石川年足 いしかわのとしたり 持統二〜天平宝字六(688-762) 略伝

蘇我氏直系の子孫。蘇我臣安麻呂の孫。石足の子。弟に豊成、子に名足らがいる。
天平七年(735)四月、従五位下出雲守。同十一年(739)六月、出雲守としての善政を賞され、正税三万束などを給される。翌年正月、従五位上に昇叙される。その後陸奥守・春宮員外亮兼左中弁・春宮大夫などを経て、天平二十年(748)三月、参議に就任。翌年の天平勝宝元年七月、聖武天皇が譲位し、孝謙天皇が即位すると、従四位上に昇叙された。同年八月、式部卿に紫微大弼を兼ねる。天平勝宝五年(753)九月、従三位大宰帥。天平勝宝九年(757)六月、神祇伯兼兵部卿。天平勝宝九年(757)八月、中納言(兼兵部卿・神祇伯)。天平宝字二年(758)八月、孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が即位すると、正三位に昇叙される。同年八月、大保恵美押勝らと共に、官号改易に従事。同月、御史大夫(大納言)に就任(公卿補任)。天平宝字四年(760)一月、御史大夫(続紀)。天平宝字五年(761)十月、保良遷都に伴い、稲四万束を給される。天平宝字六年(762)九月、薨ず(75歳)。御史大夫正三位。摂津大夫佐伯今毛人・信部大輔大伴家持らが弔問に派遣された。続紀薨伝には、「率性廉勤、出雲守などで治績を残す。読書を好み別式20巻を著す」などとある。文政三年(1820)、摂津国島上郡(大阪府高槻市)から年足の墓誌が発見されている。

二十五日、新嘗会の肆宴(とよのあかり)に、詔を(うけたま)はる歌

(あめ)にはも五百(いほ)つ綱()ふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ(万19-4274)

【通釈】天空には数多い綱を張り渡してある。万代の後までもこの国を治めようと、数多い綱を張り渡してある。

【補記】天平勝宝四年(752)十一月二十五日の作。「天」は神殿の天井をこのように言いなした。「五百つ綱」は詳細不明だが、標縄の類か。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日