次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第7話 中編


 5

 冷風がフードの中にまでひょうひょうと吹き込み、耳が引きちぎられそうに寒い。
 ソリュータがぶるっと体を震わせると、前鞍のハイミーナがちらりと振り返って言った。
「もっと寄れ。暖めあうんだ」
「ええ」
 後鞍のソリュータは、ハイミーナの腰に回した腕にぎゅっと力をこめる。硬く薄い軽甲越しに、彼女の細身ながらしっかりした体の感触と、ほのかな体温が伝わってきた。
 ハイミーナがなおも叫ぶ。
「凍えていないか」
「大丈夫よ」
「たいした侍女だ、私でもつらいのに」
 戦士のハイミーナは、マイラたちのような鳥使いが使うスタッグ虫の削りだし鎧を借りて、身に着けている。軽く丈夫であることのほかに、熱を逃がしにくいという性質もある優れものだ。
 しかし、後ろのソリュータは、レザのような貴族の女が使う、乗馬用の袖を絞った上着とズボンを着て、上に毛皮の外套を羽織っているだけである。ハイミーナほど体を鍛えてもいないから、寒さは相当堪えている。
 それを顔にも出さず、ソリュータはハイミーナの耳に声をかける。
「あなたは? エピオルニスにはもう慣れた?」
「だいぶ分かってきた。こいつは馬より賢い。大体の方向に手綱を引けば、自分の判断で飛んでくれる」
「ついて行くだけだしね」
 そう言って、ソリュータはハイミーナの肩越しに風の中に顔を出し、前方を眺めた。
 騎手と小柄な乗客を乗せたもう一羽のエピオルニスが、五十ヤードほど前方を飛んでいる。マイラとチェル姫だ。
 この四人で、雲をも貫くというガジェス山脈の分水嶺に向かっているところだった。
 噂どおり、周囲には湿った霧のような雲が分厚く立ち込めている。見下ろせば、動物はおろか下等な植物すらもいない、不毛な灰色の山肌が続いている。前方の視界はほとんどないが、数リーグ先には世界の終わりのような絶壁が聳え立ち、そこを抜けられるとはとても思えなかった。
 ハイミーナが聞く。
「あてはあるのか?」
 左右では、エピオルニスの瑠璃色の巨大な翼が、どおっ、どおっ、と爆発のような音を立てて、数秒に一度羽ばたいている。大声を出さなければ会話はできない。後鞍のソリュータが大きく口を開けて答える。
「デジエラ将軍に詳しいことを聞いたわ。クリオン様をさらったエピオルニスは、砦の近くに潜んでいるはずの六万のフェリドの群れには戻らず、直接ガジェスの山に向かったの。ということは、群れのフェリドとは別の勢力なのよ」
「それで?」
「地図によれば、エピオルニスで越えられるほど低い峠は、この百リーグ四方に一ヵ所だけ。そこを抜けて南方半島に出る。出たら、鳥に任せるわ」
「なんだって?」
「この子に任せるのよ!」
 ソリュータはごわごわした羽毛に覆われたエピオルニスの胴を叩く。
「山越えで消耗したエピオルニスは、必ず一度休息する。本能に従って休める場所を見つけるのよ。ニッセン様が保証してるわ。そこで手がかりを探すの」
「そんな方法で成功するのか?」
「一リーグ以内にクリオン様がいれば見つかるはずよ。チェル姫がいるもの!」
「どういうことだ?」
 ハイミーナは、シッキルギン遠征のときのことを知らないのだった。ソリュータは、クリオンとチェル姫が、数リーグも離れていながら聖霊の力で言葉を交わした、あの奇跡のことを話した。
「そんなことができるのか……」
 驚いていたハイミーナが、ふとつぶやいた。
「それなら、あの二人だけで用は足りるんじゃないか。私たちは何をすればいいのだ」
「フェリドのエピオルニスがどこを飛んでいるか分からないわ。相手より先にそれを見つけて逃げなきゃいけない。目はいくつあっても足りないのよ」
「詳しいな」
「勉強したの。クリオン様のために」
「ふん……」
 皇帝のクリオンに必要とされる知識は、政治、外交、経済、軍略、自然、民俗、歴史など、あらゆる方面にわたる。側仕えとして彼を助けるために、ソリュータも折を見て様々なことを学び続けていた。
 前方のエピオルニスの背で、カンテラの光がちらちらと瞬いた。ソリュータもカンテラの風除けを上げて、返事を返す。
 マイラが手綱を引いた。エピオルニスが翼を水平に伸ばし、ぐうっと左へ旋回した。ハイミーナも後に続く。
 分水嶺越えの峠は、左右を切り立った崖に挟まれた、幅三十ヤードもない切り通しだった。視界はますます悪く、二百ヤード先も見えない。もし行き止まりなら、衝突して一巻の終わりだ。マイラの腕と、エピオルニスの本能を信じるしかない。
 翼のすぐ先を、岩盤が恐ろしい勢いで流れていく。ソリュータは体をこちこちに硬くして緊張していたが、ふと気づくと、ハイミーナの体も同じようにこわばっていた。彼女の腹に手を当てて、つとめて優しく言い聞かせた。
「落ち着いて。あなたは鳥を乗りこなしてるわ」
「分かってる」
 つっけんどんな返答だったが、いくぶんハイミーナの腹は柔らかくなった。
 切り通しの終わりには、濃密な白い霧が渦巻いていた。前方のマイラが見えなくなり、羽ばたきが不規則になった。エピオルニスが、きーあ、と耳障りな大声を上げる。
 叩きつけるような風が鞍上の二人を襲う。姿勢が崩れ、振り落とされそうになる。「つかまっていろ!」というハイミーナの声だけを頼りに、ソリュータは必死に腕に力をこめる。一瞬だけさっと霧が切れると、真正面に頂も見えない垂直な崖が立ちはだかっていた。
「くっ!」
 ハイミーナが力いっぱい手綱を引く。恐ろしいことに、エピオルニスは一度、どん! と岸壁に脚をついた。反動をつけて飛び、崖から離れる。二人は放心したように顔を見合わせる。対応が一瞬遅ければ、鼻先から突っ込んでいた。
 そこに横殴りの突風が襲い掛かり、またしてもすさまじい勢いでエピオルニスを運んでいく。
 上下左右にむちゃくちゃに振り回すような乱流に耐えていると、不意に風の音が消えた。ソリュータは目を見開く。ため池から流れ出す水のように、空気が整然と流れ始めていた。山の北側から南側へと向かう気流をつかまえたのだ。
 視界は突然開けた。
 霧がさあっと晴れるとともに、明るい日差しが降り注いだ。前方にはなだらかに低くなる山肌と、緑の海のような密集した樹海。思わず振り返ると、鉄灰色の山峰に、つい今しがた抜けた雲団がうねりながらまとわりついていた。
 山脈を越えたのだ。
「南方半島だ……」
 ハイミーナがほっとしたようにつぶやいた。
 前方に小さくマイラたちが見える。あの二人も無事だったのだ。ゆるやかに滑って近づき、編隊を組むと、マイラとチェル姫が大きく手を振っていた。
「ソリュータあー、大丈夫ー?」
「はあい! チェル姫もご無事でしたかあ?」
「チェルねえ、目をつぶってたからあ、わかんなあい!」
 ハイミーナとソリュータは顔を見合わせ、笑った。
 そのとき、ふとハイミーナが顔をこわばらせた。
「鳥だ」
 ソリュータは振り向き、彼女の視線を追った。樹海の一角から、数頭のエピオルニスが上昇してくる。外套のポケットから単眼鏡を出して目に当てる。フェリドにこんな道具はないから、その分有利なはずだ。
「……人が乗っていないわ。野生だと思う」
 ハイミーナが片手を振り回して大きな円を作り、マイラにそれを伝えた。
 三頭のエピオルニスが近づいて、こちらを囲む。手のひらほどもある無垢な瞳が、じっと見つめる。チェル姫が無邪気に手を振る。
 すると、そのうちの一頭が大きく羽ばたき、急角度で降下していった。ソリュータはあることに気づいて、ハイミーナに尋ねた。
「フェリドって、鞍を使うのかしら?」
「……そうか、しまった!」
 ハイミーナは拳を握って、すばやく上下させた。注意の合図だ。マイラの答えは、水平にした手のひらを下に押し付けるもの。逃げろ、と言っている。
 二頭のエピオルニスは片翼を上げ、転がり落ちるような降下に入る。
 しかし、それは遅かった。
 野生の一頭が戻っていった方角から、新たに三頭が上昇してきた。単眼鏡をのぞいたソリュータが悲鳴を上げる。鳥の背にしがみついた異族たち!
「見つかったわ!」
「そうれっ!」
 ハイミーナが、またいだエピオルニスの首を蹴る。きーああ、と甲高く鳴いて、巨鳥は素晴らしい勢いで羽ばたき始めた。
 どうっ、どうっ、と翼が上下するたびに、手でつかめるほど重い空気の束が体の周りを流れる。全速力の馬の三倍にも達する速度で、二頭のエピオルニスは翔ける。すでに高度はほとんど捨てた。森のこずえがほんの足元を、緑の濁流となって滑っていく。
 背後を見たソリュータは、眉をひそめる。フェリドたちはまっすぐ追ってこず、高く上昇していた。蒼空を背景に、ぽつんと三つの点が見える。
「昇っていくわ。どういうつもりかしら?」
「さあ……ああっ!?」
 ハイミーナの叫びを聞いて、ソリュータは前方を振り返った。目を見張った。
 前方の木々の頂から、無数の粒が逆さの滝のように吹き上がった。マイラのエピオルニスがまともにその中に突っ込み、ぐらりと姿勢を崩した。ソリュータは叫ぶ。
「ニッセン様が!」
「石つぶてだ!」
 傾いたマイラのエピオルニスが、羽ばたきをやめた。片方の翼が動いていない。力をなくしたように滑空して、ばさりとこずえに落ちた。数百羽の極彩色の小鳥が、キャアキャア鳴きながら飛び上がる。
 その頭上を、ソリュータたちは通過する。
「止まって、助けに行って!」
「だめだ、後のをまいてからだ!」
 叫んで背後を見上げたハイミーナが、舌打ちした。
「そのためか……」
 いったん上昇したフェリドたちは、恐ろしい勢いで降下を始めていた。三頭とも羽ばたいていない。水面下の魚を狙う海鳥のように、翼を細くすぼめて、稲妻のように降って来る。高く昇ったのは、そうやって速度をつけるためだったのだ。
「川よ!」
 ざあっ、と直下のこずえが流れて消えた。代わりに現れたのは、泥色に濁った大河だ。流れているとは思えないまっ平らな水面が、幅三百ヤード以上も続いている。ハイミーナはさらにエピオルニスを降下させ、水面すれすれの滑空飛行に移る。
 鳥に慣れていないハイミーナの、それは失敗だった。低いところほど空気が濃い、ということを忘れていたのだ。速度を失ってしまう。
 こずえの上なら樹木を背景に姿をくらますことができるが、茶色の平坦な水面の上では姿を隠すどころではない。速度を失うのは、命取りだった。
 天から降ってきた三頭が、水面上で引き起こしざまに、二人のそばを駆け抜けた。その一瞬のあいだに、彼らは三本の槍を投げつけていた。
 ズバッ、と音を立ててエピオルニスの両翼が貫かれる。きゃーあ! と巨鳥は悲しげに鳴いた。
「ハイミーナ!」「ソリュータ!」
 傾いた翼の端が水面を切り裂いた。その途端、エピオルニスは風車のように回転して水中に突っ込み、二人を放り出した。

 6

 風の音を立てて巨鳥が頭上を駆け抜け、じきに重い羽ばたきの音が遠ざかっていった。
 空を見上げて、クリオンたちは木陰から姿を現した。フウがつぶやく。
「ウォラヒアのアーゴたち。ひどいのり方をする……」
「アーゴって、エピオルニスのことだね」
「大きなとりだ。ローダホンはあんなことはしない」
「何かを追っていたみたいだけど……」
「ウォラヒアは力づくでアーゴをしつける。つかれるまでおいたてて、しばる」
「ふうん……」
「もう少しまつ。見つかるとフウもなびかされる」
 そう言って、フウは絡まりあった木の根の間にしゃがみこんだ。ローダホンの戦士たちも、同じように身を丸める。
 クリオンもフウの隣に座った。すでに衣服を取り返し、『ズヴォルニク』も腰に収めている。フウたちとの同盟が成立したのだが、彼女の説明が舌足らずで、いまだに詳しいことを理解していなかった。近くに立って空を見上げていた、セマローダ支族長を手招きする。
 セマローダはやってきて、クリオンの『ズヴォルニク』に触れた。どちらか片方だけを使っても意思の疎通ができることはわかったが、それでも離れていると会話はできない。不便だったが、仕方がなかった。
「セマローダ、まだいくつか分からないことがあるんだけど、聞いていいかな」
「なんなりと、クリオン」
「ジャムリンのいるウォラヒア大支族が、今ギニエを攻めている軍団で、その理由が、グルドから逃れるためだってことはわかった。……でも、グルドっていうのは、そんなに手ごわい敵なの?」
「一対一なら負けはせん。しかし、やつらは姿をいつわるのじゃ」
 慣れるにつれ、たどたどしさがなくなるようだった。セマローダは少しずつ上達しながら話す。
「グルドは古いてきだが、さいきんになって力をつけてきた。やつらは見目うるわしいフェリドに化けて、仲間うちにもぐりこむ。姿を見やぶらないかぎり暴れたりはしないが、それでも害はある。奴らによって、フェリドは数がへってしまった」
「どうして?」
「せいを吸うのだ」
 悩ましげな顔で、セマローダは語る。
「グルドはとても美しい。だから、フェリドの戦士や女たちは、その姿にまどわされ、つれあいを捨ててグルドと交尾をする。しかし、グルドは仔をはらまない。それによって年々仔はへり、また、仲のよかったつれあいがひきさかれ、フェリドはよわくなってしまった」
「ええと……ジングリットに逃げれば、グルドはついてこないの?」
「そんなことはない、おそらくウォラヒアの内にもたくさんのグルドがまぎれこんでいるだろう。だが、ジャムリンはやつらにまどわされておる。ジングリットに出れば、グルドの変わり身ではないにんげんの女たちがいるから、それをさらってはらませ、フェリドの仔をのこすことができる、それがさいりょうだと思っているのだ」
「人間との混血でも、フェリドの仔ってことになるの?」
「ウォラヒアのれんちゅうにすれば、それでもいいのだろう。我ら、古きローダホンにとってはゆるせぬことだが……」
 いったん言葉を切って、セマローダは言った。
「その古き血によって、ローダホンはウォラヒアに狙われておる」
「どういうこと?」
「ウォラヒアはフェリド一大きなしぞくだが、ローダホンはフェリド一古いしぞくだ。ローダホンにはグルドもまぎれこんでこない。それゆえ、ローダホンのわかものかおんなをさらえば、ウォラヒアは仔をつくることができる。げんに奴らはそうしておる。ローダホンのむすめを数十人もさらって、『さいなみ岩』でなびかせているのだ」
「『苛み岩』……今から行くところだね。そうか、そういう理由でローダホンの娘たちが捕まっているから、ぼくたちで助けに行くんだ」
「うむ。今まではたぜいにぶぜいで手が出せなかったが、クリオンならば勝てるのだろう」
「そうだよ」
 クリオンはうなずいたが、これには少し信頼を得るための虚勢が入っている。生きて帰るためには、多少彼らをだますのも仕方ない。
 クリオンは状況を整理してみる。フェリドは、ローダホンとウォラヒアに分かれて内紛を起こしている。そのうちウォラヒアの連中がローダホンの娘たちをさらった。だからローダホンはこれを取り返しに行く。それだけではなく、ウォラヒアの族長を惑わしているグルドをも、倒しに行くのだ。
 それを、ジングリットの利害とつき合わせてみる。ジングリットにすれば、フェリドの北上を阻止するのが至上課題だ。北上を企てているのはウォラヒアたちだから、その族長を正気に戻して侵攻を阻止するのは、ジングリットのためにもなる――うん、問題はなさそうだ。
 残る疑問点は――
「セマローダ、なびかせるってどういうこと?」
「靡かせるというのは、わかものやむすめたちの操をうばうということだ」
 明確な表現が流れ込んできた。
「ただ犯してはらませるのは、フェリドのおきてに反する。相手がみずから体をさしださなければいけない。普通は心をこめてあいをえるのだが、むりやりやってできないこともない。……ウォラヒアがやっているのは、そういうことだ」
「ひどいなあ……」
 つぶやいたクリオンは、ふと気づいた
「それじゃ、フウがぼくに親切にしていたのは、そういうことなの?」
「そう。フウはクリオンをなびかせようとしていた」
「なびく前に無理やりしたじゃない」
「いいや。クリオンはなびいていた」
 金の巻き毛の美しい娘は、そう言って真面目な顔でクリオンを見つめた。そ、そうかな……とクリオンは赤くなる。確かに、死ぬ気で拒んだりはしなかった。
「アーゴの音がきえた。行こう、よあけまでに『さいなみ岩』につきたい」
 フウが立ち上がる。胸と腰だけを覆った半裸のしなやかな体が、ばねのように跳ねて、複雑に入り組んだ木の根から木の根へと飛び移る。
 戦士たちもそれに続く。手足を覆う短毛のせいで、足音ひとつしない。森を住処とする者たちの、優雅な動きだった。人間のクリオンにはとても真似できない。
「手加減してよ、フウ!」
「ははは、としよりと一緒にゆるゆる行くか」
 そう言ってセマローダが『ズヴォルニク』から離れ、ひょいひょいと走り出した。彼にしてもまるでウサギのようにすばやく、クリオンは必死の思いで追いかけなければいけなかった。

 7

 森の中を切り開いたような直径百ヤードほどの空き地があり、その中央に、ひとつの城館のような巍然たる岩塊がそびえていた。
 フェリドのたくましい背中で目を覚ましたソリュータとハイミーナが、そこに連れて来られたのは、日暮れ過ぎだった。岩塊は巨大な凹型をなしていて、フェリドたちはその縁に這い上がった。二人はろくに持ち物も取り上げられないまま、つるで縛られ、その差し渡し二十ヤードあまりの石臼の中に釣りおろされた。
 日が沈んだあとの暗さに目が慣れると、周りの光景が見えた。自分たち以外にも、大勢の人の気配がした。正面に数十人。ふーっ、ふうっというひそやかな息遣いが聞こえる。こちらをうかがっているらしい。
 視線を巡らせると、横手に二つの人影があった。大小二つ。ソリュータは息を呑み、そっと話しかけた。
「……ニッセン様?」
「ソリュータ殿か!」
 どっと安堵して、ソリュータはそちらに近づこうとした。芋虫のようにぐるぐる巻きにされているから、這うしかない。冷たく湿った岩の溝や穴のある表面に、肌や服を削られながら這いずり、二人と二人は合流した。
「ご無事だったんですね、チェル姫は?」
「チェルも元気よ。ちょっとたんこぶができたけど」
「ハイミーナは?」
「無事だ。どうやら、四人とも無傷で済んだようだな」
「そうか、不幸中の幸いだ……」
 四人は身を寄せ合って石壁にもたれた。星明りにさらに慣れ、互いの顔かたちが分かるようになる。マイラが悔しげに言った。
「すみません。フェリドがあれほど周到な備えをしているとは思いませんでした。蛮族だと思ってなめていました」
「今はそんなこと話してる場合じゃありません。向こうのあの集団ですけど……」
 ソリュータは穴の反対側を目で示す。
「あれは、フェリドじゃありませんか」
「なに?」
 四人は目を凝らして見つめた。さわさわと蠢くいくつもの人影が、時折、尖った耳や細長い尻尾をするりと動かしている。
「確かにフェリドですね。囚われの人間かと思いましたが……」
「フェリドがフェリドを閉じ込めてるの?」
「どうやらそのようです。それも、女のようだ……」
「マイラ、私はそれよりも、この場所のことが気になる」
 ハイミーナが薄気味悪そうに言って、ブーツで床を叩いた。
「周りは縄でも垂らしてもらわない限り出られない壁で、床に小さな穴がいくつも開いてる。ここは、なんだと思う?」
「……さあ。牢にしては凝っているが」
「言いたくないが、教会にもこのような代物があった。――水責めの穴だ」
 えっ? とチェル姫が声を上げる。ソリュータが冷静に指摘する。
「水責めなら、穴はないんじゃありませんか」
「すると逆か。蒸気穴だ。下で湯を沸かして、上の人間を蒸し焼きにするのかもしれない」
「む、蒸し焼きなんていやあ!」
 泣き声を上げるチェル姫の頭に、ソリュータは頬を重ねて言った。
「姫、落ち着いて。持ち物はまだあるんですか。『シリンガシュート』は?」
「あ、あるけど背中なの、手が届かないの!」
「ニッセン様、『キシューハ』は?」
「同じく、です。構えられずとも手さえ触れればいいのですが、それも無理では……」
「私が抜きましょうか?」
「だめです、血と力のない人間が触れるのは、かえって危険だ」
「噛み切るのもだめだ、歯がたたない」
 押し殺した声をかけあっていると、突然、ひうっ! と悲鳴のような声が聞こえた。四人は、はっとフェリドに目を向ける。
 今までほとんど動いていなかったフェリドたちが、ゆらゆらと動き出していた。頭を傾け、体をひねり、どたり、と床に倒れこむ。その周りを動き回る細い影は――彼女たちの、尾だろうか?
 いや――
「へっ、蛇ぃっ!」
 チェル姫が甲高い悲鳴を上げ、ぎゅうっとソリュータに体を押し付けた。ソリュータも、鳥肌立つような恐怖に襲われている。フェリドの娘たちにまとわりついているのは、生き物だった。床の穴からぬうっと顔を出し、音もなく忍び寄って、巻きついている。
 後から後から。数百匹はいるだろうか。ハイミーナがかすれた声を上げる。
「贄か……生きながら食われるのか!」
「いや、待て」
 マイラがつぶやいた。
「痛がっていない」
「なに……?」
 声が湧いた。悲鳴ではない。甘い、とろけたような声だ。
「ハァ……ア……ン」
「んふぅ……あ、あんん……」
「ひぅ……んく、んくぅっ……!」
 四人は顔を見合わせ、怖いもの見たさと、どうせ自分たちも同じ目にあう、という覚悟から、動き始めた。
 石臼の壁に沿って半周もすると、フェリドたちの姿がはっきりと目に入った。四人は息を呑んだ。
「はあ……あ……ん……」
 ほとんど全裸に近い姿で縛られた、金の髪を持つ娘たちを、肌色の太いロープが犯していた。乳房に巻きつき、股間にもぐりこみ、ぬめぬめと光って流れる。
 それに、娘たちは抵抗もせず身を任せている。とろんと金の瞳を見開き、白い頬を薄桃に染めて、うつろな笑みを浮かべている。鋭い爪があるのに、それで戒めのつるを切ろうともしない。中にはつるがほどけかかっている娘もいたが、その娘も逃げ出すそぶりなどかけらも見せず、大きく足を開いて、股間でちろちろと揺れる生き物の頭を、もどかしげに胎内に押し込もうとしている。
 そうだった。そいつらは、肌を這い回るばかりで、決して最後の一押しをくれないようだった。娘たちの中には、男性器のある少年のフェリドもいたが、その子にも、胸や太ももへのもどかしい愛撫をくれるばかりで、痛々しく勃起した性器へは触れようともしない。
 ただ、口には遠慮をしなかった。あどけないフェリドの娘の唇に、窒息させそうなほど太い生き物が潜り込んで、うねうねと内部をくすぐっていた。嬉しげに微笑んでそれを受け入れていた娘が、不意にかっと目を見開く。
 生き物の胴がどくどくっと脈打った。内部を運ばれた何かが、先端からあふれ出した。口の中にそれを受けた娘が、唇からごぷっとあふれさせる。
 目を見張りながらも、娘はそれを吐き出そうとはしなかった。あふれる粘液を唇でせき止め、必死にごくごくと喉を動かす。それにつれて、ただでさえ上気していた頬が真っ赤に染まった。目と鼻からとろとろと体液があふれ出す。それが薄笑いにそぐわず、奇怪な表情になった。
 同時に、そこらじゅうの生き物が同じように痙攣し、びしゃっと音を立てて何かを噴き出した。それは血のように赤い粘液だった。数十人の娘と少年たちが体中に粘液を受けて、戦場の死体のようなまだらに染まった。
 全員が悲しげな声を上げた。
「ふあぁ……ぁん」
 種族が違っても、ソリュータたちには分かった。懇願の声だった。彼女たちは、絶頂に達していないのだ。
 いったん力を失った生き物たちが、再びうねうねと白い肌を滑り始める。満足させることなく、ぎりぎりの快感だけを与え続ける――これはどう見ても、彼女たちを楽しませるためのものではなかった。何かを強いるための責め苦だった。
 凍りついているソリュータの目の前に、ぬうっと細長い鎌首が現れた。目も鼻もなく、ただ男性の先端にそっくりの小さな切れ込みだけがあった。蛇ではない。しいて言えば巨大なミミズだ。思わず、くふっと恐怖の吐息を漏らすと、敏感にこちらを向く。かたく口を閉じたが、もう遅かった。
「いやああっ!」
 獲物を襲う蛇そっくりの動きで生き物が飛びかかり、ソリュータの顔に張り付いた。ソリュータは床に押し倒される。のしかかった生き物が、胸の上でびくびくと動き、先端をべたりと口と鼻に押しかぶせる。息ができない。少しだけ口を開けて、息を――
 ずるずるっ、とそいつが潜り込んできた。
「んんーっ!?」
 口の中で膨らみ、縮み、また膨らむ。表面をざわざわと蠕動させて、ソリュータの口内をいやらしくくすぐる。先端からとろりとわずかずつ液を吐く。舌に乗ったそれが、酸のような刺激を脳に与える。
 さあっ、と白い幕が意識を包み込む。背筋をちりちりと細いしびれが這いおりる。
「んっ、んんっ、んうう!」
 気が狂ったようにソリュータは跳ね回ったが、口の中にしっかりと食い込んだそれは離れようとしない。皮膚をむかれたように感覚が敏感になっていく。着ていることを意識もしていない服の布地が、繊細な指先のように神経をこすりたてる。望んでもいないのに胸がしこり、股間に熱が生まれる。
 ソリュータはいつもの侍女のドレスではなく、乗馬服とズボンという服装だが、なんの慰めにもならなかった。ズボンの裾から、服の合わせ目から、別の生き物が這いこんでくる。乳房を、太ももをぬめぬめと這い上がってくる感触。おぞましさのあまり、ソリュータは石のように体を硬くする。
 どれだけ体をこわばらせても、縛られた両足の間を這い登ってくる生き物に対しては無力だった。そいつがぴったりと閉じあわされた太ももの間に強引に頭をねじ込み、薄布で隠された部分にちろりと触れた。
「ぃ……っ!」
 ぞうっと涼しいしびれが下半身を浸した。だめ、とソリュータは声にできない悲鳴を上げる。だめ、こらえて、お願い!
 体は願いを聞かなかった。筋肉が力を忘れてしまう。綿のように柔らかくなった太ももの間で、生き物が嬉しげに身をくねらせ、ちろり、ちろりと布の下の作りをなぞる。
「ん……! ん……!」
 ソリュータは涙を散らして激しく首を振る。紛れもない快感を、必死で否定しようとする。そんなことしかできない。腕からも力が抜け、そのためにゆるんだ戒めのつるの間で、乳房に取り付いた生き物がやわやわと形を変えている。ただ一人に、ただ一度しか触れさせていない無垢の肌が、潜り込んだ生き物に、いいように揉み回されている。
 暴れながら見開いた目に、悲しい光景が映る。
 マイラが、チェル姫が、ハイミーナが犯されていた。大人の二人はまだびくびくと体を動かして逃げようとしているが、それでも、ズボンの股間を濡らす不自然なほどの湿りや、真っ赤に上気した頬を隠せてはいない。栗色の髪を額に張り付かせてマイラが首筋を反らし、銀髪を振り乱してハイミーナが悶える。
 チェル姫はもう屈服していた。うっとりとした顔で日に焼けた頬をすぼめ、口を犯す生き物をかわいらしい唇でしめつけ、ぷちぷちと味わっている。彼女だけは厚手のスカートをはいている。その中に頭を突っ込んだ生き物を、細い足をこすり合わせて自ら股間に押し付けようとしている。そのうちにぶるぶるっと震えたかと思うと、ことりと頭を床に横たえた。スカートの中からたくさんの液体が染み出して床に広がる。生き物のじらすような接触だけで、達してしまったらしかった。
 ソリュータも追い詰められていた。口の中の生き物が呼吸を奪い、まともに物を考えられない。日ごろ自分からは決して触れないせいで、愛撫に耐えることがほとんどできない。じんじんと音が聞こえるようなうずきが体中を満たし、小指の先ほどの可憐な乳首が痛いほど固まり、秘所に隠された芽もくっきりと下着の上に輪郭を現している。
 その小さな頂を、生き物がちろり、ちろり、とはじく。
「ひ……ん……っ!」
 一度だけでも意識を飛ばされそうな火花が、続けざまにいくつも頭の中ではじける。なんて狡猾なんだろう、とソリュータは生き物を憎む。口内をいっぱいに広げられていて、自決すらできない。体中をそいつに支配され、思いのままにされている。頼れるものは自分の心しかない。
 クリオン……さま……!
 そいつの目論見がまざまざとわかった。肉体的な絶頂を与えることではない。それを与えずに責め続けることで、心のほうを先に壊そうとしている。達しさせてほしい、とこちらが思うまで。
 そんなこと、絶対に……思わない! 
 下着から染み出して太ももの間まであふれたソリュータの蜜を、存分に味わった生き物は、そろそろ頃合と判断したらしかった。ぶくぶくっ、とそいつたちの胴が脈動する。
 ばしゃっ! と大きな音がはねた。四人の体中に、熱い粘液が浴びせかけられる。
 ソリュータの口の中にもそれが注ぎ込まれた。味を知った舌が反射的に動きそうになる。頭が勝手に強烈な意思を抱く。飲みたい!
「……かぅっ!」
 人間が抵抗することなどほとんど不可能なその誘惑を、ソリュータは体に刺さった刃物を引き抜くような思いで、断ち切った。歯に力をこめ、生き物を噛みちぎったのだ。
「えぁっ、かはっ、かぅっ!」
 すぐさまそれを吐き出し、何度もえずき上げる。びっしょりと汗に濡れた全身が、激しくうずいていた。いま男が現れたら、理屈も何もなく抱いてほしいとせがんでしまいそうだった。
 その熱が引いていくと、ソリュータはぐったりと脱力して横たわった。心には静かな満足感があった。
 私は、最後まで拒みました。クリオン様。
 頭を動かして、左右を見る。暗然とした気持ちになった。
 チェル姫も、マイラも、ハイミーナも、人形のようにうつろな顔で、こくり、こくり、と生き物の粘液を飲み込んでいた。あのすさまじい快感に、耐えられなかったのだろう。
「ニッセン様……ハイミーナ……チェル姫!」
「う……あ」
 マイラが反応した。何度か瞬きし、ソリュータに目の焦点を合わせる。その顔に、いくつかの感情が揺れる。見ないでくれ、という羞恥と、この快感を止めてくれ、という懇願。
 ソリュータの中に気力が湧き起こった。いま、まともなのは自分だけだ。まだみんなは完全に狂わされてしまったわけじゃない。助けなければ。
 必死に考えをめぐらせていると、向こうでしどけなく股を開き、失禁しているフェリドの娘が目に入った。ある考えが浮かぶ。
 床を這いずって、彼女に近づく。生き物たちは、仲間を食いちぎったソリュータに恐れをなしたのか、近づいてこない。女をいたぶる以外には能がないらしい。あれほど恐ろしかった怪物だが、今となってはただの動くひもだ。
 思ったとおり、フェリドの娘はソリュータが隣に寄り添ってもまったくの無反応だった。彼女の手首にソリュータは噛み付いた。それを引いて、体をくの字に曲げる。
 フェリドの鋭い爪で、戒めのつるを切ろうというのだ。
 それは根気のいる作業だった。ソリュータは自分の足に顔を擦り付けるような苦しい姿勢で、太もものつるに爪をこすりつけた。
 やがて、苦労の甲斐あって、つるがぱらりと切れ落ちた。一ヵ所切れば後はほどける。体を動かして完全につるをほどき、ソリュータは立ち上がった。
 腕さえ自由になれば、胸元に隠してある短刀が使える。すぐさま三人の元にとって返し、ソリュータは次々と戒めを切った。まずマイラを抱き起こして生き物を剥ぎ取り、口の中にあふれている粘液を吸い取って、吐き捨てる。
「ニッセン様、しっかり! もう大丈夫です!」
「す……すみません……」
 マイラは、ほーっと息を吐いてソリュータの胸に顔をうずめた。ソリュータはその頭を抱きしめる。
「苦しかったでしょう、ニッセン様……」
「ありがとう……もう「ニッセン様」はやめてくれませんか」
「え……」
 マイラの顔を見つめたソリュータは、優しく微笑んだ。
「わかったわ、マイラ。その代わり、私もソリュータって呼んで」
「……ああ、ソリュータ」
 マイラが正気に戻ると、二人でハイミーナとチェル姫を介抱した。ハイミーナも間もなく持ち直したが、幼いチェル姫はなかなか回復しなかった。夢うつつのままでソリュータに抱きつき、「じんじんするのぉ……」と鳴いて、くちづけを求めた。どうするわけにもいかず、そのまま寝かせておくしかなかった。
『シリンガシュート』はまだ使えない。だが、マイラの『キシューハ』では、当面の役に立ちそうもなかった。それには、分厚い石壁を破壊するほどの力はない。
 三人は、チェル姫を囲んで座り込んだ。
「さて……どうする」
「外のフェリドが縄を下ろしてくれるのを待つしかありませんね。縛られたままのふりをして、下に降りてきたら襲うんです」
「降りてくるかな」
「来るだろう。この仕打ちは、殺すためのものではなさそうだから。連れ戻すために必ず来る」
「しかし、それがいつになるか……」
 三人は沈黙した。
 ややあって、膝に顔をうずめたハイミーナが言った。
「ソリュータ……おまえは、なぜ耐えられた?」
「助けてもらったからよ。クリオン様に」
「クリオン……陛下に?」
「ええ」
 ハイミーナはじっとソリュータを見ていたが、やがて背を向けてごろりと横になった。
「眠っておこう。体力がいる」
「そうね……」
 四人は、横たわった。

 襲撃の雄たけびが聞こえてきたのは、夜が明ける直前だった。

 8

 はおーう、と狼とも山猫ともつかない叫びが森を渡ると同時に、数十の炎が明け白む空を渡った。
 炎は火矢だった。山なりの軌跡を描いたそれが、『苛み岩』の前の広場で夜明かしをしていたウォラヒアの戦士たちに降りそそいだ。
「フーウ!」
 戦士たちは毛を逆立てて叫び、槍を取って射手の方向へ走り出す。彼らは激怒していた。森に住むフェリドにとって、火は森を燃やし、同族すべてを巻き添えにする暴挙である。戦いに使ってはならないという、暗黙の掟があった。
 射手は、それを破ったのだ。戦士たちは一目散に森の中へと走る。
 夜明け前は、夜行性のフェリドの活力が頂点を過ぎ、眠りの状態に落ち着く直前である。覚醒寸前の日暮れ前ほどではないが、奇襲に向いている。そして、日暮れ前ほど警戒されない。
 それを狙ったのがセマローダの策で、そこにクリオンが別の策を重ねた。火矢を使うように言ったのである。セマローダは最初は渋ったが、燃え広がる恐れのない『苛み岩』を射るだけだ、とクリオンが説得した。しまいにはセマローダが折れ、彼自身が指揮して火矢を射掛けることになった。
 その策に従い、セマローダたちが森の中から矢を放っている。
 クリオンとフウは、正反対の方角にいた。
「もうウォラヒアの戦士たちは行ったかな……」
「人間はずるい生き物だ」
 シダの陰から巨大な『苛み岩』をうかがいながら、フウがつぶやく。『チュルン・ヴェナ』と『ズヴォルニク』のおかげで、二人の間では、触れ合わずとも言葉が届くようになった。クリオンは言う。
「じゃあ、正面からぶつかってお互いたくさんの死者を出すほうがいい?」
「……人間は、かしこい生き物だ」
 訂正して、フウは広場に飛び出した。すかさずクリオンも続く。
『苛み岩』のこちら側にも、数人の戦士がいた。雄たけびの聞こえた向こう側を見に行こうとしていたが、クリオンの靴音に気づいてはっと振り返った。二人は急速に距離を詰める。
「ハオ――」
 叫ぼうとした戦士を、フウの槍の大振りの一撃が殴り倒した。とっさにクリオンもレイピアを持ち替え、別の戦士を剣の腹で叩き伏せる。
「殺さないの?」
「同族は殺さない。『チュルン・ヴェナ』も使えない。『ズヴォルニク』は?」
「まだ眠ってる!」
『苛み岩』の登り口は、石壁の外側に刻まれた、らせん状の石段だった。二人は息せき切って駆け上る。上り坂ではフウは四つ足になり、それが素晴らしく速い。クリオンはあっという間に引き離される。
「フウ、速すぎる!」
「クリオン、遅い!」
 石段の途中にいた一人目の物見を、フウは下から跳ね上げるような殴打一発で、階段の外に叩き落した。すごい、とクリオンは目を見張る。
 と思うと、二人目と三人目の物見が並んで立ちふさがり、フウに向かって槍を突き出した。フウはたたらを踏んで立ち止まる――が早いか、声に出さずに思念で叫ぶ。
「乗れ、クリオン!」
 しゃがんだ彼女の肩が、その叫びの意味だった。躊躇せずにクリオンはその上に飛び乗る。ぐん! と体が跳ね上げられた。戦士たちの頭上に飛鳥のように舞う。
 落下しざまの蹴りで一人を石段から叩き落し、体をひねってもう一人の槍を避け、レイピアの柄をわき腹に叩き込んだ。クアッ、とうめいたそいつの足にフウが抱きつき、ごぼう抜きにすくい上げて外へ放り投げた。
「やるな」
「君もね」
 二人は一瞬の笑みを交わして、また走り出す。
 朝日の最初の一閃が差した瞬間、二人は石臼の縁のような『苛み岩』の上に躍り出た。戦士はすべて石段に降りてきたらしく、誰もいない。小さなくぼみに、束ねたつるが置いてあった。
「フウ!」
「わかった!」
 端が岩の隙間にしっかりと押し込まれているのを確かめて、もう一方の端をクリオンは投げた。『苛み岩』の内側にするするとつるが落ちる。すかさずフウが飛びついて、ほとんど落下するような勢いで降りていった。時間との戦いだ。セマローダのほうに向かった戦士たちが戻ってきたら、逃げ場がなくなる。
 クリオンは『苛み岩』の内側を覗き込む。そこはまだ日の届かない影になっている。フウの話では二十人からのローダホンの乙女たちがいるはずだが、無事だろうか。
 心配していると、巨大な石臼の中に凛とした叫びが響いた。クリオンは耳を疑った。
「目覚めよ、『キシューハ』!」
「いにしえさま、力を!」
 同時に、旋風と濁流がぶつかり合う、ざあっという音がこだました。
「マ……マイラ?」
 朝日にくらんでいた目が、徐々に闇に慣れる。石臼の底に寄り集まったフェリドたちと、剣を構えた人間の女たち。髪の色が見える。栗色、銀色、それに黒が二人……
 舌足らずな甲高い叫びが聞こえて、クリオンはあわてた。
「われはミゲンドラの王なり、王の血脈と名において盟友を呼ぶなり、陰土の矢、第七の星、岩を呑む者――」
 まぎれもなく、チェル姫が『シリンガシュート』を呼び覚ます詠唱だった。彼女が聖霊を操りそこねれば――三度に一度は操りそこねるのだが――フウはおろかこの『苛み岩』の中全体が黒焦げになる。
 クリオンは絶叫した。
「チェル姫、だめーっ!」
「え?」
 バヂヂッ、と不完全な雷が一瞬だけ立ち上り、クリオンの瞳に青黒い残像を焼き付けて暁天に消えた。
 クリオンは急いでつるを伝いおりた。底に立って振り返ると、彼女たちがいた。
「みんな……ソリュータ!」
「クリオン様!?」
 チェル姫の雷の直撃を食らったように、黒髪の少女が身を震わせた。
 それから一目散に駆け寄ってきて、クリオンを抱きしめた。
「クリオン様……よくご無事で……」
「そ、ソリュータ、どうしてこんなところに?」
「お助けに来たんです。失敗して捕まってしまいましたけど……ああ、本当によかった!」
「クリオン、それは誰だ」
「クリオン、そのフェリドは?」
 ソリュータの肩から顔を出すと、フウとハイミーナが不倶戴天の敵という顔で、それぞれ槍とハルバードを構えてにらみ合っていた。クリオンはソリュータを押し離し、苦笑して言った。
「二人ともやめて。敵じゃないんだ」
「本当か?」
 その台詞も同時だった。言葉が分からないながらも意味は理解したらしく、キッと二人はにらみ合う。クリオンは二人の間に割って入った。
「説明はあと。今はとにかく、ここのフェリドを助けて逃げるよ。ソリュータ、マイラ、いい?」
「は、はい!」
 仲間が増えたのは、幸運だった。四人の手を借りて二十人の乙女たちを引き上げ、『苛み岩』の外側につるを垂らして全員を下ろしたところで、ウォラヒアの戦士たちが戻ってきた。クリオンは森に駆け込みながら言った。
「マイラ、彼らを! あれは敵だよ!」
「了解!」
 振り向きざまにマイラが『キシューハ』の旋風を放つ。地をうがって駆けたかまいたちが、数人の戦士たちを弾き飛ばした。
 それで恐れをなしたのか、追っ手はかからなかった。

 セマローダと落ち合う約束をした場所に着くと、彼らはまだ来ていなかった。その大樹のうろに乙女たちを休ませて、一行は息をついた。
 クリオンを右と左から挟んで、ソリュータとチェル姫がほっとしたようにもたれかかる。マイラとハイミーナは少し離れて木にもたれる。フウは値踏みするように人間の女たちを見つめていたが、ハイミーナに近寄って、向き合った。
「なんだ」
 答えずにフウは手を伸ばして、ハイミーナの首筋に触れた。ビクッと肩を震わせて、ハイミーナはフウをにらむ。
「なんのつもりだ」
「フーゥ……」
 フウは穏やかな息をハイミーナの耳に吹きかけながら、さらさらとハイミーナの首筋を撫でる。クリオンは止めようとした。このままでは内輪もめになる。
 ところが、ハイミーナは目を閉じ、悔しそうに唇を噛みながらも、フウのふさふさの手に頬を預けてしまった。
 フウが手を離す。「あ」と名残惜しげにハイミーナが声を漏らす。ひょこひょこと板根の上を歩いてきたフウが、クリオンのそばに飛び降り、今度はソリュータに後ろから抱き付いて、ぎゅっと胸をつかんだ。
「きゃあっ! な、なにを!」
 振り向きざまソリュータはフウに平手打ちしようとした。するりと後ろに下がって避けたフウが、ふーふーと声を漏らした。クリオンは彼女の声を聞く。
「その黒い髪の女は、なびいていない」
「え?」
「でも、銀の髪と、茶色のと、そこの仔供はなびいている」
「どういうこと?」
「さわって交尾したがるのは、なびいている。そうでないのは、なびいていない。乙女たちとちがって、三人はすぐ治るけれど」
「交尾って……」
「クリオン様、フェリドの言葉が分かるんですか?」
 娘たちにはフウの言葉が聞こえていない。クリオンはうなずいた。
「うん、『ズヴォルニク』のおかげでね。紹介するよ、あの子はフウ。ぼくをさらったフェリドの一人だけど、悪気はなかったんだ。人間の力を借りたがってる」
「そうなんですか……」
「フウ、この子たちはぼくのお妃……連れ合いだ。ソリュータと、チェル姫と、マイラと、ハイミーナ」
「四人も連れ合いがいるのか」
 フウは呆れたように鳴いた。
「ジャムリンよりすごい。交尾したがりめ」
「交尾したがり……」
 四人どころではなく、その倍の連れ合いがいるクリオンは、顔を赤らめてかたわらのソリュータに聞いた。
「ソリュータ、フウは君だけがなびかなかったって言ってるんだけど、マイラたちは何かひどいことをされたの?」
 ソリュータは少し沈黙した。自分だけなら、言ってもよかった。
 しかし他の三人は、無理やりとはいえ、あの奇怪な生き物に体を開かされてしまった。クリオンに知られたくはないだろう。
 だからソリュータは微笑んで言った。
「いいえ、何も。大丈夫でした」
「そう……よかった」
 クリオンは安堵の息を吐いた。チェル姫は例によってきょとんとしている。マイラとハイミーナは居心地悪そうに顔を背けている。フウはにやにや笑っている。
 マイラがふと顔を上げ、クリオンに言った。
「陛下、ご無事だったのですから、早急にギニエに戻っていただきたいのですが」
「あ、それはそうなんだけど、戻るにはエピオルニスがいるでしょう。でも、フウたちに協力しないと、それを貸してもらえないんだ」
「今なら、一対五です」
「ううん……ちょっと待って」
 フウを人質に、というマイラの言葉の意味はわかったが、クリオンはためらった。そして、四人に向けてフェリドの内情を説明した。
「……そういうわけだから、ウォラヒアの問題を片付けてやれば、戦わずにフェリドを追い返せるんだよ。フェリドは話の通じない蛮族じゃないんだ」
「陛下……よろしいですか」
「なに?」
「それは、すべて事実だった場合の話ですね」
「う……」
 現実的な考え方をするマイラに痛いところを突かれて、クリオンは口ごもった。が、懸命に言い返す。
「彼らの嘘じゃないんだよ。現にぼくはフウに大事にされたんだから。ぼくを餌にして、ジングリットをだますこともできたはずでしょう。そうせずに、率直に話してくれたんだ」
「大事にって、どういうことですか。今までの七日あまりは、あの『苛み岩』攻略のために捕まえられていたのでは?」
「そうじゃなくて、その前には、その……」
 言葉を濁すクリオンの代わりに、フウがぽろっと言った。
「たくさん交尾していた」
「フウ!」
 フウはぴょん、と後ろ向きに飛んで笑いながら木の陰に隠れる。どうしたんですか、とソリュータに聞かれて、クリオンはまた赤くなった。
「とにかく、ローダホンのフェリドたちは悪い人たちじゃないから!」
「最良の作戦を言わせていただきます。フウを人質にとり、エピオルニスを奪い、ギニエに戻る。ローダホンにウォラヒアを牽制させつつ、第一軍が独立してウォラヒアを撃滅する。その後、残ったローダホンと、フウを材料に和平交渉を行い、不可侵条約を結ぶ……」
「マイラ!」
 クリオンは立ち上がった。
「予が信じられないの?」
「陛下を信じないのではなく、陛下をだましているかもしれないフェリドを信じないのです。彼らは異族です。陛下、どうかお気を確かに……」
 その時、一行を囲む木々の間から、前触れもなく数十人のフェリドが現れた。手に手に槍を構えているが物音ひとつ立てていない。セマローダたちだった。
 ぎょっとするマイラやハイミーナに、クリオンは手を広げて見せる。
「ほら……その気になれば、フェリドは君たちを全員殺して、ぼくだけを残すこともできるんだ。厄介な人質をたくさん抱えるより、そのほうが交渉しやすいはずでしょ」
「そ……その通りですが……」
「ひとまず、待って。彼らに君たちの紹介をしなきゃ。セマローダ!」
「ここだ、クリオン。話はフウから聞いた」
 フウの『チュルン・ヴェナ』に手をかけて、白髭の老フェリドが進み出る。もう聞いたの、とクリオンは肩の力を抜く。
「まずは礼を言おう。おまえのおかげで、同族をあやめることなく、乙女たちを救い出せた」
「どういたしまして。予も連れ合いを助けることができたよ。それで、この後のことなんだけど」
「この後のことだが、風向きが悪くなった。時間がない」
 セマローダが先回りして言い、背後に向けて尾を振った。若い戦士が、捕虜らしい、縛り上げた男を引き出す。
「ウォラヒアの戦士に話を聞いたところ、ジャムリンは少し前に、支族に渡りの命令を出していたそうだ。」
「渡り?」
「支族の全員が、男も女も、子供も年よりも揃って移住するのだ。今ギニエを攻めている六万だけではない。三十万のフェリドすべてが、あの町を襲うことになる」
「なん……だって?」
 クリオンは思わず叫んだ。
「大変じゃないか!」
「そうだ。一刻を争う。三十万もいればあの町の人間を皆殺しにしてしまうだろうし、そうなれば逆に仕返しをされる。人間は、仕返しとなると手加減をしないからな」
 セマローダはクリオンに歩み寄り、静かに見下ろした。
「皇帝よ、手を貸してくれないか」
「もちろんだよ」
「そちらの四人も、文句はないな?」
 クリオンは振り返り、四人の娘たちに目を据えた。
「ギニエを襲うフェリドが、三十万に増えたんだって」
「三十万?」
「戦って倒せる数じゃない。彼らに協力するよ。いいね?」
 マイラがしぶしぶというようにうなずき、他の三人もそれにならった。クリオンはセマローダを振り返る。
「いいよ。任せて」
「では行こう、時間がない。フウ!」
 フウが口元に両手の指を当て、強く息を吐いた。ぴいーいいッ、と微妙な抑揚をつけた口笛を吹く。マイラがはっと目を見開いた。
「鳥笛……それも、二重旋律?」
 ごう、と頭上を重い羽音が横切った。一つ、二つ、三つ、それから、数えることもできないほどたくさん。
 一行は頭上を見る。数十羽のエピオルニスが、高く低く重なり合って円を描いていた。セマローダが微笑む。
「ローダホンだけが、この笛を伝えている。ウォラヒアでもこれだけのアーゴは操れない。……さあ、行くぞ。この先に止まり木がある」
 クリオンたちは歩き出した。ふと横を見ると、マイラはもう、顔をしかめてはいなかった。信じられない、というように頭上を見上げている。それを見て、セマローダが言った。
「女、それは鳥使いの鎧だな。おまえも操れるのか」
 クリオンがその言葉を伝えると、マイラはかすかに目を伏せて言った。
「今は手綱を握れない、とお伝えください。私の「シンテンライ」は、ハイミーナとソリュータを乗せてガジェスを越えた優秀な子でしたが、手負いで川に落ちたそうです。恐らく、だめでしょう」
 クリオンからそれを伝えられたセマローダは、ホオ? と首をかしげた。
「群れのアーゴが二頭増えているのは、それかのう。てっきりウォラヒアのもとから逃げ出した鳥かと思ったが……」
「え、生きてるの?」
「うむ、傷は負っているが。そうさな、治ったら放してやろう。きっと主人のもとに帰ることだろう」
 再度クリオンがそれを伝えると、今度はマイラは何も言わなかった。
 ただ、セマローダに向けて頭を下げた。それで十分伝わった。

 9

 広場に満ちるときの声も、この部屋からは遠い。
 ジングリット第一軍出陣の日、レザとキオラはギニエ市の富豪の邸宅の一室で、古書を渉猟していた。
 万巻の、とはいかないが、八列の本棚にかなりの書物が並んでいる。王都ならいざ知らず、ジングリット最南端の地方都市でしかないこの町には、人々に開放された図書館などというものはない。財産家、それも学問に理解のある人物が個人で蒐集した蔵書を頼るしか、調べものをする手立てはなかった。
 窓際の卓に山と積み上げた、革張り、銅張り、羊皮紙、東洋紙の様々な書物に、レザが静かに目を通している。積んだ分はすべて読んだ分だ。その向かいでは、飽きたキオラが適当な図判を持ち出して、見たり見なかったりと時間つぶしをしている。
 やがてキオラは、図判に目を落としたまま、心ここにあらずというように言った。
「ソリュータさんたち、帰って来ませんね」
「ええ」
「もう三日になるのに……お兄さまがいなくなってからは、八日も」
「ええ」
「万が一のことがあったら、ボク……」
 パタン! と音高くレザが大判の本を閉じた。びく、とキオラは首をすくめる。
 レザは窓の外に目をやって静かに言った。
「マイラがいます。チェル姫も。あの二人の強さは兵士百人分以上。たとえ敵と出会ったとしても、負けるわけがありません」
「でも……」
「集中なさって。よそ事が気になるのは、自分の務めを果たしていない証拠ですわ」
「はぁい」
 キオラはしぶしぶ、ほこりにまみれて崩れそうな木版書を手に取った。レザが目をやると、その本には西方古語で、国祖列記あるいは善悪の定性的定義、と書かれていた。教養のあるレザでさえ最初の二ページであきらめた難解な本だ。キオラの手に負えるとは思えなかったが、口出ししたところで彼の性格を変えられるわけではないので、立ち上がり、書架へと歩んだ。
 キオラに言ったことは、自分自身に言い聞かせたことでもあった。理詰めで考えれば、クリオン探しのために自分ができることはない。他の仕事をこなすのが、結果として彼に奉仕することになるのだ。
 それは分かっていたが――
 本の背に走らせていた指を、レザは止める。題名が頭に入っていない。考えていて読み飛ばしてしまった。自分だって、心ここにあらずなのだ。
 きつく目を閉じて息を吐き、レザは自分のするべきことを思い返す。
「悪魔」の正体を調べること。ジングリット第一軍は食料や武器の調達を鉱山都市であるギニエ市にかなり頼っているが、その市民がわけのわからない怪物に脅かされていては、軍の力も十全に発揮されない。またそういったものは、古来、軍が負けたり国が滅びたりする前に予兆としてしばしば出現する。有害であり、不吉でもあるから、取り除かねばならないのだ。
 この場合の悪魔とは、歴史以前の神代伝説に登場する有翼漆黒の地獄の使いではなく、人になりすます奇妙な存在のことだ。ほとんどの場合、人になりすますだけで周囲の人間を襲ったりはしないから、大きな被害は出ず、目立ちもしない。しかし、この存在は必ず家族のある人間の身内に出現し、一人身の若者や老人になり代わったりはしない。だから、ごく狭い範囲内では、着実に人の暮らしを蝕む。目立たないできものが、やがて体内で巨大な腫瘍に育つように。
 デジエラの軍も、レンダイクの征陣府も、この件に関しては手が回らず、ほとんど放置していた。悪魔出現の統計すら取っていない。レザにしても統計は取れない。一人でできることではないからだ。
 だが、その出自を調べることはできる。ジングリットの歴史は一千二百九十年、それだけの時が流れる間には、似たような悪魔の記録があってもおかしくはないはずだ。正体を知り、退治の方法を探すのだ。
 そう、自分に言い聞かせて、レザは三日の間、この富豪の館に通い詰めていた。
「はあ……」
 レザはもう一度ため息をつく。主だった歴史書はほとんど当たったが、該当するような記述は見つかっていなかった。外史、民話、物語にまで手を広げたが、やはりそれらしいものはなかった。やはり徒労なのかもしれない。
 無理にその考えを追い払って、レザはもう二度も目を通した史書を抜き、またテーブルに戻った。
 ページを開く。――が、目が疲れていて頭に入らない。眠くなってくる。キオラが横から声をかけるからなおさらだ。
「レザさん」
「ん……」
「レザさんてば」
「わたくしも読んでいるのですけど」
「ごめんなさい、でもあったから」
「それはよろしいですわね」
「もう……」
 レザは少しの間動きを止め、次の瞬間、積み重ねられた本を払い落として身を乗り出した。
「あった? 何がです?」
「人の姿をして、人の営みに忍び込むもの。見て、千百年前の本に」
 こちら向きに差し出されたページを見て、レザは少し身を引いてしまった。ジングリット語とは文字からして違う西方古語がびっしりと――
「キオラ様、読めるのですか?」
「だって、ボクの国の言葉ですよ」
 レザは目を丸くした。迂闊だった。キオラの母国シッキルギンこそは大陸各地の言語の発祥の地で、高い文化を誇る国だった。
「よ、読んでください。なんと?」
「ええと……国祖列記四の十一、ベルガインが水獣を刺すの段。ジングリット開祖、名はベルガイン・ベルガド・ジングラ、北海に水獣を刺す。水獣、名乗らず。産まれし者にあらず、訪れし者なり。世人名づけていわく、グルド。グルドの性は不可解、神にあらず、悪魔にあらず、まして人にあらず。いかなるかその姿、それ見た者はなし。見ればただちに魂を吹かれ狂死するゆえなり……」
「出てきませんわね」
「もうちょっと先です。ええと、ああ、ここ。グルドに眷属あり、遷ろう者ども。王言う、その数一万とも百万とも。姿、人と異ならざれど人にあらず。人語を操れど人心を持たず、人に交われど人の子を為さず。王また言う、これ国の災いなり。できうべくんば怪しきはことごとく火にかけるべし。されど見極めることきわめて易からざりし。北原より賢者来りて言う、天然なりし猛き精ども、これを見極めん。王それを知り、すなわち聖霊なるものを生み出せり。聖霊、力合一してこれを焼き払い串刺し、その後まどろみにつけり」
「……それは、つまり」
 レザは眉をひそめる。
「強大な聖霊なら、「悪魔」を倒すことができると? 改まって書くほどのことでもないような……」 
「倒すだけじゃなく、見分けるって書いてあるみたいですけど。それに、聖霊はそもそも悪魔を――「うつろう者ども」ですね、それを倒すために生み出されたって」
「因縁はともかくとして、見分けられるというなら収穫ですわ。でも……」
 レザは言葉を切る。
「調律剣を使える人間は、ただでさえ多くはありません。第一軍全体で五十人もいないでしょう。しかも、強大でなくてはならないというのなら、百や二百のヘイリン数では足りませんわね。時代を遡るほど聖霊の力は強くなるのですから、その本にいうところの強大とは、少なくともデジエラ将軍の『ロウバーヌ』か、陛下の『ズヴォルニク』ほどの聖霊を差すはず……」
「そんなの、とても悪魔成敗なんかに出せませんよね。正解っぽいけど、役に立たない正解ですねえ」
「そうですわね……」
 二人は肩を落とした。
 やがて、キオラが気を取り直したように言う。
「レザさん、収穫は収穫です。お兄さまやデジエラさんなら勝てるとわかったんだから。逆に言えば、お二人が帰ってこないとやることがないってことでしょう」
「そ、それはそうですけど……」
「じゃあ決まり、城館に戻って休みましょう。ね」
 そう言って立ち上がり、レザの腕を引いた。レザもだいぶ疲れていたので、それに従った。
 ただ、部屋を出るときに一度振り向いて、卓の上の国祖列記を見た。あることが気になったからだ。
 あの書物に書いてあった「遷ろう者ども」は、今の世に実在している。ということは、「グルド」も――ジングリット初代皇帝に倒されたはずの水獣も、今の世に?
「……まさか」
 首を振って、レザは出ていった。

「ほらほらそこ割り込まないの並んで並んでーっ!」
 たすきをかけて袖を縛り、ドレスの裾をからげた威勢のよい姿のエメラダが、棒パンを突き出して怒鳴る。人々の列の真ん中あたりに入ろうとしていた女が、不満げに最後尾へ回った。
「一斤ずつよ、一斤ずつだってば。え、配符を忘れた? じゃここに名前書いて、何よ字を知らない? じゃ手形でいいから、ほら後が詰まってんの!」
 市民たちが差し出す配符をかごに放り込んで、山と積まれた棒パンをひとつずつ渡していく。隣では炊き出しの婦人連が座棺ほどもある大鍋からシチューを配っている。
 町の四辻に作られた、急ごしらえの配給所である。
 一万七千名もの第一軍が居座ったために、ギニエ市では食糧不足が起きていた。それを補うために征陣府が取った政策が、配給制だった。食材の売買を禁止して征陣府が一手に買い上げ、市民に配符をくばって、それと引き換えにのみ食料を渡すのだ。買占めを封じて市中の食材を無駄なく利用しようというのである。
 配給は必要最低限の量だから、当然、市民から――売り手からも買い手からも――苦情が出た。それを輜重部隊が剣で脅して従わせていたので、両者は険悪な雰囲気になっていた。
 エメラダはそこに乗り込んだ。王都の穀物取引を一手に仕切っていた豪商の娘である。こんな辺地の一都市の食糧事情など、片目をつぶっていても把握できる。軍と民との双方の在庫を半日で調べ上げて、少しでも余剰を抱えているところは容赦なく削り、少しでも困窮しているところがあれば即座に補充を回した。人間に私欲がある限り、そういうところが配給制のもとでも必ずあるのだ。文句を言う相手は皇帝の名を出して黙らせた。それによって、配給の量もかなり増えた。
 帳簿の上での不公平が消えると、その場で飽きて城館を脱け出し、配給場にやってきた。この辺が彼女の欠点で、またいいところでもある。やるだけやって後は野となれ山となれなのだから、無責任である。だが、本職の文官や輜重兵たちの面子を潰さないうちにいなくなるのだから、親切とも言える。
 それはともかく、フェリドの脅威は軍民ともに知るところで、多少の不便は仕方ないと思われている。不便を平等にしたエメラダの働きは、それなりに市民に受け入れられていた。また、本人はちっとも意識していないが、彼女自身も民心を鎮める効果を発揮していた。皇帝陛下のお妃様が、手ずからパンを渡してくだすった、これは贅沢を言ってられんなあ、という効果である。
 長蛇の列の市民たちを眺めて、緑の髪のお妃様はぼやく。
「それにしても終わらないわねえ、食料はまだあるの?」
「はい、パンもシチューも山ほど!」
 背後の馬車の荷台で、兵士が威勢よく答える。エメラダは棒パンを一かじりつまみ食いしてつぶやく。
「さすがはフィルバルト一の料理人……これだけ作って味も落ちないとはね」
 そちらは空色の髪のお妃様の仕事だった。集めた食材をそのまま配らず、料理してしまったのである。利点は、市民が一軒一軒で別々に作る場合に比べて、食材も水も調理用のまきも節約できることだ。
 そのためにポレッカは、一度に三百斤のパンを焼ける石釜を、建材のあまりを使って一晩で作らせたり、ギニエ中の肉屋を一ヵ所に集めて肉をさばかせ、はぎれ肉を小指の先ほども余らせずに挽肉として使わせたりといった方法を編み出した。
 しかし、単にお仕着せの料理を配っただけでは、やはり不満が出ていただろう。ポレッカのすごいところは、これだけ効率を重視した方法で料理を作らせながら、すべてに城の厨房の味を行き渡らせたことだ。第一軍付きの料理人は、ポレッカに作らされたシチューを一口味見してへたりこんだ。彼にはそもそも、樽何杯の単位で作る料理をおいしくしようなどという発想がなかったし、あったとしても、それほどの量の料理の味をととのえる方法などわからなかったからだ。ポレッカには、スプーンの代わりに手桶で塩を注ぎ込んでも、ほどよい辛さを出す才能があった。
 味がよければ人々の不満もなくなろうというものである。レンダイクよりもデジエラよりも、このお下げの少女一人によって、ギニエ市は戦時とは思えない穏やかさを保つようになっていた。
「で、その料理将軍はどこに行ったのよ……」
 立ち疲れたエメラダは、配給所の椅子に座って辺りを見回した。さっきまで豚の丸焼きを作ろうとする輜重兵と議論していた(丸焼きなんかにしたら、外が焦げたり中が生焼けだったりで無駄が出ちゃいます!)ポレッカが、見当たらない。手近にいた、市民有志の食堂の親父に聞く。
「おじさん、ポレッカ知らない?」
「ああ、ポレッカ様なら、先ほどお使いの方が来て一緒に行かれましたよ」
「帰ったの? 一言かけてくれればいいのに」
「お帰りですかねえ、城館の兵隊さんじゃありませんでしたが……」
「じゃ誰よ」
「さあ。こう、頭まですっぽりフードとマントをかぶっててね、背丈はポレッカ様と同じぐらい」
「フード……?」
 顔を隠していたということだろうか。妙だった。この町には、エメラダの知る限り、ポレッカと同じ年頃の知り合いなどいないはずである。
 立ち上がったとき、四辻の向こうの通りから、ボンボン付きの帽子をかぶった七色の衣装の人物が、人目もはばからず走ってくるのが見えた。エメラダは驚いて目をこすった。
 道化のマウスである。マウスなのだが、その奇天烈な格好はいつものことで、それに驚いたわけではない。姿にではなくて行動に驚いたのだ。マウスが普通に走っている!
「マウス! どうしたのよあなた、具合でも悪いの?」
「おや、これはこれはエメラダ様、ご機嫌うるわしゅう」
 わざとらしく砂ぼこりを上げて立ち止まり、一礼したものの、すぐにまたマウスは走り出した。ますますただごとではない。エメラダは周りの人間を突き飛ばして追いかける。
「待ちなさいよ、何かあったの?」
「失敬、座興の御用ならまた後ほどに。少々急ぎにございますれば」
 ひょこひょこと風のように走っていたマウスが、不意に向きを変え、通りに沿った石組塀めがけて、ひらりと飛び上がった。ましらのように両手を付いて、一息に乗り越える。
 地面に降りて一息つき、走り出そうとして振り返った。マウスともあろう者が、白黒の顔に驚愕の表情を浮かべる。
「ええいっ!」
 ドレスの裾をはためかせて、すらりとした足がむき出しになるのもかまわず、エメラダが塀を飛び越えてきたのだ。マウスの隣に膝をついて降り、勝ち誇ったように笑う。
「ヘリネ街いちのじゃじゃ馬を、振り切れるなんて思わないことね」
「参りましたな、深刻なことなのですが……」
「だったらなおさらよ。あなたが深刻ぶるなんて、この世の終わりでも来たっていうの?」
「それに近いことでござる」
「え?」
 マウスが再び駆け出した。ついに道化めいた仕草すらなくした。飛脚のような俊足で、路地裏を一散に走る。負けじとばかりにエメラダも靴を脱ぎ、裾をつまんで走る。
 マウスが立ち止まったのは、古びた倉庫の裏だった。崩れかかった壁の隙間から中をうかがう。どうしたの、と聞くエメラダに、しっと指を立ててささやく。
「なんなのよ……」
 別の隙間を見つけて、エメラダも中をのぞいた。
 そして息を呑んだ。
 薄暗い倉庫の中に二つの人影があった。一人はフードをかぶっている上、こちらに背を向けているから顔は分からない。しかし、その人物に向き合って壁にもたれているのは、ポレッカだった。
 ポレッカは、夢を見ているようにぼんやりした顔で、相手にささやいている。
「ほんとにほんとにあなたなのね。どうしてわたしのところに……?」
「君が一番好きだから。心配だったよ、ポレッカ」
「ああ、信じられない。うれしい……」
 フードの人物がポレッカに顔を寄せ、小声で何か言った。ポレッカの頬がぱっと朱に染まる。なおもささやきが続き、うつむいたポレッカが、やがてこくりとうなずいた。
 フードの人物が離れると、ポレッカは長めのフレアスカートの裾に手をかけ、おずおずと持ち上げ始めた。エメラダは驚きのあまり声も出せない。
 短い靴下を履いただけのほっそりした足首が、膝が、太ももが、暗い室内にほの白く光る。やがて、つつましい純白の下着まで現れた。ポレッカは恥ずかしげに顔を逸らして、わずかに腰を突き出し、逆三角の小さな布を見せ付けた。
「ぽ、ポレッカ……」
 エメラダも真っ赤になって唾を飲み込む。同じ寵姫として、ポレッカもクリオンに抱かれていると、頭では分かっていた。だが、普段の素朴な明るさに満ちた彼女の顔しか知らないだけに、目を伏せて隠されたところをさらしている、女としてのポレッカの仕草が、余計に淫靡に思えてしまう。
 いや、そんなことよりも、ポレッカがクリオン以外の相手にそんなことをするとは、一体どういうことなのか。
 フードの人物が体を寄せ、手を出した。汚れのない太ももにひたりと手を這わせ、指を曲げて、薄布に包まれた柔らかな部分を、くしくしといやらしくまさぐり始めた。
 ポレッカが幸せそうな吐息をつく。
「あふ……し、したいのね……へいか……」
 へいか。その言葉の意味を思い出す前に、すぐ隣でガタンと大きな音がして、エメラダは飛び上がりそうになった。
「マウス?」
 振り向くといつの間にか彼の姿はなく、木の棒が倒れていた。キラリと細いものが光る。針金が結ばれている。
 あわてて室内に目を戻すと、フードの人物がこちらを向いていた。窓はポレッカの頭の上にあり、逆光になって顔は見えない。
 その人物が、ゆっくりとこちらに歩き出した。どうしよう、とエメラダは迷う。
 しかし、何かをする前に、窓に人の顔が現れた。マウス!
 窓からするりと入り込んだマウスが、ポレッカを背にかばい、それに驚いたポレッカが「きゃっ?」と声を上げ、フードの人物がまたしてもむこうを向いた。そこまで見てから、エメラダは倉庫の戸口を探した。表側だ。つまり、ポレッカたちのすぐ横だ。
 倉庫を回りこんで、エメラダは戸口のドアに手をかけた。それを押し開く。
「ポレッカ、それは一体誰……」
 かけようとした声は、喉の奥で消えた。
「エメラダも来たんだね」
 窓と戸口からの光が、フードを外した人物の顔を照らす。それは――
 クリオン。
 少年は苦笑して片手を差し出す。
「ごめん、ポレッカだけを呼び出して。一人ずつ会って脅かそうと思ったものだから」
「へ、陛下……どうしてここに? あの、ソリュータたちは?」
「逃げてきたんだ、苦労したよ。ソリュータたちがどうしたって?」
「探しに行ったのよ、陛下を!」
 叫びながら、エメラダは膝の力が抜けそうな安堵を覚えていた。やっぱりクリオンは帰ってきた。帰らなかったらと考えるのが怖くて、思い出さないようにしていた。でも、もう彼のことを思ってもいいのだ。
 それにしても、帰る早々ポレッカに手を出すなんて、クリオンらしいというかなんというか。いや、それなら自分を先にしてほしい。自分のほうがクリオンを満足させられる。クリオンも自分を見つめて、そんな顔をしている。
「だめよ、陛下。あたしに先にしてくれなくちゃ。ポレッカじゃ久しぶりのお情けに耐えられない……え?」
 両手を広げて歩き出そうとしたエメラダは、何かが自分の体を止めたことに気づいた。見えない壁に阻まれているような……違う、細いものが胸と腰と足に当たっている。
「お待ちあれ、お妃様方」
「……マウス? 何するのよ! いくらあなたでも」
「『あれ』は、クリオン陛下ではござらん」
 え、とエメラダはつぶやいた。ばさりと音がした。ポレッカが、まだ持ち上げていたスカートの裾を落としたのだ。
 クリオンが首をかしげて困ったように言う。
「ええと……あのさ、マウス。いつもの冗談なら後にしてくれないかな。今はちょっと、この二人と……ね?」
「そ、そうです、マウスさん。わたしもう、陛下と……」
「そうよね、間が悪いわよ、マウス」
 ポレッカがうつむいて言い、エメラダも笑い交じりでうなずいた。
 マウスはふざけもせず、背後のポレッカに言った。
「ポレッカ様、エコールでの呼び方で、陛下をお呼びになられよ」
「エコールでの? ……シロン、のこと? シロン、あの時みたいにしてくれる?」
「シロン……って、なんだったっけ。ちょっと覚えてないけど」
 クリオンが照れたように微笑んだ。
 ポレッカが目を見張る。エメラダが片足を後ろに引く。
「覚えてないって……たった二ヵ月前のことを? どうして?」
「じ、冗談よね。陛下、シロンになってしてくれたじゃない。食堂で。あの後も!」
「ううん……」
 微笑んだまま、クリオンが首を傾ける。
 その前で、マウスが右手を真横に伸ばした。シャッと袖口から飛び出した直剣を握り、くるりと回してクリオンに突きつける。
「韜晦は無用、『遷ろう者』よ。汝すでに『見極め』られたり」
 クリオンが電光の速さでレイピアを抜いた。
 立て続けに金属の叫びが巻き起こる。硬直したポレッカをエメラダが引っ張って抱きしめる。二人の前で信じられない光景が展開されていた。マウスとクリオンが戦っている!
 しかも――
 クリオンのレイピアの柄に、蒼光が宿らない。そこに『ズヴォルニク』の封球がない。代わりに、信じられないことに、マウスの直剣の柄が光を放っている。薄桃色の澄んだ光を。
 激しく切り結びながらマウスが唱える。
「我……プロセジアの古き血に連なるもの、シエンシア・M・プロセージャ。天地のことわりもてくくりし凍れる炎に、血とわざにおいて命じる。刹那の目覚めを許すに付き、今再び威力を振るえ、凍てつかせよ。いざや、聞かん?」
 ぼう、と光が強まった。
 クリオンの突きを高くはじき、直剣を横に薙ぎながらマウスが命じた。
「目覚めよ、『アルクチカ』」
 ジャンッ! と音を立てて直剣がクリオンの胴を切断した。切断すると同時に、血液さえ白く見えるほど分厚い霜が傷口に張り付いている。ぐらり、とクリオンの上体が傾く。
「破砕せよ!」
 返す刃を袈裟懸けに切りつけて、マウスは縦にクリオンを両断した。刃の触れた部分が一瞬で凍結し、その氷がすさまじい勢いでビシビシとクリオンの全身を覆い、またたくまに彼を霜の像に変えた。
 と思うと、その像は涼しげな音とともに崩壊し、氷室に貯えたひき肉のようなものになって、床の上にわだかまった。
 マウスはしばらくそれを見つめていたが、やがて直剣をくるりと回して、袖口に収めた。振り返って一礼する。
「忌まわしき魔物は退治られました。お妃様方、拍手喝采のほどを」
「は……拍手喝采って、あなた……」
「陛下が、陛下がこんなのに」
 へたりと膝をついたポレッカが、震える手を氷塊に延ばす。指が届く前にそれは細かな粉になり、戸口から吹く風に巻かれて散っていった。
「あああ、と、飛んでっちゃう」
「ポレッカ、いいのよそれは」
「そんな……へ、陛下あ……」
 混乱して座り込んでいるポレッカから、エメラダはマウスに目を移した。マウスはあちらを向き、懐からお手玉など出してひょいひょいとジャグルしている。
「おとぼけを決め込むつもり? あんなことをしておいて」
「今のは白日の夢なりて、お忘れくださればこれ幸い」
「馬鹿にするんじゃないわよ、聖霊まで見せられて黙っていられるわけないでしょ。それに何、プロセジア? ただ者じゃないとは思ってたけど、まさかおとぎ話の住人だったとはね」
「エメラダ様、少々お耳を拝借」
 ひょいとマウスは窓に飛び乗り、外に消える。エメラダも表に出る。
 通りにはいない。裏に回ると、マウスは倉庫の軒に腰掛けて、しつこくお手玉をしていた。エメラダはその下の壁にもたれる。
「で、なんて言いわけするつもりなの」
「『遷ろう者』は手ごわい敵、大陸すべての者の敵。わたくしめはそれを阻む者の一人。やましいことは何もなし」
「うつろう者だか浮気者だか知らないけど、そのなんとかについては後回しでいいわよ。ややこしそうだし、今のあれで、あなたがあたしたちを守ってくれたってのはわかったから。あたしが聞いてるのはね、なんでそんなすっとんきょうな格好で陛下のそばに来たのかってことよ!」
「王様のそばには道化がつきもの、道化なれば神出鬼没、いずこなりと出て、いずこなりと消える。これほど便利な立場がほかに?」
「……行動の自由がほしかったってことね。ふん、確かにあなたは好き勝手やってるわ。なら、その目的はなんなの。ただ陛下を守るためなら、シェルカやマイラみたいにくっついていればいいでしょう?」
「さても御慧眼のお妃様かな。道化は弱った、大いに弱った」
「好きなだけ弱れば。でも説明はしてもらうわよ。さもなきゃ、みんなに言いふらすから。天領総監あたりが聞いたらどうするかしらね。少なくとも今までみたいなほったらかしじゃなくなるわよ。――きゃっ?」
 エメラダの前に、いきなりマウスが逆さにぶらさがってきた。指をくるくる回して、ちょいとエメラダの腹のあたりをさす。
「お妃様、お妃様、コウノトリはまだ来ない?」
「はあ? ……あ、赤ちゃんはまだかって? ほっときなさいよ、そんなの時の運でしょ! あたしだけじゃなくてみんなまだなんだから!」
「みんな来ない。コウノトリは誰にも来ていない。それはなぜ? 時の運? 陛下のお情けが足りないの? いやいや違う、これのせい――」
 マウスが握った拳を開くと、小さな玻璃の小瓶が現れた。その中に入っているのは、砂色の粉。エメラダは驚愕する。
「……ホグの根!」
「お城の爺やは大騒ぎ、王子ができないと大騒ぎ。それもそのはず、道化のしわざ。お情けのあとの王様はおねむ、おねむのベッドに道化がするり。お妃様は夢の中、道化が触れても気づかない――」
 まさか――とエメラダは驚きとともに思い出す。まさか、いや確かに、クリオンとの一時の後には、必ずマウスが現れた。それも、自分だけではない。クリオンのぼやきは皆が聞いている。どうしてマウスって、ああいうときだけは必ず顔を出すんだろうね。あの人ほんとはすごい好き者なんだよ。覗きが趣味なんだ――それを聞いても、そういうものだと思っていた。他の娘たちもそうだろう。何しろマウスはこの言動だから、房事に興味があるなどとは誰も考えなかったのだ。単にクリオンと自分たちをからかうために現れるのだと思っていた。
 自分のときも、レザのときも、チェル姫のときもポレッカのときもマイラのときも、マウスがいた。ハイミーナのときでさえ、マウスは王都からギニエまでやってきた! クリオンに子供を作らせないために!
「マウス!」
 エメラダが伸ばした手は、空を切った。マウスが体を起こして屋根の上に戻ってしまったからだ。
「道化のマウスは四十八の芸使い。芸の一つは魔薬の調合。マウスの魔薬は優れもの、嗅げばぐっすり朝はすっきり。お妃様はかえってお元気――」
「害がなければいいってものじゃないでしょう! 陛下でもないのにあたしのあ、あんなところに! それだけでも許せないのに、子作りの邪魔までするなんて、あなた一体なに考えてるのよ!」
「陛下の御子は……玉の御子。それは道化も見てみたい。見られないのは残念至極、だけど今は、今はまだ、御子を成されてはなりませぬ……」
「……なんですって」
 エメラダは眉をひそめた。言葉づらだけではなしにマウスも残念がっているようだったからだ。
「今はって……いつならいいの」
「それは秘密、言えない秘密。壁に耳ありなんとやら、遷ろう者はどこにでも」
「いい加減にしなさいよ……」
 エメラダは重い疲労感を覚えて、しゃがみこんだ。
「あんたほんとに陛下の味方なの? 大体、なんでこんなところで遊んでるのよ。陛下はフェリドにさらわれちゃったのよ。とっとと行って連れ戻してきてよ。いつもみたいに、神出鬼没で」
「フェリドも民、大陸の民。陛下の力でお仲間に。今度ばかりはお一人で。頼ってばかりじゃだめになる」
「フェリドを……仲間にですって? はっ、もう驚く気力がなくなっちゃったわ。あなた、どこまで本気なの」
「道化の仕事は、おどけることにて。……されど、国が消えてはおどけられませぬ」
「あなたなら、国が滅びたって一人でおどけてそうだけどね……」
 しゃがんで膝に頬杖をつき、エメラダはつぶやいた。しばらく待っても返事がないので頭上を見上げると、例によってマウスはいなくなっていた。
 まだ聞いていないことがたくさんあった。が、マウスは十分話したと思ったのだろう。そうだ、マウスはでたらめに動いているわけではなく、明確な目的があって行動している。今話したことにも、話さなかったことにも、ちゃんと理由があるに違いない。
 それが信用できるのかどうか、エメラダにはもう分からなくなっていたが。
「あの……マウスさんは?」
 ポレッカが倉庫の中から出てきて、周りを見回した。もういないわよ、とエメラダはそっけなく言う。
「今の話、聞いた?」
「話、ですか? いえ……」
「んじゃ、いいわよ。頭痛くなるから忘れなさい。中のあれは陛下に化けた怪物。マウスはたまたま気まぐれでやっつけてくれたんだって」
「怪物ですか。……そっか、やっぱり陛下はまだなんだ」
「残念よね。あなた相当たまってたみたいだし」
 言った途端、先ほどの欲情した姿を見られたことを思い出したのか、ポレッカは真っ赤になる。
「たったまっ、エメラダさんこそ!」
「ええ、もちろん。早くまた抱いてほしいわ。思いっきり」
 悪びれもせずにエメラダは言った。あんな話聞いた後じゃね、と心の中で付け加える。
 立ち上がって伸びをする。
「さあて……なんか疲れちゃったから、一回帰ろうかな。どお、一緒に来ない? ちょっと慰めてあげてもいいわよ」
「なぐ……それって、やっぱりそういう……あれですか?」
「断りなさいよ、ほんとにやるわよ」
「遠慮しますっ!」
 頭から湯気を噴きださんばかりに赤くなって、ポレッカは叫ぶ。
 この子には聞かせられないな、とエメラダは重苦しい思いを抱いて、歩き出した。

―― 後編に続く ――



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