石上乙麻呂 いそのかみのおとまろ 生年未詳〜天平勝宝二(?-750) 略伝

左大臣麻呂の第三子。宅嗣の父。
聖武天皇代に活躍した官人。左大弁などの要職に任ぜられ、急速に昇進を重ねていたが、天平十一年(739)三月、故藤原宇合の室久米連若売と姦通した罪により、土佐に流された。この事件について詠まれた歌が万葉集巻六にある(6-1019〜1023)。天平十三年(741)九月、恭仁遷都に伴う大赦により帰京か。天平十五年(743)五月、従四位上に昇叙され、翌年九月、西海道巡察使に任命される。天平十八年(746)正月、大唐使の任命があり、この時大使を拝命したが、計画は結局中止された。その後、常陸守・右大弁を経て、天平二十年(748)二月、従三位に叙される。同年三月、参議に就任。翌天平勝宝元年七月、孝謙天皇が即位すると、中納言に昇進したが、翌二年九月一日、薨じた。時に中納言従三位兼中務卿。懐風藻に「地望精華・人材穎秀・雍客間雅、甚だ風儀に善し」と、その才能と風采を賞讃されている。同書によれば土佐謫居の時漢詩集『銜悲藻』二巻を著したというが、現存しない。
万葉集には巻三に短歌二首、巻六に長短歌各一首が収録されている。

石上乙麿卿の、土佐の国に(はなた)えし時の歌

父君に 我は愛子(まなご)ぞ 父君にとってみれば、私は愛しい子供なのだ。 母刀自(ははとじ)に 我は愛子ぞ 母君にとってみれば、私は愛しい子供なのだ。 参上(まゐのぼ)り 八十氏人(やそうぢひと)の なのに、都に上るもろもろの官人が 手向する (かしこ)の坂に 手向をして越えてゆく恐ろしい国境の峠道で、 (ぬさ)(まつ)り 我はぞ退(まか)る 幣を捧げて、私は下ってゆくのだ、 遠き土佐道を(万6-1022) 遠い土佐への道を。

反歌一首

大崎の神の小浜(をはま)は狭けども百船人(ももふなひと)も過ぐと言はなくに(万6-1023)

【通釈】大崎の神の小浜は、狭い浜ではあるけれども、たくさんの舟人も素通りするとは言わないのに。

【語釈】[長歌]◇我はぞ退る 諸本「吾者叙追」とあり、「我はぞ追へる」と訓むテキストが多い。ここでは「追」を「退」の誤字と見る宣長説(萬葉集略解)に従った。
[反歌]◇大崎 和歌山市加太の港かと言う。

【補記】天平十一年(739)三月、故藤原宇合の室久米連若売と姦通した罪により、土佐に配流された時の歌。


最終更新日:平成15年11月04日