洞院実雄 とういんさねお 建保五〜文永十(1217-1273) 号:山階左大臣

太政大臣西園寺公経の子。母は権中納言平親宗女。西園寺実氏の異母弟。子には公雄・公守・京極院(亀山天皇中宮、後宇多天皇の母)・玄輝門院(後深草天皇妃、伏見天皇の母)がいる。洞院家の祖。
嘉禄三年(1227)二月、叙爵。寛喜元年(1229)正月、従五位上に叙され、同年四月、左少将に任ぜられる。左中将・蔵人頭・権中納言などを歴任し、仁治三年(1242)には権大納言、建長六年(1254)には大納言に転じ、正嘉元年(1257)十一月、内大臣となる。同二年十一月、右大臣に転じ、東宮傳を兼ねる。弘長元年(1261)二月、娘の佶子(京極院)が亀山天皇の中宮となる。同年三月、左大臣となり、同二年正月、従一位。同三年三月、上表して官を辞す。
のち玄輝門院と呼ばれる娘は後深草天皇の妃となって文永二年(1265)に熙仁親王(伏見天皇)を出産。また佶子が亀山天皇との間にもうけた世仁親王(後宇多天皇)は、文永五年(1268)八月に立太子した。こうして嫡流実氏を圧倒するほどの栄華を誇ったが、世仁親王の即位を目前に、文永十年(1273)八月四日、病により出家し、同月十六日に薨じた。五十五歳。
歌人としては宝治二年(1248)の「宝治百首」、文永二年(1265)の「白河殿七百首」、同三年「続古今集竟宴和歌」などに出詠。また自邸で十首歌会を催した。続後撰集初出。勅撰入集は計八十二首。

文永二年七月白川殿にて人々題をさぐりて七百首歌つかうまつりける時、滝霞を

みなかみは雲のいづくも見えわかず霞みておつる布引の滝(続拾遺31)

【通釈】滝口はどこなのか、雲のうちに見分けることができず――それほど遥かな高みから、ぼうっと霞んで落ちてくる、布引の滝。

【補記】布引の滝は摂津国の歌枕。現在も同じ名で呼ばれる滝が新神戸駅の裏山にある。伊勢物語に「長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩を包めらむやう」と形容され、その名にふさわしい美しい滝であった。好んで屏風絵に描かれ、和歌にも詠まれたが、この歌では「霞」で巧みにぼかし、雲の彼方から落ちて来るような滝の高さが強調されて、文字通り丈高い歌となっている。

【参考歌】藤原師通「新古今集」
みなかみの空に見ゆるは白雲の立つにまがへる布引の滝

百首歌たてまつりし時、暮秋

しばしだに猶たちかへれ真葛原(まくずはら)うらがれてゆく秋の別れ路(続後撰451)

【通釈】ほんの暫くでもよい、もう一度引き返してくれ、秋よ。葛の葉先が枯れてゆくこの季節――真葛原の中を遠ざかってゆく別れ道を。

【補記】葛はマメ科の蔓草。蔓を伸ばしてゆくたくましい生育力ゆえ讃美され、「真葛」と美称された。葉が風に白く裏返るさまが好んで歌に詠まれたため、葛と言えば「うら」が反射的に連想されるようになり、「恨み」に引っ掛けて恋歌に多く用いられたのである。この歌では「うらがれ」(先端が枯れる)と結びつき、「心(うら)(か)れてゆく」と掛詞になって、秋という季節との別れに、恋人との別れの悲しみが重ね合わされている。後嵯峨院主催の宝治百首に詠進した歌。


公開日:平成14年09月19日