平資盛 たいらのすけもり 応保元〜文治元(1161-1185) 通称:新三位中将

小松内大臣重盛の二男。母は下総守藤原親盛の娘。維盛の異母弟。子に盛綱がいる。
仁安元年(1166)、従五位下。嘉応元年(1169)、従五位上。安元元年(1175)、正五位下。治承二年(1178)、右近衛権少将。同三年、従四位上。治承四年(1180)、以仁王・源頼政挙兵の際、大将軍として兄維盛と共に鎮圧にあたった。以後も反平氏勢力の追討に活躍する。養和元年(1181)、正四位下に叙され、右近衛権中将となる。この頃、叔母の建礼門院徳子のもとに出入りし、女房の建礼門院右京大夫と恋仲になった。寿永二年(1183)、蔵人頭。同年七月三日、蔵人頭を止め従三位。以後、新三位中将と称された。しかし木曽義仲が京へ迫ったため、同月末、平家一門を追って西走、叔父宗盛の一行に合流した。その後一門と行動を共にし、元暦元年(1184)二月、一ノ谷合戦で源義経の奇襲に敗れて屋島へ逃れる。翌文治元年(1185)三月二十四日、壇ノ浦の戦に敗死した。『平家物語』によれば、弟の有盛や従弟の行盛と手に手を取り合い、鎧に碇を負って入水したという。
自邸で歌合を開催し、俊成・定家・小侍従ら著名当代歌人を招いた。新勅撰集初出。

車おこせつつ、人のもとへ行きなどせしに、「主つよく定まるべし」など聞きしころ、なれぬる枕に、硯の見えしを引き寄せて、書きつくる

(たれ)が香に思ひ移ると忘るなよ夜な夜ななれし枕ばかりは

【通釈】[詞書] 向うから何度も車を寄越して、その人の所へ泊りに行ったりもしていたのだが、「奥さんがちゃんと決まるだろう」などと聞いた頃、寝なれた枕に、硯がそばにあったのを引き寄せて、歌を書き付けた。
[歌] たとえあの人が誰かの香に思いを移しても、おまえは忘れないで。毎晩寝なれた枕よ、おまえだけは。

【語釈】◇人のもとへ この「人」が指す相手については藤原隆信・平資盛両説がある。◇主(ぬし) 嫡妻。正妻。

【補記】建礼門院右京大夫の歌。

「帰りてのち、見付けたりける」とて、やがてあれより

心にも袖にもとまる移り香を枕にのみや契りおくべき(建礼門院右京大夫集)

【通釈】[詞書] 「あなたが帰ったあと、見つけました」と言って、すぐに向うから。
[歌] 私の心にも、袖にも、あなたの移り香が残っています。それを、枕にだけ忘れるなと約束するなんて。そんなことがあっていいでしょうか。

【補記】玉葉集に平資盛の歌として入集。ところがこの贈答は、『建礼門院右京大夫集』では藤原隆信との贈答歌群中に置かれていることなどから、この歌の作者を資盛としたのは玉葉集撰者(京極為兼)の誤解であるとする説が定説化していた。しかしこの歌は『隆信集』に見えず、また建礼門院右京大夫と隆信・資盛の置かれていた状況からしても資盛の作とする方が正しいとの反論もある(今関敏子「『建礼門院右京大夫集』における愛と死」『女流日記文学講座』第六巻所収)。ここでは玉葉集に従って資盛の作としておいた。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年03月31日