麻田陽春 あさだのやす 生没年未詳 

旧姓は答本(とうほん)。百済系渡来氏族。百済国朝鮮王淮の末裔(姓氏録)。神亀元年(724)五月、麻田連を賜わり改姓。この時正八位上。のち大宰大典として筑紫に赴任、大伴旅人の下僚となる。天平二年(730)十二月、旅人上京の際、筑前国蘆城駅家で餞宴に臨席、歌を詠む(万葉集4-569・570)。天平三年(731)六月、肥後の人で相撲使の従人大伴君熊凝が上京途上病死した折、その志を述べた歌を詠む(5-884・885)。天平十一年(739)正月、外従五位下。『懐風藻』に、近江守藤原仲麻呂の詠作に和した五言詩一首を載せ、外従五位下石見守、年五十六とある(仲麻呂の近江守兼任は天平十七-西暦745-年九月)。万葉集には上記四首のみ。

大宰帥大伴卿の大納言に()され、京に入らむとする時、府官人等、卿を筑前国蘆城駅家(あしきのうまや)(はなむけ)する歌(二首)

韓人(からひと)(ころも)()むといふ紫の心に()みて思ほゆるかも(万4-569)

【通釈】大陸の人々が衣を染めるという紫の色のように、あなたのことが心に沁みるように思えるのですよ。

【語釈】◇韓人 原文は「辛人」。「から」は元来朝鮮の古称であるが、のち外国一般を指すようになった。高度な染色技術は大陸から渡来したので、「紫」の序として「韓人の衣染むといふ」と言う。

【補記】天平二年(730)十二月、大宰帥大伴旅人が上京する際、下僚の大典であった作者が、筑前国蘆城駅家で送別の宴に臨席し、詠んだ歌。紫は高貴な色とされ、養老律令では三位以上の礼服に浅紫の衣の着用が定められている。当時旅人は正三位であったので、「心に染み」る色として「紫」を言ったのであろう。

【他出】古今和歌六帖、猿丸集、夫木和歌抄

【類想歌】醍醐天皇「新古今集」
むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる

 

大和方(やまとへ)に君がたつ日の近づけば野に立つ鹿もとよみてぞ鳴く(万4-570)

【通釈】あなたが大和の方へ旅立つ日が近づいたので、野に現れる鹿も声を響かせて鳴いています。

【補記】旅人が平城京へ向けて旅立ったのは天平二年の十二月で、鹿鳴の季節ではない。『文選』などには送別の詩に鹿鳴を詠んだ例が見られるので、漢詩の慣わしに倣ったものかという。


更新日:平成15年11月20日
最終更新日:平成21年02月05日