大中臣輔親 おおなかとみのすけちか 天暦八〜長暦二(954-1038)

祭主頼基の孫。祭主・神祇大副能宣の子。母は越後守藤原清兼女。子に伊勢大輔がいる。
寛和二年(986)、文章生に補せられる。永延二年(988)、勘解由判官。永祚二年(990)、皇太后宮権少進。正暦二年(991)、従五位下。その後美作介を経て、長保三年(1001)、伊勢神宮祭主となり、ついで神祇権大副に任ぜられる。寛弘五年(1008)、神祇大副。同六年、従四位下。治安二年(1022)、神祇伯。長元九年(1036)、正三位に至る。長暦二年(1038)六月二日、月次使として伊勢下向の途中に薨じた。八十五歳。
大中臣家重代歌人として名声高く、屏風歌などで活躍した。三条・後一条・後朱雀三代の天皇の大嘗会和歌を詠進。長元八年(1035)には関白左大臣頼通家歌合で判者を務める。拾遺集初出。勅撰入集三十一首。家集『輔親卿集』がある。中古三十六歌仙

題しらず

いづれをかわきて折らまし山桜心うつらぬ枝しなければ(後拾遺89)

【通釈】どれを取り分けて折ったらよいか、迷ってしまうなあ。山桜は、どの枝の花も心うつりがしてしまって。

【参考歌】紀友則「古今集」
雪ふれば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし
     よみ人しらず「後撰集」
いづれをかわきて偲ばん秋の野にうつろはんとて色かはる草

【主な派生歌】
いづれをかわきて折るべき月影に色みえまがふ白菊の花(大弐三位[新勅撰])
いづれをかわきて折らまし山里の垣ねつづきに咲ける卯の花(大江匡房[金葉])

題しらず

あしひきの山郭公里なれてたそかれ時に名のりすらしも(拾遺1076)

【通釈】山ほととぎすは、すっかり里に馴れて、「誰そ彼」と名を聞く黄昏時に、自分の名前を名乗っているらしいなあ。

【補記】ほととぎすは夏になると山から里へ出て来て鳴くものとされた。また、その声は「ほととぎす」の名を名乗り鳴くものと考えられた。この歌は藤原公任撰とされる『後十五番歌合』に採られ、『今昔物語』(巻二十四の第五十三話)に作者の歌才を伝える歌として引かれている。古くから輔親の代表作と考えられたらしい。

【他出】「後十五番歌合」「玄々集」「後六々撰」「定家八代抄」

【主な派生歌】
郭公あさくら山の明ぼのにとふ人もなきなのりすらしも(祝部成仲)
尋ねこししらぬ旅ねはさとなれて山時鳥一こゑぞきく(藤原家隆)
ほととぎすねざめににほふ橘のかはたれどきに名のりすらしも(藤原為家)

長元四年六月十七日、伊勢の斎宮(いつき)の内宮にまゐりて侍りけるに、俄に雨ふり風吹きて斎宮(いつき)みづから託宣して、祭主輔親を召しておほやけの御事など仰(おほ)せられけるついでに、たひたび御酒(みき)めして、かはらけ給はすとてよませたまひける

さかづきにさやけき影のみえぬれば塵のおそりはあらじとをしれ

【通釈】盃に冴えた月の光が映って見えた。不逞の輩の罪は、神の目にくっきりとお見通しだ。だから、塵ほどの心配も必要ないことを知れ。

【補記】これは祭主輔親が「直会(なほらひ)」(神の御前で飲食すること)をした際に、神が輔親に対して詠んだ歌。詞書の「おほやけの御事」とは、斎宮権頭藤原相通の妻が神威を騙って民衆を惑わせた事件をいう。この託宣により、事件の関係者は配流などに処せられた。

御返りたてまつりける

おほぢ父むまごすけちか三代(みよ)までにいただきまつるすべらおほん神(後拾遺1161)

【通釈】祖父の頼基、父の能宣、孫のわたくし輔親と、三代までもお仕え申し上げる皇祖神さま。御託宣は謹んで承りました。


最終更新日:平成15年03月21日