源義家 みなもとのよしいえ 長久三〜嘉承一(1042-1106) 通称:八幡太郎

生年を長暦三年(1039)とする説もある。鎮守府将軍頼義の長男。母は上野介平直方女。義朝の祖父。頼朝の曾祖父。
父とともに永承六年(1051)より前九年の役に参戦、陸奥の安倍貞任らを討ち、康平六年(1063)、その功により従五位下出羽守に任ぜられる。永保三年(1083)、後三年の役が勃発すると、陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、奥州を鎮定。しかし朝廷はこれを私闘とみなし、功賞を行わなかったため、義家は私財を投じて配下の将兵をねぎらった。寛治二年(1088)、陸奥守罷免。左大臣源俊房の家来となり輔仁親王(後三条天皇の第三皇子)と密接であったため、白河上皇の院政下では疎外されたが、承徳二年(1098)には正四位下に叙され、院昇殿を許された。嘉承元年(1106)七月、出家の後病没。六十五歳。「天下第一武勇の士」と賞讃され(中右記)、源氏武士の鑑とされた。
勅撰集入集歌は千載集に1首のみ。

陸奥国(みちのくに)にまかりける時、勿来(なこそ)の関にて花のちりければよめる

吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな(千載103)

【通釈】「来る勿(なか)れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ。

【語釈】◇勿来の関 奥州三関の一つ。福島県いわき市勿来町関田関山にあったとされる。◇道もせに 道も塞ぐばかりに。「せ」は狭いことを意味し、「山もせに」「野もせに」などと用いられた。

【主な派生歌】
相坂も花咲くころは吹く風をなこその関といひやかへまし(木下長嘯子)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日