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皇帝陛下は15歳!

 第2話


 1.

 何ひとつ物音のしない、無限の静寂に満ちた空間だった。
 そのはずだ。頭上には五百ヤードに達する厚い岩盤がのしかかっている。ロウソク一本もない真の暗黒。そして、居並ぶ数百人の男女も、呼吸の音さえ殺している。
 地底湖だった。差し渡し百ヤードあまりの円い水面。その周囲を囲む形で、彼らは立っていた。全員がじっと水面を見つめている。
 あやめもわからぬ暗闇の中で、一体何を見ているのか。
 それは分からない。だが彼らは、ずいぶん長いあいだそうしている。列の間に倒れている者が十数名。力尽きたのだ。
 そのまま続ければ、もっと犠牲者は増えただろう。
 だが、低い声が苦難の時に終わりを告げた。
「――あと五秒だ。四、三、二、一……行を終える」
 ほっとした空気が一同の上に漂った。低い声が続ける。
「皆、ご苦労だった。七日間よく耐えてくれたな。……だが、休む前に行の成果を聞こう。『見た』者はいるか」
 広い空間を低い声が渡ると、反響のように多くの答えが返ってきた。
「見た」
「見た」
「見た」
「私も、見た」
 数十の声が和した。ひとしきりその声が反響すると、どうやってかそれを数えたらしく、最初の低い声が疲れたように言った。
「三百六十一名中、五十八名。……十五パーセントか。明らかに天然より多いな」
 空間にしばらく沈黙が満ちたが、やがて声は言った。
「残念だが、認めよう。いにしえのカミオカ地底湖の流れを汲む探光の行により、我らは確認した。純水に蒼き光を宿す邪悪な砂塵を。――我らの、敵の証しを」
 ざわめきが一同の間を走った。それを抑えて声は続ける。
「迎え撃たねばならぬ。仲間を募らねばならぬ。使いを立てよう。今一度、いにしえの流儀に則る。この中で、百の光を見た者」
「……」
「五十の光を見た者」
「……」
「三十の光を見た者」
「四十二、見つけました」
 ひとつ、澄んだ声が応えた。
 それを聞くと、低い声は少しためらうかのように沈黙した。だが、言った。
「……うむ、ではおまえが使いを務めなさい」
「はい」
「他の者は備えを。時間はあまりない」
 暗闇の中で多くの気配が動いた。粛々と地底の空間から出ていく。
 彼らが何者か。何をしているのか。それを知る者は、もはやこの大陸にいない。
 名のみ伝わる。彼らは、プロセジア占星団。


 ジングリット帝国、フィルバルト王宮内、第三練兵場。
 城の東の胸壁沿いに作られた、二千人の歩兵団による模擬戦も可能な、広大な広場である。今日はそこで、王都防衛の第二軍の重歩兵団が陣形訓練を行っていたが、彼らは不満だった。
 朝から工兵が練兵場の隅に何百本もの杭を打ちこみ、場所を狭めていた。それだけではなく、昼をすぎてからは、十数人の近衛兵に囲まれたなにやら偉そうな人間が出てきて、訓練を一時中断させたのだ。
「ありゃなんだ」「ガキみたいだな」「ばか、あれが陛下だぞ」「なに、あのひょろっこいのがか?」
 新しく即位したクリオン皇帝が出てきたと聞いて、兵士たちは訓練の手を止め、興味津々の面持ちで見守った。
 クリオンと、女性武官のマイラ・ニッセンを始めとする近衛兵たちである。他に、国軍本営の工武廠に所属するベクテルという工匠が随行している。
 彼らがここにやってきたのは、皇帝の剣を調律するためだった。
「では、陛下の剣をお見せいただけますか」
「うん」
「失礼、拝見いたします」
 律儀に頭を下げて、ベクテルがクリオンのレイピアを受け取る。視力を変えるメガネとかいう妙な道具をかけた、四十年配の実直な工匠である。
「ふうむ……ナグレブの名人、フェボンの銘ですな。いいこしらえです。少々硬すぎるようですが……」
「ぼく、突きにしか使わないから」
「ああ、これは失礼を。そうですな、陛下の御体格ならそのような戦法しか……いえ、たびたび失礼を」
「そんなにかしこまらなくっていいから」
 苦笑するクリオンに、さようでございますか、と頭を上げて、ベクテルは続ける。
「皇帝陛下ともあれば、陣中で采配を振るわれるのがお勤めです。切り結ぶことはありませんから、まあこれで構いません。聖御法にも剣の強度は関わりございませんし」
「それで、付く?」
「付きますとも、この剣にも球孔がございます。ではさっそく、聖霊の力を与えてみましょう」
 ベクテルはかたわらの鉛の箱を開けた。くるみほどの大きさの黒い玉がいくつか入っている。近視らしく何度か瞬いてから、彼はひとつを取り上げた。
「この辺りがよろしいかと。強さは二百二十五ヘイリン、五星暦一一六〇年の冬に北部キンバルトの三州を襲った、名のない地震霊の封球です。顕現象は地裂ですし、わりとおとなしくて命じやすいかと」
「二百二十五ヘイリンでは、少し弱くないか」
 マイラが口を挟む。ベクテルはちょっとクリオンの顔色を伺うように見てから、用心深い口調で言った。
「聖御の技は難しいものです。高名な家系の練達の騎士ですら、よく霊を抑えこむことかなわず、反撃の牙を受けることもございます。まずはおとなしい霊で調律に慣れていただいたほうが……」
 急いで付け加える。
「もちろん、陛下の血が卑しいとか、腕がお悪いなどと申し上げておるわけではありません。ご無礼の段、平にご容赦を」
「いいってば。それよりマイラ、二百二十五ヘイリンってどれぐらいなの?」
 軽く笑って、クリオンは聞く。マイラは自分の剣を抜いた。やや長めの刃を持つ剣の柄に、同じような封球が埋めこまれている。
「私のものは、四百八十ヘイリンの力を持つ旋風霊です。一二一一年にエイグの大農場を襲ったもので、名は『キシューハ』。顕現象は乱旋風」
 マイラは武人らしく、つかの間愛でるような視線を剣に送ってから、振り返った。
「お見せしましょうか」
「いいの? ぼく、見たことないんだ」
「そうなのですか?」
「蛮族とか野獣とかしか相手にしたことなかったから。正規軍の戦闘はまだ」
「では、ご覧ください。実戦のように戦気が高まっていれば一言で通じますが、今のような平常時は、命詞を唱えて力を引き出さねばなりません」
 マイラは前に出て、剣を正眼に構えた。クリオンたちは後ろに引く。そのさらに後方では、一般兵たちが固唾を飲んで見守っている。
 城の胸壁の前に林立する杭の集団を見つめ、マイラは剣に向かって命詞を唱え始めた。
「我、エリドの古き血トーガ・ニッセンに連なるもの、マイラ・ニッセン。聖御の技もてくくりし聖なる風キシューハに、血と力において命じる。刹那の目覚めを許すに付き、今再び威力を振るえ、舞い狂い敵を裂け。いざや、聞かん?」
 言いながら刃に指を滑らせ、薄い傷から血を与える。
 剣が震えた。
『諾』
 主にしか聞こえない応えとともに、技に縛られた聖霊が力を現したことを、マイラは両腕に感じる。大きく剣を振り上げ、印の形に切り下ろした。
 サン、サンッ! と大気に切れ目ができた。素晴らしい勢いで切れ目が宙を走る。子供の胴ほどもある杭の列に殺到したそれは、鋭い音とともに立て続けに十数本を切断した。
「すごーい!」
 クリオンが拍手し、兵士たちが、おおーう、と歓声を上げた。
「たいしたもんだなあ、さすが疾空騎団の団長だ」「高速なんとか団に移らせるのはおしいよな」「おれもほしいよ、あんな剣」
「聖御法で調律した剣を使うには、由緒のある血統と強い心の力が必要だ。平民には無理だな」
「そうか?」
 兵士は振り返る。青い髪の鋭い目をした男が、じっとマイラたちを見ている。
 彼は続ける。
「それに、持つ意味もない。調律剣の真の力は、軍団を統率する力にある。持ち主の意思を聖霊が部下に伝えるんだ。集団戦では、大勢の兵士を手足のように動すことのほうが、剣自体で攻撃するより効果がある。……ま、おまえらが持っても宝の持ち腐れだ」
「詳しいのはいいが、なんか気にさわる言いかただな、おい」
 兵士は男の顔を覗きこむ。
「おまえ、うちの兵団の人間か? 見たことねえな」
「見ろ、次は陛下だぞ」
 兵士はあわてて前方に視線を戻した。
「今のが、四百八十ヘイリンの聖霊の力です」
 マイラは軽い疲労に汗を浮かべながら、クリオンに言った。
「二百二十五ヘイリンでは、この半分ですね」
「すごいな、マイラは」
「私など、たいしたことは。ジングピアサー閣下の『ロウバーヌ』は百本近く燃やし尽くします」
「へえ、将軍が」
 クリオンは目をまるくしたが、気を取り直したように言った。
「いいよ、とりあえずやってみる。ベクテル、封球をつけて」
「かしこまりました」
 ベクテルは、クリオンのレイピアの柄に球をはめこみ、金具をかけて固定した。
「地裂、すなわち大地の裂け目が顕現するはずでず。お試しください」
「うん」
 クリオンはレイピアを持ち、マイラのやりかたに習って構えた。唇をなめて命詞を口にする。
「我、ジングの古き血ベルガイン・ベルガド・ジングラに連なるもの、クリオン・クーディレクト・ジングラ。聖御の技もてくくりし汝、大地の聖霊に、血と力において命じる。刹那の目覚めを許すに付き、今再び威力を振るえ、地を裂き敵を呑め。いざや、聞かん?」
 指を切って血を与える。
 何も起こらない。剣はひやりと冷たく沈黙している。クリオンは情けなさそうに剣を見下ろした。自分の力じゃ、従わせられないのかな?
 その時、ベクテルがはっと顔をこわばらせて、封球を入れた鉛の箱に目を落とした。出し抜けに大声で叫ぼうとする。
「陛下、お待ちを――」
 だがクリオンは、半ば意地になって命じていた。
「汝は力を備えぬか? 名を持たぬ聖霊は力もなきか?」
『名は、ある』
「――え?」
 さあっとクリオンの周囲に濃厚な霧が生まれた。地震霊の働きとは明らかに違う。ベクテルが蒼白になる。マイラが駆け出そうとする。
 その場にいた全員、兵士たちの頭にまで、強烈な思念が届いた。
『我が名はズヴォルニク、カリガナの海王。――ジングの血を持つ人間よ、耐えてみせよ』
 渦を巻いた霧が見る間に濃縮され、クリオンを封じ込めるように巨大な水滴を形作った。人の背丈をはるかに越える青い塊。クリオンは呼吸を奪われる。 
 だが必死に耐えた。目に染みる塩水をこらえて前を見つめ、それだけは得意な突きを、思いきり突き込んだ。水滴の殻を貫く。
「い、行けーッ!」
 ドオッ! と奔流が走った。横を向いた滝のように強烈な流れが、地面をかき削り石をはね散らしながら突進した。マイラが驚愕の叫びを上げる。
「海嘯か!」
 膨大な海水の津波が、杭の列をなぎ倒した。十や二十を軽く越えて百数十本の杭を巻きこんだまま、津波は胸壁にぶち当たり、地鳴りのような音を従えて高々と波頭を天に伸ばした。
 消えやらぬ轟きの中に、悠然と笑う聖霊の声が漂った。
『永らえたか……溺れさせるつもりだったがな』
 誰一人、なにひとつ口にできなかった。ベクテルはへたりこんで手を震わせている。兵士たちもぽかんと口を開けている。青い髪の男が小さくつぶやいた。
「素晴らしい……」
 マイラがクリオンに駆け寄った。
「陛下! ご無事ですか!」
 びしょぬれのマントから水滴を滴らせつつ、クリオンはなんとか立っていた。その手から、からんと剣が落ちた。マイラがその体を支えながら、ベクテルをにらみつける。
「ベクテル! これは一体どういうことだ! あれは地震霊などではない、しかも並たいていの強さではなかったぞ!」
「も、申しわけありません!」
 はいつくばるようにしてよろよろやってきたベクテルが、クリオンのレイピアを手にとって、うめいた。
「ああ、やはり。……このベクテル、一生の不覚を取りました。封球を間違えてはめこんでしまいました」
「間違えた?」
 マイラが剣を向けて恫喝した。
「それで済むと思うのか。なんだ今のは!」
「七百五十五年に北海のカリガナ諸島を壊滅させた、千五百ヘイリンの怒濤霊です」
「千五百ヘイリンだと?」
「それも推定です。あまりに強かったために誰も使えず、五百有余年にわたって死蔵されていたもので……研究のため宝物庫から出していたのですが、不肖私の目が近くて見間違えました」
 ベクテルはカエルのようにはいつくばった。
「申しわけありません、決して故意にお渡ししたのではありません! なにとぞ、なにとぞご容赦を」
「故意だったら、謀反のかどで九族に至るまで絞首台に吊るしてやるわ。間違いだとしても、許されるものでは……陛下?」
「いいよ、ありがとう」
 自失から立ち直ったクリオンが、マイラの手を押しのけて、ベクテルの前に立った。
「わざとじゃなかったんだね?」
「は、はい! もちろんでございます!」
「じゃ、仕方ない。いいよもう」
「……で、では、足切りか耳削ぎ程度で……」
「足も耳もいいってば。次から気をつけてくれれば。ぼくも何ともなかったし」
「は……」
 ベクテルは口に棒を突っ込まれたように呆けた。
「お……おとがめは、ないのですか?」
「ないよ」
「遠島も家督取り上げも……」
「ないってば」
「あ……ありがたき幸せにございます!」
 元からカエルのようだったベクテルは、頭まで地面にこすり付けて叫んだ。
 マイラが不満そうに言う。
「陛下、手ぬるすぎです」
「マイラさん、あなたもちょっと考えを変えてほしいんだけど」
 クリオンは振り返って言った。
「そういう、厳しい罰で下のものを従わせるやり方は、前帝陛下が習わせたものでしょう。ベクテルがやたらぺこぺこしてるのもそのせいでしょ。ぼくはそういうの嫌いなんだ。これからは、ちゃんとした裁きもせずに罰を与えたりなんかしないから」
「……」
 マイラの口が動いた。そんなことでは足元を、とかなんとか言いたいらしい。だがクリオンは強く言った。
「覚えといてよ」
 マイラは、チンと剣を収めた。クリオンは表情をやわらげた。
「でもまあ、よかったよ。これだけ強い聖霊でも、なんとか扱えたわけだし。拾いものじゃない?」
「そ、それは幸いにございました。確かに陛下には強い聖御の力が備わっていらっしゃるのだと思います。前申したご無礼も平に……」
「だからいいってば」
 クリオンが苦笑していると、マイラが事務的な口調で言った。
「陛下、話は変わりますが……別の近衛長を探していただけますか」
「え? そんな、気を悪くした?」
「いいえ。しかし、私は高速勅使団の団長を拝命しておりますから。団が正式に発足すれば、陛下のおそばに付くことはかなわなくなります。別の人間が必要かと」
「それは……そうか」
 本音は、クリオンの面倒を見きれない、というところだろう。それにしても、確かにマイラの言うことはもっともだった。
「まあ考えておくよ」
「はい。ところで、そろそろ次の政務のお時間です。レンダイク男爵がお待ちかと。その後は隣国使節の接見です。その前にお召し替えも」
「ああ、そうだね」
 城の中へ戻って行く皇帝一行を見つめて、兵士たちはざわめきあう。
「いや、すごかったな」「あんなおっそろしい聖霊を使っちまうなんて、さすがは陛下だ」「格好は娘っこみたいなのになあ」
「まだ完全に聖御できてはいない。……あれは、使えるな」
「なに?」
 兵士は振り返った。
 だが、そこにいたはずの青い髪の男は、忽然と姿を消していた。

 2.

「ああ疲れた……」
 夕方、フィルバルト城の鐘楼のテラスで、クリオンはため息をついていた。昼を挟んで午後いっぱい、レンダイク男爵にしぼられたのだ。
 彼と一緒に、皇帝としての政務を執ったのだった。とはいえ、形ばかりである。レンダイクは天領総監だが、他の部門の責任者だった貴族たちが今ではいない。実質一人で数千人の文官たちを束ねて、帝国府の政治を切り回している。
 そんな凄腕の彼から見れば、クリオンなど卵からくちばしを出したばかりのヒナ鳥のようなものだ。政務とは名ばかりで、実態は、めまぐるしい勢いで案件を裁可して行くレンダイクの真似事をしただけである。
 それでも十分、疲れてしまった。
「男爵、手加減ないんだもんなあ……」
 主君としてクリオンに一定の敬意を抱くようになったが、だからといって遠慮しないのがレンダイクだった。次々と総監執務室を訪れる文官たちから用件を聞き、多少簡単な件があればすぐにクリオンに考えさせる。クリオンが悩み抜いて答えると、手直しもせずにそれを実行部門に回してしまう。
 あらかじめレンダイクが重要度を測っているから、国がひっくり返るような難問を任せられるようなわけではないが、それでも朝食のメニューを決めさせられるのとはわけが違う。
 一度など、よく見もせずに御璽を捺した羊皮紙を、レンダイクがちらと見て、印形が薄すぎますな、と言った。もう一度捺しなおそうとしてそれを見たクリオンは、思わず青くなった。エルッペン州で税を滞納した農民と領主との争いに関するもので、皇帝御璽ひとつで七十人の農民が見せしめに処刑されることになっていた。レンダイクがクリオンを試したのかもしれない。
 震える手でそれを却下に回す間に、レンダイクは涼しい顔をして十二枚の羊皮紙を処理し終わっているという按配である。
 夕方の鐘で政務が終わった時、新米の文官よりはマシですなと酷評を受けたが、それはまだ嬉しかった。だが、次の言葉を聞いてがっくり来たものだ。国境軍の戦闘に関することも、前帝崩御に関する調査も、旧領地没収の件も、まだほとんど手付かずだというのである。
「気が重いよ……」
 テラスの手すりにもたれたクリオンは、ため息を付いて眼下の町並みを見下ろした。オン川に沿って発展したフィルバルトの夕景に目をはせる。
 鐘楼は城の奥にあるから、来る人は限られる。ここから一人で町を眺めることは、クリオンの数少ない安らぎの一つだった。
 ただ、ここまで来ても、政務を完全に忘れ去ることはできない。
 基部が雨に洗われて傾いてしまった西の尖塔や、手入れされずに閉鎖されている密林のような南国庭園が目に入る。第六厩舎など、屋根が抜けたまま放置されていた。
 壮麗なフィルバルト城のあちこちに空いた、虫食いのような穴。修理したくともできないのだ。それらが、いやでもこの国の財政難をクリオンに思い出させた。
「大陸一の強国が聞いてあきれるよなあ……」
 夕食までねばるつもりでクリオンがぼんやりしていると、不意に、調子っはずれな大声がかけられた。
「さらわれる、さらわれる! 王様がひょいとさらわれるよ!」
 ぎょっとしてクリオンは振り返った。
 手すりの先のガーゴイル像の上。一歩踏み外せばまっさかさまに下へ落ちる、ものすごいところに人影が立っていた。ただの人間ではない。色が――七色だった。
「金の冠はロックバードのお気に入り! ぼんやりしてると、さらわれちゃうよ!」
「だ、誰だ!」
「わたし? わたしが誰だとおっしゃるか?」
 そいつはひらりと飛び跳ねると、体重がないような足取りで手すりの上を歩き、クリオンの目の前にやってきた。
 奇天烈な格好だった。上着とズボンがつながったぶかぶかの服は、右から左へ虹色に染まっている。頭には左右に大きく伸びたボンボン付きの帽子。顔すら左右に白黒で塗りわけ、銀の星型をいくつも散らしている。
 声は高い。顔立ちは、醜いようにも、整っているようにも見える。青年のようにも、娘のようにも見える。厚く肌を塗っているせいで輪郭がさっぱりわからないのだ。
「ガジェスの嶺の風の精? 死神の使いシャロン亀? いやいや外れ、怪しいものではありませぬ」
 歌うように言って、そいつはひょいと頭を下げた。
「王様の横には道化がつきもの、なのに陛下のそばは空っぽ。これじゃいかんと思い立ち、やって参りましたわたしめは、間抜けのマウス、四十八の芸を身につけた、道化のマウスにございます!」
「道……化?」
「しかーりしかり! おっとっと」
 マウスはよろめき、ふざけたように手を振りまわした。ふらりと背後に倒れる。――地上まで、四十ヤード。
「危ない!」
 とっさにクリオンが手を伸ばしたが、指先は空を切った。
「え……?」
「失礼をば! 失礼をばいたしました! ころりと落ちればよかったものを、死に損ねましてございます!」
 手すりの上、半ヤード。マウスは宙に浮いていた。
 あまりと言えばあまりな不思議に、クリオンは警戒することも忘れた。笑い出す。
「すごいや、見事な宙乗りだね」
「これはもったいないお言葉を」
「いつのまに張ったの? その糸」
 クリオンは、マウスの横を指差していた。テラスの左右に立つガーゴイル像の間に、クモの糸のようなかすかな線を見つけていたのだ。
 それを聞いた瞬間、す、とマウスの顔が冷えた。――が、それを見せるほど拙劣でもなかった。にこやかに笑ってお辞儀する。
「たまげましたな! 岩をも貫く御眼力。わたしめの細糸を見抜いた方は、陛下が初めてにございます。芸を磨いて出直しましょうかな」
「いいよ、出直さなくても。さあこっちに降りて」
 マウスは身軽にテラスに降りた。クリオンはもの珍しそうに眺めながら聞く。
「どこから来たの?」
「遠いところにございます。山の向こうの雲の果て、大地の終わり、時の彼方……」
「じゃ、どうやって入ったの? 城の警備は、甘くないけどな」
「霞となって姿を消して。風ととともに入りました」
「ううん」
 どこまでもつかみどころがない。さてどうやって聞き出そうかと考えた時、くすくすと笑い声が聞こえた。
「その辺にしなよ、マウス。お兄さまが困ってるよ!」
 振り返ったクリオンは、信じられないというように口を開けた。
「――キオラ!」
「お兄さま、お久しぶりです!」
 小柄な影が走ってきて、クリオンに飛びついた。クリオンは嬉しげにそれを抱きとめる。
「いつ来たの? キオラ」
「いつですって? 今日の朝です! 昼には接見してもらえると思ったのに、お兄さまったら会ってくれないんだから!」
「ああ、そう言えば外国使節の接見って……きみだったのか」
「そうです! 忘れられたのかと思っちゃった」
「忘れてないよ」
 クリオンは軽く笑って、キオラを押し離した。
 キオラ・シッキルギン、十四歳。亜麻色の長い髪とベリルの瞳が輝いている。身につけているのは白の短衣とタイトスカート。白紗の短いケープが軽やかにひるがえり、ブーツの上で金の輪が踊る。
 愛くるしい少女だ、と見る人は思う。正しくは、思わされる。だがクリオンは知っている。キオラは西の隣国、シッキルギンの第一王子だ。そしてシッキルギンはここ数年、病床の国王の後継ぎをめぐって、政争のまっただなかだった。――王子と見れば刺客が襲い掛かってくるほどの。
 キオラは、姿を偽った少年なのだった。
「一年ぶりだね。今日はどうしたの?」
「どうしたのじゃないでしょ」
 キオラは小さな頬を膨らませる。
「お兄さまがジングリットの皇帝になったって聞いたから、お祝いに来たんです!」
「あ、そうか。どうもありがとう。礼を言うよ」
「礼ってそんな、他人行儀な。ボクとお兄さまの仲じゃない!」
「ずいぶんお仲がよろしいですな」
 ごく親しげに触れ合う二人を見て、マウスが不思議そうに首をかしげる。キオラは得意げに言った。
「そうだよ、ボクとお兄さまは、グレンデルベルトで一年間一緒に暮らしたんだから」
「一昨年、シッキルギンで争いがひどくなった時にね。キオラが避難してきたんだ」
 なるほどなるほどと大仰にうなずくマウスに、しっしっとキオラが手を振った。
「ほら、もう顔合わせは済んだでしょ? 見せたいって言ってた芸も見せたじゃない」
「しかしわたしめには、まだ四十七の芸が」
「それはあとで! この先いくらでも機会があるってば」
「しからば、失礼して」
 ひょい、とマウスはとんぼを切った。手すりを越えて向こうに消える。あっとクリオンは叫びかけたが、キオラが笑って引っ張った。
「大丈夫ですってば、手だれの芸人なんだから。まだ会って短いけど、芸は折り紙付きです。お兄さまに見せたくってつれてきたの。ちょっとうるさいのが玉に傷ですけどね」
「そ、そうなの……」
「ね、座りましょう」
 キオラに引っ張られて、二人はテラスの隅に行った。置いてある小さなベンチに並んで座って、夕暮れのフィルバルトを見つめる。キオラが、ことりとクリオンの肩に頭を預けた。
「ああほっとした。……フィルバルトにつくまでは、ずっと油断できなかったから」
「そう言えば、この先いくらでもって言ったよね。また避難?」
「はい」
 キオラは小さくうなずいた。
「従兄弟のキナルが、また継承権のことで難癖を。……キルマお爺様が頑張ってくれてるから、乗っ取られる心配はないんですけど、ボクの身柄までは守りきれないからって」
「そうか。大変だね」
 クリオンは思い出す。二年前、グレンデルベルトで彼と会った時のことを。
 わずかな供回りとともに逃れてきた十二歳のキオラは、ひどく不安げな女の子に見えたものだ。無理もない、故国では何度も剣の下をくぐり、逃れてやってきたのは異国の地。西国と関係の深い侯爵ツインドの保護があるにしても、国と国とは必ずしも仲がいいわけではない。
 とはいえそれは大人の世界のことで、十三歳のクリオンはすぐにキオラと仲良くなった。侍女のソリュータの目をかすめてよく抜け出しては、森や湖で遊んだものだった。
 彼が娘でないことは、その湖で知った。
「あの時はびっくりしたなあ。てっきり女の子だと思ってたから……」
「そう思わせるようにいつも気をつけてるんです」
 キオラは笑って、クリオンのあごを軽く引いた。
「ね、今でもそう見えますか?」
「うん。前よりきれいになった」
「よかった。……嫌われてなくて」
 キオラはほっと息をつく。逆境の中で強く育んだ明るさが、その時だけ繊細な優しさとなって目許をゆるませていた。
 いい子だよな、とクリオンは思う。守ってやりたくなる。昔もこんな風に、ほろっと弱さを見せることがあった。そのたび慰めてやって……
 慰めてやった後どうなったか、出し抜けにクリオンは思い出した。
「ね……お兄さま……」
 キオラがクリオンの手を取って、自分の胸に当てている。薄い胸板から鼓動が伝わる。
「ほら……どきどきしてるでしょ? ボク……まだお兄さまのこと、好きなんですよ。お兄さまも、ちっともお変わりなくって、きれいで……」
「ちょっちょっ、ちょっとキオラ」
 クリオンはあわてて手を引っ込めようとする。だが、キオラはそれを押さえて手の甲にくちづけた。
「お兄さまの手、あったかい。……あの時のこと、思い出しちゃう」
「あの時って……」
「忘れてないでしょ?」
 きっとキオラはクリオンを見つめた。
「グレンデル湖のほとりで、水浴びした時に……お兄さま、触ってくれたじゃないですか」
「あの時は、だって……なにも知らなかったから……」
「ボクも知らなかったです。だから最後までできなかった。でも今は知ってるの。お兄さまは?」
「そりゃ……少しは……」
「だったら、今度こそできますね」
 キオラは天真爛漫な笑顔を向ける。困り果ててクリオンは顔を背けようとする。
「そんなこと言っても、キオラ、ぼくたち同じ……」
「同じだから、わかるでしょ? いろんな事。……それとも、してくれないんですか」
 キオラは小悪魔めいた笑いを口もとに浮かべる。
「だったら、この城の人に言いふらしちゃう。あの時のこと。――ソリュータお姉さまにも」
「そ、そんな!」
「いやなら、一緒にしてくださいね」
「……」
 クリオンはどっちつかずの表情で向こうを見ている。それを承諾と受け取ったのか、キオラはクリオンの手を、自分のスカートの中に導いた。
「ね、触って……」
 下着の中に柔らかいものがある。仕方なくそれをくすぐり始めながら、クリオンは二年前のことを思い出してため息をついた。
 五月の湖。濡れた服を体に張りつけたキオラは、美しかった。クリオンもそろそろ、男女を意識し始めるころだった。二人きり、可愛い年下の娘、腕や足の線の見える薄い服――短衣の裾が盛り上がってしまっても、仕方ない状況だった。
 それを見つけたキオラが、自分の裾をめくりながら、言ったのだ。ボクと同じですね。
 クリオンは驚いた。女の子だと思っていたから。キオラがどっちなのか分からなくなった。大体、女の子はおろか、同じ年頃の男の子すらまわりにいなかった。見たことがない。はたして、男女の別はそこだけで分かれるものなんだろうか。
 今から思えば他愛ないことが、ひどく重大な疑問に思えたものだった。そのあとどういうやりとりがあったのか、もう漠然としか覚えていないが――
 いつのまにか、キオラとクリオンは、互いのそこを比べるようにして、指で触れ合っていた。
 岸辺に茂った大樹の陰。人目を避けて二人だけで。次第に硬くなる自分と相手のもの、それに反比例して少なくなる口数。キオラの熱い息がかかり、すらりと細い腹筋が震える。上目づかい、これ素敵ですね、というささやき。禁を破るおののき。
 高まっていくしびれのような快感。でも、最後までいかずにやめた。どうなるか分からなかったから。
 それを今、クリオンは指先の感触と一緒に、思い出している。
「あは……きもちいい……」
 キオラはスカートを引き上げ、下着を太ももまで下げて、飛び出した細いものをクリオンに握らせている。クリオンの顔はやや赤い。目を逸らして、辺りを見まわしている。城下まで半リーグはあるから、遠眼鏡でもないかぎり見られることはない。鐘楼の階段下に近衛はいるが、上がって来ることはない。見られないと分かってはいる。でも、警戒を解けない場所だった。――こんな空の下で!
「お兄さまは……お兄さまは、したくないの? まだ知らないですか?」
 キオラが潤んだ瞳で見上げる。見たら押し倒してしまいそうな愛らしさだから、クリオンは見ない。どもるようにして答えるだけ。
「一応……もう、したよ」
 クリオンは、誰ととは言わず、体験を済ませたことだけ話した。特に世継ぎの件は、ソリュータ以外話す相手がいない。だから話してしまった。二年前と同じだった。
 それを聞くと、キオラはいたわるようにクリオンの頬に手を当てた。
「それじゃ……これが気持ちいいことだって知ってるのに、誰ともできないんですか? 世継ぎのことを考えないといけないから?」
「うん……」
「だったら……ボクじゃだめですか?」
 ふ、と耳に息を吹きかけられる。クリオンはぞくっと震える。
「したいとき、あるでしょ。お兄さまもう十五だもの。わかります、ボクもあるから。……そういうとき、言ってくださればボクがしますよ。何も考えないでいいの。ただ出すだけ……」
 そういうと、キオラは上体をかがめて、クリオンの短衣の裾をめくった。手早く紐を解いてズボンを下げてしまう。クリオンはあわてる。
「き、キオラ……」
「いいの、いやだったら見ないで。触ってるだけのものだと思っててください。でもボクのも続けて……」
 キオラがクリオンのペニスを取り出し、丁寧になで上げていく。暖かくしっとりした手触りに、クリオンは流されていく。
 政務のことや、軍務のこと、いろいろなことで、クリオンはストレスがたまりきった状態だった。性の快感は知ってしまったが、まだ相手は見つからず、侍女たちを抱くわけにもいかない。妃になれないと承知で身を投げ出してくれたソリュータを、楽しみのためだけに抱くなんてとんでもない。――十五歳の健康な少年としての生理を、クリオンはやり場もなく抱えていのだった。
 そしてキオラは一切の利害関係の外にいて、しかも――姫と見まごうばかりに美しい顔立ちをしている。
 思いがけなく現われた救いだった。それが、場所や性別のことをクリオンに忘れさせた。
 なにより、懐かしかった。
「キオラ……」
 キオラは、頭に温かみを感じる。クリオンの空いている手が当たっていた。優しく撫でられる。
「うん……じゃあ、頼む……」
「――はい!」
 いっそう繊細に、愛しさをこめてキオラはクリオンのものを揉みしだき始めた。
 太陽が地平線に消え、闇が色濃くなる。光の当たらないテラスの隅。寄り添った二人の美しい少年が、声を殺して息を荒げている。体は折り重なり、境目も分からない。
「おにい……さまあ」
 クリオンの胸の上で、キオラが切なげにささやく。クリオンの指が動くつど、ひくりと体を震わせる。ソリュータよりずっと細いその体を、クリオンは抱きしめる。長い髪に鼻をくぐらせる。キオラは薄いハッカの香で汗の匂いを殺している。ただ欲望のためだけに。何もかも忘れて、クリオンはキオラを味わう。
 キオラは熱に浮かされた目で、鼻先に屹立するクリオンのものを見つめながら、くちくちと手を動かしている。彼もクリオンと同じ倒錯を味わっていた。クリオンは美しい。いま肩まである金髪は昔はもっと短かったが、その時でも髪を切った少女のように見えた。初めて会ったとき、胸がざわめいたものだ。もし自分がこのまま女として育てられるなら、こんな人に身を捧げたい――いや、奪いたい。
 もう女と経験してしまったと聞いて、ちょっぴり悔しかった。でもいい。この人と自分とは、秘密を共有しているんだから。
 もう一つ、禁に触れる秘密を増やす。
「お兄さま……お口でしますね」
「キオラ?」
「いいの、してくれなんて言いませんから……」
 そう言うと、キオラがちろりと舌を伸ばした。クリオンの幹がぬめらかになめ上げられる。
「うわ、うわっ……」
 クリオンは腰をはね上げた。神経にじかに触られるようで、勝手にはねてしまう。
「キオラ、それだめだよ」
「どうして? もう禁は破ってるんですよ。一つも二つもいっしょでしょ……」
 強力な免罪符だった。それに加えて、皇帝の身分を得てから何度も聞かされた言葉を思い出した。皇帝に、許されないことはない。
 イフラの神を犯すような冒涜の衝動が湧き上がる。クリオンはキオラの頭を、股間に押しつけた。
「お兄さま?」
「じゃあ……やってよ。口に入れて。舌を使って」
「は、はい……んむっ」
 クリオンが強引に口元に当て、押しこんだのだった。ぬめらかなキオラの口内にぐいぐいと突き上げる。
 そうしながら、指はキオラのものに続けた。自分のよりさらに幼いペニスを、向き上げ、ころがし、緩急をつけてしぼり上げる。
「んんーっ!」
 歓喜と屈辱のまざった悲鳴をキオラが上げる。飴と鞭に挟まれて、小さな体が痙攣している。クリオンはうっすらと開いた目で、腹の上のキオラの顔を見下ろす。りんごのように上気したつややかな頬が、中からの突き上げでうごめいている。とろりと溶けた瞳に歪んだ情欲を浮かべて、キオラは必死にクリオンを収め包んでいる。愛くるしさは崩れ、切羽詰まった欲望に染まっている。
 キオラの髪をかきあげ、卑猥な表情をあらわにさせて、クリオンは意地悪くささやく。
「キオラ、ほしいの?」
「うん、うん」
「ぼくのそれ、おいしいんだね?」
「んんっ、ぷはっ…… は、はい。おいしいです。変なの、こんなことまでするって思ってなかったのに……」
「これからどうなるか、わかってる?」
「お兄さまの種が出るの。ここから、この先っちょから。ボクといっしょ」
「それでもいいの?」
「……」
「いいの?」
「はい……」
 キオラは、もはや正気を失った顔で、クリオンの張り詰めた先端に頬ずりした。
「出されてみたいです。あれがどんな味なのか…… その代わり、ボクも出させて」
「いいよ。ほら……」
 クリオンは、キオラの腰に回した手をいっそう激しく動かした。「あっ、やっ!」と叫んだキオラが、矢も盾もたまらないようにクリオンのものにしゃぶりついた。
 クリオンの手がキオラの透明な液にまみれ、キオラの口元からは唾液があふれ出してクリオンの股間を湿らせていた。とろとろに溶けた強い愛撫の交換に、二人とも急速に耐えられなくなった。
 クリオンが先だった。
 体をかがめてキオラの耳に顔を寄せる。妹にさとす姉のような表情で、クリオンはささやいた。
「キ……オ……ラ……多いからね?」
 言って、クリオンは放出した。
 びゅうっ、とキオラの口内を奔流が叩いた。待ち構えていたキオラが驚くほどの勢いだった。二度目、三度目、四度目までキオラは溜めた。それでも溜めきれなかった。
「いいっ……」
 うめきながらクリオンが何度もつきこむ。そのたびに、どろっ、どろっとキオラの口に多量の粘液が注ぎこまれる。小さ目の酒盃を満たすほどの量だった。自分と比べてはるかに多い。唇から垂らしただけではとうてい喉が開かず、キオラはパニックになりかける。
 その瞬間、クリオンの最後のひとしごきで、キオラもはじけた。夜空高く小粒の粘液の塊がはじけ、撃ち出す快感にキオラの意識がとんだ。
 呼吸を忘れて飲んだ。喉を鳴らして、キオラはクリオンの液を飲み干した。


「ちょっと、やりすぎちゃったかな」
「そうですか? ボクは嬉しいですけど……」
 性の酔いが覚めて後悔気味になっているクリオンに、キオラが笑う。
「初めて人としたけど……すごくよかったです。クセになりそう」
 ハンカチで自分とクリオンの体を拭きながら、キオラは言う。
「お兄さまはよくなかったですか?」
「よかったよ。気持ちが煮詰まってたけど、少しすっきりした」
「ならいいじゃないですか」
 服装を整えると、二人は並んで息をついた。見上げると、星が出ていた。
「ザナゴードが出てる……」
 つぶやいたクリオンは、ふと目を細めた。
「五星がずいぶん近いね」
「そうですね。ザナゴード、プランジャ、シムレス、エラフォン、ジー……でも、ザナゴードとエラフォンが一番近いですよ」
 キオラは微笑む。
「ジングリットとシッキルギンの国星。ボクと、お兄さまみたい」
 はは、とクリオンは笑った。
「五星が重なった時、暦が終わるって言われてるけど……本当だとしたら、近いね」
「そんな不吉なこと。どうして言うんですか?」
「いろいろあってさ……」
「それで煮詰まってるんですね。どんなことで?」
「いろいろあるけど……まず一番手近なのは、お金の問題だね」
「お金?」
 キオラは妙な顔をする。
「ジングリットはすごく豊かな国だと思ってましたけど……」
「建前はね。実際はそうでもないんだ」
 クリオンは、天領問題について説明した。うなずいたキオラが、もっともなことを言う。
「じゃあ、領地を召し上げて、それで解決したんじゃないんですか」
「ところがそうもいかなくてさ。手始めに東部の三十六州に徴税吏を送ってみたんだ。そこは今、領主が死んでしまったから代理の貴族が治めてる。彼らに春の収穫を国税として納めるよう言ったんだけど、ないって言うんだよ」
「ないんですか?」
「そう。誰かに持っていかれちゃった」
「誰がそんなことするんですか!」
 自分のことのようにキオラが怒った。クリオンは苦笑する。
「王都の商人らしいってところまではわかったんだけどね。……なぜそんなことをするかまでは」
「フィルバルトの商人が、徴税を邪魔するんですか?」
 キオラはきょとんとした。
「どうして? 税収がなければ帝国の力が弱まって、彼らも困ると思うのに」
「さあ」
「……なんか、難しい話ですね」
 キオラは軽く頭を振って笑った。
「いずれボクも国を継いだら、そういうこと考えないといけないんだろうけど……今はちょっとわかんないです」
「ま、いいよ。こっちの話だから」
「でもね、すっきりさせるお手伝いはできますよ」
 キオラは顔を寄せてにっこりと目を細める。
「イライラすることあったら、いつでも言ってくださいね。居候させてもらうお礼、しますから」
 キオラは形のいい唇に指を当てる。その中にさっき――と考えかけて、クリオンは赤くなる。
「そ、そう? ありがとう」
「さ! そろそろお夕食じゃないですか?」
 キオラは立ち上がった。
「できればご一緒したいな。ソリュータお姉さまにも会いたいし」
「あ、言っちゃだめだよ? 絶対に」
「わかってますって」
 二人は、手を取り合って鐘楼から降りた。

 3.

 レンダイクやイマロンに、メイドたちがやたらと酒やお菓子をすすめている。それに辟易したクリオンは、あずま屋の端に出た。
 小高いあずま屋から見下ろす中庭に、五ヤードほどの噴水があった。
 噴水は王宮にもある。だが、町中でそれを見たのは、クリオンは初めてだった。水を高く噴き出させるためには、同じ高さにある水源から水を引かなければいけない。フィルバルトは平原にあり、水源は町を貫くオン川だ。つまり、この屋敷の噴水は、二十リーグ以上上流の別の水源から引いた、専用の高圧管から水を得ている。なまじの財力でできることではない。
 なにもそこまで洞察しなくても、ここの主の権勢はよくわかるのだが。
 フィルバルト城下のヘリネ街。貴族や高位の神官たちの住む高級街区に、この邸宅は二百ヤード四方の敷地を占めていた。穀物札差商、ビアースの屋敷である。
 クリオンは、五十人ほどの供回りを連れて、ここを訪ねていた。目的は恫喝である。
 レンダイクの命で、天領からの貢税が滞っている件の調査が進んでいた。帝国の財政を担当する理財司イマロンと理財補司キンギューは、王都に本拠を持つ大商人たちを次々と王宮に呼びつけ、事の次第を聞いた。
 だが、彼らは言を左右にして逃げた。いわくうちではない、いわく記録がない、いわく上位の商人に命じられた。
 埒があかないので、イマロンは対象を絞った。王都を本拠に帝国全土の小麦や大豆を商い、帝国府とも直接の取引がある人物、フィルバルト商工連盟の主席をつとめる、豪商ビアースに。
 だが彼は、呼べど命じれど王宮に参内して来なかった。やれ北部で取引があるの、やれ南部で視察があるのと称して、王宮はおろかフィルバルトにすらめったに現われない。
 それでは話にならないので、彼の屋敷に兵を張りつけ、たまたま帰ってきた時を見計らって、こちらから乗りこんだのだ。
 いかに豪商とはいえ彼は平民だから、本来ならクリオンが出るのは格余りである。だが出てくれとレンダイクが頼んだ。皇帝の下向ともなれば、いくらビアースが厚顔でも断れないだろうという狙いだ。実際の交渉はイマロンとキンギューが務める。それにレンダイクが同行して箔をつけ、さらにクリオンが駄目押しで控えるという布陣である。
 そういうわけで、クリオンたち一行は、ビアースの屋敷の庭に通されている。
 屋敷の侍女たちに酒肴のもてなしを受けつつ、十分ほど待ったころ、館から一人の男がやってきた。あずま屋の前に立って、深々と一礼する。
「ジュゼッカ・デ・ビアースにございます。本日は陛下のご行幸をいただけまして、まことに欣快至極に存じます」
 一同は、油断なく彼を観察した。
 ジュゼッカ・デ・ビアース、四十歳。
 中背だが体つきはたくましく、顔の彫りは厳しく深い。やや太い眉に脂ぎった印象が漂うが、女たちならそこに強い精力を感じてほれぼれするだろう。彼の身分を知ればなおさらだ。
 豪奢な絹のローブと肩飾りの金の刺繍、両手で十を超える宝石の指輪が彼の財力を現す。ジングリット中原における小麦・大豆・芋など主要作物の流通の過半を握る、フィルバルト一の豪商だけはある。
 クリオンが立っているので、供の者も皆立っている。そばにやってきたレンダイクがささやいた。
「我々を少し待たせたのは、富を見せつけるためです。待たせすぎて不興を買うような手落ちもない。切れます」
「そうだね。――お酒もお菓子も、王宮に納めているものよりほんの少し下の品だったし」
 菓子など気にして、とはレンダイクは叱らない。王家より贅沢な暮らしはしませんよというビアースのメッセージを、クリオンは正確に受け取っていたのだ。それをレンダイクも承知している。
「座ろうか。ビアースも」
 クリオンが椅子にかけたことで、許可が生まれた。文官たちとビアースはテーブルにつく。
 初老の女性文官イマロンが口火を切った。
「さて、本日陛下がここにいらしたわけは、あなたも知っているわね。ビアース」
「しかとは承っておりませんが……」
「とぼけても通らないわよ。帝国府の調査では、あなたは傘下の商人連を動かして、天領の財を許可なく移動させたり、売買したりして、帝国の徴税を滞らせている。それに関することをご下問なさるために、陛下はいらしているのよ」
 イマロンはきれいにまとめた白髪をなでつけて、部下に声をかけた。
「キンギュー」
「はい。これが調査の結果です」
 まだ若いが、抜きん出た統計調査の技術で要職に上った補司のキンギューが、一抱えもある羊皮紙の束をテーブルに出した。それに手を置いて、イマロンがビアースをにらむ。
「弁明があるなら聞きましょうか」
「そのような解釈があるとは、意外に存じます」
 ぬけぬけとビアースは言った。イマロンが目を吊り上げる。
「とぼけは無駄だと言ったでしょう?」
「お早まりを。――商人たちが各州の財を動かしたことについては、手前も事実として聞き及んでいます」
「なんですって?」
「それが手前の差しがねと思われることについては異論もございますが、彼らが自分でそのようなことをしたわけは、わかっております。――国府のほうではご存知ないでしょうが」
「……何を知っているというの」
 イマロンは話に引きこまれ、声の調子を落とす。レンダイクがクリオンにちらと目をやる。うまい、という評だ。
「彼ら商人は、自分の財産を動かしたにすぎません」
 ビアースは、大ぶりの一撃を放ってきた。
「僭越ながら、各州の領主様がたの財政は、手前ども商人が支えさせていただいておったのです。領主様がたには毎年、多額のお手元金をお貸ししておりました。領主様が民から徴ずる税は、小麦や肉や豆など、物ですからな。これらの換金、それに越冬のための資金など、すべて商人が賄っておりました」
 ビアースはとうとうと説明する。
「でありますから、各州に春の産物が生まれますと、これの処理は一に商人がまず手がけることになっております。精算が済んだ後、領主様がたが帝国に国税を納められる。しかし、利子というものを手前どもがいただきますから、まず多少目減りしますな。――懐具合を商人に握られているなど外聞の悪いことですから、領主様がたも国府に申し立てておらなかったと思うのですが」
「各州に商人からの借金があることは、我々も知っているわ。しかし、税を丸ごと横取りするような権利はあなたたちには……」
「そんな例はなくもないようです。東部のデルモン州では一昨年、借金の利子が税収の八倍に膨れ上がり、財政が崩壊して天領に吸収されました。再建には綿花商カッシムの貢献が大だったと……」
 律儀なキンギューが報告したが、相手の手助けしてどうするの、というイマロンの視線で首をすくめた。ビアースは余裕の笑みを浮かべている。
 分の悪いイマロンに替わって、レンダイクが切りこむ。
「領主が治めている州ではそれも通じる。だが、今回は天領でそれがあった。天領の財政は直接帝国が見るから、商人の暗躍は許されんぞ」
「ごもっともで。連盟の会合で他の商人によく言い聞かせましょう」
「確約だな?」
「これはご無体を。先ほど申し上げた通り、手前に強制力があるわけではございません」
「む……」
 レンダイクはかすかに顔をゆがめる。ビアースが商人たちに命じているという発言を引き出そうと、カマをかけたのだが。
 その時、クリオンが口を開いた。
「ビアース、帝国があなたに何か悪いことをしたの?」
 一同は、特にビアースは、不意を打たれたように、年若い皇帝を見つめた。
「そんな、滅相もございません。手前は帝国臣民として常に御恩を受けておりますれば……」
「だったらどうして、帝国に恨みがあるようなことをしているの? なにかあったんでしょう」
 ビアースは迷ったように口をつぐんだ。
 クリオンの気持ちは単純である。大人たちの持って回った探り合いにしびれを切らしたのだ。彼から見れば、ビアースが帝国に悪意を抱いているようにしか見えない。税がどうの、連盟がどうのという話をするより、率直に不満をぶつけてくれたほうが、問題の解決になると思ったのだ。
 これはクリオンにしかできない発言だった。文官たちは言えない。言ったら格下のビアースのご機嫌を取ることになってしまう。無茶な要求を飲まされ、面子を潰されるかもしれない。
 当のビアースにも言えない。皇帝に文句など言ったら不敬罪である。
 面子などで揺らがない地位のあるクリオンだけが、これを言えた。ただ、当人はその辺りの機微に気付いていない。
 自覚がないのに核心をついた発言が、この場にどんな影響をもたらしたか。
 ビアースが笑い出した。
「いや、これは……ご慧眼恐れ入ります、その通りにございます」
「帝国の施政に不満があると?」
「男爵、いいから」
 レンダイクをクリオンが抑えて、続きをうながした。
「言ってみてよ。ビアース」
「不満はございます」
 大胆にビアースは切り出した。
「先のゼマント陛下のことでございます。手前を始めとして、フィルバルトの商人はゼマント陛下の御許、帝国府と様々な取引をさせていただきました。しかしそれがどんな取引だったか、今上はご存知でしょうか?」
「前帝陛下の取引?」
「苦しいものでした」
 ビアースは顔をしかめて言う。
「前帝陛下は豪奢を好まれ、また何度も軍を発せられた。そのたびに手前ども商人は、山海の珍味、遠国の衣装や壁掛け、高価な什器や宝飾物、兵の軍装や糧食、武器甲冑などを、わずかな期日で揃えるよう申し付けられ、きりきり舞いでご用立てしました。それだけならまだしも、さて代価をいただこうと王宮に参上すれば――いただけないのです、これが」
「払わなかったの? 帝国府が」
「引き伸ばされるのが普通でしたな。ありていに申し上げて、踏み倒されたこともしばしば。今上に代が替わられても、まだお支払いの済まない手形が部屋いっぱいにございます。三千万、いえ、五千万メルダでもきかないでしょう」
「そんなことが……」
「その損害を少しでも取り返そうと、商人たちは動いているのです。商人にとっては利がすべて。それが手に入らないとなれば――これは、恨みもいたします」
「ビアース! 口がすぎるわよ!」
 けちん坊と罵られたも同然である。イマロンが顔を真っ赤にして立ち上がる。
 だが、クリオンが再び手を上げた。
「待って、イマロン。ビアースが怒るのも当然だよ」
「しかし陛下、帝国府には帝国府の事情というものが……」
「どんな事情があったって、約束を反故にしちゃいけないよ」
 クリオンはビアースをまっすぐ見つめた。
「その件は帝国が悪い。ぼくが代表して謝る」
「陛下! いけません!」
 頭を下げたクリオンの上に、イマロンの悲鳴が響いた。
 レンダイクは黙って席を立ち、クリオンのそばに立った。
「ビアース殿、皇帝陛下がここまでおっしゃっておられる。それでも、協力を拒むと?」
「……手前ども商人の格言に、こういうものがございます。『泥水を飲め、相手の靴をなめろ、額から血を流せ。どれも金はかからない』」
 レンダイクは無言で、かたわらの近衛兵の手から槍をもぎ取った。ビアースの喉元に突きつける。
「帝国の至上たる陛下の礼をそのようにあしらう度胸、覚えておこう。だが、ものには限度というものがある。あの世で商売をするがいい」
「男爵、待って!」
 クリオンが槍にしがみつく。
 鼻先で揺れる穂先のきらめきを、ビアースはじっと見つめていたが、やがて妙な形に目許をゆるませた。
「天領総監レンダイク男爵は、帝国府の中でも一、二を争う切れ者と聞き及んでおります。――その閣下がこれだけ心酔なさるとは、今度の皇帝陛下はお安くないようですな」
「まだ言うか!」
「いえ――考えが変わりました」
「なに?」
 レンダイクが眉をひそめる。ビアースは突然口調を変えた。
「時に、茶菓が切れましたな。お代わりを持って来させましょう」
 何を言い出した、と見守る一同の前で、ビアースは侍女に片手を振った。侍女が館へと走り、やがて別の娘がやってくる。
 衣装が違った。ひだの多い草色の紗を肩から幾重にも体に流している。その紗の下は、肌の輪郭もあらわな薄着だ。豊かな胸元と腰周りに布を巻いただけで、柔らかな肩も縦長のへそもふくよかな太ももも、すべて透けて見える。
 髪は緑。ちぢれを帯びた髪が肩の上で扇のように広がっている。生気を帯びた明るい瞳も緑。快活そうな眼差しで、一同を、クリオンを見つめる。
 年のころは十七、八だろうか。その美しい娘は、捧げ持って来た象牙の盆からしとやかな仕草でポットを手に取り、一同のカップに茶を注いで回った。
 レンダイクがいぶかしげに言う。
「仕切り直すつもりなら、妙な演出などせず命乞いをすればいいだろう」
「本物の商人は命など惜しみません。演出であることは認めますがね」
 ビアースは、改まった口調で言った。
「重ね重ねの非礼、お詫びいたします。このビアース、ジングリット帝国府のためにすべての財産を投げ打ってお力添えいたします」
「どうした、急に」
 レンダイクは槍を下げない。
「なぜ、最初から素直に従わなかった?」
「見積もりを出してから取引する習慣でしてね。新しい皇帝陛下の御人物を見極めさせていただいた。――おっと、これも不敬な言葉ですな。三度お詫びを」
 レンダイクは、ぐいと槍を突き出し、ビアースの襟元を小突いた。
「詫びる気なら、腕の一本も差し出してみせるがいい」
「商人の腕は帳簿と隊商ですよ。それをお捧げすると申しております。渡せというなら腕などお渡ししますが、それで帝国府が立ち直るわけでもございますまい?」
「レンダイク、もういいよ」
 クリオンは強引に槍を下げさせた。
「ビアースはぼくと取引したいからあんなに粘ってたんでしょう。疑う必要はないよ」
「しかし、すぐに変心する人間は信用できません」
「すぐにじゃないよ。ぼくが謝ったからだ。皇帝の謝罪は形だけじゃないでしょ。当然借りも精算するって意味だよ。ぼくもそのつもりで謝った」
 そう言ってクリオンはビアースを見た。
「天領からの税収が入れば、ちゃんと返すよ。だからビアースも、もう邪魔をしないでくれる?」
「結構ですな」
 ビアースはうなずいたが、続けて言った。
「しかし、手前ども商人と申しますものは、何につけ契約を形にして残さなければ、安心できない性を持っております。陛下より形を賜れば幸いなのですが」
「形?」
「非常にいい考えがございます」
 ビアースは身を乗り出した。
「陛下が折りにつけ約束を思い出してくださり、かつ、手前がどうしても陛下にお力添えしないではいられなくなる方策が」
「それは?」
 レンダイクが怪しみながら聞くと、ビアースはかたわらの娘を差し招いた。先ほどの、緑の髪の娘だ。
「この娘を差し上げましょう。――手前の、目に入れても痛くないほどの愛娘にございます」
「なんだと?」
 口こそ開けなかったが、レンダイクは絶句の体だった。イマロン、キンギュー、それにクリオンは、すっかり開けている。
「やぶからぼうに何を言うのだ。それは自分の娘を陛下の妃にしろということか? 手前勝手もはなはだしい!」
「と同時に、人質ですな。手前が背けば遠慮なくお切りください。お手をつけるかつけないかは陛下の御自由。正妃になどとも申しません。ただお側においてくだされば」
 一同は顔を見合わせる。
 戸惑うクリオンの前に来て、その娘はつつましく頭を下げた。
「エメラダと申します。――どうか、わたしをお好きになさってください」

 4.

「で、結局つれて来てしまったんですか?」
 夜、クリオンの私室。ナイトキャップの準備をしながら、ソリュータがあきれたように言う。
「そんなの、どう考えても向こうの得じゃありませんか。大体、陛下が屋敷に来るまで逃げ回ったって言うのも、その子を陛下に見せるための小細工だったんじゃありませんか」
「ぼくもそう思ったんだけど、ジューディカのお爺さんに話したら、世継ぎができるって単純に喜んでたしなあ。もともとあの子も候補に入れてたんだって」
 夜着に着替えたクリオンが、椅子にかけてぼやく。
「レンダイク男爵はなんておっしゃってました?」
「人質になるのは確かだから、つれて来て損はないって。イマロンとツインドおじさんも同意見。でもおじさんは、ビアースが約束を果たしたなら、好きにしていいだろうって言ってたけど……」
「お父様ったら、私のことが済んでから、すっかり安心してるんだから……」
 恨むように言ってから、ソリュータは振り向いた。言葉がぶつかる。
「陛下は?」
「ソリュータはどう思うの?」
 あ、と口を押さえていっしょに笑った。同じことを考えていた。
「ぼくは、正直言ってよくわかんないや。手をつけるにしろ切るにしろ――切ったりしたくないけど、何かの処分をするにしろ、あの子のことをよく知ってからだな。
ソリュータは?」
「陛下にお側女ができるっていうことは、本当なら嬉しいことのはずなんですけどね。……そういう事情だと、素直に喜べません」
「嬉しい? ぼくがほかの子に触れちゃっても?」
 つかの間クリオンを見つめてから、ソリュータは笑顔を見せた。
「殿方はたくさんの女の子と付き合いたいものなんですよね。私のお兄様もそうですし。まして、クリオン様は皇帝陛下。お相手の一人や二人いなければ、格好がつきません」
「……」
「というのは建前」
 ソリュータは寝酒の盆をテーブルにおいて、クリオンの髪に顔を寄せた。 
「ちょっとやけます。……でも、クリオン様? そうやって相談してくださるってことが、私は嬉しいんですよ。他の女の人に、聞いたりしませんよね?」
「うん」
 クリオンは笑って、ソリュータの胸に頭を預けた。――あの夜にできた絆は、しっかり保たれていた。
 ソリュータはアクアヴィットを杯に注ぐ。最近のクリオンはけっこういける口だった。
「それにしても、肝心なことがまだですね」
「そうだね。エメラダ……っていったかな、あの子の気持ちをまだ聞いてない」
「ちょっと話してみます?」
「そうしようか」
 まだ部屋に呼ぶには早いだろう、と二人は判断した。寝るところだったが、外出着に着替えなおす。
 皇帝の私室は、フィルバルト城奥院のトライドール――三角回廊沿いにある。通路に沿って数々の部屋があり、かつてはそこに王子たちが住んでいた。今はクリオンの部屋以外、空だ。
 廊下に出たクリオンとソリュータに、無言でマイラたちが付き従う。いつ部屋から出ても表にいるマイラの顔を見て、やっぱり専門の護衛が必要だな、とクリオンは思う。護衛をなくすことはさすがにできない。
 エメラダは一階下の賓客室を与えられていた。マイラが来意を告げ、ソリュータとクリオンは室内に入った。
「やあ……起きてた?」
 窓辺の椅子にかけていた娘が立ち上がった。いくつかの視線が、室内を交錯した。クリオンが尋ねる。
「彼は?」
 エメラダから少し離れたところに、若い男が立っていた。黒の長衣をまとい、短く切った髪は青い。
「従僕です。シェルカといいます」
 エメラダが答え、シェルカは無言で頭を下げた。その二人の視線が、ちらちらとソリュータをかすめる。聞けない立場なのだ。
 ソリュータの目顔で、クリオンは気付いた。
「ああ、この子はソリュータ。気にしなくていいよ。エメラダ、ちょっと話をしていいかな」
 察したものか、シェルカは一礼して続き部屋に入っていった。どうぞ、とエメラダがクリオンに椅子を勧める。
 向き合ってかけると、クリオンは改めてエメラダを見つめた。
 ビアースの実の娘だということはレンダイクがちゃんと調べた。似ていないが、母親のほうの血なんだろう。目に入れても痛くないというのも、多分本当だ。綺麗な子だった。
 薄布のローブ一枚で、多分その下はなにもつけていない。大人まであと一歩のソリュータと比べて、まるい女らしい体つきを完成している。年は――
「エメラダ、何歳?」
「十八にございます」
「十八か。その年でお父さんの言いなりにぼくの所へ来るの、つらくなかった?」
「娘は父の言葉に従うものです。それが皇帝陛下の元へならば、つらいどころか、嬉しくて震えそうですわ」
 にっこりと笑う。だが、クリオンはかすかな違和感を感じた。どこか、演技をしているような……
 後ろに立つソリュータにささやく。
「なんか、無理してない?」
「そう見えますね」
 ソリュータがそう思うなら、間違いないだろう。
「他に好きな人はいなかった? たとえば――さっきの、シェルカとか」
「シェルカ? いいえ、彼はただの下男です。なぜそんなことを?」
 否定はごく自然だった。ちらりとソリュータの顔を見ると、目顔でうなずいている。これは本当なんだろう。
 すると、何か別のことを気にかけている。なんであれ、本心を見ないうちは、あまり親しくできない。
 その後もクリオンは、いくつかのことを聞いた。食べ物のこと、趣味のこと、家族のこと。その辺りではごく自然な応答が得られた。だが、話が父親のことになり、クリオンをどう思うかということになると――
「お父様は立派な方です。陛下もお慕いしていますわ」
 取ってつけたように堅苦しい答えになるのだった。
 半時ほど話して、クリオンは面談を切り上げた。終わりざま、エメラダが聞いた。
「陛下、あの……今宵は、お戻りになられるのですか?」
「そうだよ」
「……おやすみなさいまし」
 明らかに、ほっとしたような様子があった。
 部屋から出たクリオンは、ソリュータに聞いた。
「何か隠してるね」
「ええ」
「なんだと思う?」
「そこまではちょっと……」
 結論が出ないまま、二人は歩き出した。
 だが、ソリュータは想像していたのだ。
 クリオンの少し後ろを歩きながら、ソリュータはマイラと短い話を交わした。それは、こういうものだった。
「彼女、陛下のお命を?」
「ありえなくはない」
 マイラも想定していた。エメラダが、刺客である可能性を。

 エメラダが宙ぶらりんな客となって、二週間ほどがすぎた。
 レンダイクとイマロンたちは商人連盟と連絡を取り合い、徴税の正常化と、前帝時代から持ち越された借金の始末について、相談を詰めていた。
 その間、エメラダは文字通り、放っておかれた。文官たちにとっては、城にいさえすればいい駒だったし、クリオンにとっても、ちょっと手をつけかねる立場の娘だったからだ。ソリュータも注意して、なるべく会わせないようにしていた。
 クリオンが冷徹な政治家で、必要に応じて私情を殺せる人間だったら、なにも問題は起きなかっただろう。冷徹とはいかないまでもクリオンにはちゃんと自覚があり、年にしては賢く自分を律していた。
 だが、困ったことにクリオンは神童でもなんでもなく、冠を取れば十五歳の少年だった。頭は悪くない。だが体も悪くなく、悪くないどころか若い元気があり余っていた。
 ぽんと目の前に差し出された、美しい娘。――口だけとはいえ、自分を拒んでいない。これは強い刺激だった。湧かなくてもいい妄想が頭に湧いてしまう。
 それをまた、毎日の湯浴みで侍女たちが増幅するのだ。チュロスやトリンゼたちは、まだ彼の湯殿番を務めていた。クリオンの厳命で彼女たちは薄布をまとっていたが、同じぐらい厳しいマイラの命令で、その布も武器を隠し持てない程度に薄いものでしかなかった。乳房や尻の形もあらわな彼女らに、すっぱだかで両手両足を洗われると、クリオンの股間も反応してしまう。
 それを侍女たちが洗う。以前のことがあるから露骨なおねだりこそしないものの、隙あらばクリオンの情けを受けようと、それはそれは丁寧に洗う。ほしがっていることが丸わかりのいきり立った性器を隠すこともできず、ただ懸命な自制だけに頼って、毎夜クリオンは風呂を乗り切り、真っ赤な顔でふらふらと湯殿から出てくるのだった。
 そんな状態ではとても私室に帰れないから――ソリュータをどうしてしまうか自分でも自信がない――クリオンは、キオラの部屋に寄る。
「どうしたんですか?」
「あの……また、いいかな」
「あ、はい! 遠慮しないで下さい、いつでもいいって言ったでしょ?」
 同室のマウスを適当な口実でおっぱらって、クリオンは密室にキオラとこもり、愛くるしい顔をした少年の口戯で、いっときの慰めを得るのだった。
 口元を押さえながら、また来てくださいね、と笑うキオラを後に部屋を出ると、やっぱりクリオンもため息をつく。不健康だよなあ、と。
 一番手っ取り早いのは侍女たちに手をつけてしまうことだ。だが彼女たちのどろどろした思惑はもう見てしまった。ソリュータは……頼めば多分うんと言うだろうが、男として彼女だけは汚したくない。いや、流されてどうするんですかと叱られるかもしれない。
 他の娘を探すことも、ちょっとできない状況だった。まだ帝国は安定していない。皇帝が女探しにふらふらほっつき歩いては示しがつかないだろう。
 すると、となるのだ。エメラダは、ちょうどいいんじゃないか。確かに彼女は父親の思惑で送りこまれた娘だが、彼女自身に計算はなさそうだ。クリオンにとってはそっちの方が重要だった。そして彼は、ソリュータが抱いている懸念を聞かされていない。あの屈託も、話せば溶けるんじゃないかと想像している。
 ビアースとのことが一段落したなら、最初の側女として迎えてもいいんじゃないだろうか。
 こういう計算を普通の男がしたなら、両天秤もいいところで、まったく男の身勝手もきわまると言うべきだろうが、皇帝の立場にあるクリオンをそう非難するのは当たらない。まったく普通の男が皇帝になったなら、後先考えずに侍女からエメラダから誰から手をつけまくり、場合によってはマイラにだって伽を命じ、ソリュータすら委細構わず毎晩押し倒してもおかしくないところである。許された権力に対して、クリオンは潔癖すぎるとすら言えた。
 それだけ自制の努力をした上でのことだから、クリオンがエメラダに目をむけつつあったのも、やむをえないことだった。
 一日、王都にごく近い天領に使いが飛び、徴税手続きが大過なく行われていることが確認された。全土の様子は勅使団が稼動を始めなければわからないが、ビアースその他の商人たちが、徴税の妨害をやめたことは確かなようだった。
 その日、クリオンはレンダイクのもとに赴いて、言ってみた。
「男爵、ぼく、エメラダを側女にしようかと思ってるんだけど」
 それはビアースを皇戚に加えることになる。多少は反対されるかと思ったので、あまり勢いのいい言葉にならなかった。
 その通りレンダイクは反対した。だが、反対の理由は、意外なものだった。
「あの娘は平民ですが、よろしいですか」
「え?」
 意表をつかれて、クリオンは戸惑った。
「平民って……男爵、身分を気にするような人だっけ?」
「いえ、陛下がお気になさるのではと思ったのですが」
「ぼくは気にしないよ、そんなこと。わかってると思ったけどな」
 それは失礼しました、とレンダイクは頭を下げた。
「それより、ビアースと関係を作ってしまうことのほうを、咎められると思ったんだけど」
「そちらは問題ありません」
 あっさりレンダイクは言った。
「失礼ながら、帝国府でも陛下のお妃候補を考えておりました。いえ、国事に関わりますので。そうやって国事として考えてみますと、他国の姫、貴族の娘、ただの平民、その他、いずれを考えても一長一短があって難しいのです。あのソリュータ嬢にしてからがそうです」
「ソリュータも計算に入れてたの?」
「当然です」
 なんだかソリュータとの間柄を見抜かれたような気がして、クリオンは頬を赤らめた。
 レンダイクは淡々と続ける。
「しかるに、エメラダ嬢とビアースには、大貴族たちのようなややこしい因習がありません。下世話な言いかたをすれば金と物の付き合いで、すこぶるドライです。将来ビアースが皇父として権勢を振るう恐れも少ないでしょう。成り上がりとして他の勢力にさげすまれますから。そう考えると、とりあえず陛下のお世継ぎを作るために、エメラダ嬢は適当かと思われます」
「とりあえずっていうところが気になるな。……なんだか、ジューディカさんみたいに、子供が生まれさえすればいいみたいな感じなんだけど」
「儀典長官はこちらにもいろいろ言ってきますので。似ましたか」
 似るどころか、レンダイクのほうがよっぽど即物的な感じだった。
 だけどまあ、とクリオンは気を取りなおした。そういう計算をやった上でかまわないと保証してくれるんだったら、それはそれで気が楽になる。
 クリオンは、いよいよエメラダにその話を切り出すことを決めた。

 5.

「一つヒドラが、二つフェアリイ、三つ淫らに、四つ酔わせて、五ついたずら、六つ睦言、七つ名残に、八つ約束、九つ今度、とうとう虜!」
 本当に四十八の芸があるかどうかは定かではないが、少なくともマウスのビーンバッグ・ジャグリングは見事なものだった。軽快な数え歌に合わせてお手玉を増やしていき、十個を数えたと思うが早いか、煙のようにすべてを消し去った。
「すごいすごい!」
「おほめに預かり恐悦至極」
 胸に手を当てて一礼すると、マウスは次に、どうやって収めていたのかと疑うほどの長剣を、背中からずらりと抜いた。それも二振り。
 クリオン、ソリュータ、エメラダ、キオラの四人が目をまるくし、壁際でマイラともう一人、エメラダの従僕のシェルカが目を細める。
「お次は、剣闘をお目にかけましょうかな」
「剣闘? じゃあ相手は……マイラがいいかな」
「いえいえご無用、一人剣闘を披露しましょう」
「一人剣闘?」
「かくの如しです。そうれっ」
 マウスが剣の一振りを放り出した。くるくると飛んだ剣が、ぴたりと空中に静止して、いきなりマウスに襲い掛かってきた。激烈なチャンバラが始まる。
「このっ、剣はっ、魔族の、魔剣にて、ちょっと、油断すると、このように、襲い掛かってくるのですっ、ハイッ!」
 キャーン! と火花が散った。キオラが無邪気に手を叩く。
「がんばれえ、マウス!」
 大体見当がつく。以前テラスで見せたように、ごく細い糸を使って操っているのだろう。だがそれを探すようなことはせずに、クリオンはそっと隣をうかがった。
 エメラダが椅子に座っている。ジャグリングの時は退屈そうだったが、さすがに一人でやる真剣勝負などというものは初めて見るのだろう、驚いた顔でマウスの芸に見入っている。気を引けたようなので、クリオンはほっとした。
 わざわざキオラとマウスまで呼んで、私室で小さな宴会を開いたのは、彼女の気持ちをほぐすためだった。
「さても、手強き、魔剣かなっ! なれど、このマウス、負けはせぬ!」
 マウスが十文字に切り払うと、彼(彼女?)いうところの魔剣は、吹っ飛んで床に転がった。キオラとソリュータがやんやの喝采を浴びせる。
「すごいねえ、マウス!」
「見事だったわ」
「おひねりは畳んで、おひねりは畳んでお願いします!」
 金貨をどうやって畳むんだろうとクリオンが考えていると、や、おひねりは頂戴できませんかな、と言ってマウスは剣を収めた。
 ソリュータがエメラダの様子を見て、ちらりと目配せした。クリオンは立ち上がる。
「ありがとうマウス、面白かったよ。ご苦労さま」
「これはもったいないお言葉を。ご用とあれば何時でも。今宵はこれでお開きですかな?」
「うん。下がっていいよ。キオラ、また明日ね」
「はい、おやすみなさい!」
 道化と王子が出ていくと、さて、とクリオンはエメラダに顔を向けた。柄にもなく――数ヶ月前まではそれが当然だったが――上がっている。
「え、エメラダ……そっちのソファに移らない?」
「え? はい、かしこまりました」
 ソファに腰掛けたクリオンの隣に、エメラダがしゃっちょこばって座る。マイラはそれで察したらしく、隣に立っていたシェルカの肩を軽く叩いて、廊下に出ていった。シェルカはその後について扉を閉め、自分は続き部屋へと姿を消す。
 残されたのは、クリオンとエメラダ、それにソリュータ。ソリュータは、弟の初舞台を見守る姉のような顔で、クリオンの背後から見守っている。――ただし、クリオンは知らないことだが、その懐中にはしっかり短剣が隠されている。
「エメラダ、ええと……今の、面白かったね」
「そうですね」
「皇帝のお妃になると、ああいうの毎日見られるよ」
「お妃に」
「うん。……その、いきなりかもしれないけど、エメラダ、ぼくの妃になってくれないかな」
 エメラダは振り向く。ウェーブのかかった緑の髪がふわりと広がり、同じ色の瞳がクリオンを見つめる。その顔に広がったのは、驚きか、喜びか、それとも――
 クリオンは、手を伸ばして彼女の肩にかける。
「ね、エメラダ」
「は、はい」
「いや?」
「いや、というか……」
「いやじゃ、ない?」
「でも陛下」
「急だとは思うけど」
「その、ちょっと、お待ちを」
 今夜もエメラダは、肌が透けて見えるような薄い絹の夜着だった。豊かな乳房とくびれた腰が目の前にある。クリオンは、ほんの少し、我を忘れかけた。
「エメラダ」
 胸に、触れる。
 途端に、弾かれたようにエメラダは飛びのいた。一足飛びにテーブルのそばまで行って、デキャンタをつかんで振り上げる。やはり刺客だったか、とソリュータは短剣を取り出す。
 だが、エメラダが上げたのは、刺客のものとはおよそほど遠い裏返った悲鳴だった。
「何すんのよいきなり胸なんか触って、デリカシーってものがないのこのエロガキ!」
「え……」
 たとえエメラダが口から毒煙を吹いたとしても、これほどは驚かなかっただろう。文字通り鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、クリオンとソリュータはエメラダを見つめた。
「お父様に泣いて頼まれたから我慢してたけど、もう耐えられないわ。皇帝だからって調子に乗るんじゃないわよ、色ボケ坊や!」
「え、エメラダ……それが、地?」
「そうよ、悪い?」
 エメラダは傲然と髪をかき上げた。
「ヘリネ街いちのはねっ返り、緑のじゃじゃ馬エメラダ・ビアース嬢とはあたしのことよ。文句ある?」
「そ、それでか……」
 クリオンもソリュータも思いきり肩を落とした。以前からこの娘に感じていた違和感は、皇帝の前で緊張しているせいでも、刺客として神経を尖らせているせいでもなかった。この性格を隠していたからに違いない。
「あーあもう、やってらんないわよ」
 エメラダはデキャンタにどぼとぼと赤ワインを注いで、ろくに静めずにラッパ飲みした。
「なんとか妃になってコネ作ってくれって、お父様に頼まれたしさあ、あたしも皇帝ってどんなカッコいい美男子かと思って期待したけどさ、蓋を開けてみれば、なにあんた? なよなよして女の子みたいにつるっつるのほっぺたしてさ。それで年下? 冗談じゃないわよ」
 一気に飲み干したデキャンタを後ろに放り投げ、それでもまだ止まらずに今度はアクアヴィットの酒瓶に手を伸ばす。
「しかもなんなの、今の口説きかた。ワシの妾になれば宝石買ってやるぞっつってんのと同じよ。居酒屋の親父なみじゃない。ううん、親父だってもっとマシな文句吐くわよ。その上ヤリたさむき出しで肩触るしさ、胸まで触るしさ、ちんちんおっ立てて鼻息荒くしてんじゃないわよ!」
「ちょっと、あなた」
 真っ赤になって恥じ入るクリオンの後ろから、ずいとソリュータが前に出た。
「黙って聞いてれば言いたい放題……クリオン様に対する侮辱の数々、聞き捨てならないわね」
「侮辱でもなんでもないじゃない。あんたも女でしょ、今の間抜けな口説きかた見て、笑えなかった?」
「それは……仕方ないのよ! クリオン様はあなたみたいに世間ずれしてないんだから! 女性の手にだってほとんど触ったことのない方なんだから!」
「ほとんど? じゃあちょっとはあるんじゃない。そりゃそうか、あんたがいるんだもんね。あんたこの子と毎晩仲良くしてるんでしょ? ただのメイドが四六時中いちゃいちゃしてるわけないもんね」
「あ……あなた、言うにことかいてそんな下品なこと!」
「下品? 下品はどっちよ、あんただって今の今、その子と一緒になってあたしを手ごめにしようとしたじゃない」
「皇帝陛下のお情けを受けるのが不満だって言うの?」
「不満よ。だーい不満。皇帝陛下が聞いてあきれるわ、そんななまっちろい女のコもどきだなんて。そんなのが皇帝やってたら、この国も長くないわね」
「ぶ……無礼者っ!」
 ソリュータが短剣をかざして飛びかかった。だがエメラダも、そこはさすがに富豪の子女で、金にあかせて教えを受けたものか、護身術の体さばきでひらりとかわす。
「ほうら底が割れた。お里が知れるわよ」
「その口閉じなさいッ!」
 返す刀で切りかかる、と見せかけて、ソリュータはすらりと長い足で足払いをかけた。エメラダが護身術ならソリュータも負けてはいない、主人のクリオンを守るために、ひととおり武術は仕込まれている。
 ばたっと尻もちをついたエメラダは、太ももがあらわになるのもものかは、完全に頭にきた様子で、ソリュータに飛びかかった。
「やったわね!」
「そっちが先よ!」
 くんずほぐれつのつかみあいになる。
「ちょ、ちょっと……やめなよ二人とも!」 
 クリオンが割って入るが、十七歳と十八歳の娘パワーにはかなわない。おまけに二人とも体格はクリオンより上だ。近づいたところでソリュータの裏拳が顔に入り、ふぎゃっとうめいて後ろに転がる。
「あ、申しわけありません、クリオン様!」
「クリオン様じゃないわよ、この山猫女!」
 その拍子に後ろに飛びはねて、エメラダはぺっぺとほこりを吐いた。
「ああもう、せっかくのセニアのナイトガウンがびりびり。あたし、うちに帰るわ」
「待ちなさい!」
「待つわけないでしょ。シェルカ! シェールカ! 行くわよ!」
 続き部屋に向かって呼びかけると、従僕のシェルカが現われた。彼に向かって、エメラダは両手を広げる。
「見てよ、これじゃ部屋に戻れないわ。あなたのローブ貸して」
 そのそばを、シェルカはすっと通りすぎた。
「……シェルカ?」
 エメラダが振り向く。クリオンが顔を上げる。クリオンを気遣っていたソリュータが目を見開く。
 シェルカは、左袖に隠していた湾刀を抜き放って、大きく振りかぶっていた。
「危ない!」
 ソリュータがクリオンを抱き抱える。避けられない姿勢だった。自分の背中で受けとめる覚悟だった。
 その耳を刺したのは、ビィン! という鈍い音だった。
「え……?」
 顔を上げた二人が見たのは、天井に剣を向けたまま、振り下ろせずに困惑しているシェルカの姿だった。うつろな目が、彼が狂っていることを証明していたが、だから剣が振り下ろせないわけではない。
 剣を支えて、きらりと細い糸が光るのをクリオンは見た。マウスの糸だ。あの道化が、芸に使った糸を回収し損ねていたのだ!
 脱兎の如くクリオンは部屋の隅に走った。自分の部屋だ、剣は常に置いてある。
 レイピアを手に振り返り、クリオンは叫んだ。
「ソリュータ、エメラダを向こうに!」
 湾刀を低く構えたシェルカが、猛然と突き込んで来た。クリオンは刀身に滑らせてそれを受け流す。エメラダが呆然とつぶやく。
「し、シェルカ、なんで……」
「こっちへ!」
 腰を抜かしたエメラダの首っ玉をひっ抱えて、ソリュータが部屋の隅に引きずる。それから短剣を拾って駆け寄ろうとした。
 近寄れない。彼女の技量では加勢できない。二人は凄まじい剣戟を繰り広げていた。
「こいつっ!」
 右から左から斜めに打ち下ろされる湾刀を、さばき、かわし、必死にあしらってクリオンは突きを繰り出す。だが当たらない、跳ねられる。
 鋭い金属音と火花が幾重にも重なる。シェルカはかなりの使い手だった。実戦経験が十回に満たないクリオンでは、とても倒せそうになかった。
 それはクリオンも承知の上だ。部屋のすぐ外にはマイラがいる。数秒もたせれば彼女が助けにくる。
 だがその期待も裏切られた。
「陛下! 何事ですか? ここをお開け下さい!」
 マイラが激しく扉を叩く。錠が壊されているのだ。シェルカの仕業に違いなかった。
「くっ!」
 重い一撃で、クリオンは壁に叩きつけられた。薄く斬られた額から血が滴る。シェルカが濁った眼差しをクリオンに向ける。ソリュータは歯噛みしながら後ろに立っている。近づいても斬られるだけ、くやしいことにそれがわかってしまうのだ。
 こんなところで――
 せめてソリュータが逃げる隙だけでも作りたい。そう思って、決死の突き込みをしようとした時。
 ぶうん、とレイピアが震え始めた。
『ジングの裔よ。我を呼ぶか?』
 クリオンははっと気づいた。聖霊の封球をつけたままだったのだ。それはあの試し切りのあと、どうやっても外れなかったものだった。
 忘れていたわけではない。だが、使わずに済ませるつもりだった。一度は主のはずのクリオンを殺そうとした霊である。
 クリオンは叫んだ。
「呼んではいない! 眠れ、聖霊よ!」
『しかし汝は危地にある。我の力を貸してもよい』
「黙れ! そうやってぼくをだます気だろう」
『だましはしない。汝が殺されるのを忌んでいる。我は――汝がどこまで我が力に耐えられるのか、試してみたいのだ』
「でも、城が吹っ飛ぶ!」
『信じよ、さもなければ滅べ』
 ウオウ! とシェルカが吼えた。湾刀を思いきり叩きつけてくる。
 クリオンは真っ向からそれを見つめながら、剣の腹を額の傷に押し当てて血を与え、戦気を込めて短く命じた。
「聖霊ズヴォルニク、敵を弾け。いざや、聞かん?」
『諾』
 ズバッ! と太い水柱が吹きあがった。足元からまともにそれを浴びたシェルカは、天井に叩きつけられた。
 一瞬だった。その一瞬に込められた力は凄まじかっただろう。ざあっと崩れた水の中に倒れたシェルカは、完全に戦闘能力を失っていた。
「……クリオン様!」
 ソリュータが駆け寄ってくる。抱きしめられながら、クリオンは封球を見つめる。呼びもしないのに目覚めたことといい、敵に合わせて力を変えたことといい、この聖霊は、やはりかなりの力と知恵を持っているようだった。
「陛下、ご無事ですか!」
 扉を破って、マイラと近衛たちがなだれ込んできた。ほっと安堵しながら、クリオンはエメラダの姿を見た。そして、くすっと笑った。
「ソリュータ、下着の替えはあるよね」
「え?」
「あの子に貸してあげなよ」
 振り返ったソリュータも、あら、と笑った。
 エメラダは、聖霊の呼んだ水とは別の水たまりの上で、しゃがみこんでいた。


 驚いたことに、シェルカはまだ生きていた。近衛兵たちが彼を厳重に縛り上げ、牢へとつれて行った。
 彼の吟味はマイラに任せて、クリオンは湯殿に向かった。まだ足をがくがくさせているエメラダを、ソリュータが支えている。
 時間はずれなので、湯殿に侍女たちはいない。いてもソリュータが追い払っただろう。ソリュータがエメラダを脱がせて、湯殿に導いた。クリオンは脱衣所で待っている。
 湯殿の中から、反響しながらエメラダの声が出てきた。
「あいつ……シェルカは、悪いやつじゃないのよ。ないはずなの。五年前から従僕を勤めさせているけど、真面目で腕の立つ護衛だったわ」
「それがなぜあんな真似を?」
「わからない……きっと誰かにたぶらかされたんだ」
 うがった考え方をすれば、シェルカをつれてきたエメラダも怪しい。でも、とクリオンは苦笑する。エメラダが知っていたなら、小水を漏らしたりはしないだろう。プライドは山より高そうだし。
「それと、ごめん」
「え?」
「あの時、あの子叫んだよね。ソリュータ、エメラダをって。あんたはあたしを助けてくれたし、あの子はあの子で必死に戦ってた。……ううん、あの子じゃない。陛下だ。あんなに強いなんて、思わなかった……」
 ざあっと湯の音がした。それに隠れて、なにやら低い声が聞こえる。
 ややあって、くぐり口からソリュータが顔を出した。
「クリオン様……あの、入ってきていただけますか」
「ぼくが?」
 入ろうとしたクリオンを押し止めて、ソリュータがやや赤い顔で言った。
「お召しを脱いでください」
「……うん」
 クリオンは言われたとおり、服を脱いで湯殿に入った。待っていたソリュータを見て、立ちすくむ。
「なにか?」
「そ、ソリュータの裸って、初めてだよね……」
「あ」
 言われてソリュータは自分の体を見下ろした。トリンゼたちが使うのと同じ薄衣だ。湯気で張りつき、流れるような細い肢体があらわになっている。
「わ、私なんか見てる場合じゃありません。今日は、エメラダを見てやってください」
「どうしたの?」
「彼女も、悪い子じゃないみたいなんです」
 湯気をついて、二人は湯船に近づいた。待っていたエメラダを見て、クリオンは軽く驚いた。
 流しに膝をついて座ったエメラダが、両手を胸に重ねて、深く頭を下げたのだ。
「どうしたの、ころっと変わって」
「さっきはごめん……いえ、先ほどは失礼しました。手前エメラダ、陛下のことを見誤っておりました。陛下のようにお強い方になら、この身を捧げるのも本望にございます。どうかお受け取りを」
「なんだか話し方が変だよ。きみのお父さんみたい」
「そ、それは、手前商人の娘にありますので……」
「地でいいよ。さっきのしゃべりかた、あれはあれで好きだな。……悪口さえ言わなきゃ」
「……そう? ならそうさせてもらうわ。なんだかびっくりして、付け焼刃の敬語を忘れちゃって……」
 そう言って笑った顔に、無理なかげりはなかった。欲望に乱されない状態で初めて、素敵な顔だ、とクリオンは思った。
「お父様にいろいろ言われてるけど、あたし決めたわ。陛下の側につく。だから、気にしないで抱いてもらえる?」
「す、ストレートだね……」
 真っ赤になりながら、ちらちらとクリオンはエメラダの全裸の肢体を盗み見る。エメラダはもう顔をしかめたりしない。手を開いて、豊かな二つのふくらみをクリオンにさらした。
 場所が場所だけに、トリンゼたちと比べてしまう。だがクリオンは頭を振って打ち消した。侍女たちは、皇帝の身分を持つ男に抱かれたがっているのだ。エメラダは違う。クリオンが強いから、許す気になった。単純と言えば単純だが、クリオンの本質の一部が好かれたことには変わりない。
 もう一つの懸念はソリュータだったが――振り返ると、彼女も微笑んでいた。エメラダがクリオンを認めたので、怒る必要をなくしたのだろう。自分の好きなものを取られるとは考えず、自分の好きなものが人に気に入られた、という考えで喜べる、許容量の広さがソリュータのいいところだった。
 それでやっと、クリオンはエメラダに気持ちを向けられた。
「じゃ、洗ってくれるかな」
「洗うの? 陛下はもう入ったんじゃないの?」
「入ったけど、それがね……」
 クリオンは、生殺しとも言える侍女たちとの入浴のことを話した。それを聞いて、エメラダが嫣然と笑う。
「じゃあ、いつも裸の女の人たちに囲まれていても、手は出せなかったんだ」
「うん……」
「今はいいわよ、遠慮しなくても。……あたしに、好きなようにして」
 それから、エメラダは顔を寄せてささやいた。
「あたしの中に、種をちょうだい」
 ぞくっとクリオンは震える。
 椅子にかけたクリオンを、エメラダが丁寧に洗い始めた。さりげない接触などではなく、自分の乳房や腕に泡を泡立てて、思いきり肉の柔らかさを感じさせながら滑らかに触れる。同じことを同じ場所でされながら、欲望を押さえつけていた反動で、クリオンも思いきって大胆に股間をさらし、思うさま勃起を突き付ける。
 傾けた体を後ろのソリュータに支えられながら、クリオンはのけぞってペニスをさらす。放出しても構わないという安堵がそれを最大に膨らませ、ぴたりと下腹に張りつかせている。エメラダがそれを見て含み笑いする。
「悪口じゃないからね。……可愛い」
「エメラダ、初めてじゃないの?」
「実は、町で何度か。お父様には内緒だけど。――あ、陛下はそういうのいや?」
 あたし、さっきはみっともないとこ見せちゃったし、とエメラダがうつむく。これはしおらしさを装う演技だ。ソリュータがにらむ。
「慎みのない」
「いいよ、エメラダ。……前に何があっても、今日からはぼくの家族だから」
「そうなるのね。……結婚式って、するのかしら?」
 エメラダは乳房の間に泡を集めて、ぬるりとクリオンのペニスを包んだ。ゆるやかに上下させる。
「どう、気持ちいいでしょ?」
「うん……ぷよぷよして気持ちいい」
「ふふ、可愛い……年下って、意外にいいかも」
 クリオンは手を伸ばして、エメラダの乳房に触れる。手のひらよりも少し大きい。それにもっちりと手に乗る重さがある。つかむとやわやわと形が変わった。こんなに柔らかいなんて、とクリオンは不思議な気持ちにすらなる。
 自分の体が気に入られたと知ったか、エメラダは少し得意げにソリュータを見上げる。大きさで言えばソリュータの分が悪い。ちょっと情けなさそうな顔をしてから、気を取りなおすように、ソリュータは自分の胸をクリオンの頭に押し付けた。
 乳房に伝わるクリオンの熱さを感じとって、エメラダが聞く。
「どう、一度出しておく? それともこのままいくのはいや?」
「うん……出してみる。このまま」
「じゃあ、いかせてあげる……」
 両手で胸をもみこんで、エメラダがクリオンのものを包みあげた。もともとそんなに長くはもたない。クリオンは目を閉じてうめいた。
「エメラダ、いくよ、いくからね?」
「いいわよ」「クリオン様……」
 ソリュータがぎゅっと頭を抱きしめ、エメラダがきゅきゅっと乳房を押しつけた。
「うんっ!」
 腰を痙攣させて、クリオンは射精した。エメラダの胸の谷間から白い筋がほとばしる。クリオンの腹、胸、顔、それを越えてソリュータの首もとにまで、精液の筋が尾を引いた。幾度もの放出でまたたくまに筋が一つにつながり、腹の上にひとすくいほどの液だまりができる。
「んっ、んんっ、んっ……」
「わ、出る出る、たくさん……」
 面白がるようなエメラダの声も、しまいには嘆声に変わった。
「すごい……コップをこぼしたみたい。これってやっぱり、皇帝陛下だからかしら……」
「そう……だと思う。侍女が言ってた。前帝陛下も多かったみたいだから……」
 ソリュータに体を拭われながら、クリオンが荒い息をついて言った。
「二回目でもこれぐらい?」
「二回目はもっと多いぐらい……だよね?」
「知りません! 見てませんし……」
 ソリュータがぷいと横を向く。あ、やっぱり二人はしてるんだ、とエメラダが笑う。
「いいの? あたしで。陛下、ソリュータと先にしたら? あたしはそれでもいいけど」
 ソリュータとクリオンは顔を見合わせる。短い視線の交錯で、意思は通じた。
 したい。お互い、焦がれるほどしたい。
 でも、してしまうと歯止めがなくなる。二人の交わりは、あの夜の約束の一度だけ。正式に結ばれることがない以上、二度目を求めてはいけない。心のつながりだけで満足しなければいけないのだ。
「……陛下、私、外でお待ちします」
「うん……ごめんね、ソリュータ」
 ソリュータの気遣いが痛いほどわかる。彼女を迷わせないために、クリオンはうなずいた。
 ソリュータが出ていくと、エメラダがほっとため息を付いた。クリオンは聞く。
「ソリュータが苦手?」
「ううん、ああいうハキハキした子は基本的に好き。でも……こういうことって、二人でやるものでしょ?」
 そういえばそうだった。やっぱり感覚が普通の人とずれてきてるなあ、とクリオンは気付く。
「やっと、気がねなくできるわ」
 エメラダは目を細めて笑い、クリオンの体を流し始めた。
「そっちの大きいプール、入っていい?」
 湯船のことだった。岩張りで二十ヤード四方はある。皇帝専用のものだから当然彼女は初めてなのだろうが、だからプールなどと言ったわけではない。フィルバルトの民は普通、天水のシャワーで入浴を済ませる。
「湯船って言うんだよ」
「これ、いいわね。東国風に作らせたの?」
「ぼくが作らせたわけじゃないけど」
 二人は湯の中に体を沈めた。エメラダが体を寄せて、クリオンの手を導く。
「さ、陛下……あたしを味わって」
「うん」
 クリオンはエメラダの柔らかな肌に指を忍ばせていく。まさぐりながら、好きにできるのは初めてだ、と気付く。腕をつかみ、腰を抱き、尻をこねた。蜜がつまっているように肉が深い。
「やん……くすぐったい……」
「気持ちいい?」
「ちょっと下手っぴだけど……ううん、下手じゃないわ。気持ちいい。優しくって」
 エメラダはクリオンの顔を両手で挟み、くちづける。
「陛下が相手だと、壊されたりしなさそうで、ほっとする。もっと乱暴にしていいわよ」
「そ、そう?」
 経験のあるエメラダの言葉だから、クリオンも大胆になれた。少しえげつないほどに、わき腹や膝の裏に触れ、ちゅくちゅくと唇を押しつけあった。
 やがて手は、エメラダの乳房に向かう。野イチゴのように赤い先端を乗せた白い球を、クリオンは飽かずにこねつづけた。顔を寄せ、頬を挟んでみる。
「エメラダって……胸大きいね」
「陛下はおっぱい好き?」
「わかんないけど……あったかい」
 頬でぐりぐりと乳房を押しつぶし、乳首を含んで吸ってみた。顔ごと埋まってしまいそうなほどの膨らみ、だが埋まらずに押し戻される。 
 夢中で吸いながら見上げると、エメラダも瞳を潤ませていた。翡翠を引き伸ばしたような緑の髪に、頬の赤みがいっそう映えている。
 エメラダ、その気だ。
 クリオンの自信が高まる。顔を押しつけながら、腰も押し付けた。エメラダの太ももの上にまたがり、再び堅くなり始めた性器をぐいぐいと骨盤にこすりつける。
「陛下ったら……すごくやる気……」
 湯の中を泳いだエメラダの手が、クリオンのものをつかんだ。急かすようにくいくいしごき始める。
 差しこんだクリオンの膝の上に、エメラダの股間が当たっていた。そこも強く押しつけられている。ぬるぬると潰れる柔らかいひだの感触。クリオンは片手をそこに差し込んだ。湯とは違う粘液がまとわりつく。
「エメラダも……したいでしょ?」
「うん……いやらしい気分になってる。陛下のせいよ……」
 エメラダがクリオンの耳をなめながらささやく。
「あたし、中で出されたことないの。どんな気持ちなんだろうって思ってた。陛下の、あんなたくさんの種を注がれたら……」
 言葉を切って、エメラダは軽く体を震わせる。想像だけで快感が走るほど、期待しているのだ。
「エメラダ……」
「クリオン陛下……」
 二人はばしゃりと湯をはね散らせて、体勢を変える。両足を外に折って娘座りしたクリオンの上に、エメラダが両足を広げてまたがった。
「さ、いらっしゃい……」
 指をクリオンに添えながら、エメラダがペニスを呑みこんだ。
「ンンっ!」
 硬いものを柔らかいものが貫通する感触に、二人の吐息が重なる。
 クリオンは強くエメラダの乳房に顔を押しつけ、息を殺した。ぴっちりと茎を包んだエメラダのしなやかな粘膜から、ぷつぷつと愛液が産まれて亀頭をぬめらせているのがわかる。まだ動けない。今動いたらたちまち出てしまう。
 ところが、押さえつけるクリオンの腕の中で、エメラダがもがいた。
「陛下……ちょっと、動かせて」
「え? だめだよ、まだ……」
「お願い、こんなの初めて」
 エメラダがクリオンの肩を押して抵抗する。
「奥に届きそうで届かないの。届いたらきっとすごいのに。もどかしいの。お願いだから」
「でも、出ちゃう」
「もうちょっとだけ待って。ね?」
 エメラダは腰をくねらせ、クリオンは押さえつける。エメラダが哀願する。
「やだぁ……なんでそんなに強いの、腕細いのに……」
「だめだってば! そんなに動いたら……くんっ!」
 亀頭の裏にひだが滑り、クリオンは思わず腰を動かす。その途端エメラダが、「アッ!」と甲高い鼻声を上げた。
「それッ! ……いい、やっぱりすごくいい! これ最高!」
「じゃあもう、動くよ! 出ちゃうけど、いいね?」
「いいわよ、その代わり、あたしすごく叫ぶからね?」
 クリオンは両手でエメラダの腰をつかみ、一息にがくがくとつき上げた。エメラダが悲鳴のようなあえぎを放ち始める。
「そっ、そうっ! いやっ、もうちょっと、深く、深く!」
「エメラダ! きつい!」
「ああっ、んあっ、まだ、まだよ! もう少し、ぎゅって、ぎゅって奥まで、そうそれッ!」
「こう? ここ? ここ当てるんだね?」
「それェッ! いやっ、いやあ! いい、陛下、だめあたし、そこすごい! 硬いの、硬くて刺さるのッ!」
「いくよ、エメラダいくよっ、いい? 入れるよ?」
「当ててね? 当てて出してね? いっぱいよ、いっぱいッ!」
 ふくよかなエメラダの尻に深々と指をえぐりこませて、クリオンは思いきりペニスを突き込んだ。先端をくわえる器官の口に向かって、溜めていた圧力を解き放った。
「来てるッ!」
 一声叫んで、エメラダが全身をこわばらせた。クリオンの頭を思いきり胸にかき抱き、太ももを締めつけて膣を縮み上がらせる。その圧迫に、クリオンは意識までしぼりとられたような気がした。
「あーっ、あーっ、あーっ!」
 クリオンが脈動しながら流しこむ都度、エメラダがかすれた声を漏らす。その声をもっと聞きたくて、クリオンは我を忘れて注ぎつづけた。 


 ゆであがったように真っ赤になったまま、体を重ねて呼吸だけをしていると、ぴたぴたと足音が近づいてきた。
 いきなりクリオンは、ざばっとお湯から引き上げられた。続いてエメラダ。
「え?」
 見上げると、ソリュータが手桶をかざしていた。
 バシャーッ!
「うわーっ! 冷たっ!」
 バシャーッ!
「キャーッ! ちょ、ちょっと、何すんのよ!」
「のぼせると体によくありません」
 ツンと顔を背けて、ソリュータが言った。
「もう済んだでしょ?」
 それからちらりと二人の体に視線を走らせると、何を思ったか、ソリュータはもう一個の手桶から、自分の頭に思いきり冷水をかけた。水滴を滴らせながらつぶやく。
「あんな大声出して……こっちまで変な気になったじゃありませんか」
「やっぱりしたいんじゃない。すれば?」
「できるものならしてるわよ!」
 ソリュータがきつい目でにらみつけ、クリオンがなだめるように言った。
「ソリュータとは、まだできないんだ。……ぼく、ソリュータが一番好きなんだけどね」
「なによ、あたしは二番目?」
「いいでしょ二番目でも」
 ソリュータはエメラダの下腹を指差した。
「運がよければ、あなたはクリオン様のお子を宿せるんだから」
「そうか……そうだったわね」
 エメラダはしげしげとへそのあたりを見つめ、クリオンにしなだれかかった。
「陛下の子供かあ……陛下みたいに強くって可愛い子だといいわね」
「くっつくんじゃ、ありません!」
 ソリュータが思いきり引き剥がす。クリオンは苦笑するしかなかった。

 6.

 五星暦一二九〇年六月、エメラダ・ビアース嬢の寵姫入内が宣下され、岳父ジュゼッカ・デ・ビアースに登城の沙汰が遣わされた。
 今度はビアースもごねたりせず、いそいそとフィルバルト城にやってきた。王宮の第三謁見室に通された彼を、クリオンとレンダイク、ジューディカ老、それにエメラダが迎えた。
 嬉しそうな儀典長官ジューディカが、事の次第を伝えた。エメラダに皇帝のお手が付いたこと、もし子が生まれれば王子になること、姫の結納金として一万メルダが下賜されること、ビアースが皇戚として爵位を与えられること。ほくほく顔でビアースはそれを聞く。エメラダの扱いが正室ではないと聞かされても変わらない。彼の目的は皇帝に直通のパイプを作って権力を得、同業者を出し抜くことだから。声さえ届けば身分などどうでもいい。
 だが、彼の笑顔も崩れる時が来た。
 ジューディカの言葉が終わると、少し照れくさそうな顔のクリオンが、エメラダに合図した。真新しい青葉色のドレスをまとったエメラダが、別れの言葉を言いに父へと近づく。
「お父様……」
「エメラダ、でかしたぞ」
「それが、そうでもないのよ」
「……なに?」
 それまで澄ました顔をしていたエメラダは、突然んべっと舌を出した。
「あたし、陛下が大好きになっちゃった」
「え、エメラダ?」
「陛下をお助けして、帝国のために頑張るからね。悪いけどお父様の都合より、こっち優先にしたから」
「なんだって?」
「あたしはお父様の道具じゃないってこと。お父様も、帝国に隠れて闇取引したり、裏金渡してズルしたりしちゃだめよ? 全部陛下に言いつけちゃうからね!」
「そ、そんな……」
「それはそれとして、今まで育ててくれてありがと! 元気にやってくわ!」
 ひらりと身を翻すと、エメラダはクリオンのそばに寄り添って、もう一度舌を出した。
 フィルバルトいちの豪商は、へたへたと床にくずおれた。


 獄舎から引き出されてきた青い髪の男は、もう以前のような濁った目をしていなかった。
 クリオンは玉座からしげしげと見つめる。彼の供述は聞いている。おかしくなったのは数ヶ月前からだという。夜ごと誰かが枕元でささやき、縁もゆかりもない皇帝への憎悪を植え付けたというのだ。罰を逃れるための言いわけだろうとマイラが注釈をつけていたが、本人を見たクリオンは、嘘ではない、と思った。
 縄打たれ膝を付くシェルカの目には、戸惑いと後悔だけがある。
 エメラダの従僕だったはずの男に、クリオンは聞いた。
「シェルカ、予を襲ったのはきみの意思じゃなかったそうだね。それは本当? ……直答していいよ」
「自信は……ございません」
 シェルカが震える声で言った。
「もともとおれは貧民の出で、武術で身を立てることを望んでおりました。国軍の高級武官になれば、調律剣を与えられ、強い力を持つことができます。以前からそれがほしかった」
「それで」
「その思いに……魔が差したのでしょう。練兵場で陛下の剣のお力を見たとき、どうしてもほしいと思ってしまったのです。そこへ降って湧いた、エメラダ様のご入城。陛下に近づけば、あの剣が手に入ると思うと、つい……」
 申しわけございません、とシェルカは頭を床に打ち付けた。
 言い逃れです、とマイラが目で言う。構わず、クリオンは聞いた。
「夢で誰かにそそのかされたって言っているそうだね。それは、いつから?」
「二ヶ月前……ちょうど陛下がご即位なされたころです」
 それでわかった、とクリオンはため息をついた。時期は合っている。皇帝の血を根絶やしにしようとする何者かが、シェルカを操ったのだ。彼に罪はない。強い剣に憧れる気持ちを利用されただけだろう。
 待てよ、とクリオンは考える。二ヶ月前には、エメラダの入城の話など出ていなかった。シェルカが自分のそばにたどりつけるかどうか、わからないはずだ。
 ということは、敵はフィルバルトじゅうに同じような刺客を育てていて、その一つをたまたまクリオンが引き当てたということになるのか。
 それとも、エメラダが城に入るように仕向けることができたのか。
 どちらにしろ、かなりの勢力がないとできることではない。一体誰が?
 クリオンは聞く。
「誰にそそのかされたか、心当たりはある?」
「……不敬なことですが」
「言ってみて」
「夢の中の言葉、イフラ教の経典と響きが似ていました」
 クリオンとマイラは顔を見合わせた。
 百歳を超えるという大神官、キンロッホレヴン四十九世を頂点に仰ぐ、ジングリット国教会。それがなぜ?
 シェルカを見て、クリオンはあきらめた。彼はこれ以上のことを知らないだろう。それは別の機会に考えることだ。今しなければならないのは、シェルカの処分だった。
「マイラ、彼はどうやって操られていたの? やっぱり魔法かなにか?」
「人間に魔法など使えません。それができるのは聖霊だけです」
 そっけなく言って、マイラはかたわらの医者を振り返った。侍医のリュードロフが山羊ひげを動かして答える。
「邪草の香を使った暗示ですな。ベバブの枯葉を焚いて朦朧状態にさせるのです。その男の血を調べましたが、もう邪草の味はしませんでした。効き目は抜けております」
「じゃあ、もう予に襲いかかることはない」
「香など自分で焚けます」
「そうじゃないよ、マイラ」
 クリオンはマイラを押さえて、シェルカを見下ろした。
「シェルカ、今でも予が憎い?」
「とんでもない」
「操られていたこと、くやしい?」
「それは、もちろんです。皇帝陛下のような偉い方に、おれの刃を向けさせるなんて……そんなことのために磨いた技じゃない」
「じゃあ、その技を予のために使ってくれない?」
「陛下?」
 声を上げたマイラに、クリオンは笑い返した。
「代わりの護衛を探してほしかったんでしょ? 彼の腕はすごいよ。予はよく知ってる」
「しかし、そんな危険な……」
「昔から彼を知っているエメラダが言ってたよ。彼は真面目な男だって」
 クリオンは、玉座を降りてシェルカの前に立った。
「どうする?」
 命を救われたばかりか、この上ない大任を担わされると聞いて、シェルカの瞳は恐れと誇りに震えていた。
 やがて彼は、もう一度頭を床に押し付けた。
「……一命に替えましても」
 

「あ、アア、アアア……」
 あられもなく開いた両脚の間を指でくすぐられ、娘はもだえる。
「ほら、口がお留守よ。ちゃんと奥まで……」
 組み敷かれた娘は、必死に正気を保って、目の前の可憐な花びらに舌を這わせようとする。だが、その努力も途切れがちになる。
「ゆる、お許しください。つ、続けられません……」
「あらあら、こらえ性のない子ね」
 子というが、相手は年上だ。だが、はるかに巧みな指戯で、少女は娘の快感を引きずり出していく。
「いっ、ひんっ、ダメッ、だめです大統令!」
「まだよ。みんなが揃っていないわ」
 互い違いの形で娘を組み敷きながら、少女は室内に目を走らせる。
 そこには、今日選ばれた十数人の乙女たちが膝立ちでこちらを見つめている。みな若く美しく、はたちを出ていない。
 強烈すぎる二人のからみあいを見せられて、男を知らない娘たちは、顔を真っ赤に上気させて興奮している。息はハアハアと犬のように荒く、額に浮いた汗があごから滴らんばかりだ。袿服の裾から伸びる太ももを、隣の娘に悟られないようにすり合わせ、だがつっと内股に糸を引く粘液が、欲情を隠しきれず表している。
 食い入るような視線を浴び、乙女たちの熱い体から立ち上る香りを胸に吸い込み、少女は陶然と室内を見まわす。
「いい? 絶対に触れたらだめよ? 心だけで達するの。もうみんな昂ぶって?」
「は……」「はい、ですから早く……」
「そろそろいいわね」
 そう言うと、少女は体の下の娘の性器に、舌と指を同時に忍びこませた。音を立てて粘膜の間をえぐっていく。
 ひとたまりもなかった。
「あっ、あああっ、ダメッ、いきますッ、いやーッ!」
 頭を振り立てて娘が叫び、ぴいんと体を突っ張らせた。その瞬間、部屋の乙女たちもぎゅっと胸前で拳を握り合わせた。音のない絶頂の震えが室内を満たす。
 見えない糸で結び合わされたかのような共通の絶頂の後、寝台の娘がぐったりと力を抜いた。同時に乙女たちもばたばたと床に倒れる。
 全裸の少女――霞娜シャーナは、満足げな笑みを浮かべた。
 等しく至福の表情を浮かべている乙女たちの間に立って、額をやさしく撫でていく。
「わかった? こうやって気を昂ぶらせて、精霊を呼び寄せるのよ。精霊が好むのは乙女の絶頂の滴、男とまぐわっていては作れない清らかな滴……」
 弛緩した乙女たちの頭に染み入らせるように、霞娜は語る。
「あなたたちが呼び寄せた精霊を、男の苦力たちが捕まえ、球に封じる。あなたたちが呼び寄せた精霊に、世の風を訪ね、国政を占う。……それがこの国の礎なんだから」
 乙女たちの額を撫でていった霞娜は、最後の一人のところで立ち止まり、とびきりやさしくささやいた。
「どう、あなたも共感できて? 違う遺伝子の匂いを持つ娘さん」
 乙女たちがはっと顔を上げた。霞娜に触れられた娘は、愕然と目を見開いて霞娜を見上げた。
「な、なんのこと……」
「わかるのよ、匂いで」
 霞娜はまだ丸みを残す鼻に指を当てた。
「そうやって私は呪力を持つ娘を探し、党に入れているんだもの。あなたは他党から送られたのね? どこの党かしら?」
「い、言うものか!」
 娘は顔を上げ、霞娜を面罵する。
「あやしの技で精霊を使い、政治を壟断するおまえなどに!」
「そのあやしの技でどれだけこの国が強くなったと思うの? ……なんて言っても、無駄なんでしょうね」
 言うが早いか、霞娜は右手を娘の口に突っ込んだ。
「がっ?」
 娘はもがきながら腕を上げるが、苦痛に顔をゆがめる。霞娜の指が、舌を挟んでいる。
「噛みなさい」
 陶酔の表情を浮かべて霞娜は命じる。
「腕を噛みきりなさい。私は舌を抜く。どっちが速いかしら?」
 その言葉が終わらないうちに、霞娜は娘の乳房をくつで踏みつけ、力いっぱい手を引いた。ブチッという音に乙女たちが耳を押さえる。
 口からおびただしい血を吐いてのけぞる娘の上に、引きちぎった舌を放りだし、つまらなさそうに霞娜はつぶやいた。
「ふたこと分、時間を上げたのに……機転の利かないこと」
 覚めた顔で室内を見まわして、霞娜は手を叩いた。
「さあ、今日の授力はこれでおしまい! みんな出てって! それをちゃんと片付けてね!」
 あわただしく娘たちが動き出す。ノックが響いた。
「お入り」
「失礼します」
 入ってきたのは、宦官の麗虎リーフーだった。惨状を見て、軽く眉をひそめる。
「また、達せられない娘がいたのですか」
「違うわよ、その子はスパイ。いったふりをしていたの」
「ならば仕方ありませんが……」
「それより、用件は?」
神具律都ジングリットからです。先日、皇帝クリオンが刺客に襲われましたが、切り抜けたとのこと」
「また彼?」
 霞娜は眉を吊り上げる。
「我が国のスパイは何をしていたのよ。機に乗じて討ってしまうぐらいのことはできないの?」
「草は、露見を防ぐためにはあまり動けないのです。今回も刺客の手助けはしたそうですが、皇帝は自力で刺客を倒してしまったとのことで……」
「その草、この場にいればいいのに」
 いたらどうなるか、考えずともわかる。娘たちが運びだしていく死体に、麗虎はわずかに目を走らせる。
「いかがなさいますか」
「様子を見ているだけではどうしようもないわね。……戦を起こすわ」
「親征ですか?」
「私は出ない。出ずともジングリットの軍を戦わせる方法はある。そうじゃなくて?」
「……御意」
 麗虎は、忠実にうなずく。


 人気のない暗い伽藍に、ぼそぼそと人声が反響している。
 ひとつはしわがれた老人の声だ。
「……聞いておりませんでしたぞ! 皇帝を直接狙うとは……」 
「それがもっとも速い方法だ」
 言い返すのは壮年の強い声。
「あなたのやりかたは迂遠にすぎる」
「迂遠ではない、これが正しいやりかたなのだ」
「あなたと正しさの議論をしても始まらんな。……しかし、私は好きにやらせてもらう」
「待たれよ!」
 言いあう二人の声に、さらに一つの声が割って入る。
「……争うでない……」
 奇妙に甲高い、だがどれだけの年を経たかわからぬほどのかすれ声。二人は口を閉じる。
「……迂遠もよし、拙速もよし。糸を多く垂れたほうが、釣れる魚は増える……」
「しかし、教主様」
「……ああ、わかっておる」
 かすれ声がひらひらと震えた。笑ったのだろうか。
「……五星重なるときは近い。むろん、それには間に合わせねばならぬ。……皇帝の血は我らの災い。薄め、散らし、絶たねばならぬ。……その思いは、二人も同じだと思うたが……?」
 ばさりと布の音。二人が、黙礼している。
「……そうじゃ、再来の日は近い。再び我らの神々が退けられることなきよう、励もうではないか……」
 歪んだ、それでいて不釣合いに楽しげな声が、殷々と夜のフィルバルトに散っていく。


 月光のおかげで、尖塔や厩舎に架け渡された足場が見えた。資金のめどがついたため、修理が始まっている。
 鐘楼からそれを見下ろしながらも心は晴れず、クリオンはつぶやく。
「ねえマウス……」
 ベンチでは、カンテラを下げてキオラが本を読んでいる。その頭上高く、尖塔のてっぺんで踊っていたマウスが、耳ざとく聞きつけて、ひらりと降りてくる。
「ご用はお歌? それとも踊り?」
「ううん、いいけど……マウスって、男? 女?」
 マウスは白黒塗りの顔の下で、きゅーっと唇を吊り上げて笑う。
「どちらでもございません、わたしめは道化にございます」
「あ、そう」
 別に深い意味はなかったらしく、クリオンは切り上げた。
「お気詰まりなご様子で」
 逆さに浮いてマウスは聞く。クリオンはため息をつく。
「悩み、多くってね。財政の問題が片付いたと思ったら、今度は教会があやしいってことになって……この苦労、終わるのかなあ」
「終わりませんとも」
 マウスはあざ笑う。
「人の行く手は石また石。つまづき転んで歩くもの。転びたくなきゃ座ればいい。座る方法をご存知か?」
「さあ」
「すなわち死」
 ケタケタとマウスは大笑いした。
「死ねば楽! 死ねば楽だよ! 暑くもなければ寒くもない! 腹も減らないお金もいらない! さあさみんなで飛び降りよう!」
 唖然としてクリオンが見上げていると、螺旋階段に足音がして、エメラダが上がって来た。ぷんぷん怒っている。
「まったくなんなのよソリュータって! ちょっと握ってカードやろうって誘ったら、賭け事は下賎のすることですなんて澄ましちゃってさ! しょうがないから握らずにやったら、冗談みたいに強いんだもの!」
「負けたから怒ってるの?」
「違うわよ、強いくせに儲けようとしないってのが納得いかないの!」
「育ちの違いだなあ」
 クリオンが苦笑していると、キオラがぱたんと本を閉じて立ち上がった。
「エメラダさん、ボクとやらない?」
「あらあんた、えーと……」
「キオラです。シッキルギンの」
「そうそ、王子様なのよね。なのになんで女の子」
「それはいいから。ね、やりませんか?」
 エメラダはクリオンよりさらに小柄なキオラを見て、試すように言った。
「握る?」
「もちろん」
「レートは?」
「五十」
「アリアリ?」
「ジャンプありリバースありレボリューションありのエイトカット」
 がしっとエメラダはキオラの肩をつかんだ。
「話せるじゃない!」
 意気投合した二人は、階段を降りていく。笑いながらその後に続いたクリオンは、逆さにくるくる回っているマウスに振り向いた。
「マウス、転ばない方法があるよ」
「いかなるイカサマ?」
「いかさまじゃないよ。隣の人につかまればいいんだ。隣の人が転んだら、自分が支える。――ね?」
 クリオンは鐘楼を降りていく。
 月を浴びてくるくる回りながら、マウスはつぶやく。
「隣の人に、隣の人を。けっこう、たいした王様だ!」



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