダは顔を伏せる。彼はフォーニーの死を知ったときから、つい先ほどまで泣き続けていた。
 ドーズ連隊長が険しい目付きで言う。
「認められませんな。大明軍は武装を解かせ、霞娜大統令も軟禁したそうですが、まだまだ事後処理というものがあります。ギニエ市のレンダイク殿たちも承服しますまい。王都のことは、身の回りが落ち着いてからにしたほうがよい」
「別に大明軍を放っておけとは言っていません。彼らの処置が済むまで軍はここにとどまればいい。というより、軍が王都に上っても力にならないんです。解決できるのはクリオンだけです」
「見てきたようなことを言うなよ。一体王都に何が起こってるって言うんだ?」
 ネムネーダに怒鳴られると、シエンシアは静かに答えた。
「王都は、『遷ろう者ども』の巣窟と化しています」
 一同は息を呑んだ。
 シエンシアが続ける。
「ですが、プロセジアの同志たちもすでに王都に入り、クリオンを迎える準備をしています。クリオンが『遷ろう者ども』に襲われる心配はないと保障します」
「道化」
 デジエラが立ち上がった。――彼女は、こともあろうに本陣に蒸留酒の瓶を持ち込んでらっぱ飲みしていたが、酔った様子は少しもなかった。
 テーブルを回り、壁際に立つシエンシアと向かい合う。デジエラのほうが背が高く、視線は相手を貫かんばかりだが、シエンシアも一歩も引かず見つめ返している。
「私が気に入らんのは、貴様の持って回ったやり口だ。『遷ろう者ども』を倒すのに陛下のお力が必要だというなら、なぜ最初から素直にそう言わん?」
「言ったら信じてもらえましたか? ……自在に姿を変える奇怪な存在が帝国を脅かしている、皇帝の力が分散しないように子造りをするな、と」
 シエンシアは挑戦的に微笑む。
「寝言を言うな、で終わりでしょう」
「勘違いするな、今だって信じてはいない。貴様が陛下をさらって魔物の生贄にしようとしているのではないと、なぜ言える。信じてほしければ証を見せるんだな」
「どんな証ですか。私が自分の喉でも突いて命を捧げればよいとでも?」
「できるのか」
「その程度ならいくらでも」
 シエンシアは白い喉をさらして言った。ふんと息を吐いてデジエラは剣を抜いた。
 切っ先をシエンシアに突きつけて静かに言う。
「陛下のことを、血族がいないゆえに歴代最強の皇帝だ、と言ったな」
「ええ」
「ではこの問いに答えろ。――グレンデル湖で前帝陛下の箱舟を沈めたのは、貴様らか」
 電撃のような驚愕が一座の者を打った。確かに、あの事件があったからこそクリオンは皇帝となったのだ。それで利益を得るのがプロセジアだというなら……
 シエンシアはかすかに視線を逸らしたものの、すぐにデジエラを見つめなおして、うなずいた。
「……そうです」
 がっ! と激しい音が上がり、シエンシアが横ざまに吹っ飛んだ。クリオンが叫ぶ。
「デジエラ!」
「……斬ってはいません」
 デジエラは、左手の甲でシエンシアを殴ったのだった。倒れたシエンシアが赤く腫れた頬を押さえもせず立ち上がり、無表情にデジエラの前に戻った。
 デジエラは冷ややかにシエンシアをにらむ。
「目的のために千人近い人間を虐殺するような連中の、何を信じろと?」
「……」
 シエンシアは答えない。ただ唇を噛み、目を伏せるだけだ。デジエラは淡々と――彼女を知るものには激発寸前の状態だとわかる穏やかな口調で――言う。
「腐敗した貴族ばかりだったから構わないとでも?」
「……」
「帝国九千万の民のためだから仕方なかったとでも?」
「……」
「あのお方が……ゼマント陛下が愚王だったから?」
 一座の隅で、一人が顔を上げた。マイラだ。彼女だけは知っている。
 デジエラが胸に秘め、秘め続けた思い――ゼマントへの複雑な思慕の念を。
 シエンシアは首を振った。どの問いにも無言だった。
 次の瞬間、デジエラが剣を一閃させた。皆が首をすくめたが、断ち割られたのは傍らの椅子だった。ごとりと音を立てて二つにわかれる。
 デジエラは問うた。ほんのわずかに、声音が変わっていた。
「……おまえは反対したのか。その計画に」
 シエンシアは顔を上げ、小さくうなずいてから、自嘲するように言った。
「意味はありませんでしたが」
「だろうな。だから危険な間者の役を買って出たか」
 シエンシアは、今度ははっきりと驚いた顔になり、うなずいた。
「はい。『探光の行』で嘘の報告をして……なぜそれがわかったんです?」
 デジエラは深々とため息をつき、寂しげにシエンシアを見つめた。
「私も同じことをしたからさ」
 一同は、胸を突かれたような気になる。無抵抗の民を虐殺せよとの命を受け、ただ一人反抗した女……
 デジエラは『ロウバーヌ』を地面に突き刺した。
「これがいるんだな?」
 そう言って、テーブルの瓶をつかんで天幕から出ていった。――それは決定の言葉だった。

 あかあかと篝火が灯された広場に、大きな翼が動いている。鳥使いに引き出されたエピオルニスたちだ。
 支度をして広場に出たクリオンの周りに、妃たちが集まっている。口々にクリオンに声をかけるが、皆の顔は覆いようのない不安の色に包まれていた。
「まったく、マウスがプロセジアの間者で、陛下を王都にお連れするなんて……まだ信じられませんわ」
 毒づいたレザが、ふとエメラダに目を留める。彼女は少し離れたところで石を蹴飛ばしている。
「エメラダ。お見送りはしないのかしら」
「あたし、知ってたのよね」
「……え?」
 振り向く妃たちに、エメラダは沈んだ顔で言った。
「マウスがプロセジアの人間だってこと。……赤ちゃんができない理由も」
「まあ……いつの間に」
「いつでもいいけど、知ってたのに何もできなかったってのが落ち込むわ。もっと早く打ち明けてればよかったかしらね」
「打ち明けててもどうしようもなかったと思います。なんか、帝国全体に関わる大きな話だっていうし」
 ポレッカが言うと、やにわにエメラダは歩み寄って、頬をつねった。
「あんたが言うな。あんたはあたしと一緒に見たのに気づかなかったんじゃない!」
「い、いたひ、やめてくらさい。わたひぷろへじあのことなんかしらなかったんだはら」
「エメラダ、やめなよ」
 クリオンが軽く笑って二人を引き離した。むくれているエメラダに顔を向ける。
「いいよ。ぼくの心配事を増やさないようにしてくれたんだよね」
「ええ、まあ。……それと、ばらしたらマウスが怒るかと思って」
「怒ったりしないよ、あの子は。けっこういい子だよ」
 クリオンは振り向く。マウス――シエンシアは、集まった四つの聖霊武器を鳥に積んでいる。
「王都でも守ってくれると思う。今までもそうだったし」
「ぶっちゃけた話、あの変身っぷりについていけないのよね。歌って踊ってたマウスの正体が、あんな女の子だなんて」
 あはは、とエメラダはふわついた笑い声を上げた。その顔をまじまじと見て、クリオンはつぶやいた。
「なんか変だと思ったら……怒ってる?」
「そう見える?」
「……トリンゼのこと?」
 言われて、エメラダは大げさにため息をついた。
「そりゃね。……あたしたちの身代わりになってくれた人が死んだのよ。あの時、マウスは鴆に乗って飛んでいたそうじゃない。トリンゼを助けるとか、天舶が地上を爆発をさせる前に止めるとか、いろいろできることはあったでしょうに……」
「でもそうしたら、ぼくは麗虎に殺されてた。――トリンゼのことはいろんな不幸が重なったんだよ。シエンシアがいてもいなくても、結局誰かが死んでいたと思うよ」
「陛下は悲しくないの?」
 そう言ってからエメラダはこつんと自分の頭を叩き、クリオンを抱きしめた。
「ごめん。悲しくないわけないわよね。あたしが陛下を悩ませてちゃいけないわ」
 そう言ってから、エメラダはクリオンを押し離し、怒った顔で辺りを見回した。
「ああもう、こういうのってソリュータの役目じゃない。あの子どこいったのよ、いい加減に陛下と仲直りすればいいのに」
「いいよ、エメラダ。大丈夫」
 小さく笑ってクリオンはエメラダから離れた。
 出発します、とマイラが叫ぶ。彼女の鳥に飛び乗って、クリオンは手を振った。
「じゃ、行ってくるよ。……チェル姫、泣かないの。これが最後の別れってわけじゃないんだから。後からみんなも来るんだよ?」
「うん、急いでいくね。陛下」
 涙で顔をぐしょぐしょにしたチェル姫が手を振った。
「いけ、シンテンライ!」
 マイラの声を受けて、巨鳥が羽ばたく。シエンシアを先頭に、従うエピオルニスは二十羽。一列になり、重い羽音をたてて上昇していく。
 広場を離れる寸前、クリオンは振り返ってソリュータを探した。篝火のひとつに、小さな影がぽつんと寄り添っていた。手が折れそうなほど強く振っていた。
 それを見たクリオンは、胸が締め付けられるような思いを感じ、同時に悟った。――自分がなぜ、霞娜にあんなことをしてしまったのかということを。
 トリンゼとフォーニーのこともある。だが、それ以上にソリュータと決裂してしまったことが堪えていたのだ。一番大事なものを失ったのにそれ以外のことを気にかけても仕方ない、という自暴自棄の心になっていたのだ。
 そのせいで、さらに一つソリュータを傷つけるようなことをしてしまった。
 ……マイラが振り返り、どうしました、と言った。クリオンは無言で首を振った。
 マイラの背に頭を押し付けて、クリオンは泣いていた。

 地上に下ろされ、通路をジングリット兵士で固められた「白沢」の艦内で、霞娜は膝を抱えて座っていた。
 心の片隅で、何かが激しく叫び、暴れていた。それはこう言っていた。――あんな指揮をするべきではなかった、艦内に乗り込まれても皇帝に気づかなかったなんておかしい、なぜすぐさま殺さなかった、なぜ人を呼ばなかった、それになぜここから逃げ出さない……
 しかし霞娜はそれを他人事のように感じていた。ひどく疲れ、喉が渇いていた。それに氷に閉じ込められたように寒かった。
 ひときわ大きな声がはじけた。
 ――あれは違う!
「……あ……」
 霞娜はまぶたを開きかけた。
 その時、すっと背中を温かいものが包んだ。優しい腕が抱きしめてくれた。耳元で甘い声が言った。
「そばにいるわ、お姉さま」
 霞娜は首を回した。青白い顔がにこりと笑った。
「雪娜……」
「ずっといるわ」
 霞娜は安心して目を閉じ、妹にもたれかかった。
 寒気は少しも治まらず、胸のうちの声も続いていたが、霞娜は気づかなかった。


―― 中編に続く ――



次へ 戻る メニューへ