次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第4話

 1.

 その村は、幸せに満ちていた。
 夏のさなかだが、緯度が高い。北海からのすがすがしい涼風が村を流れる。
 小川では子供たちが魚を追ってしぶきを上げ、幾重もの虹を作る。
 木陰では青年が娘のひざに頭を乗せ、しばしの憩いを眠る。
 天高く、夏ヒバリの歌。
 どこまでも続く小麦の青い穂。ぶどうは少し早い。低い果樹の間を歩いていた農夫が、背筋を伸ばして額の汗を拭いた。そんな彼に、かたわらの若い女がかいがいしく手ぬぐいを差し出す。どちらも満ち足りた顔をしている。夫婦だろうか。
 数騎の騎影が、村に入る街道を進みながら、そういった光景を見て言葉を交わし合った。
「民は満足しているようだ。顔が明るい」
「水害の兆しはない。旱魃も」
「今年は豊作だな」
「補司殿、いい土地ですね」
「ああ」
 うなずいたのは、褐色の髪の若い男だ。名をベルグット・キンギューという。
 彼はジングリット帝国理財補司である。この国の財政を司る役所の要人だ。部下数名とともに、一ヵ月ほどの旅をしている。
 北海に近いこの村を訪れたのは、たいした理由があったわけではない。二ヶ月ほど前になされた、天領の税収正常化措置が、うまく機能しているかどうかを調べる旅である。その通り道というだけのことだ。
 だから通りすぎるだけのつもりだったが、どうやらこの辺りは予想外に豊かな土地のようだった。物見遊山ではないが、急ぐ旅でもない。どうせ宿を取るならおいしい食事と暖かいベッドのあるところに泊まるほうがいい。
 キンギューは、ここホブローの村で一泊することに決めた。
 農村である。旅人向けの旅篭などない。村長の家に出向き、身分を示して一夜の宿りを求める。村長宅を選んだのは、この村の豊かさについて話を聞くためでもある。
 帝国府の役人といえば、州を治める執政官よりもえらい。しかし堅物のキンギューはその身分を振りかざすことなく、きちんと代価の支払いを申し出たので、快く迎えられた。
 夕食までの間、キンギューと部下たちは、村長に記録を出させ、また村人を呼びつけて、調査を行った。それで分かったところによると、この村の豊かさの基は、今年の穏やかな天候と、よそにも増して丹念な、村人総出の畑の手入れだということだった。
 とりたてて意外な報告ではない。キンギューたちは事務的にそれを書き止めた。ただ、一人の部下が、軽く苦笑してキンギューに知らせた。
「補司殿、この村の人口は幾人でしたっけ」
「人口? 人別帳では四百五十人ぐらいじゃなかったか」
 記憶力のいいキンギューは、流し読みした書類の数字を思い出す。だが部下は首を振った。
「八百六十二人だそうです」
「なんだって?」
 キンギューはあきれて口を開いた。同時に合点した。
「それでこの村はこんなに豊かなのか。働き手が多いから産物も多いんだね」
「人別帳を訂正しておきます」
「検地の連中にも知らせるべきだね」
 そう言って、キンギューはふと思い当たった。クリオン皇帝の即位以来、帝国全土の土地が再測量されているが、そちらの部門から、似たような話を聞いたことがあった。測量は租税の額を最適化するのが目的だから、当然人口も一緒に調べる。だがその調査で、記録と実際の人口の数値が異なっているところが見つかったという話だ。
 理由は大体想像できる。異常地点は、王都からの目がなかなか届かない北部に多かった。おそらく、以前その地を治めていた領主が、帝国府への税をごまかすために過少申告していたのだろう。
「するとここは増税になるのか……嫌われるな」
 キンギューは軽くため息をつき、さっきの部下を呼んで、出発まで村人には話さないように命じた。
 それからすぐ、キンギューは自分の判断に胸をなでおろした。夕食の宴は実に豪華で、心からの歓待を表すものだったからだ。――いや、先に話していても、歓迎は変わらなかったかもしれない。村長を始めとする村人たちは、本当に穏やかで、善良な人々のように見えた。
 美酒と料理に舌鼓を打つ宴が終わると、一行は部屋をあてがわれ、眠りについた。
 夜半、キンギューはふと目覚めた。
 酒が過ぎたらしい。起き出して手洗いを探しに行く。
 その途中、妙な光景を見た。
 廊下で足を止める。窓から見える中庭のベンチで、月明かりの下、二つの影が寄り添っていた。男と女。顔は見えなかったが、声でわかった。その片方に、キンギューは眉をひそめた。
 男はまだ若く、二十になるかならぬかだろう。そちらはいい。声に聞き覚えがあるような気もするが、誰か知らない人間だ。
 だが女は、村長の妻だった。
 キンギューは軽く息を呑む。聞こえてくる声は、世間話などではなかった。甘い呼びかけと華やいだ含み笑い。それは明らかに睦言だった。 
 村長の妻は五十を越えているはずだった。その彼女が、誰とも知らない若い男とみだらな会話を交わしている。
 他人の秘め事を覗き見たばつの悪さと、二人のちぐはぐな年齢から来る違和感、そして不義に対する道徳的な怒りを覚えて、キンギューは少し迷った。
 結局、見逃した。行きずりの自分がどうこう言うことではない。
 だが彼は、自室に戻る途中、もう一度衝撃を受けることになった。
 村長の部屋の前で、今しがた聞いたばかりの押し殺した会話を、再び耳にしたのだ。
 思わず立ち止まる。同じ声と思ったのは錯覚のようだった。だが、誰かはともかく、何をしているかは同じだった。こちらも、睦言。それも激しい。
 あえぎ、うめき、息を止めては吐く。家具がきしむ音と、粘液がはねる音。――まさに、最中なのだ。
 キンギューは顔を真っ赤にして、足早にそこを離れた。声の片方は若い娘だった。もう一人は、村長だった!
「なんだ、ここは。……夫婦であんなこと……」
 村長はもう六十に手が届く老人だ。清潔で秩序ある人々だと思っていただけに、衝撃は激しかった。彼はまだ女を知らなかったのだ。
 生まれて初めて聞いた営みの声に、妄想をかきたてられる。頭の中に、一人の女性の姿が浮かぶ。
 彼がほのかな憧れを抱いていたのは、翡翠色の髪を持つ、輝くような若さの一人の娘だった。出会った瞬間に見惚れ、その後何度も間近で話をしているあの少女。その娘の張り詰めた乳房や、なめらかな脚が、脳裏で――
 キンギューは頭を振って妄想を打ち消した。汚したくない。それに、彼女との距離はごく近いが、その間には越えることのできない壁があるのだ。
 熱くなった額を押さえて、キンギューは二階の客間に戻った。ドアを開けて、中に入ろうとして、凍りついた。
 薄暗い室内の、ベッドの上に誰かいる。
「補司さん」
 誘うような甘いささやきを聞いて、キンギューは総毛立った。反射的に廊下に出てドアを閉める。そんな馬鹿な、そんな馬鹿な!
 幻覚だ。さっきの刺激が強すぎたんだ。ここにいるわけがない。あんな風に誘うわけがない。
「ほ・し・さぁん」
 否定は簡単に打ち砕かれた。聞き慣れた声が、聞いたこともない甘さで呼んだ。
「うわっ、うわ」
 酔っぱらいのようにもつれた脚で、キンギューは廊下を駆けた。部下の部屋のドアを次々と叩く。
「誰か、誰か起きてくれ。大変だ。大変なんだ!」
 そしてキンギューは愕然とする。どの扉も開かない。出てきたのは声だけ。甘い、熱い、男女の声だけ!
 廊下の隅までたどりつき、最後のドアにも拒まれたキンギューは、雷に打たれたように振り返る。自分の部屋の扉が開き、そこから声と――艶美な輪郭が現われた。
「ねぇ、補司さぁん。……逃げないでよ」
 帝国府で彼をからかう時と同じ声。軽薄そうな外見に似合わず、理財補司の自分と互角に渡り合うほど商売に通じた娘。だから好いた。だけど諦めた。
 歩み寄る影。キンギューの頭上の壁にかけられたランプが、光を投げている。足が、腰が、体が照らし出される。
「ほんとはあなたが好きなの。だから……抱いて」
 キンギューの理性が、凄まじい欲望で押しつぶされていく。最後の抵抗は悲鳴だった。
「あ、あなたは……誰だ!」
「分からないの?」
 そして顔が光の中に入る。
 皇帝の第一の妃が、限りなく魅惑的な媚笑を見せながら、キンギューを抱き包んだ。

 2.

「クリオン様、いい知らせです」
 明るい笑顔で皇帝執務室に入ったソリュータは、言葉を飲み込んだ。
 謁見の間ではなく、事務を行うための部屋である。象が乗りそうな巨大な机にクリオンがちょこんと座り、しばしば傍らにレンダイクやイマロンが来ている、それがいつもの風景だ。
 ソリュータが沈黙したのは、クリオンの側にいる人物のためだった。天領総監レンダイク男爵と侍医のリュードロフ、これはいい。クリオンの右腕と、さばけた感じの好々爺である。だがもう一人、儀典長官のジューディカ老が立っていた。クリオンの顔さえ見れば世継ぎを作れ世継ぎを作れと進めるこの老人が、ソリュータもまた苦手だった。
「あの……お取り込み中ですか」
「ん、そんなことないよ。おいで」
 クリオンが手招きし、ソリュータはそばに近づく。長い付き合いだから分かる。ちょうどいいタイミングで、耳の痛い話を遮ることができたらしい。
「どうしたの?」
「あのですね、珍しいお客様がいらしたんです」
「珍しいお客?」
「ええ。先月から王都に来ていたんですけど、クリオン様の遠征で会えなかったんです。今日改めてご機嫌うかがいに上がって来られて」
 クリオンは妙な顔をした。ソリュータの言葉遣いが変なのだ。敬語が崩れている。その客が目上なのか、目下なのか、よく分からない。
「誰? そこに来てるの」
「謁見のお時間は正午までですが」
 ジューディカがしゃちほこ張って口を出す。クリオンがうんざりした顔で言い返した。
「それは前帝陛下が決めたことでしょ。予の習慣じゃないんだってば」
「しかし、むやみと人にお会いになられると、執務に差し支えが……」
「ソリュータの紹介でも会っちゃいけないって言うの?」
 さすがにクリオンが気色ばむと、失礼いたしました、とジューディカは口を閉じた。――私が来る前に相当やりあったんだな、とソリュータは察する。
「いいよ、通して」
 クリオンが許可したので、ソリュータは一礼してドアに下がった。開けて、客を通す。
 一歩入ったところで、客はかかとを打ち合わせ、拳を口に当てて忠誠礼を見せた。年は二十代、六フィート近い長身に、紺と金の透かしマントを羽織り、腰には組み紐を巻いたレイピアを下げ、美しい黒髪を肩より長く伸ばしている。仕草といい姿といい実に優雅な、きわどいほど優雅な男だった。
 男は大きめの管楽器のような、響きのいい低音で挨拶した。
「クリオン陛下におかれましてはご機嫌麗しく存じます。――レグノン・ツインド、今上御拝謁の栄誉に浴し、これに感謝の言葉と久方ぶりのご挨拶を述べさせていただくものです」
 貴族でもなかなか言えない、もったいぶった口上だった。クリオンはぽかんと口を開ける。
 いや、挨拶に驚いたのではなかった。開けた口からそのまま、喜びの声を上げた。
「……レグノン卿! 王都に来てたの!」
「ああ、来ていた。久しぶりだな、クリオン」
 男は、いかめしく強張らせていた頬をゆるめて、快活な笑みを浮かべた。浮わついた貴族の娘たちでもいれば、黄色い悲鳴を上げそうな華やかな笑顔である。
「王都のような都会はつらいと父上がおっしゃるので、おれが交代して都へ上がった。古巣に戻ったようなものだから、苦労もしていない。毎日いろいろと楽しんでいるぞ」
「そ、そなた、皇帝陛下に向かってその口の利きようは何事か!」
「うん?」
 ジューディカが卒倒せんばかりに逆上して、甲高い声で叫んだ。男は悠然と首をかしげ、芝居めいた仕草でぽんと手を打った。
「ああ……クリオンは本物の皇帝になったんだったな」
「くり、クリオンなどと呼び捨てに……!」
「長官長官」
 クリオンがため息をつきながら手を振った。
「この人はいいんだってば。レグノン卿は、予の兄上みたいな人なんだから」
「陛下の……兄君殿ですと?」
「申しわけありません、ジューディカ様」
 先に言っておくべきだったわと後悔しながら、ソリュータが急いで説明した。
「この方は私の兄上――失礼、兄のレグノンです。私と陛下はグレンデルベルトで、幼少のみぎり御一緒に過ごさせていただいたので、レグノンは陛下にとっても親しい者なのです」
「そういうことですね」
 レグノンが胸を張って、キザったらしく髪をかきあげる。うぬう、とジューディカはうめく。
 ところが、少し違った反応を見せた人物がいた。レンダイクである。
「貴殿がレグノン卿か。するとグレンデルベルト侯爵殿の後継ぎとなられる方だな。お初にお目にかかる。――私は、イシュナス・レンダイクという者だ」
 鷹を思わせる鋭い目でレグノンを見つめる。
「お目にかかるのは初めてだが、噂はかねがね聞き及んでいる。二、三年前には、王都でも五指に入る伊達者として姫君たちに騒がれていたとか」
「ずいぶんな噂ですね」
「何か相違でも?」
「五指とはみみっちい。おれは一番でしたよ」
 いけしゃあしゃあとぬかしたレグノンを、軽くあごを上げてにらみ、レンダイクはきっぱり言った。
「申し上げておこう。貴殿が娘たち相手に浮名を流されようが、妹のソリュータ殿と親しくされようが、それは貴殿の勝手だ。しかし、クリオン陛下はいまやジングリット全土に至高並びなきお方。――それなりの口を利いていただきたいものだ」
 険しい視線が、薄笑いを浮かべるレグノンにまっこうから突き刺さる。
 爵位で言えば、男爵のレンダイクは次期侯爵のレグノンの足元にも及ばず、天領総監という地位も独立貴族相手には通じない。ところがレンダイクは四十五歳、レグノンは二十四歳で、年齢的には立場が逆転する。
 しかし、そういった表面的な条件ではなく、互いの中身を見抜いたつばぜり合いが、一瞬起こった様子だった。
 レグノンが片手を上げる。
「わかりました、以後気をつけましょう。――帝国府でも五指に入る切れ者に、そう言われてはね」
「五指ではない」
「ほう?」
「――などとは言わんよ。年だからな」
 なぜかそこで、二人は似たような短い笑いを見せあった。
 間で見ていたクリオンは、背筋を走る心地よい寒気を感じた。それとはっきり理解したわけではなかったが、刃を向け合うような今のやり取りが、できる男同士のごく和やかな挨拶であることを感じたのだ。
「……二人とも、かなわないなあ」
「クリオン様?」
「ん、なんでも」
 ソリュータに首を振って、クリオンはレグノンに向いた。
「レグノン卿、王都では何の役職を?」
 地方領とはいえグレンデルベルト一州を、父スピグラムに代わって采配していた男である。当然、それなりの仕事を負っているものとクリオンは思った。
 ところがレグノンの答えは意外なものだった。
「教官」
「……え?」
国立汎技術学校エコール・ポリテクニク中等部コレージュの教官にございます」
 レグノンがもったいぶって頭を下げる。クリオンは唖然とした。
 エコール・ポリテクニクという名称は、西隣のシッキルギン連合王国の言葉である。同名の学校がシッキルギンにあり、ジングリットのものはそれの真似をして設立された学校だ。
 本家は連合王国の政体を支える官吏・工人たちの養成機関として名高く、ジングリットでもそれに追いつこうと努力が払われている。高等大学部グランゼコールを頂点として、高等部リセ中等部コレージュ初等部プリメール幼年部マテルネルの各部に学生児童四千五百名を擁する。
 名門である。しかしいかに名門といっても、そこに所属するただの教官では、とても地位が高いとは言えない。クリオンは不思議に思って聞く。
「どうして教官なんか。レグノン卿なら帝国府にいくらでも仕事があるだろうに……」
「おれは若い連中とにぎやかにやるほうが好きなのです」
 あ、とクリオンは気がついた。 
「もしかして、若い女の子が目当てで?」
 レグノンは、居並ぶ重鎮たちをちらりと見て、さあ? と笑った。
 レンダイクが意外そうな顔をし、リュードロフはにやにやと笑った。ソリュータは情けなさそうに肩を落としている。
 ところが、笑っていない人物が一人いた。
「エコールの生徒と言えば、みな育ちのいい娘たちばかりですな」
 ジューディカである。何やら考えこんでいる。
「それに実力でもって栄達しようとする者らであるから、平民が多い。貴族の頽廃にも染まっていない……」
「長官、何か?」
 レンダイクに聞かれて、ジューディカは意を決したように顔を上げた。
「召し上げられませぬか?」
「何を……ああ、先ほどのお話か」
「先ほどの話?」
 首をかしげたソリュータとレグノンの兄妹を、ジューディカは値踏みするように見つめた。この二人はそれなりの血筋なのだが、ジューディカにとっては皇帝がすべてである。
「そなたらには関わりのないことだ」
「――待たれよ、長官」
 レンダイクが何か考え付いた顔で、ジューディカに耳打ちした。聞き進むうちに、ジューディカの顔が微妙に変わる。
 話が終わると、ジューディカは少し下がった。レンダイクが説明する。
「レグノン卿、貴殿にひとつ頼み事ができた。引き受けていただけないか」
「なんでしょう」
「学校の生徒から、陛下の新しいお妃を見つけてほしいのだ」
「新しい――」「お妃様ですか?」
 レグノンの言葉をソリュータがかき消した。驚きの目でクリオンを見ると、思ったとおり彼は小さくなっている。
「クリオン様、また別の娘をお迎えになるんですか!」
「長官が言うんだよ」
 クリオンは机の羽根ペンをひねくり回しながら言い返す。
「エメラダが来てそろそろ三ヵ月になるけど、まだこど……世継ぎのできた兆しはないでしょ。万が一エメラダに子供ができないといけないから、もっと相手を増やせって」
「そろそろも何も、たった三ヵ月で焦るなんて、気が早すぎます! エメラダに子供が作れるかどうかだって、分かるのはこれからじゃ――」
「作れるなら、もうできちゃってると思うんだよね。その……ほら……」
 目を合わせた二人は、一緒に赤くなった。若さにあふれるクリオンは、エメラダが城に来てからというもの、すでに数十回、閨を共にしている。共にすれば一晩の回数は一度では済まない。そしてソリュータもそれを知っている。
「で、でも、レザ様もチェル姫様もいらっしゃるのに……」
「さよう、その姫君たちも大いに愛されるとよいでしょう。しかしですな」
 ジューディカが言った。
「レザ様、チェル姫殿下、エメラダ様――よいか、エメラダ「様」であるぞ、ソリュータ殿――、まだお妃様はたった三人ではありませんか。しかもチェル姫殿下は、まだご懐妊すら難しいお年。わずか二人のお妃様にしか陛下の高貴な血をお与えにならぬなど、帝国の損失にございます」
「って言い張るんだよ」
「はあ……」
 相変わらず、この件にかけるジューディカの情熱はただごとではない。ソリュータはなんとか反論のきっかけを探そうとする。
「……その、仮にエメラダに子供ができないとしても、あの子が問題だとは限らないのでは? たまたまクリオン様のお体が悪かったとか……風邪でお種が薄まるようなこともあるそうですし……」
 どうして私はこんな恥ずかしいことを必死に言い立てているんだろう、とソリュータはうつむく。
 エメラダ様だと言うに、と悪態をついてから、ジューディカはそばを振り返った。そこにはもう一人の人物がいて、最前からのやりとりを興味深そう眺めている。白い山羊ひげを伸ばした老人、侍医のリュードロフだ。
「陛下のお種には問題ありませんのじゃ。わしが調べ申したからの。エメラダ様のほうは、これは分からん。何しろご婦人の胎内を覗く方法などというものは、ないのであるからして……」
 彼がなぜこの場にいたのか、やっとソリュータは理解した。医学的なこともとっくに検討していたのだろう。にしても、聞き捨てならない言葉を彼は言った。
「り、リュードロフ様、クリオン様のお種を調べたって、一体どうやって……」
 ソリュータは顔色を変えている。いったん怪訝そうな顔をしてから、リュードロフは破顔した。
「わっはっは、まさか男のわしがそんなことをつかまつったりはせん。ちゃんと女性の手を借りて陛下に射ち放っていただき、しかる後これをわしが調べたのじゃ」
「女性に?」
「帝国府の……ほれ、シャムリスタという娘じゃ。あれは何者だったかな」
「私の祐筆です、侍医殿」
「そうじゃそうじゃ。その祐筆にやらせた。たまたま居合わせたから頼んだだけじゃが、大過なく果たしてくれた」
 さっきから顔を背けっぱなしのクリオンを、ソリュータは改めて見る。こういう時はいつも、左胸がきゅっと痛くなる。――また別の女の人が、私のクリオン様に触れたんだ。
 ソリュータは今までそれを許してきた。だが全く平気だったわけではない。愛する人が他の娘を抱いていて不安にならないわけがない。小さな嫉妬はもちろんあった。
 その嫉妬は相手の娘に向き、クリオンには向かない。そのせいでソリュータは、彼の表情のわずかな変化を見逃した。
「陛下にご変調がなく、エメラダ様はどちらかわからない。となればエメラダ様のご懐妊を待つよりは、他の娘にどんどん手をつけていただくのが理にかなうというものじゃ」
 リュードロフは、やや大ざっぱな意見を述べてしめくくった。
 レンダイクがレグノンに向く。
「そういうわけだ。レグノン卿、貴殿の見識で、お妃にふさわしい娘を見つけてはくれまいか」
「お妃ねえ……生憎おれは、妻に娶るつもりで娘たちを品定めしたことはありませんのでね。何しろ可愛い教え子なので」
「何のつもりでもいいが、仮にも教師を務めるぐらいだから、身近に見てはいるのだろう」
「こういうことに他人の眼鏡を借りても、どうしたってピンと来ませんよ。第一陛下のお好みというものが分からない。おれに選ばせたりせずに、一度陛下がご自分でいらしたらいかがです」
「それはいい」
 即座にレンダイクが返事をしたので、一同の視線が集まった。
「エコール中の娘たちを城に連れてくるよりは、多少足労でも陛下にお出向きいただくほうが早いだろう。レグノン卿、それで進めてもらえるか」
「陛下を学校に? それは簡単なことではありませんね」
「簡単でなくても不可能ではあるまい」
「それは、まあ。いくつか問題がありますが……」
「任せる。もちろんお忍びでということになるが、受け入れの態勢を整えてほしい。それと、話が長引いているがこの後も陛下はご予定がある。続きは日を改めてということで、お引取りを願いたいが」
「……わかりました。陛下、失礼させていただきます」
 いきなり口早になったレンダイクの変化に何かを感じたものか、レグノンは来た時よりもだいぶ簡潔な挨拶を残して、すみやかに引き上げていった。
 残されたクリオンが聞く。
「どうしたの、男爵。いきなり女の子を連れて来いなんて言うから、レグノン卿が困ってたじゃない。予が学校に行くなんて変な話になっちゃったけど……」
「なりましたな。彼とても、いい加減な娘を連れてくることはできませんから、それは当然です。もとより一介の教師に生徒を連れ出す資格はありませんし」
「当然って……男爵、狙ったの?」
 驚いてクリオンは目を見張った。レンダイクが慇懃にうなずく。
「彼がそう言いだすのを待っておりました。でなければ私から切り出すつもりでした」
「どうして? 予を学校に入れるなんて」
「正確には、しばらく王宮を離れていただきたかったのです」
 レンダイクは鋭い目でクリオンを見つめた。
「なぜなら、近々イフラ教会が大きな動きを起こすらしいからです」
「……教会が!」
「それは、クリオン様を狙うということですか」
 さきの戦では皇帝の命を狙ってきた、ジングリット国教会の名を聞いて、クリオンとソリュータは息を呑む。レンダイクはうなずく。
「密偵の報告に兆しがあります」
「それじゃ、早く対策を……」
「もちろんやっています。デジエラ将軍やネムネーダ殿、ガルモン殿と、先手を打つ計画を進めております。軍と帝国府が連携した大掛かりな作戦です。小競り合いや戦いが起きる恐れもある。そして相手は正規軍ではなく、間者や狂信者を抱える教会です。現に一度、やつらは陛下の御寝所にまで刺客を差し向けた。――隙をついて陛下のお命を狙ってくることは十分に考えられるのです」
「それに対抗するために、あんな変な話を……」
「皇帝陛下が学校の生徒にまぎれてしまうなどとは、およそ普通の人間なら想像もしないでしょうからな。できれば一日では戻らず、泊まりがけで行っていただけるとありがたいのですが……」
 普通の人間どころか吟遊詩人や歌劇作家でも思いつくまい。クリオンだってそんな突飛な話は聞いたこともない。冗談を言えば雪が降ると噂されるほどの堅物である、レンダイクの意見でなければ、一笑に付しているところだ。
「そういうことなら、予も異存はないけど……予ひとりで城を出たら、やっぱり危険じゃない?」
「近衛を付けるのは論外ですし、シェルカは回せません。あの男の姿は、ソリュータ殿と並んで、ジングリット皇帝ここにありという看板のようなものですし、彼自身に疑いがないわけではない。……いや、彼が改心したことは存じております。しかし彼の肉体が、心の手綱を振り切る危険もあるでしょう」
「じゃあやっぱり、予が一人で……」 
「いえ、大丈夫です!」
 ソリュータがきっぱり言った。
「そういうことなら、兄に話してもいいと思います。兄に任せてください。きっと陛下をお守りします!」
 力説するソリュータをしばらく見つめてから、拍子抜けするほど簡単にレンダイクはうなずいた。
「なるほど、ではレグノン卿に一枚噛ませましょう」
 クリオンは、レンダイクの心をはかりかねて眉をひそめた。ついさっき激しいつばぜり合いをしたばかりではないか。
「いいの? さっきは追い払ったのに」
「未知数の要素でしたから。しかし」
 レンダイクは平然と言う。
「ソリュータ殿が言うならいいでしょう」
「そんな簡単に」
「ソリュータ殿以上に陛下の身を案じる人間が、この城におりますか。私は彼女の信頼を、十分に有用だと思っております」
 有用、とは実に即物的な表現だったが、言っている内容は他人に全面的な信頼を置くものである。情実兼ね備えたレンダイクならではの言葉に、クリオンは改めて感心した。
「まあ、そう結論してくれたのは嬉しいよ。ぼくもレグノン卿が護衛なら安心できるしね。何しろあの人はぼくのレイピアの先生だから……」
「護衛と言うなら、実はもう一人、心当たりがありました」
「心当たり?」
「じきにわかります。いや、忘れていただいて結構。ソリュータ殿、早速だが、陛下のお支度を整えてくれ」
 ソリュータはクリオンを見た。今度は視線が合った。互いの信頼を確かめ合う。
「ああ、もちろん――」
 ジューディカに聞かせるように、涼しい顔でレンダイクは付け加えた。
「陛下、新しいお妃様もきちんとお探しになってください。エコールの優秀な生徒ならば、帝国府としても文句はありませんので」


 そして、城下の兄のもとへ向かう妹が、フィルバルト城の奥院から数度出かけることになった。もちろんそれは目くらましで、皇帝微行のための連絡がエコールの教官との間に交わされたのである。
 計画は数日でまとまり、奥院ではごく内輪の人間にだけそれが知らされた。
 話を聞いたエメラダは眉をひそめ、半信半疑で皇帝私室を訪れ、ドアを開けて立ちすくみ、最後に笑い崩れた。
「な……何よ陛下その格好!」
 室内には、エコール・ポリテクニク中等部の明るい灰色の夏服をまとった、肩までの金髪の少女が、居心地悪そうに立っていた。広い襟を背中に垂らした半袖上衣に、細めの肩布を左肩に下げ、同色の短いスカートと太ももまでの白いソックス、それに砂色のサンダルを身につけている。細い腕と細い足が、少し長すぎるようにも見える。
 クリオンだった。
「なんなのそれ、夏炎祭の余興?」
「うるさいな、仕方ないんだよ。……なんだか知らないうちに、エコールの女子寮に入ることになっちゃったんだから」
「じょ、女子寮!」
 エメラダは石壁を叩いて肩を震わせる。部屋の中には他の人間も集まっていて、反応も様々だ。
 着付け担当のソリュータは大まじめである。レザはあきれ果てて羽根扇で顔を扇いでいる。チェル姫は物珍しげに夏服の裾をつまんでいる。キオラは目を輝かせてうっとりしている。
「お兄さま、すてき…… ボク、知らなかったです。お兄さまがこんなにきれいなんて……」
「男が男の女装を見て言う台詞じゃありませんわ。まったく馬鹿馬鹿しい」
「でもレザさま、今の陛下はチェルよりもお美しいと思うの」
「おうつくしーですって。へ、陛下、よかったじゃない」
 笑いながら近づいて、エメラダはクリオンの顔を覗き込んだ。ソリュータがそれを押しのける。
「笑い事じゃないのよ。レグノン兄様の目が届くところにいていただくための、苦肉の策なんだから。ほら、どいて」
 自前の化粧箱を開いたソリュータが、白粉と口紅と眉墨を巧みに使う。
「うまい具合にクリオン様は、中等部の生徒と同じお年だし、もともと顔立ちがお優しいから……薄めのほうがいいですね。自然な感じで、ちょっと輪郭をぼかす程度に……これぐらいかな」
「あら」
 エメラダが笑いを収めて、ぐいとクリオンの顔を手で挟んだ。
「ちょっと……なかなかじゃない。ねえキオラ殿下、陛下ったらあなたに負けてないわ」
「はい、ほんとに。ああ、ボクなんだか、どきどきしてきちゃった……」
「あのさあ……」
 クリオンは顔をしかめる。その口にエメラダが指を突っ込んで、ぐにっと左右に引っ張った。
「だめでしょ、女の子がそんな口利いちゃ」
「やへへよ」
「違う、やめてちょうだい。はい、言ってみて」
 クリオンはうつむき、やけに涼しいスカートのせいで内股になり、羞恥で赤くなった頬に片手を当てて、小声で言った。
「……やめてちょうだい」
 ぐらり、とエメラダが後ろに一歩引いた。キオラが口の前にこぶしを当てる。ソリュータがつばを飲みこむ。チェル姫がぽかんとする。
 レザはうさんくさそうに見つめてから、ため息をついて自分の髪から金のカチューシャを引き抜き、クリオンの髪にそれを差した。
「枯れない花、虫もつかない花、それは造花だからこそ……とはいえ、造花もここまで咲けば、花瓶に差す価値が出てくるものですね」
「え……それは、誉めてくれてるの?」
「ええ。誉めるべきなのかどうかわかりませんけれど」
「く、クリオン様……」
 なぜかまぶしげに目をそらしながら、ソリュータが言った。
「十分です。これなら怪しまれずにまぎれ込めると思います。ですから、今日はここまでにしておきましょう。お化粧、次からはご自分でできますよね」
「そうね」
 エメラダがやや醒めた顔で、頭をかいた。
「洒落にならないわ。なんだかあたし、腹が立ってきた。……って、陛下に妬いてどうするのよあたしは」 
 娘たちの反応を見て、クリオンは妙な落胆と妙な自信をいっぺんに覚える。今まで男として認められていると思っていたのに、ちょっと服を変えただけでこんな風に感心されるなんて。喜んでいいのかどうか。
「……まあ、いいか」
 あまり気にしないことにした。自分を見慣れている彼女たちが絶句するぐらいだから、変装の効果は十分あるのだろう。
 エメラダが追い払うように手を振る。
「行ってらっしゃい。いい子を見つけてきてね」
 ソリュータを除いて、彼女たちにも教会の危険のことは話していない。単なるお妃探しだと言ってある。そしてそのことについては、おおむね合意が取れていた。
 レザはそのプライドゆえに嫉妬しない。エメラダは新しい妃が多分平民になると聞いて、貴族のレザと張り合う仲間ができることを期待している。キオラとチェル姫は、友達が増える程度にしか考えていないので、もちろん歓迎である。
「うん、行ってくるよ」
 言ってから、クリオンはもう一度練習してみた。
「ええ、みんな。……行ってくるわ」
 またしても、娘たちが見えない光に打たれたように目を逸らした。ソリュータが真剣な顔で言う。
「陛下、お気をつけくださいね。変な殿方なんか近寄らせたらだめですよ」
「大げさだなあ」
 大げさではなかった。――問題は「変な殿方」ではなかったが。

 3.

 エコール・ポリテクニクは、王都フィルバルトの東の外れの丘陵地に位置している。
 その生徒は王都の住人だけではない。地方からも毎年大勢が立身出世を願って集まってくる。彼らのために、学院には寮が建てられた。
 また、フィルバルトは人口八十万を抱える大都市で、旧市街地だけでも差し渡しが三リーグあるから、もしすべての生徒を毎日通学させたとしたら、東の端にあるエコールまで往復六時間近くかかってしまう者が出てくる。そういった生徒の中にも、寮を利用するものはいる。
 ポレッカは、その中のいわゆる地元組だった。王都には住んでいるが家が遠い口だ。
 朝八時すぎ。すでに髪が暖まるほど強くなった夏の光のもと、ポレッカは寮門を走り出した。
 服装は中等部のそれである。髪の色は、この時間の空よりもさらに明るい澄んだ水色で、それを二条の三つ編みにして背中に流している。顔立ちに派手さはないが、目は明るく、肌には素朴なみずみずしさがあった。体の発育のほうは、二年後にまた聞いて、というところ。
 三つ編みがはねるほど走る。
「遅くなっちゃった。……四百枚もお皿洗うなんて、きつすぎるよ」
 彼女は寮の食堂の皿洗いの当番だった。それは同室の娘と二人でやるべき仕事だったが、その娘が夏季休暇をとって帰ってしまったために、倍の仕事をこなすことになったのだ。
「一限目の講義、間に合うかなあ」
 エコールの構内は広く、見事に枝を広げたハルニレの木の間を縫うように、遊歩道が走っている。道は曲がりくねっていて、中等部の校舎は遠い。
 礼拝堂から、重々しい一点鐘が聞こえてきた。八時半の鐘だ。
「しょうがない、近道っ」
 遊歩道の途中で前後を見て、誰もいないことを確かめると、ポレッカは木々の間へと走りこんだ。そちらは立ち入り禁止の廃校舎がある区画だ。
 キンモクセイの生け垣をかき分けて通りぬけ、雑草の生い茂る中庭を走り、苔むした校舎の角を曲がる。
 そこで、立ち止まった。
「あら……?」
 校舎と倉庫の間の狭いところで、数人の男子が集まっていた。体が大きく、肩布に緑のラインが一本入っている。中等部コレージュではなく、高等部リセの生徒だ。
 そいつらはポレッカに気付くと、はっと顔を上げてにらんだ。
「おまえ、聞いたか?」
「え、聞いたかって……」
「今の話だ。聞いただろう」
 一番体格のいい男子が近づいてくる。見覚えがあった。高等部でも札付きの不良で、悪い大人たちとも付き合いがあるという噂の、タッスという男子だった。
 危険を感じて、ポレッカは逃げ出そうとした。だがそれより早く、タッスの腕を伸びた。ポレッカの三つ編みを捕まえる。
「痛い!」
「待ちな。話がある」
 タッスがポレッカを壁に押しつけ、周りを他の連中が囲んだ。みな、制服の肩布に勝手な模様を書き、サンダルの後ろを踏みつけているような、柄の悪い男子ばかりだ。
 ポレッカは縮みあがる。
「中等のガキか……」
「おい、どこまで聞いた?」
「わ、わたしはなにも……」
「とぼける気か!」
 タッスがこぶしを振り上げた。ひっ、とポレッカは顔をかばう。
 その時、穏やかだが歯切れのいい、夏の薫風のような声がかけられた。
「やめてあげたら? その子は今走ってきたばかりよ」
 生け垣の切れ目から、一人の少女が現れた。それを目にしたタッスたちは、そしてポレッカも、自然にまばたきする。
 やや短い金髪で、服装はポレッカと同じ中等部の夏服。気品のある顔立ちだがきつくはなく優しい。ごく自然体なのに、歩く一歩、差し出す片手に張りがある。背後にいても振り向いてしまいそうな、不思議な存在感のある少女だった。
「な……なんだおまえは」
 一人が毒気を抜かれたように言った。少女は、自分よりも一回りは体の大きい男子たちの中に、平然と近づいてくる。
「通りがかっただけよ」
「ならさっさと行きな。見世物じゃねえぞ」
 ポレッカは声を上げようとした。助けて、と。でも声が出ない。
「行きたいんだけど、道が分からないの」
 少女は肩をすくめた。
「迷っちゃった。それで、誰か同級生についていけばいいと思って、その子を追いかけていたの。その子も今ここに来たばかりよ。なにも聞いてない」
「信用できるか。おまえたち、仲間だろう?」
 タッスが吐き捨てるように言う。少女は軽く笑って、ポレッカを見た。
「きみ、わたしを見たことある?」
「えっ? ……ううん、初めて。転校生、なんですか」
「そういうこと。ほら、新調の服」
 少女はスカートをつまんで見せた。男子たちは凝視する。それは確かにおろし立ての新品のようだった。――が、彼らが見つめたのはそこから伸びるすらりとした足の方だろう。
「分かった? わたしはその子とは初対面。だからかばう必要はない。だから、その子がなにも聞いてないって言うのは本当」
 少女は、はっきりタッスを見つめて――彼がリーダーだと一瞬で見抜いたように、言った。
「放してあげて」
「……ちっ」
 タッスたちは、いまいましそうにつばを吐いて去っていった。
「はあっ」
 足が震えて、ポレッカはぺたんと尻もちをついた。自分のことをそれほど臆病だと思ったことはないが、人気のないところでいきなり男に囲まれたのは初めてで、何もできなかった。
 まだ心臓がどきどきしている。
「大丈夫?」
 顔を上げると、少女が心配そうに覗き込んでいた。不思議な人、とポレッカは思う。あの乱暴者たちを前にしても、怖がるどころか声一つ震わせなかった。
 逆光が少女の金髪に透ける。思わずポレッカはつぶやいていた。
「きれい……」
「え?」
「え、あの」
 何言ってるんだろ、とポレッカは赤くなった。
「あ、ありがとう。私、まさか立ち聞きだけで怒られるなんて思ってなかったから……」
「彼らが悪いのよ。聞かれただけで口止めしなきゃいけないようなことを、話していたんだから……」
 そう言うと、少女が手を伸ばした。ポレッカは素直にそれをつかみ、立ちあがる。
「あの、何かお礼……」
「いいわよ、たいしたことじゃないから。――ああそれなら、中等部の場所を教えてもらえる?」
「そこの角を曲がって、生け垣をもう一回突っ切ってから、正面右側の建物だけど……あの、私」
「ありがとう! じゃ、急いでるから。一度教官室に行かなきゃいけないの」
 軽く手を上げると、少女は颯爽と走り去った。ポレッカは口をぱくぱくさせる。
 校舎まで一緒に、と誘いたかったのだが、言えなかったのだ。
 まぶしすぎて。

 だが、ポレッカがしっかりした礼を言い直す機会は、意外に早く巡ってきた。
「シロン・ツインドです。――よろしく」
 教壇に立って挨拶をした少女を、ポレッカは目を丸くして見つめた。
「シロンはおれの従妹だ。両親の都合で、夏の間だけフィルバルトに滞在する事になった。一応貴族だが、気にしないで仲良くしてやってくれ」
 先月に担任になって以来、女子の噂の的になっているツインド教官――レグノンさま、と陰で呼ばれている美形教官――が、少女の肩を叩いた。
「それで、と。シロンは女子寮に入る事になるんだが、右も左も分からないから、放課後に誰か案内をしてやってくれないか?」
 はいはい、と数人の女子が手を上げる。当然だな、とポレッカは思った。こうしてただ立っているだけでも、あのシロンという子は不思議な魅力を発散している。誰だって友達になりたいと思うはずだ。もちろん、自分だって友達になりたい。
 でも、私は他の子みたいに、貴族やお金持ちじゃないから……
 ポレッカはあきらめかけた。
 レグノンが講義室を見まわし、一人の女子を指差した。
「それじゃ、ジョカにやってもらおうか。シロンを案内して、空いている部屋に寝具と机椅子の用意をすること」
「えっ、私一人でですか?」
「ルームメイトとやればいいじゃないか」
「机を倉庫から出すの、大変なんですけど」
 ポレッカははっと顔を上げ、思わず叫んでいた。
「あのっ、私!」
「ん?」
 レグノンがこちらを向く。ポレッカはかっと顔に血を上らせた。考えてみれば、レグノンと会話するのも初めてだった。やっぱりまぶしかったのだ。
 そこをなんとか努力して、懸命に言葉をつなぐ。
「私の部屋、使ってください! ベッドも机もあります!」
「そうか。しかし……」
「あっ私、ポレッカって言います! シロンさんさっきはありがとうございました!」
「ポレッカ、ちょっと」
「私の家は水車通りの食堂で、貴族じゃないしお金もありませんけど、寮の部屋は綺麗にしてますしよければお料理も作りますし」
「ポレッカ!」
 ぴしりとレグノンが言った。ポレッカは鞭打たれたように沈黙し、泣き出しそうな顔で頭を下げた。
「す、すみません。でしゃばって……」
 小声で言って、がたがたと椅子に座る。それを追いかけるようにレグノンが言った。
「こら、なんで座るんだ」
「いえ、すみません」
「別に怒っちゃいない。悪かったな、大声出して」
 レグノンに優しい言葉をかけてもらいたがっている女子は大勢いる。その子たちの視線を感じながら、ポレッカは顔を上げた。
 レグノンが苦笑しながら言った。
「シロンに部屋を貸したら、君はどうするんだ? うちに帰るのか」
「え?」
 ポレッカは何度か瞬きし、自分が一番大事なことを説明していなかった事に気付いた。真っ赤になりながら立ちあがる。
「その……私の部屋、ルームメイトが夏季休暇で帰ってて、ベッドが一つ空いてるんです。だから……」
「それはおあつらえ向きだ」
 レグノンはかたわらを振り返って言った。
「シロン、あの子の部屋はどうだ?」
「他の子と一緒なの?」
「そう貴族風を吹かせるものじゃない。見ての通り優しそうな子だぞ。不満か?」
 シロンの視線がこちらに向く。ポレッカは穴があったら入りたいような気持ちでうつむく。――あんなおっちょこちょいなところを見せてしまうぐらいなら、最初から黙っていればよかった!
 シロンは、くすっと笑ったようだった。
「いいわ。一緒にさせてもらう」
「え……」
 半信半疑で、ポレッカは前を見た。クラス中の男女の視線を集めながら、シロンがそばにやってくる。
「よろしく、ポレッカ」
「よ、よろしく……シロン」
 ポレッカは消え入りそうな声で答える。
 レグノンの指示で当番が机を持って来た。ポレッカの隣にシロンが並ぶ。
「それじゃ、授業を始めるぞ。一時限目は公用語だ」
 ポレッカは帆布の鞄から麻紙と鵞ペンを取りだし、教官のレグノンを注視しようとした。しばらくそうしていると、横からつつかれた。
「ね、ポレッカ?」
「ははい! なに?」
「それ、余りがあったら貸してもらえない?」
 ポレッカはまた自分が失敗したことに気付いた。シロンが手ぶらなのは最初から分かっていたのに。
「ご、ごめんなさい! はい、これ」
 あわてて麻紙と予備のペンを差し出し、うつむいて小さくなる。
 ――もう、もう、私のばかっ。
 シロンはそんなポレッカを困ったように見つめていたが、やがて麻紙を差し出して、何気なく聞いた。
「ね、ポレッカって変わった名前だけど、どういう字を書くの?」
 ポレッカは顔を上げると、Poreccaと短く書いて、また小さくなった。
 しばらくしてからふと気付くと、その横に別の字が書かれていた。
 Ciron
 横を見ると、シロンが微笑んでいた。
「そんな固くならなくっていいから、ね? 仲良くしましょ」
 同い年のはずなのに、たくさんの苦労を経験した人のような、包みこむような笑顔だった。
 ポレッカは、こくりとうなずいていた。


 エコール・ポリテクニクは国立汎技術学校である。
 分かるようで分からない名称であるから少し説明すると、この学校は学問を教えるところではない。指導者を育てるところである。政治・経済・軍事・科学などを教えはするが、それは帝国府や地方領の軍官吏・役人を育てるためである。現在それが、ジングリットで一番権威のある学府ということになっている。
 本家の隣国シッキルギンでは、これほど偏っていない。あちらではエコール・ポリテクニクというのは学校の一つに過ぎなくて、他にも人文教養系の学校がたくさんある。
 しかしジングリットはエコール・ポリテクニクだけを輸入した。なぜかというとジングリットにはイフラ教会があって、その勢力が馬鹿にできないからである。教会が育てる人材が帝国府にとって多いに邪魔になるので、それに対抗するためにエコール・ポリテクニクが設立されたのだ。皇帝を頂点とした専制体制を支える選良の養成機関としての位置付けである。だから二つはいらない。多いとかえって権威が落ちる。
 歴代の皇帝や帝国府の官吏には、ずいぶん悪知恵の回る人物がいたらしい。彼らによって、ジングリット帝国府には、大きなこの国を治めるために、表面だけ平民に配慮するような仕組みがいくつも作られた。たとえばジングリット帝国府には国議があって議決制を取っている。しかしこれは不完全な議会で、平民より貴族の方が有利になっているし、皇帝など一人で議決権の半分を持っている。
 エコール・ポリテクニクも同様である。建前上は身分を問わない教育機関だが、教えていることは皇帝至上の権威主義である。平民に門戸を開くことで、逆に服従を刷り込んでいる。
 あまり開明的とは言いかねる制度だが、平民にとっては軍と並んで、数少ない栄達への道である。裕福な市民は言うに及ばず、地方官吏や下級貴族なども競って子弟を入れようとしているし、あまり余裕のない市民ですら、なけなしの金をはたいて我が子を入学させている。
 その結果は、熾烈な順位競争と落ちこぼれの発生だった。校舎の中には秀才がごろごろしている。校舎の外には挫折組がうろついているという按配である。
 さて、その名門学院でのポレッカの位置はというと、学年にして中等部コレージュの四年、次の高等部リセへと進学する集団の、どうにか最後尾についているというところだった。落ちこぼれてはない。だが苦しい。
 今日もカリキュラムは進み、レグノン教官に代わって初老のフェンデル教官の講義になる。科目は大陸政情。
 厳しい教官による難しい科目であり、加えて今日も暑い。室内は殺気立っていた。
「……さて、前回の講義で述べたとおり、さきのシッキルギン出兵で我がジングリット軍は、無事ミゲンドラ軍を打ち破ったわけだが、今回はその分析をしたい。出兵に当たって我が軍は十万という大きな兵力を出した。この兵力でミゲンドラ本国を征服してしまわなかったのはなぜか?」
 フェンデルの険しい眼差しが長い剣のように生徒たちを薙ぐ。
「では、ミシェル!」
「はい、最初の戦いで兵力を消耗したからです!」
「いいや。戦闘終了時に我が軍は七万九千名を残していた。作戦次第でミゲンドラ本国を落とせる兵力だ。では、カナリン!」
「はい、食料がなくなったからです!」
「いいや。食料には多少の余裕があった。それにこの季節なら現地で調達することも可能だ。両名は次回までに『初級兵学解題』の第三章を要約!」
 生徒たちは震えあがる。
 次の獲物を求めたフェンデルが、こちらを向いた。ポレッカは首をすくめる。
「では、君!」
 指差された。思わずポレッカは目をつぶりかけた。
 だがよく見ると、老教官の指は自分の隣を指しているのだった。
 シロンが立ち上がる。ポレッカは気の毒さで息が詰まりそうになった。転入初日に「かみつきフェンデル」に狙われるなんて。
「編入生だな。しかし甘やかしはせん。まず名を名乗り、それから思うところを言ってみなさい」
「シロン・ツインドです。質問の答えは……」
 部屋中から視線が集中する。この賢そうな少女はなんと答えるのか。
「攻めたくなかったからです」
「……なに?」
 フェンデルがぎゅっと眉を吊り上げた。生徒たちも、ポレッカも、唖然とする。子供じゃあるまいし!
 周りの反応に気付いたのか、シロンはちょっと首をかしげて、言い直した。
「皇帝は、攻めたくなかったんだと思うんです」
「陛下と言いなさい陛下と。何かね君は、国軍の総大将の皇帝陛下が、そんな引っこみ思案の娘のような理由で、容易に打ち倒せる弱国を見逃したと言うのかね」
「はあ……」
「けしからん!」
 最前列の生徒が吹き飛ぶような一喝だった。
「かしこくもジングリット皇帝陛下と言えば、遥かないにしえ瀕滅大戦の折、身を挺して異形の軍をカリガナの海底深くに沈めた、高貴にして勇敢なジングの血に連なるお方であるぞ! そのお方が戦いを臆して避けたなどということがあるものかね!」
「では、なぜ攻めなかったんですか?」
「決まっておる。ミゲンドラまで踏みこめば、国境とジングリット国内が大幅に手薄になってしまう。そこをシッキルギンに突かれたら危険ではないか。ミゲンドラは、シッキルギンを倒した後に狙うべき位置にあるのだ」
 さすがに教官だけあって明快な説明であり、生徒たちも納得してうなずいた。分かったか、とフェンデルはシロンを見下ろす。
「君は基本的な素養に欠けるようだな。『初級兵学解題』をすべて通読して――」
「ああ、スーミーがそういう問題も指摘していましたね」
 フェンデルは口を閉じてシロンを見つめ直した。そして、彼女がまったく萎縮していないことに気付いた。シロンがこちらを見つめて、帝国府のシャムリスタ様が、と付け加える。
「攻めたくなかったというのは、ミゲンドラをシッキルギンに対する伏兵として残したかったから、それにミゲンドラ自体に領土的な価値が低かったからです。シッキルギンの諸王がずいぶん前からミゲンドラを放置しているのと同じ理由です。それらを勘案したのは帝国府のレンダイク男爵ですけど。……ええと、だから皇帝陛下は攻めたくなかった、と」
 室内がしんと静まり返った。
 フェンデルは度肝を抜かれたような顔をで尋ねる。
「君は……なんだ、その、帝国府に知り合いでもいるのかね」
「え? ……ええまあ、ちょっと」
 シロンが照れたように首をかしげて、ほっぺたをかいた。
 フェンデルはもごもごとあごの辺りを動かしていたが、一個中隊の敵に囲まれた新兵のような顔で、悔しげに言った。
「……よろしい、私の前言を撤回する。見事な解釈だ。ええ、次の疑問は……」
 手ごわい相手だと思ったのか、フェンデルはシロンから視線を外して講釈を再開した。シロンは座る。
 ふと気付くと、周囲から見つめられていた。二、三の陰険なものを除いて、残りは熱いほどの賞賛と羨望の視線だった。一番強いのは、もちろん隣からである。
「シロン……すごい……」
「そ、そう?」
「まるで大学部グランゼコールの博士みたい。……シロンならきっと、理財司のイマロン様みたいな高等文官になれるわよ。それとも軍に入るの?」
 ポレッカの素朴な感動の眼差しを受けて、シロンは居心地が悪くなった。その場しのぎに聞き返してみる。
「ポレッカは何になりたいの?」
「え、私は……」
 ポレッカは口ごもり、やがてあまり元気のない笑いを浮かべた。
「私は、お城の中の仕事がしたいなあ、なんて……」
「帝国府の文官に? ポレッカならきっとなれるわよ」
「そうかなあ。どうして?」
 シロンが机を指差す。ポレッカは書き込みだらけの自分の教科書を見て、赤くなった。
「これは……あんまり分かってないの。私、頭悪くて」
「大丈夫。わたし、平民でも頑張り屋さんは好きよ」
「シロンが好きって言ってくれても」
「え? ……ごめん」
 シロンが口を押さえるのを見て、ポレッカはあわてて言い直した。
「ご、ごめんなさい私こそ。シロンは親切で言ってくれたのよね」
「う、うん」
「ありがと」
 二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。


 この季節、午後は暑くて勉学どころではない。昼を過ぎると授業が終わる。
 シロンが素晴らしい提案をしたので、ポレッカは一も二もなく賛成した。お弁当をどこかで食べてから、学内を案内してほしいというのだ。
 他の生徒たちに混じって、嬉々として二人が講義室を出ようとすると、誰かに止められた。レグノンだった。
 シロンが楽しそうに言う。
「レグノン卿、わたしたち、これから一回りしてくるから」
「二人でか? それはまずいな」
 レグノンが顔をしかめたので、ポレッカは悲しくなった。従妹にふさわしくないと思われているんだろうか。
「だめですか? 教官」
「んん……シロンはまだ荷ほどきもしてないし、まっすぐ寮へ行ってもらったほうが安全なんだが……」
「安全?」
「あ、いや。つまり……つまり、シロンは肌が弱いから、あまり外を歩かせないでほしいんだ」
「そんなことないわ。わたしは健康よ」
 シロンが不自然なほど快活に言って、レグノンを見つめた。かえってポレッカが心配になる。
「シロン、無理はだめよ。体が弱いなら、素直に寮に戻ったほうが」
「でも、こういう開放的なところも、たまには歩いてみたいわ」
「そりゃ城にこもってれば物珍しいのも分かるが……」
「城? シロンってお城に住んでたの? レグノン教官の従妹ってことは、グレンデルベルトの?」
「ああ、うん」「そ、そうよ。グレンデルベルト館」
 あわてたように二人が言った。すぐにシロンが悪戯っぽい顔で言う。
「ね、レグノン卿。グレンデルベルトにはこんな大きな学校なかったもの。見学させて? お願い」
「うーん……」
 何やら、こいつめ、というような顔でシロンをにらんでいたレグノンが、不意に手を打った。
「仕方ない。いいだろう」
「本当?」
「その代わりおれもついていく」
「教官が?」「レグノン卿が?」
 驚いた二人に、レグノンがニヤリとからかうように笑った。
「シロンが倒れたりしたら、従兄として面倒を見なきゃいけないからな」
 そしてポレッカは、生涯でも三本の指に入るほど恥ずかしい気分で学内を歩くことになった。
 左にシロン。右にレグノン。かたや才色兼備の転校生で、かたやその名も女子たちに轟く「レイピアの先生」。
「レグノンきょうかーん! お昼ご一緒しませんか?」
「ありがとう! しかし今は両手に花なんだ!」
 ハルニレの下でランチを広げた五人ほどの集団に声をかけられて、レグノンがにこやかに手を振る。
「しっシロンさん、シムレス館の食堂に行きませんか。皆さんもご一緒に」
 まだ世慣れしていない地方貴族の少年たちが、しゃっちょこばって並んで誘う。「ごめんね、先約があるから」と、シロンはさらりとかわす。
 自分がいる意味どころか、生きている意味すら疑い始めてしまいそうな取り合わせである。すれ違う生徒すれ違う生徒、男女を問わずみんなが目を丸くして振り返る。ポレッカは肩を狭めて蚊の泣くような声で言う。
「ねえシロン、教官が案内してくれるんだから、私なんかいなくてもいいでしょう?」
「え? そんなことないわよ」
 驚いたようにシロンが言った。
「ポレッカはわたしの最初のお友達だもの。それにレグノン卿だって、まだ学内の詳しいことは知らないし」
「でも、だって……私、恥ずかしい」
「何が?」
「二人とも、私よりずっときれいなんだもの……」
 うつむくポレッカをシロンはしばらく見つめていたが、やがてふっと息を吐いて、ポレッカの髪に触れた。三つ編みを軽く持ち上げる。
「わたし、この髪、素敵だと思うな」
「え?」
「こんなきれいな空色、見たことがないわ。どこの生まれなの?」
「どこって、別に……シロンみたいな貴族じゃないもの」
「貴族じゃなくたって、生まれた場所はあるでしょ?」
「水車通りよ、下町の。ただの食堂の娘」
「なんて食堂?」
「こまどり亭……」
「こまどり亭。ああ! こまどりってあの瑠璃色の小鳥! それって、もしかしてこの髪と関係が?」
 ポレッカはまじまじとシロンを見つめ、うなずいた。
「そうよ。私が生まれたときに、父さんが店の名前を変えたの。……学校に入ってから気付いてくれたの、シロンが初めて」
「素敵じゃない」
 シロンが、なぜかしみじみと言った。
「お父さんやお母さんに愛された、きれいな髪じゃないの。わたしなんか……」
「え?」
「二人とも、死んじゃったから」
 息を飲んだポレッカに、シロンは笑ってみせた。
「自信を持って。少なくともわたしより、きみは幸せよ」
「……うん」
「いいかな? お嬢さんがた」
 少し離れたところで様子を見ていたレグノンが、顔を出す。
「そろそろ食事にしたいんだがな。ポレッカは弁当?」
「は、はい。シロンと半分こするつもりだったんですけど……教官、ないんですか?」
「おれは高等部のエラフォン館のカフェが気に入ってるんだ。いや、気にしなくていい! 見たまえ、ちょうどそこにもワゴンが出てる。あそこでパンを買おう!」
 レグノンは遊歩道に止まっていたパラソル付きのワゴンへ歩いていった。さっさと買うかと思ったら、売り子のおばさんを口説き始める。
 ポレッカは呆れとも憧れともつかない声を漏らす。
「教官ってすごいなあ。誰とでも仲良くなれて、いつも余裕があって……」
「あの人はあれが人生で二番目に得意だから……」
「……そうなの?」
 不思議そうに聞き返したポレッカに、シロンが笑った。
「真似なんかしなくていいわよ。――あ、でも明るさだけは、ね」
「……そうね」
 会ったばかりなのに、とポレッカは思う。この人たちには励まされっぱなし。
 何かお返しできればいいな、と明るい空を仰いだ。

                            ―― 中編へ ――




次へ 戻る メニューへ