新宣陽門院 しんせんようもんいん 生没年未詳

伝未詳。後村上天皇の皇女。一説に中宮顕子所生の憲子内親王かと言う。一品に叙せられる。正平二十三年(1368)五月五日、嘉喜門院との間で歌を贈答している。新葉集に二十首。

従二位衡子、立願の事ありて、おなじき(やしろ)神館(かんだち)にて箏の秘曲を手向け侍りける時、しのびてまうで給うける折しも、松風すごくひびきあひて月雪のひかりさへたぐひなく侍りければ、おもひつづけさせ給うける

わすれじよわするな神も月雪の夜半にたむくる松風の声(新葉603)

【通釈】私は忘れません。神もどうか忘れずにいて我らの願いをかなえて下さい。月光が雪明かりに照り映える美しい夜、神社にお供えした松風の声の如き箏の秘曲を。

【補記】衡子(不詳)が願掛けのため住吉社の神館で箏の秘曲を演奏した時、新宣陽門院も微行で参詣した、その夜の作。「おそらくは住吉社が後村上天皇の行在所となつてゐた當時の出來事」(川田順『吉野朝の悲歌』)。

【参考歌】後鳥羽院「新古今集」
ちぎりあればうれしきかかるをりにあひぬわするな神も行末の空

百首歌よませ給うける中に、春月を

つらかりしやよひの夜半の涙より袖にや月のかすみそめけん(新葉1329)

【通釈】堪え難く悲しかった三月の夜半に流した涙――あの時から私の袖に映る月が霞み始めたのだろうか。

【補記】新葉集巻十九、哀傷歌。作者の父後村上天皇は正平二十三年(1368)三月十一日、住吉行宮に崩御。

【参考歌】二条為世「続千載集」
老いてこそ涙もくもれ春のよの月はいつよりかすみそめけん


最終更新日:平成15年06月08日