次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第六話 後編

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 計画を成功させた救助隊は、そのままどこにも降りずにフィルバルトを出て、南へ針路を取った。
 ギニエ市までは二日の行程だ。いかに強い翼を持つエピオルニスと言えども、丸二日、休みもせず飛び続けることはできない。どこかに降りて一夜を明かさなければいけないが、人目につくところは避けたかった。可能性は低いが、教会が事前に手を回しているかもしれないからだ。熱心な信者は帝国全土にいる。
 第一軍の行軍時に、一度同じ道筋を通っていたデジエラが、野営地を決めた。野生の果樹の生い茂る小高い丘が入り組み、澄んだ小川の流れる土地に、一行は降り立った。
 野営の道具は何もなかったが、季節はまだ本格的な秋が始まる前で、夏の熱気が残っていた。三方を山肌に、一方が小川に面した、目立たないくぼ地に焚き火を焚くと、風もさえぎられ、ちょうどよい隠れ場所になった。
 糧食を手にして焚き火を見つめながら、一同は話し合う。
「なるほど、あの麗虎リーフーとやらが教会を助けたのだな。あの女を通じて大明の援助を受けたために、教会は第二軍を破ることができたのか……」
「女ではありません、宦官です」
 デジエラの言葉を、マイラが訂正する。
「合衆帝国大統令を取り巻く、性を捨てた奇怪な文官たちの一人です。今の大統令の霞娜シャーナが台頭してきて以来、彼らはとみに力を増し、大統令とともにジングリットを狙い始めたのです」
霞娜シャーナはジングリットを強く恨んでいる。いよいよ本気になって陰謀をめぐらし始めたということか。……マイラ、よく話してくれた」
「……いえ」
 デジエラのねぎらいをそのまま受け止めることはできない様子で、マイラが目を伏せた。デジエラには、マイラが大明の間者だったことを話したのだ。それを聞いた剛直な女将軍は、短く、そうか、と言っただけだった。クリオンがマイラを許したことを知り、それならよい、と判断したものだろう。そしてデジエラは他の人間に、自分の密命でマイラは大明を調査していたのだ、と説明してくれた。
 その度量に甘えきるほど、マイラは厚顔ではなかった。しばらくはデジエラに顔を向けられなさそうだった。
 クリオンが炎に照らされた赤い顔をデジエラに向ける。
「デジエラは、その霞娜シャーナっていう大統令のことを知っているの? 心当たりがあるみたいだけど」
「……一度、会ったことがあるのです」
「会ったの? 使節として?」
 驚くクリオンに、デジエラは少しためらってから、説明し始めた。
「十年前、私が前帝ゼマント陛下に反抗して、東征将軍の称号を授けられた事件のことは、ご存知ですね」
「うん」
「大明とジングリットの国境に当たる、霊石リンシーという村でのことでした。十年前の冬の夜、ジングリット軍はその村を襲って、成年に達しない子供たちを、皆殺しにしようとしたのです。その中に、霞娜シャーナがいました」
「子供を皆殺しに……」
 息を呑む一同に、デジエラは淡々と話す。
「なぜそんな命令を前帝陛下が出したのかは、今となってはわかりません。私も村につくまで知らなかった。その命令を聞いた時に、あまりにも理不尽だったため、止めようとしたのですが、当時の私は一部隊の隊長にすぎず、全軍を指揮する権限もなかったので、やむをえず、前帝陛下に剣を向けて制止したのです」
「じゃあ、デジエラは霞娜シャーナの命の恩人――」
「である以前に、彼女たちを凍りついた原野に追放した張本人です。そして私以外の者が指揮する部隊は、方針が変わるまでに、すでに数十人の子供たちを殺していました。その中に、恐らくは霞娜シャーナの友人か家族がいたのでしょう。……薄物一枚で荒野に追い立てられていく彼女が、私に投げつけた言葉は忘れられません。必ず、必ずジングリットの人間すべてを、同じ目にあわせてやると……」
 デジエラは目を閉じて首を振った。
「今日の災いは、私が招いたのかもしれません。彼女はその恨みを糧に、死に物狂いで大統令の座を手に入れたようですから」
「それは思い違いというものよ、将軍」
 焚き火の向かいで、イマロンが穏やかに言った。
「あなたが止めなければ、霞娜シャーナを含めて全員が殺されていたのだから。禍根を断つという意味ではその方がよかったのでしょうけど、それは軍略的な判断。あなたは軍人としてではなく人間としての道を選んだのでしょう? 人間として正しいことをした結果、今のことが引き起こされているのだから、それは過ちではなく事故というべきね」
「どちらにしろ、皮肉な運命のいたずらだ。人間、どこで誰の恨みを買っているか、分かったものではない……」
 焚き火から少し離れて木にもたれていたレンダイクが、ぼそりと言った。救出されて以来、彼は少なからず精彩を欠いている様子で、今の言葉も、常の彼らしくない鬱々としたものだった。
「運命のいたずらと言えば……」
 デジエラがクリオンに目を戻す。
「あのハイミーナという娘はどうします。どうも成り行き任せで連れてこられたようですが、心底から転向した者と見てよいのですか?」
「閣下、彼女のことは、私に任せていただけませんか」
 マイラが、引け目を取り戻そうとするように、懸命に言った。
「私と陛下で、彼女の意思を確かめたいのです」
「やれるのか?」
「はい」
「いいだろう、任せる」
 マイラに目を向けられて、クリオンは彼女とともに立ち上がった。
 木立で隠された、より安全な一画で、娘たちがもう一つの焚き火を囲んでいた。ソリュータやエメラダたちは、助けられた開放感で談笑している。それを守る騎士たちが少し離れたところに集まっていて、ハイミーナは彼らの中で監視されていた。
「あ、クリオン様」「お話しは終わりましたか」
 クリオンに気付いて、娘たちが声を上げる。その前にマイラが進み出て、意外なことを言った。
「皆様、申し訳ありません。謝らなければいけないことがあります」
「なんですか?」
「私は、王都で皇帝陛下のお手つきをいただきました」
 深々と頭を下げるマイラを、ぽかんと娘たちは見つめた。クリオンも唖然としている。マイラの生真面目な性格が、こんなところで発揮されるとは思わなかった。
「ま、マイラ、いきなり言わなくても……」
「クリオン様!」
 真っ先に立ち上がったのがソリュータだった。
「どういうことですか!」
「変なつもりじゃなかったんだよ。教会に追いかけられて二人だけで隠れていた時に、マイラが寂しがってかわいそうだったから……」
「細かいことはどうでもいいです、本当なんですね?」
「……はい、ほんとです」
 小さくなってクリオンが答えた。その隣でマイラも身を固くしている。この姫たちが、次々と現れる新しい仲間を、どういう気持ちで受け入れているのか、それはよく分からない。しかし、軍人の自分は明らかに場違いだ。ソリュータやレザは無論のこと、エメラダやポレッカにすら、とうてい認めてはもらえないだろう。クリオンは妃に迎えると言ってくれたが、彼女らにはいずれ必ず反対される。それぐらいなら、最初から包み隠さず話して、処遇を決めてもらおうと思っていた。
 だから、ソリュータの次の言葉は、意外だった。
「どうしてこんな大変な時に、そんなことをなさるんです。もっと落ち着いてからやれば、きちんと準備をして、迎えて差し上げられたじゃないですか!」
「そうですわね、ここではドレスの一着も見立ててやれないわ」
「ほんとです、歓迎の料理も作れないわ!」
「あ、あの……」
 いささか驚いて、マイラはおそるおそる言った。
「別にそのようなことをしていただかなくとも、私は今までどおり、軍役を務めるつもりですが……いえ、よろしいのですか? 私で?」
「は? 何がですか」
 ソリュータたちが、けげんそうに見つめる。みじめさを覚えながら、マイラは言った。
「私は皆様のように華やかで美しくはありませんし……今まで剣一筋で、礼儀の一つも知りませんが……」
「そういうがさつ者は慣れているのです、わたくしは」
 レザが言って、うんざりしたような顔でエメラダを見た。
「この下品な商家の娘をごらんなさい。言葉づかいも態度も、貴女以上になっていませんわ。ポレッカにしても、どこの馬の骨かわからない下民ですし。今さらそういうのが一人や二人増えたって変わりません」
「わ、私も慣れてますもん」
 最近ようやく気後れのなくなってきたポレッカが、エメラダよりも先に反撃する。
「歩き方にまでやかましく注文つける貴族の人とか、フィンガーボウルの水を飲んだぐらいで笑う育ちのいい人とかに、さんざん鍛えられましたもん。軍人さんだって怖くないです」
「あら、それは私のこと?」
 ソリュータが、からかうように言う。
「指洗いの水なんか飲んだらおなかを壊すじゃない。ちょっと教えてあげただけでしょ。ニッセン様、あなたにもきちんと教えて差し上げますよ」
「どうだろ、この先輩風は」
 エメラダが顔をしかめて、隣のチェル姫を見る。
「えっらそうにねえ。あたしたちの誰もかなわない剣の達人で、鳥の乗り手だって、分かってるのかしら。あたしは何も教えたりなんかしないわよ。それよか、剣を習ってみようかしら。姫も一緒に頼まない?」
「剣なんか習わないです。チェルは守ってもらうだけでいいもん」
「少しは習ったら? 姫、それの使い方、まだ全然適当じゃない」
 城から大事に持ち出してきた、『シリンガシュート』を抱えていやいやをするチェル姫に、キオラが優しく言って聞かせた。
「一緒にやろうよ。人を殺さずに使えるようになるかもよ。マイラさん、どう?」
 六人の様々な、だが暖かさだけは共通する視線を受けて、マイラは横を向き、目の辺りを手で押さえながらうなずいた。
「……お教えします、私にできることなら」
「それにしても、クリオン様?」
 ソリュータが近付き、クリオンの両耳をつまむ。
「私たちはともかく、ちゃんとニッセン様の同意を得てなさったんでしょうねええ?」
「いたいいたい、ちゃんと聞いたってば。予だって女の子の嫌がることなんかしないよ」
「はい、私がお願いしたことです」
 マイラが、差し出がましくならないよう、控えめに言った。表面的には冗談めかしていても、クリオンと一番親しいソリュータが嫉妬していないはずがない。同じ女として、それは分かる。ソリュータに好かれるのは難しいだろうな、と考える。
 これからしようとしていることがあるから、なおさらだった。
「陛下、それで、ひとつお願いがあるのですが」
「なに?」
「あのハイミーナという女と、一晩過ごしてやっていただけませんか」
「え?」
 ソリュータが耳を離し、彼女とクリオンが同時に言った。
「それは……どういうこと? そういうこと?」
「どうなさるかはお任せしますが、話してやっていただきたいんです。剣を交えて分かりましたが、あの女は教会と大神官を大きな心の支えとしていました。それを失った今、彼女は頼るものを探しています。陛下なら……これだけの姫様方を愛して、その全員に愛されている陛下なら、彼女にもそれを分け与えてくださると思うのです」
 言いながらマイラは、やはりまずいな、と思った。ソリュータの顔がかすかにこわばったからだ。
 それ以上、自分が話を進めるのは、逆効果に思えた。「陛下……」とクリオンに目をやって、判断を預ける。
「そうか……あの子も……」
「クリオン様」
 ソリュータが額を押さえ、考え込むようにして言った。
「彼女を見殺しにするのは忍びなかったという、クリオン様のお優しさは分かります。でも、それは同情でしょう? 同情からそんなことをなさるのは……ニッセン様の時とは、事情が違うんじゃありませんか」
「うん……それはそうだよね」
「ましてやあの女は、クリオン様のお命を狙ったのでしょう?」
「命を狙ったのは彼女のせいじゃないよ。教会の教えに惑わされていたからで――」
 言いかけたクリオンは、なぜマイラがそんなことを提案したのかに気付いた。マイラもまた、クリオンを殺そうとしたのだ。彼女は、自分自身を見るような親しみともどかしさを、ハイミーナに感じているのに、違いない。
 それが分かると、マイラに感じたのと同じような愛しさが、ハイミーナに対しても湧いてきた。
「……ソリュータ、やらせてほしい」
「でも、クリオン様」
「ソリュータ」
 その時、エメラダが立ち上がった。焚き火を回ってソリュータのそばにやってくる。
「陛下に任せたら。陛下はあたしたちみんなの主人だけど、あたしたちの所有物ってわけじゃないでしょ。それに自分のわがままだけで行動する人でもない。相手のため、みんなのためを思わなかったことはないじゃない。今度もそうよ」
「……」
「レザ?」
 沈黙するソリュータから視線を外して、エメラダは振り向く。レザが肩をすくめてため息をつく。
「わたくしに何を言えと? 他の誰に手をつけようと、陛下がわたくしを愛してくださることには変わりはありませんわ。相手がエピオルニスの乗り手だろうと、教会の討伐尼だろうとね」
「そっちの三人も、まあ似たり寄ったりの意見よね。多少思うところはあるだろうけど、あの女の考えを変えさせるために、それが一番いい方法だってことは、分かるでしょ」
 ポレッカ、キオラ、チェル姫の三人が、機先を制されたような顔で、しぶしぶ黙り込む。
「いいわね。――だから、ほら、ソリュータも」
 エメラダはそう促したが、実のところ、彼女にも葛藤がないわけではなかった。どうして縁もゆかりもない尼僧なんぞに、自分たちの大切なクリオンを触れさせてやらねばならないのか。
 答えはひとつだった。そうしなければ、一人の娘が生きる方法を見失って迷いに沈む。それを、クリオンが見過ごせるはずがないからだ。そういう優しすぎる少年だからこそ、エメラダは、そして多分、他の娘たちも、惹かれているのだ。
 ソリュータがやがて、こくりとうなずいた。
「……ええ、分かったわ」
「そう。じゃあほら陛下、あっちにいるから」
 エメラダに指差されて、クリオンがハイミーナのところに向かっていった。騎士たちに命じて彼女のいましめを解き、二人で木立の奥に消える。
 それを見送って、エメラダはマイラに向き直った。
「じゃ、ニッセン様はこっちへ。……ちょっとよそよそしいな、マイラ様って呼んでいいかしら」
「マイラで結構です」
「じゃ、あたしもエメラダでいいわ。ふふ、変な気分ね。お互い軍人と平民なのに、もう対等なんだから」
「……私もそんな気持ち、だ」
 二人は焚き火のそばに座り、互いの溝を埋めるようにして話し始める。それを横目で見ながらソリュータは歩き、二人から離れたところに腰を降ろした。隣はポレッカだった。
 なんとなくソリュータの気配を意識して、もぞもぞと体を動かしていたポレッカは、彼女の小さなつぶやきを聞いて、思わず振り返った。
「……私のなのに」
「え?」
 見つめなおしたソリュータの顔は、炎の揺らめきのせいだけではなく、少し歪んでいるように見えた。
「ソリュータさん、陛下を取られちゃって、寂しいの?」
「……そうよ」
「どうして。みんな分かってるわよ。陛下が一番好きなのは、ソリュータさんだって」
「笑えるわ」
 ソリュータは、くっと息を漏らす。
「それに何の意味があるの。クリオン様を止めることもできないのに。私、少し疲れちゃった……」
 ソリュータが、立てた膝に顔を埋めるのを、ポレッカはやや驚いて見つめる。
 もっと余裕のある人だと思っていたのに。自分たち、他の娘たちが現れても、笑顔で受け入れていた人なのに。
 こんなに弱かったんだ、とポレッカは思った。自分よりもクリオンに近いといううらやましさは消えていなかったが、それでも、少しだけ、ソリュータを身近に感じた。

 ハイミーナは、針ねずみのように警戒していた。
 騎士が離れ、皇帝と二人だけにされはしたが、自由になったわけではない。大神官を倒したほどの腕を持つ皇帝は、腰に剣を下げ武装したままだ。対する自分は空路の途中で鎧も捨て、夜着のような黒いワンピースの肌着をまとっただけの丸腰だ。脅されれば従うしかない。騎士たちにしても、完全に去ったわけがない。そこらの茂みにひそんでいるだろう。
 だから、森の中の小さな空き地に出て、皇帝が柔らかい草の上に腰を降ろし、座って、と言ったときも、ゆうに馬が通り抜けられるほどのあいだを開けて、座り込んだ。
 露骨なその離れ具合に、クリオンが苦笑した。
「あまり離れると危ないよ。デジエラが、ここには凶暴な鎌狼がいるって言ってた」
「……ここでいい」
「予のほうが怖いんだね。無理もないけど」
「何をする気だ」
「別に何も。押し倒したりしないよ。だからって、近付けとは言わない。そのままでいいよ」
「……ふん」 
 ハイミーナは、揃えて折った両足の上にこぶしを置き、そっぽを向いた。
「懐柔の手管か。おまえも猊下と変わらない」
「……大神官はどうやってたの?」
「どうと言って……いやなことを聞く」
 ハイミーナはうつむいて、切れ切れに言った。
「最初は指一本触れなかったとも。優しい言葉をかけてくださった。腹はすいていないか、寒くはないか、具合が悪くはないか。それまで手に入らなかった服や食べ物をたくさんくれた。そのうち部屋に呼ばれて、身の回りの世話を命じられた。いやではなかったから、進んでやった」
「そうしたら、いきなり態度が変わったんだね。きみを無理やり……」
「そうだ。ある晩、後ろから私を……」
 言いかけたハイミーナは、顔をゆがめて振り向いた。
「どうやっていたか、だと? なぜそれが分かった。猊下が私になさった仕打ちを」
「何もされていない子が、そんなに怖がるわけないもの」
 クリオンは小枝を拾って、二人のあいだの空間にぶらぶら振った。
「ひどいことされたんだね。確かにいやなことだ。でも……聞かないと、分からなかったから。きみがどうしてそんなに、大神官を頼っていたのか」
 ハイミーナはクリオンを見つめ、自暴自棄な口調で言った。
「ああ、頼っていた。猊下だけが私を見てくださったから。信じていたのだ。――おろかにも、あの男を」
「他の人は助けてくれなかったんだ。一人ぼっちだったんだね。……一体なぜ?」
 そう聞かれると、ハイミーナは不意に口を閉じ、細かくふるえ始めた。顔を背けてつぶやき声を漏らす。
「神が……」
「え?」
「私を責められたから……私が、罪びとだったから……」
「何か悪いことをしたの?」
 聞かれたからではなかった。水が、堤を越えるほど溜まっていたからだった。ハイミーナは誰にも聞かせられなかった自分の罪を、ぽつりぽつりとクリオンに話した。
 それを聞くとクリオンは、深いため息を漏らした。
「そう、ご両親が……イフラの神様って、ひどいなあ」
「神が非道なのではない!」
「でもきみを助けなかった」
 鋭く切り返されて、ハイミーナは改めて自覚してしまった。神と大神官の双方が、自分を見限ったことを。
 もう罪をつぐなうことはできないのだ。ハイミーナは力なくうめく。
「そうだ……私は、神にも見放された。永遠に許されることのない罪びとなんだ」
「だったら、予が許すよ」
「……え?」
 顔を上げたハイミーナに、クリオンが微笑んだ。
「ご両親は信心が足りなくて亡くなったんじゃない。運が悪かっただけだ。きみもその運の悪さをもらっちゃっただけ。最初から罪びとなんかじゃない。だからつぐなう必要もない。――そういうこと」
「何様だ、おまえは!」
 ハイミーナは思わず叫ぶ。
「私の人生を、そんな簡単に……私の今までのことが、すべて無駄だったというのか?」
「きみが無駄にしたんじゃない、神様と大神官に横取りされちゃったんだ。だから、取り返さないといけないね」
「し、しかし」
 音を立てて裏返されていくハイミーナの価値観に、最大の罪が噛み付いて、引きずり戻そうとする。
「私は、神のために大勢の人をあやめた。それも間違いだったのか!」
「人なら予もたくさん殺したよ。兵士、暗殺者、討伐僧、それに……大神官」
 クリオンは淡々と言う。
「誰も傷つけずに生きていくことなんか、できないんだ。予は、それを神様に許してもらえるなんて思ってない。誰も罪を許してもらうことなんてできないんだ。だけど、許してもらえなくても、許してあげることはできる。そうやって人間同士が許しあうことは、ある意味で逃げでしかないし、神様ほど完全な許しじゃないかもしれないけど、生きていく支えには、十分なるんじゃないかな」
「人の……許し……」
「きみは今まで、そんなもの見たことないんだね。でもそれがあるんだよ。教会みたいに厳格じゃない、予や予の周りの行儀の悪い人たちのあいだにはね……」
 少年の整った顔に、年齢に不釣合いな悔悟と達観の表情が浮かんでいる。
 何様だ、などと言った自分が、ハイミーナは急に恥ずかしくなった。十五歳にして皇帝の座についたクリオンが、苦悩を経験していないわけがなかったのだ。彼は自分よりもよほど、罪に苛まれてきた人間だった。
 三つ年下なのだ。そう気付いたとき、ハイミーナは自然にこう言っていた。
「……おまえは許してほしくないのか」
「え? それは許してほしいよ。勝手な願いだけど」
「だったら……大神官を殺したことを、許してやる」
「……ほんとに?」
 クリオンが驚いたように目を見開いた。ハイミーナはうなずく。
「あの娘たちは、それを許す立場にないだろう。だから、私が……」
「そう、ありがとう。――ほら、きみだってできた」
 子供のように無邪気な笑顔で言われて、ハイミーナは我に返り、戸惑った。
「い、いま私が? 神でもないのに、人を?」
「だから言ったでしょ。人には人を許す心があるって。これで分かった? 予がどうしてきみを許せるか」
 優しさと同情。ハイミーナは、長い教会での暮らしで忘れていたそれらの思いを、再び自分の心に感じて、我知らず震え出していた。
「そうか……」
 あの時マイラの手をつかんだことは、間違いではなかった。胸のうちを浸す温かさが、その証だった。
「神がおられずとも……生きられるのか……」
「――分かったみたいだね」
 クリオンがにっこりと微笑み、立ち上がった。
「じゃ、戻ろうか。ソリュータたちを紹介してあげる」
「……え?」
 ハイミーナは歩き出したクリオンの背を、目で追った。そして、その腕をつかんでしまった。
「戻るのか?」
「うん。話が済んだから」
「それだけのためにわざわざ、皇帝のおまえがたった一人で?」
「それだけって……大事なことじゃない」
「戻った後も、そばにいる気か?」
「ギニエの町までは一緒だけど、そのあとはきみの好きにしていいよ。教会に見つからないところに逃がしてあげてもいい」
「じ、じゃあ……今しかいないのか、おまえは」
 クリオンが振り返って、顔を寄せた。星明かりに青白く染められた半面の美しさに、ハイミーナの胸がどきりと鳴る。
「ハイミーナ……寂しいの?」
「……分からない。でも」
 ハイミーナは、もどかしげに言った。
「好きにしていいと言われても、どこへ行って何をしたらいいのだ。おまえがそうしたのだから、それも教えてくれ」
 クリオンは小首を傾げると、くすりと笑った。
「ハイミーナ、それってやっぱり、寂しいんだと思うよ」
「そうなのか?」
「誰かにそばにいてほしいんでしょ。今までいた人がいないから」
「もう大神官にいてほしいとは思わない」
「だろうね。もう猊下っていう呼び方じゃないし。いいよ、それじゃ予がしばらくいてあげる」
 ハイミーナに手を引かれるまま、クリオンがもう一度腰を降ろした。先刻よりもずっと近い、肩が触れるほどの距離だった。
「とりあえず夜明けまではね……」
 柔らかな草の中に体を投げ出して、クリオンが横になる。ハイミーナはおずおずと聞く。
「ここで眠るのか」
「危険はないよ。ちょっと離れてるけど、叫べば護衛が来る」
 そう言ったあと、クリオンはふと、寂しそうな顔になる。
「シェルカはいないけど……」
「シェルカ……あの異国の剣を使う男だな?」
 ハイミーナが思い出したように言った。
「あの男なら無事のはずだ。指揮官の大男とともに、屯所の地下墓地に押し込められていた。満足なものは食わされていないだろうが……」
「生きてるんだ」
 クリオンは表情を明るくした。
「よかった。それ、ずっと気にかかっていたんだ……」
 クリオンはほっと息を吐いた。 
 用心深く周りを見回してから、ハイミーナはそっとクリオンの隣に体を横たえた。クリオンが天を指して言う。
「星、すごいねえ。あれだけたくさんあると、五星もかすんじゃいそうだね」
「……ああ」
 言われるまま、ハイミーナは夜空に視線を伸ばす。天球が白く濁るほどの星の海。町を離れたここでは、暗い星まで明るく見える。確かに、五星がどこかも分からない。
 神はもう、頭上にいない。何者もいない。自分とクリオンを除いては。何も感じられない、左手にかすかに触れるクリオンの右手以外は。
 それほど近いのに、クリオンはいやらしさのかけらも見せないのだった。
 ハイミーナは胸の奥から息を吐く。
「……何もしないんだな」
「え、何を?」
「何をじゃない……」
 ハイミーナは自己嫌悪を覚えて首を振った。男は皆、大神官のように淫らな行いをするものだと思っていた。いや、そんなことを考えてしまう自分も、同じなのかもしれない。
「そういえば、あの娘が言っていたな。ソリュータだったか。……皇帝は望むことしかしないと……」
「ああ、そういう意味……」
 クリオンはしばらく沈黙したが、やがて、居心地が悪そうに言った。
「あのね、予だって聖人君子じゃないから……そういう気持ちだってあるよ」
「そういう気持ちとは、淫らな気持ちか」
「うん、まあ……そういうの」
「信じられない。おまえは大神官とは違う人間だ」
「そういうのにもいろいろあるんだよ。大神官がどうだったか知らないけど、多分それとは別で、でもやっぱりいやらしい気持ちっていうのは、あるよ」
「どんなのだ」
「どんなって……ねえ」
 苦笑のようなため息とともに、いきなり、ハイミーナの髪に軽く手が触れた。びくっとハイミーナは身を固くするが、その手は髪をつかんで引っ張ったり、首に落ちて締め上げたりはしなかった。
「可愛がりたい気持ち、かな……」
 細い指先が、櫛のように何度もハイミーナの銀の髪をすく。頭皮の輪郭を確かめるような、穏やかで繊細な触れ方だった。
 四肢が地面に吸い込まれていくような安らぎをハイミーナは感じる。いつしか、目を閉じていた。さらさら、さらさら、と髪の音が清流の流れのように聞こえる。静まる心とは反対に、心臓は大きく波打ち始めた。
 確かめたい。クリオンが、どれほど大神官と違うのか。
「その気持ちは、髪を触っていれば収まるのか」
「……ハイミーナ」
「そうではないだろう。もっと先があるはずだ」
「ハイミーナ!」
 クリオンが手を止めて、恨むようににらんだ。
「やめてよ。そんなに予を信じすぎないで。変な気持ちになっちゃうよ」
「……なったらどうだ。大神官と違うと言うなら、きちんと示してくれないと分からない」
「自分の言ってること分かってる?」
「分かっている。すでに操を奪われた身だ。今さら失うものなどない」
「ハイミーナ……」
 頬に突き刺さるクリオンの視線を感じながら、ハイミーナは舌で唇を湿して、はっきり言った。
「抱いてみてほしい」
「……じゃあ、予も聞くよ。ソリュータたちと仲良くできる? なかったことになんかしない、みんなの友達になってもらうから」
「……おまえ次第だ」
 二人は、目を見交わした。
 少年と少女、二人が腕を伸ばして、相手の頭を抱いた。唇が触れ合って口づけになる前に、短い言葉が滑り出て交差した。
「きっとすてきだよ」
「そうだといい……」
 二人の間の距離がなくなった。

 クリオンが驚いたのは、初めからハイミーナが積極的なことだった。
 ハイミーナの白い両頬を手で挟んで、唇とその内側をちろちろと舌でくすぐる。だがハイミーナも、クリオンの頬を手で挟んで、同じように舌を伸ばしてくる。忍び込もうとする二枚の舌が中間で押し合って、狭い道ですれ違う人のようにつるりと交差した。
 むさぼられながらむさぼる。熱い息と、甘い唾液が、どちらのものかも分からなくなるほど混ざり合う。しばらく続けてから、もうハイミーナが満足したと思ってクリオンは顔を離そうとしたが、強く吸われて逃げ損ねた。さらに長い間、口づけが続く。
 いいキスは、それだけで時間を忘れる。互いの頭を抱え込むような激しいキスが、クリオンの服の下の体が汗ばんでくるほど長く続いた。敏感な歯の裏の部分まで、ためらいなくこそぎ立てるハイミーナの舌戯のせいで、クリオンはすっかり官能を呼び覚まされてしまった。触れてもいないのに、股間が硬くこわばってくる。
「ン……は、ハイミーナ」
 半ば引き剥がすようにして、クリオンは無理やりハイミーナの頭を押し離した。はぁ、と息を吐いて、ハイミーナが潤んだ目を不思議そうに細める。
「もう、いいのか」
「う、うん……」
「やはり抱く気がないのか?」
「え……そんなことはないけど」
「だったらもう少し続けないと……」
 ハイミーナの言葉とともに、クリオンの股間がさらりと撫でられた。と思ったら、その手が勢いよく引っ込められ、ハイミーナが目を見開いた。
「も、もうこんなに?」
「……うん、ハイミーナ、キスうまいから……」
「早すぎないか! おまえは、話してる間から、ずっといやらしいことを考えていたのか」
「そんなことないよ、今こうなっちゃったんだ」
「うそだ……」
 ハイミーナがおそるおそる手を下げて、再びクリオンのものに触れる。ゆっくりと撫でさすりながら、ハイミーナはつぶやいた。
「信じられない……まだ五分もたっていないのに……」
「……もしかしてハイミーナ、比べてるの」
 ハイミーナは、軽く体をこわばらせた。
「――そうだ。あの男は、こんな風では……」
「キス、そのためだったの? 長い時間をかけないと、大神官がこうならなかったから?」
「……ああ」
 ハイミーナは、悔しそうにうなずいた。
「あいつは、私にさんざん奉仕させるか、さもなければさんざん私をもてあそんだ後でないと、ことを始めようとしなかった。あれは……老人だったからか」
「どっちにしろ自分のことしか考えてなかったんだね。ハイミーナ、もういやなことはしなくていいんだよ」
「そうか……」
 ハイミーナは理解したようだったが、なおもそのまま、穏やかにクリオンのものをさすり続けていた。腰をしびれさせる快美感に目を細めながら、クリオンはささやく。
「ハイミーナ、それ、嬉しいけど……そのままだと、予だけ達しちゃう」
「このままで?」
 再びハイミーナは驚く。
「そんなことができるのか?」
「できるのかって……出したくなくても出ちゃうよ、こんなに気持ちいいと」
「男は、女の中でないと果てないと思っていた……」
 ハイミーナはふと何かを思いついたような顔になり、細い指先でクリオンの腰紐をほどいた。するりとズボンの中に手を滑り込ませ、じかに握る。んふ、鼻を鳴らすクリオンの顔を、まじまじと見つめる。
「あ……違う……」
「な、何が?」
「なんというか、その……細い。おとなしい。なのに、しっかりして……」
「あんまり言わないでよ、恥ずかしい」
「……見て、いいか」
「え」
 クリオンは顔を上げたが、ハイミーナはもう、体を起こしてクリオンの下半身にかがみこんでいた。クリオンはハイミーナを導いてやろうと思っていたが、展開が違ってきている。だが、彼女がそうしたいというなら、止める理由もない。任せてみる。
「い、いいよ……」
 ハイミーナが器用にクリオンのズボンを引き下げた。短衣の裾をからげて、現れたものに顔を寄せ、指でこすり上げながら、信じられないようにつぶやく。
「こんなに違うものなのか……おまえ、水浴びをしてきたのか?」
「そんなひまなかったよ。昨日の夜、軽く浴びただけ」
「一日たつのにこんなに汚れがないのか……私は今まで、なんというおぞましいものを……」
 つぶやきながらハイミーナはさらに指を動かす。本人はただ調べているだけのつもりなのかもしれなかったが、クリオンにとっては予想外の刺激だった。
 自分の賤しい場所に、銀の髪を輝かせた美貌の娘が顔を寄せ、熱い吐息を吹きかけている。そして、茎を押し包む指の力がかなり強い。神経の鈍った老人ならともかく、クリオンの敏感な感覚には、それは強すぎた。
「ハイミーナ、ご、ごめん、あう!」
 暴発してしまった。とっさにハイミーナが軽く顔を引くが、それではとうてい逃げ切れない。ほとばしった白い筋が、立て続けにハイミーナの頬を叩いた。
「ああっ?」
「んあっ、避けてっ、ハイミーナよけてっ」
 クリオンはうめきながらも、ハイミーナの腕をつかんで腰をはねさせる。腹の上に反り返ったこわばりが吐き出す奔流が、ぴしゃっ、ぴしゃっ、と何度もハイミーナの顔にはぜた。ハイミーナは驚きのあまり目を閉じて硬直している。
「はあ……」
 ようやくクリオンが脱力すると、ハイミーナは手の甲で目元をぬぐって、呆然とそれを見下ろした。頬を伝った粘液が、あごからとろりとしたたっている。
「……なんて勢い……」
「ごめん、抑えられなかった……」
「私も、これほどとは……てっきり、手が汚れるぐらいだと」
 言いながら、ハイミーナは眉根を寄せて、すっと鼻に息を通した。
「汚れ……ですらないのか。匂いまで違う。これが、おまえの……」
 ハイミーナが振り向く。端正なその顔にこびりついた、あからさまな粘液のあとを見て、クリオンはマントの裾をつまんで、申し訳なさそうに拭いてやった。
「汚しちゃった。ほんとにごめんね、予が気持ちよくなったって、意味ないのに……」
「たったあれだけで達するなんて……早すぎないか?」
「仕方ないじゃない、ハイミーナが大胆すぎるんだもの……」
 雪のように白い頬から、細いあごまで丹念に拭いてやりながら、クリオンはため息をついた。
「ハイミーナ、もうちょっとじっとしてていいよ。予がしてあげるから」
「そうは言っても、私は確かめるためにしようとしているのだから……」
 クリオンの清めが終わると、ハイミーナはうつむき、やや残念そうに言った。
「失敗だったか。二度とない機会だったのに、こんなことで終わらせてしまった……」
「もうやめる?」
「やめるしかないだろう。それとも、三日後にもまたしてくれるのか」
「……なんで三日後なの」
「次にまた、おまえがその気になる時だ」
「あの……別に三日後じゃなくても、少し待ってくれればまたできるけど……」
「え?」
 ハイミーナはまたしても、信じられないような顔になる。
「少しとは、何時間だ?」
「そんなにかからないよ。すぐ……その、しばらく触りあってれば」
「……本当か」
 疑い深く言われて、クリオンは恥ずかしげにうなずいた。
「……予は、そういうの、強いほうらしくて……」
「そうなのか……」
「だからちょっとだけ待って。次はハイミーナをよくしてあげる」
 地面に手をついてクリオンを見下ろしていたハイミーナは、ぽつりと言った。
「それが……本当の交わりなのか?」
「え?」
「相手が満足するまで触れるのが」
 ハイミーナは、両腕でそっと自分の体を抱きしめる。
「私は……いつものこのうずきを、体の中を熱い虫が這い回るような感じを、収めてもらえるのか?」
「ハイミーナ……ほんとにかわいそうだったんだね」
 クリオンは腕を伸ばして、ハイミーナの背筋を撫でた。はあっ、とハイミーナはあごを上げて吐息をつく。
「無理やり抱かれたうえに、気持ちよくすらさせてもらえなかったんだね」
「かえってよかった。あんな男に目覚めさせられていなくて」
「教えてあげるよ、しばらくしたら」
「待てない。急がせていいか」
 ハイミーナは、横たわるクリオンを見下ろし、覆いかぶさって来た。クリオンの頭の左右に両手をつき、垂れ下がった髪に覆われた空間で、真上から視線を下ろす。
「触れれば早まるんだな? 本当にもう一度、猛るんだな?」
「そんなにしたいの?」
「したい、もう隠せない。隠さなくていいんだろう? 神はご覧になっていないのだから」
「……いいよ、好きなだけ急がせて」
 ひたり、とハイミーナの大柄な体がクリオンを覆った。
 間に挟んだ肌着を通して、ハイミーナの体の起伏が押し付けられる。槍斧と大盾を自在に操る彼女の力は、筋肉の量よりも質が生み出していたようだった。マイラのような強靭さより、エメラダに近い柔らかさとしなやかさのほうが強くにじんでくる。
 乳房は、輪郭よりも弾力のほうを感じさせる、鎖骨からみぞおちへとまろやかに起伏する、ひとつながりの丘だった。クリオンの胸でそれが広がる。両脚は、細く絞られたしなやかな流れだった。クリオンの太ももを、その滑らかさが包む。
 十八歳の娘の体を余すところなく相手に味わわせるその姿勢で、ハイミーナはゆるゆると動き始めた。体温と、乳の香りと、唇を押し付けてクリオンの首に舌のくすぐりまで与え始める。
「ハイミーナ、そこまでしなくても……」
「やらせてくれ。おまえになら、こうしてもおぞましくないんだ」
「あ、ハイミーナ、ああ……」
 ハイミーナはクリオンの上衣の胸元を開き、丁寧に舌を滑らせていく。さらに上衣を剥いで、肩口や腕、乳首や肉の薄い腹までちろちろとくすぐりたてる。下半身に続いて上半身まであらわにされ、クリオンは身を隠すものもない無防備な姿になり果て、抵抗する気力を溶かすようなハイミーナの奉仕に、溺れさせられていく。
「ハイミーナぁ……ごめん、そんなことまで……」
「かまわない。なぜか知らないが、私もこうしていたい。皇帝、おまえが……ほしい」
「皇帝って……そんな風に呼ばないでよ」
「なら、クリオン――でいいのか?」
 下腹まで顔を下げたハイミーナの頬が、こつりとクリオンの先端に触れた。ハイミーナは、早くも硬さを取り戻しているクリオンのそれを、今まで気付いていなかったように、驚きの目で見る。
 それから、しばしのためらいののち、そこにまで、伸ばした舌を押し当てた。
「い、いいよっ!」
 呼び名の親しさと、ちろりと触れた舌の心地よさ、どちらにか分からない叫びをクリオンがあげた。
 ちりちりと尖らせた舌先を押し当てていたハイミーナが、抑制の外れた低い声でつぶやいた。
「口でこんなことを……口で淫らなことをしては、神が……」
 つかんだものを頬に押し当て、きゅっと食い込ませてから、ふるふると首を振る。
「――ううん、いない、いないんだ。だから、もう……」
 開いた美しい唇を、クリオンの張り詰めて湿った先端の上にかざす。
「……いいんだ……」
 ぬるぬると根元まで飲み込んだ。
「はあぁ……ハイミーナぁ……」
 鈴口を、裏筋を、根元を、濡れた唇と舌があますところなく滑りまわる。それが不愉快でないことを知って、ハイミーナが思う存分味わっている。禁忌をねじ伏せるほどの欲望を、尼のハイミーナが自分に対して覚えている。求められる心地よさがクリオンを無情の快感に浸す。
 とどめるものは何もなく、深く包まれたままクリオンはかろうじてうめいた。
「ハイミーナ、また、まただよ。離れてよ!」
「んむ……んうん」
 ハイミーナがくわえたまま首を振り、さらに深く喉まで飲み込んで吸った。クリオンは決壊して、しとどに体液をあふれさせた。
「んあぁ、の、飲むなんて……」
 びゅくん、びゅくん、と激しい痙攣が包まれた空間に飲み込まれていく。それをハイミーナは、胸の奥に広がる温かい流れとして感じる。飲むと余計にその多さが感じられた。この相手なら自分を満たしてくれる、と確信する。
 震えを終えた熱い肉が、舌の上で柔らかくなっていく。それもまたハイミーナにとっては好ましい。眠りについた小動物のようだ。それをみたび目覚めさせようと、ハイミーナはまったく体を離さず、顔をクリオンの下腹に押し付けたまま、頬を動かして吸いたてた。
 思ったとおり、そこに新しい血液がとくとくと流れ込んでくる。張り詰め、舌を押し返す硬いものを、ようやくハイミーナは解放した。
 ぷはぁ、と息を吐くと、青臭い香りが鼻孔に抜けた。古い垢の饐えた臭気とはまったく違う、新鮮なその香りが快い。顔を上げると、忘我の様子になったクリオンのとろけた顔が目に入る。醜い老人の威圧的な顔貌が薄れて消える。この少年には、嫌うべきところがどこにもない。
 ハイミーナは体をずらし上げ、再びクリオンの体を抱きしめた。ワンピースの長い裾をたくし上げ、下着を下ろして、秘所を直接クリオンのものに押し当てる。
 小刻みに腰を動かして潤みを伝えながら、ハイミーナはささやいた。
「さ、教えてくれ。本当の交わりを」
「ん……うん」
 クリオンが薄く目を開き、スカートの中に手を入れて、自分のものを押し立てた。ハイミーナは、それまで試したことのない角度で、それをひだの中に迎えた。
 予想外に強い抵抗と、それに続く、何かが切れるようなぷつりという感覚で、クリオンは、はっと気付いた。
「は、初めてなの? ハイミーナ、どうして?」
「あいつは……いつも、後ろばかり……」
 ぎゅっと目を閉じてクリオンの肩口をつかみながら、ハイミーナは切れ切れに言った。
「聖職者は子を為してはならぬと……そう言って、私が悶えるのを……笑いながら……」
「無理しないで! 壊れちゃうよ、ハイミーナ!」
「おまえが私を壊すはずがない」
 ハイミーナはうっすらと目を見開き、苦痛を隠した微笑を浮かべて唱えた。
守ってくれ、クリオンウーレー・クリオン
「……うん」
 クリオンは片手を上げて、ハイミーナの額に浮かんだ汗の玉をぬぐった。
「守るよ、ぜったい」
「頼む……」
 処女のハイミーナの乱暴さを、クリオンが片手で加減して、二人は無理のない動きで深くつながった。
「つっ……くふ……」
「痛かった? 待とうか?」
「あいつの時のほうがよほど……クリオンなら、だいじょうぶ……」
 ハイミーナは目を閉じたまま、腰を動かし始めた。音がするほどきつく締め付けていたハイミーナのそこが、徐々にならされ滑らかになってくる。それにつれてクリオンの罪悪感も和らぎ、甘い官能のうずきが腰の奥で高まり始める。
 次第にはっきりと粘液の音を上げながら、動きの勢いを強めていくハイミーナに、クリオンは気遣いの声をかける。
「ハイミーナ、我慢できる? 予は待てるよ?」
「クリオンは……三度目でも……」
「え?」
「三度目でも、あんなに激しいのか?」
 それが放出の勢いのことだと気付いて、クリオンは上気した頬をさらに赤らめてうなずく。
「強いよ」
「それで……教えてくれ。あいつが決して触れようとしなかった私の奥に……」
 白く輝く髪を後ろにはねあげて、ハイミーナはあえぎ声の合間に懇願する。
「私を、教会の人間で、なくして……」
「うん、ハイミーナ、うんっ!」
 クリオンはハイミーナの張り詰めた尻に両手を回し、その内側に何度もこわばりを押し付ける。叩かれたことのない扉を鋭く叩かれて、ハイミーナが狂い壊れていく。
「お、おくぅ……そんな奥に、クリオンがぁ……」
「いいの? ハイミーナ、いいって感じる?」
「ああ、いいぃ、ほんとに、うんン……クリオン、ほんとにぃっ」
 がばっとハイミーナがクリオンの頭をかき抱いた。絹糸のような細い銀髪がクリオンの顔を覆い、澄んだ汗の香りで包み込む。力強い腕がクリオンの胸をぴたりと乳房に押し付け、彼の動きを腰だけにさせる。
 すがりつく幼児にも似た一途な抱擁の中で、クリオンは彼に残された、ただ一つの終わりに向かっていく。
「ハイミーナ、もうすぐだよっ」
「んうぅ、すぐ? もうすぐ?」
「そうだよ、ハイミーナ、いいよね?」
「いい、いいぃ、クリオン、とても! いいから、そのままぁ!」
「いくよ!」
 自分を抱きしめるハイミーナの体を突き上げて、クリオンは最後の絶頂を放った。全身を白く染めた快感を、小さな針にしてハイミーナの奥に打ち出す。
「ひはっ……」
 ほとばしる塊に胎内をあぶられて、ハイミーナは無意識に呼気を逃した。熱いしずくがじわりと腹の奥に溜まっていき、そこから温かいさざなみが広がって、肉から肌まですべてを心地よく震わせた。
「はっ、はあっ、はあん……」
 そっと背中に置かれたクリオンの手のひらを感じながら、ハイミーナは何度も息を吐き、懸命に熱を逃がした。
 それほど熱くされたのは、初めてだった。

 三度も続けて達するのは、さすがのクリオンにとっても大仕事だったらしかった。
 浅い呼吸を続けながらぐったりとまどろむクリオンを、かたわらに座りなおしたハイミーナは微笑みながら見下ろした。
「無理もない……」
 それは、以前なら自分の姿だった。むさぼられ、奪われた姿。
 クリオンは逆に、自分に与えてくれたのだ。疲れ切るのも当然に思えた。
「これほどとは……」
 体の芯で震えていたうずきは、すっかり燃やし尽くされ、ぬるま湯のような甘美なしびれだけが四肢に残っている。クリオンはまさに、証明してくれた。大神官と彼が違う人間だということを。
「はぁ……」
 ハイミーナは膝を抱えて、幸福感に満ちたため息を吐く。 
 初めて手に入れた幸福だけに、それを失うのが不安だった。クリオンは、ハイミーナを寵姫たちの中に迎えると言ってくれた。だが、彼女たちがそれを認めてくれなければ、その通りにはならないだろう。
 なんとしても、彼女たちに認めてもらわなければいけない。どのような手を使っても――いや、違う。力ずくでは今までと変わらない。誠意を尽くしてだ。
「行ってみるか」
 ハイミーナは立ち上がり、一人で歩き出した。周りには剣士がいるはずだから、クリオンに危険はないだろう。
 木立に入って、焚き火へ向かう。その途中で、ハイミーナは人影を見つけた。戦士の視力がすぐに正体を見抜く。女だ。ということは、寵姫の一人か。
「ソリュータ、だったかな……」
 ちょうどよかった。ハイミーナは彼女のあとに続いて歩く。夜中に女が一人で出歩く理由は、すぐ想像できた。
 ソリュータはひときわ木々の多い一角に入って行き、立ち止まった。辺りを見回し、しゃがむ。予想通りのその仕草を見て、ハイミーナはそばの木の陰に隠れた。ちょっと声をかけにくくなったな、と考えている。
 がさり、と近くの茂みが鳴った。
 反射的にハイミーナは、足元に落ちていた手ごろな枝を拾い上げた。音のほうに鋭い視線を飛ばしながら、ちらりとソリュータの姿をうかがう。
 彼女は、たくし上げていたスカートを下ろして、はっと振り向いたところだった。
「誰?」
 がさがさと音が続き、不意に小さな影が飛び出した。ソリュータが身構えるが、すぐに力を抜く。果実の多い森に棲息する、フクロネコだった。
 ソリュータが、走り去るフクロネコを見送っている。だがハイミーナは、別の方向に聞き耳を立てていた。フクロネコの必死な走り方に違和感を覚えたのだ。
 勘は当たった。
 そいつは葉ずれの音さえ立てずに、いきなり現れた。
 フクロネコから目を外して振り返ったソリュータが、硬直する。目の前に、自分の胸ほどの体高を持つ、獰猛そうな獣が飛び出してきたのだ。
 牙の並ぶ口から熱い息を吐き、両目は肉を求めて赤く輝いていた。ぴんと立った尾が素早く振られ、シャッと音を立てた。
 フクロネコを狙う肉食獣、鎌狼である。
 鎌狼は、見失った獲物の代わりにちょうどいいと思ったのか、ソリュータに向けて、寒気のするような威嚇の叫びをあげた。
「コアアアッ!」
「ひ……」
 一瞬立ちすくんだものの、気を失わなかったのが彼女の気丈さの現れだった。ポケットから短剣を出して、腰だめに構える。だが、森の狩人の前ではあまりにも非力な武器だった。
 鎌狼は目を細めた。笑うほどの知能はないはずだが、それは確かに嘲笑だった。
「カアッ!」
 暴風のように跳ねる。
 その横腹に、茂みから飛び出した人影が、痛烈な一撃を叩きつけた。
「獣め!」
 木の枝で鎌狼を打ち払い、自分の前に立ちはだかった女を見て、ソリュータは驚きの声を上げた。
「は、ハイミーナ? どうしてここに?」
「いいから逃げろ! 騎士を呼んで来い!」
 言いながらハイミーナは重い枝を構えなおす。吹っ飛んで転がった獣は、素早く立ち上がり、低い姿勢で四肢を踏ん張って、威嚇を続けている。
 再び飛び掛ってきた。今度は正面からだ。牙が向けられている。
 だがそれは、ハイミーナにとっても有利だった。この種の動物の最大の弱点、鼻が目の前にあるのだ。
「食らえ!」
 使い慣れたハルバードと同じように、大ぶりに加速をつけた一撃を、ハイミーナは正確に獣の鼻に叩き込んだ。グシャッといやな音がして、鎌狼は地面にへたり込む。
 かと思うと、その獣はゆるゆると首をめぐらし、尻を向けた。逃げずに見ていたソリュータが、やや警戒を解いて近付こうとする。
「大丈夫、もう戦う気はないみたい……」
「そうだな……いや、待て!」
 二人ともその獣の知識はなかったが、ハイミーナには戦士の勘があった。
 鎌狼の最大の武器は、その針金のような剛毛で覆われた尾だったのだ。シャッと空気を切り裂いた尾が、ソリュータの脇腹に走った。
 ハイミーナは、わずかに遅れながら、その前に飛び込み、立てた枝で受け止めた。角度が甘く、尾が枝に滑って、ハイミーナの手の甲をかすった。
「この……卑怯者!」
 飛び散る血にも構わず、ハイミーナは枝を持ち替え、渾身の力をこめて振り下ろした。狙いは違わず、今度こそ鎌狼の頭を直撃する。「ギャン!」と悲鳴が上がった。
 獣はおびただしい血を吐き出し、白目をむいて絶命した。
「ふう……」
 ハイミーナは枝を放り出す。その手を、ソリュータが取った。
「けがをしたわね」
「たいしたことはない。自分で縛る」
「待って、膿むかもしれない」
 そう言うと、ソリュータはハイミーナの手を持ち上げ、舌で湿らせ始めた。にじむ血を丹念になめ取り、わきに吐き出す。
 そうしながら、ソリュータは聞いた。
「ありがとう、助けてくれて。でも、なぜ?」
「クリオンに教えられた。私はもう、神の子ではない。おまえたちと一緒だ。それを、おまえたちに許してもらおうと思って……」
「そう。クリオン様に……」
 傷を清め終わると、ソリュータはハンカチでそれをしばった。手際のいい手当てだったが、あまり優しくはなかった。
「これはお礼。でも、それだけだから。私はやっぱり、あなたを……」
「だろうな。私も好かれるとは思っていない」
 ハイミーナはあきらめたように首を振った。
「おまえは、皇帝に一番愛されている女だろう。正直言って、今も助けようかどうか、迷った」
「……そうなの?」
「おまえが死んだほうが、邪魔者がいなくなるから。だからおまえをかばうのが遅れて、しなくてもいいけがをした」
 ハイミーナは淡々と言い、目を伏せた。
「でも、仕方ない。私に、恨まれずに人を助けること出来ないのだから」
「あなた、正直なのね……」
 ソリュータは意外そうな顔でハイミーナを見つめ、あることを聞いた。
「私を助けたのは、クリオン様が喜ぶから?」
「……いや、違うと思う」
 ハイミーナは、考える必要もないようなその質問に少し考え込み、とつとつと言った。
「今までの私なら、おまえを見殺しにして、それを神の定めだと決め付けただろう。でも、私はもう変わったのだから。神を言いわけにして人を見殺しにしてはいけない。誰のせいでもない、自分の責として、ことを為さねばいけないのだ。――クリオンに気に入られるためではなく、変わった自分を確かめるために、おまえを助けた、そうだと思う」
「ほんとに正直……」
 ソリュータがため息をついた。疲れたような顔だったが、不愉快そうではなかった。
「もしあなたが……クリオン様だけを目当てに、私たちの中に割り込もうとしたんだったら、憎めたのに」
「……どういう意味だ?」
「迎えてあげるって言ってるの」
 ソリュータは手を伸ばし、ハイミーナの両手を包んだ。
「分かったわ。あなたも、クリオン様のそばにいられる資格を手に入れたのよ。難しいかもしれない、でも、仲良くなれるよう努力してみる」
「……ありがとう」
「よろしく、ハイミーナ」
「よろしく頼む、ソリュータ」
 ソリュータは微笑んだが、すぐに、ちょっと怖い顔を作って言った。
「でも、クリオンなんて呼び捨てにしてはだめ。ちゃんと陛下って言って」
「……わ、分かった」
 ハイミーナは自分でも意外なことに、少しおびえてしまった。短剣一振りで猛獣に立ち向かったソリュータの強さを、思い出したからだった。
「じゃ、行きましょう。みんなを紹介してあげる。あ、クリオン様はお一人なの? そっちを先にお迎えに行きましょうか」
「ああ」
 ソリュータに付いて歩きながら、ハイミーナは思う。
 クリオンと二人きりの時には、呼び捨てにしてしまうかもしれないが……
 この娘の前では、決してそんなことをしないようにしよう。

 9

 翌日夕方、皇帝の一行はギニエ市に無事到着し、臣下の歓呼をもって迎えられた。
 だが状況は、悠長に休んだり様子を見たりしている場合では、なくなっていた。
 フォーニー軍団長のもと留守を守っていた第一軍が、フェリドと干戈を交えることはすでに二度に渡った。当初三万と目された蛮族の勢は、この短い数日で急激に数を増し、五万から七万にも達したと見積もられた。それが南方八リーグという至近の山中に陣を構えている。もはや王都を奪回するどころではない。まずこちらの始末をつけねば、市民もろとも全軍団が地に果てる。
 街に居座っての防御戦を行っても、兵力一万七千の第一軍ではとても支えきれない。兵の能力と策略とを最大限に駆使して、攻勢をとり撃破するしかなかった。
 ギニエ市は沸き立つような騒ぎになった。工房では鍛冶が徹夜で剣を打ち、女たちは手の皮がすり切れるまで矢を削る。糧食を積んだ荷車が土煙を立てて走り回り、徴発されたエピオルニスが、空に幾重ものらせんを描いた。
 ギニエ城館の本陣は、皇帝来着とともに征陣府となった。征陣府は遠征先におかれる名目上のジングリット首府だが、このたびは主要な文官も王都からやってきているので、実質的に本物の帝国中枢となった。やるべきことは山ほどある。対フェリドの増援をつのるため、また、王都を奪還するため、帝国各地に使いが出された。その任は高速勅使団のマイラが担うべきだったが、徴発された騎鳥には即席の騎手たちが乗るわけであり、その教官が必要だったため、彼女が訓練を担当し、使いは新兵の仕事になった。
 嵐のような準備が進み、出撃を間近に控えたある日、そういった使いの一人が、新たな疑惑の火種を持ち込んできた。
「ハルナス伯領が、兵を出せないだって?」
 使者の報告を伝え聞いたクリオンは、眉をひそめた。
「あそこは四千の兵力を出せる大きな領地でしょ? 頼りにしてたのに」
「遺恨ではありませんの」
 手が足りないのでクリオンの執務を手伝っていた、二人の姫のうち、レザが顔をしかめて言う。
「ハルナス伯といえば、シッキルギン遠征のおりに、ジングピアサー将軍が斬った貴族でしょう。彼は非道な人間でしたが、下々には慕われていました。領民がそれを覚えていて、執政官に逆らったのでは……」
「そうではないようです」
 勅使から報告を受け取ったマイラが答える。
「人別帳によりますとあの地の領民は三十万を数えるはずですが、執政官が調べなおしたところでは、二十万弱しかいないというのです」
「何それ、どういうことだろ。ちょっと男爵に聞いてみようか」
「おともします」「あ、あたしも」
 立ち上がって歩き出したクリオンの後に、レザとエメラダも続く。さらにその後に、袖からリンゴを出したり入れたり食べたりしながら、七色の奇抜な衣装の道化がついていく。マウスである。一体どうやって王都を抜け出したのか、大変な謎に思えるのだが、他の人間は他のことに忙しすぎて詮索していない。当人はもちろん説明しない。
「大忙しの皇帝陛下、一難去ってまた一難、今度の敵はどんな敵?」
「敵は帳簿よ。あなた、妙に陛下の助けになってるらしいけど、今度ばかりは役立たずなんだから、ひっこんでなさい」
 エメラダににらまれた程度では答えない。にやにや笑ってついていく。
「男爵、ちょっといい?」
 クリオンは、別の部屋で仕事をしていたレンダイクのところに顔を出す。人口のことを指摘すると、彼は難しい顔で腕組みした。
「申し訳ありません、そのことは私もまだ調べておりませんでした。かなり根の深い問題らしいので、いつか取り組まなければいけないと思っていたのですが……」
 レンダイクは、一時期の消沈した状態から、やや回復した様子だったが、それでもまだ本調子ではないようだった。即答できずに、額を押さえる。
「イマロンにお聞きください。彼女のほうが詳しい」
「わかった。イマロン!」
 同じ部屋の向こうで糧食隊の兵士を叱り付けていたイマロンが、振り向いた。
「どうなさいました?」
「ハルナス伯領の徴兵問題。ここも人別帳と実際が食い違ってる。ここは、前におかしかった北部領のホブローよりずっと南だよ。一体どうなってるの?」
「キンギュー、お答えしなさい」
 言われて、イマロンとともに王都から救出されたキンギューがこちらを振り向く。
 異変が起きたのはその時だった。
「エメラダ! 無事だったのか!」
「……え?」
 若い文官は、かっと目を見開くと、手にしていた書面をまき散らして駆け寄ってきた。そして、クリオンのそばにいたエメラダを、いきなり抱きしめた。
「心配していたんだぞ、どうやってここに来た?」
「ど、どうもこうも、あなたと一緒に助けられて……」
「いや、違う。だめじゃないか、ここへ来ては! 家でじっとしているように言っただろう?」
「家で? なんのことよ。――あっ!」
 ぱしっと乾いた音が響いた。あろうことかキンギューは、エメラダの頬を平手打ちにしたのだ。
「口答えするな! 君は僕のものだろう!」
「キンギュー!」
 イマロンが叫んで立ち上がった。彼女だけではなく、文官たちがいっせいにざわめく。
 机を回って歩いてきたイマロンが、キンギューの肩を引っ張った。
「なんてことをするの! 勘違いで済むことじゃないわよ!」
「勘違い? 勘違いはそっちでしょう。妻に手をかけて何が悪いんです」
「妻……?」
 一転してざわめきが収まり、不気味な沈黙が広がった。キンギューはいやに光る目で周りを見つめ、歯をむき出している。クリオンも、レザも、頬を押さえているエメラダ本人も、あまりのことに声も出せない。
 廊下に軍靴の音がして、丸顔の軍人が飛び込んできた。遊撃連隊のロン・ネムネーダである。
「大変です、南の砦から知らせが入りました! 敵が……どうしたんですか」
 室内を見回して、皆の視線を集めている人物に気付く。王都の学園でネムネーダと同期だった、親友の男だった。
 文官をかき分けて近付き、キンギューの顔を覗き込む。
「どうしたんだ、ベルグット。何か失礼を働いたのか」
「ロン……?」
 つかの間、キンギューの目に理性が戻ったかに見えた。
「あれ……どうして君がここに? ここは僕とエメラダの……」
 そのひとことで、ネムネーダは何かを察したようだった。糸のように細い目を吊り上げて、恐ろしい顔になる。
「なに言ってんだ、エメラダ様、だろう!」
 言うなり、ネムネーダはキンギューの顔にこぶしを叩き込んだ。痩せぎすのキンギューは枯れ木のように転倒する。クリオンは止めようとしたが、すぐ気付いた。ネムネーダはひょうきんな見かけのわりに、頭の回転の速い男だ。理由もなく暴力をふるったりはしない。
 倒れたキンギューの胸倉をつかむと、ネムネーダは頭に手をかけて、無理やりクリオンに下げさせた。
「ほら、謝れ! それから宿に戻って寝ちまうんだ! 陛下、エメラダ様、こいつにはおれがよく言って聞かせますから、なにとぞこの場は……」
「あ、ああ。わかったよ、ロン。エメラダもいいよね?」
 ネムネーダは、親友の身を心配して、いきなり殴りつけることでことを収めようとしたのだった。クリオンはそれと悟って、調子をあわせることにする。
 だが、エメラダの気性が激しすぎた。
「よくないわよ、あたし、いきなりぶたれたのよ? 陛下にもぶたれたことないのに、陛下のものなのに!」
 びくり、とキンギューが顔を上げた。気弱そうな顔が、悪鬼が乗り移ったように歪む。
「陛下の、もの……? 違う、君は僕のものだ!」
「ベルグット、やめろ!」
「皇帝なんかのものじゃない! 君は、僕の、僕だけの――!」
 キンギューはネムネーダを振り払うと、そばの机から重い銅のペン立てを取り上げて、クリオンに飛びかかった。とっさにクリオンは顔をかばう。腕にペン立てが当たり、クリオンはよろめいた。
「ベルグット!」
 ネムネーダが悲鳴のような声を上げた。もう、殴る程度では済ませられなかった。
 彼は剣を抜き、闇雲にペン立てを振り回しているキンギューの後ろに近付いた。常の彼からは考えられないほど、ずしりと腹に響く声で、怒鳴りつける。
「もう一度だけ言うぞ、ベルグット、やめろ!」
「うわ、うわわあ!」
 後ろへ下がるクリオンを追って、キンギューは口の端に泡を吹きながら、なおも殴りかかる。
「……許せ!」
 ネムネーダが無念そうに叫び、けさ懸けにキンギューの背を切り下ろした。
 キンギューは声もなく倒れた。ネムネーダが、親友が苦しまないよう、ひと斬りで息の根を断ったことは明らかだった。
「陛下……ご無事ですか」
 剣を収めたネムネーダに聞かれて、クリオンが蒼白な顔でうなずく。
「大丈夫、軽い打ち身だよ。それより、ロン。君に、友達を切らせてしまった……」
「仕方ありませんでした。こいつも、おれならば許してくれるでしょう。いや……」
 ネムネーダは床に膝をつき、キンギューのまぶたを閉じてやりながら、顔を伏せる。
「兆しはあったのに、見過ごしてしまいました。おれは友達として失格かもしれません……」
「知っていたの?」
「こいつはずっと、エメラダ様に懸想していたんです」
 ネムネーダは、エメラダから顔を逸らして言う。
「かなり思いつめていました。でも、北周りの旅から帰ったときは、何か吹っ切れた様子だったので、こいつなりにけりをつけたと思っていたんですが……こんな物狂いになっていたなんて」
「少し、おかしくはないかしら」
 あごに指を当てて考え込んでいたレザが、口を開いた。
「物狂いでここまで変わるものかしら? この男、エメラダが妻だと確信していたようでしたわ。妄念だけでそこまで信じ込めるとは思えません。何者かにそそのかされたのでは」
「……また教会? 予の命を狙って?」
「いや、違います」
 ネムネーダがきっぱりと言った。
「こいつは教会に魂を売るような男じゃありません。エメラダ様への思いも、それなりに純粋なものだったはずです。こいつの名誉のために、それだけは言わせて下さい」
「だったら、なぜ……」
「私が調べましょう」
 一同は振り向いた。最近聞かなかった、凛とした声だったので、誰もが耳を疑った。
 レンダイクが立っていた。一体何がそうさせたのか、背筋を伸ばし、気迫を感じさせる張り詰めた顔をしていた。
「この件、私にお任せください。必ず原因を突き止めてみせます」
「わかった、頼むよ」
 クリオンは即座にうなずく。理由はどうあれ、帝国府で一番頼りになる男が気力を取り戻したのだから、水を差すべきではないと思ったのだ。
「イマロン、ハルナス伯領のことはきみに頼む。みんなも仕事に戻って。ロン、キンギューは任せていいね?」
「いや、ネムネーダ殿は手を出してはなりません」
 レンダイクが遮る。
「兵士を呼んで、街の外に捨てさせましょう。獣が始末してくれます」
「そんな、男爵……」
「ネムネーダ殿は、なにか伝えることがあったはずだ。それを先に」
「その通りです。おい、二、三人呼んでこい!」
 ネムネーダの命令で兵士がやってきて、キンギューの骸を運んでいった。それを見送るネムネーダの視線に気付いて、クリオンは二人の思いを悟る。
 理由はどうあれ、キンギューは大逆の罪を犯した。その者は辱められなければいけないのだ。だが、ネムネーダは、親友にそんなことをするのが耐えられなかったのだろう。レンダイクも、そのつらさを察して言ったのだ。
 触れないことが、クリオンにできる最善の気配りだった。一度首を振って、気を取り直す。
「それで、ロン。なにを報告しに来たの?」
「――はっ」
 ネムネーダは、堅い表情に内心の波乱を押し隠して、きびきびと言った。
「ギニエ南の砦から伝令です。フェリドからの使いがやって来たと」
「……今、なんて?」
「フェリド族が使者を立ててきたんです」
 クリオンは沈黙した。周りのものも、レンダイクでさえも、言葉を失って黙り込む。
 フェリド、樹海の蛮族。その獣とも人ともつかない奇怪な者たちは、神代の古くからジングリットと争ってきた。だが、数百代にも及ぶそのいさかいの歴史に、彼らが人間と言葉を交わしたという記録は、一つもないのだ。ましてや、使者を寄越すなど、ありえないことだった。
 静まり返った室内に、道化の黄色い声が響く。古い寓話をもとにした歌。
「王様の娘を猿が助けた。王様は猿にほうびをやった。
 だけど猿はしらんぷり。金の冠、銀の宝錫、なにをやってもしらんぷり。
 気に入らなくって猿はかんかん、娘を連れてすたこら逃げた。
 ああ、ほうびは何がよかったの? りんごやオレンジでよかったの?
 聞きたくっても猿はいない。もうどこにもいない!」
 高らかに笑ってから、りんごでお手玉を始めた。
「そう……そうだよ、どうやってフェリドとしゃべったらいいの?」
 クリオンがつぶやく。答える者はいない。
 ジングリット帝国は、またひとつ、戦うこと以上に困難な問題を突きつけられた。

 10

 さび付いたちょうつがいの音を立てて扉が開き、薄暗い室内から、数人の男たちがふらふらと出てきた。
 一見、憔悴しきっているように見える。あごには無精ひげが生えるに任せ、豪奢な羽毛のローブの胸元をだらしなくはだけ、そこから垢の匂いを漂わせている。実際、彼らはもう、丸二日、飲まず食わずなのだ。
 しかし、体力の喪失とは逆に、気力にだけは満ち満ちているようだった。瞳を強く光らせ、得体の知れない薄笑いを口元に貼り付けている。
 五人ほどの男たちは、フィルバルト城の一室であるその部屋で、長椅子に身を投げ出した。椅子の前にはテーブルがあり、淹れたばかりのお茶と簡単な食事が用意してあったが、そんなものには目もくれず、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべたり、腰のあたりを撫で回したりしている。
 一人が隣を見て、つぶやいた。
「ノルド、本当だったんだな」
「そうだろう」
「教会が女を……しかもあのような美姫をあてがってくれるとは。信じられん」
「私も最初は信じられなかったよ。だが、事実だ」
 ノルドと呼ばれた三十歳ほどの青年は、そう言って閉じた扉に目をやった。その奥で、色町として名高い、紅酒通りの高級娼館でも見たことのないほどの美しい娘たちが、夢のような手管を尽くして、自分たちを満足させてくれたのだ。それもこれ一度に限らず、頼めばいつでも会わせてもらえるという。
「皇帝などくそくらえだ。教会万歳、ウーレー・イフラ……」
 ノルド――正しくはホレイショ伯爵ノルド・メルチンは、そう言って両手を上げた。そこにいる彼と彼の友人は、クリオン皇帝の施政によって斜陽の憂き目にあわされた、貴族たちなのだった。
 別の扉が開き、帝国府文官の衣装を身につけた老人が、どことなく落ちつかなげに目を泳がせながら入って来た。青年貴族たちの機嫌をうかがうように聞く。
「ご満足いただけたかな、伯爵殿……」
「ああ、満足だ。これと引き換えなら文句はない。転向を誓うとも」
「よろしい。イフラの神は……お喜びです」
 喉に言葉をつかえさせながらそう言ったのは、なんと、帝国の儀典長官、ラハシュ・ジューディカ老だった。
 元の主である皇帝を裏切ったうしろめたさからか、生気のない様子で、ジューディカはぼそぼそと言う。
「では、気が済んだところで、前庭に出ていただきたい。これから民に向けての説法が始まるので……」
「説法などいらん。もったいぶった教義など聞かなくとも、おまえたちの言い分はだいたい分かる。無駄遣いをするな、女を抱くな、きちんと働け、というのだろう。今さらそんなことを私たちに聞かせて何の意味がある? 自分たちが戒律を破らせておいて」
「いや、違うのだ。教会の方針は、昨今だいぶ変わった」
「……ほう」
 ホレイショ伯爵は薄目を開き、やっと興味を覚えたようにジューディカを見た。
「それなら、聞くだけ聞いておこうか。いや、外に出る必要はないだろう。そこの窓を開けてくれ」
 ジューディカは張り出し窓に近付き、掛け金を外して開け放った。爽やかな秋風が吹き込み、それに乗って無数の人々のざわめきが聞こえてくる。
 眼下の王宮前庭には、フィルバルト中から呼び集められた民衆がひしめいていた。ジューディカは無表情にそれを見下ろす。
 その顔がわずかに動いた。群衆の前方、常ならば皇帝が立つ城館のバルコニーに、法衣を翻して一人の人間が現れたのだ。彼の片手の一振りで、群衆の間に混ざっていた僧たちが、声をかけて回る。
「謹聴を!」「謹聴を! 御説法です!」
 数万の人間が口を閉じ、寂とした静けさが広がった。
 バルコニーの人物が叫ぶ。
「イフラの子らよ」
 洞窟を吹く風のようにうつろな、だが朗々たる大声だった。
「子らよ、今日という日は、この上ない喜びの日として帝国の歴史に記される。神のことわりがこの地上に現された日として。
 子らよ、我はおまえたちに、神が語られた新たなる言葉を伝えよう。
 子らよ、心静かに聞け」
 そしてその男は、信じられないようなことを言った。
「節を制せずともよい。貞く節をつらぬかずともよい。奉り仕えずともよい。――おまえたちの心おもむくまま、望むままに欲をふるえ」
 それが今までの教会の教えと、正反対の言葉だということが理解されるのには、しばしの時間がかかった。いったんは静まり返っていた群衆が、再び、前にも増してざわめき始める。
「なんだって?」「好きにしていいって言ってるのかな」「どういうこと? 教会はフィルバルトを無法者の街にする気なの?」
 赤ん坊を背負った片目の女と、その夫である片足の男が、顔を見合わせる。二人に向かって、顔なじみの僧が、穏やかに声をかける。
「まだ分からないのですね。しかし、じきにあなたたちも知ります。家に帰れば、これまでで一番の幸福が、あなたたちを待っているでしょう」
「どういう意味なの、それは」
「愛し合うあなたたちだって、考えたことがあるはずです。もし伴侶の目が潰れていなければ? もし良人の足が動けば? いま隣にいるような姿でなければ、また違った暮らしが出来ていたのではないか、と」
 夫婦は再び顔を見合わせ、同じ表情を相手に見つける。うしろめたさと、隠しきれない不満、後悔、欲望の色だ。
 ざわめく群衆の頭上を、バルコニーからの声が押し渡る。
「それが神の意に添う。神は人の欲をすべて満たしてくださる。称えよ、イフラの名を。ウーレー・イフラ」
 唱和はない。あるわけがない、理解できないのだから。だが、バルコニーの男は不満な様子ではない。泰然と立ち、群衆を見下ろしている。
 城館の部屋で、ホレイショ伯爵が吐き捨てる。
「あの年で、よくあんな大声を出せるものだ。あの爺さんは一体いつくたばるんだ?」
「……猊下は不滅のお方なのだ」
 ジューディカは、吹き込む風にくすぐられた襟元を、寒そうにかき合わせる。
 彼の視線の先で、大神官キンロッホレヴン四十九世が、足元も確かに屹立している。

 そして――
「はぁん……ん、ん、んぅ……」
 凝脂の白肌にさあっと絶頂の震えを走らせて、霞娜シャーナはあごをのけぞらせ、動きを止める。
 鋭い爪を相手の胸板に突き刺し、両の太ももを引きつらせて、またいだ相手の腰を締め付けている。胎内では、子を為す力のない不毛な精を、溺れるほど受け止めている。
 飲み干すようにむさぼったあと、霞娜は短く息を吐いて、するりと相手の体から降りた。寝台の端に腰掛けて、付き人の女官から恥じ入る様子もなく衣服を受け取り、袖を通す。普段の可憐な白紗の袿服ではない。厚い黒びろうどに銀鎖を織り込んだ、手の甲やあごの下まで覆う、凛々しい戦衣だ。
 ほっそりした体を戦いの装いに包み終えると、霞娜は振り向いて優しく声をかけた。
「よかったわ、麗虎リーフー。久しぶりだったから、余計に」
「それは、ようございました」
 体を起こして布で清めながら、美しい宦官はそう答えた。霞娜は身をひねり、麗虎リーフーの、細身でありながら硬い筋肉のついた、裸の胸に唇を寄せる。
「これでも心配していたのよ。あなたったら、シッキルギンに出て行って以来、ちっとも知らせを寄越さないんだもの。やっと帰ってきたと思ったら、こんな恐ろしい傷を負っているなんて……」
 霞娜は顔を横に滑らせ、麗虎の失われた右腕の傷に口づけする。醜く肉の盛り上がったそこに、愛しげに噛み付いた。
「クリオン皇帝にやられたのね」
「さようにございます」
「許せない。私のものを壊すなんて」
 真珠の粒のように揃った歯で、霞娜は傷口の薄皮を強く噛んだ。あふれる血を何度も舌でこそぎ取る。
「わかっているわね、あなたは私のもの。今度、私以外の人間に壊されたら、許さなくてよ?」
「承知しております」
「んふ、どこまで本当かしら」
 霞娜は顔を離し、鮮紅色に染まった唇で、麗虎に口づけした。
 短い接吻を終えると、顔を逸らして寝台から降りる。麗虎の傷のことなど、もう気に留めてはいない。数人の侍女が駆け寄り、麗虎の傷を手当てし、霞娜の血にまみれた唇を拭いた。
 これだけは普段と変わらず身につけた羽衣を、肩の上で軽く打ち振りながら、霞娜は楽しげにつぶやく。
「でも、今日のこの日に間に合うよう帰ってきたことは、誉めてあげる」
「閣下!」
 居室の扉が叩かれ、霞娜はうなずいた。
「ほら、ちょうどよかったわ。入りなさい!」
 灰鉄の扉を開けて入って来た、羽服の軍衣姿の宦官が、両手を胸の前で握り合わせて礼をとりながら、報告した。
「出立の支度が整いました」
「そう。嬢院は開戦許可を出したかしら?」
「麗虎様のご報告が功を奏しました。いまや神具律都に皇帝の姿なし、我が軍万全にて攻勢のとき来る。賛成九十一パーセントの圧倒的多数です」
「よろしい。では、軍を挙げる」
 ついて来なさい、と麗虎に声をかけて、霞娜は軽い足取りで部屋を出た。
 そこは鉄より軽い灰鉄で造られた廊下だ。報告と復唱の声を通して伝声管がブンブンと鳴り、軽い羽服を身につけた天兵が急ぎ足に行き交う。大統令に気付いて礼をとる彼らに片手を振り返し、中枢の巨大な封球の中で暴れる大気霊の震えを感じながら、霞娜は廊下を進み、侍女が開けた突き当たりの扉をくぐった。
 そこは、全周を硝子の窓で覆われた、艦橋だった。玉座につくと、居並ぶ艦橋妓官たちの頭越しに、雷江レイジャン上空三千尺に滞空する、合衆帝国翔空艦隊の勇姿が臨めた。
 渡り鳥の群れのようなくさび形の編隊を組んで、青く抜けた空を周回しているのは、一人乗りの槍騎艇、ジェンだ。両の翼に宿らせた大気霊に、苦役の悲鳴を上げさせながら、百に届くそれらが、周りすべてを巡っている。
 そして、彼らに囲まれた三隻の巨艦が、艦隊主力の天舶である。
 霞娜の右と左に一隻ずつ、それぞれ全長二百余丈。内流ナイル国の伝説にある天翔ける船に似た、三日月形の優美な艦容を持ち、中央にきらめく硝子の艦橋の前後には、弓張八尺の大型弩砲を両舷三十門ずつ備えている。それを浮かべるのは、霞娜自らが球に封じた、巨大な嵐にも匹敵する力を持つ大気霊だ。
 艦は、左を『饕餮タオティエ』、右を『燭竜ズウロン』と号する。霞娜が座するのが、『白沢バイズェ』だ。
 大明合衆帝国のわざの粋を集めたそれらが、ジングリット攻略の切り札となる遠征艦隊だった。
 招繋卓のひとつから妓官が振り返って言った。
「全艦・全機、方位盤同調完了いたしました。早期警戒群の鴆型八翼は、すでに先行しています。敵騎鳥の影はなし」
「……では、行きましょう。『饕餮タオティエ』及び『燭竜ズウロン』発進。『白沢バイズェ』、出るわ」
 精霊の唸りが高まり、三隻の巨艦は悠然と上昇を始めた。大鴉に似た鴆どもが、金切り声を上げて大気を切り裂き、素晴らしい速度で天舶を追い抜いて、前方の砂漠の空に消えていく。
「待っていなさい、忌まわしき帝王の都よ……」
 抑えた喜びをちりちりと言葉の端に浮かべて、霞娜は優艶につぶやく。

 ―― 第七話に続く ――




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