藤原師長 ふじわらのもろなが 保延四〜建久三(1138-1192) 号:妙音院殿

左大臣頼長の息子。母は源信雅の娘。
伊予権守・右近衛中将などを経て、仁平元年(1151)、参議に列する。久寿元年(1154)、権中納言。しかし保元元年(1156)、保元の乱で父の罪に縁座し土佐に配流される。長寛二年(1164)、許されて帰京。後白河院に近臣として仕え、仁安元年(1166)、権大納言として台閣に復帰。翌年大納言に転じ、安元元年(1175)、内大臣に就任。治承元年(1177)には太政大臣となり従一位に叙せられるが、同三年、平清盛のクーデタの際解任され、尾張に退いて出家した。法名は理覚。箏の名手であった。勅撰入集は千載集に1首のみ。

源惟盛(これもり)としごろ侍るものにて、箏(しやう)のことなど教へ侍りけるを、土左国にまかりける時、河尻(かはじり)までおくりにまうで来たりけるに、青海波(せいがいは)の秘曲の琴柱(ことぢ)たつることなど教へ侍りて、そのよしの譜かきてたまふとて、奥にかきつけて侍りける

をしへおく形見をふかくしのばなん身は青海(あをうみ)の浪にながれぬ(千載494)

【通釈】あなたに伝授して、青海波の譜を後世に残して行く。これを私の形見として、深く偲んでほしい。我が身は青海の波に流れて、遠い配所へ行ってしまうのだ。

【補記】保元元年(1156)、父の罪に連座して土佐国に流されるに際し、師長は従者であり箏の弟子であった源惟盛に秘伝の楽曲「青海波」の奏法を伝授した。この時、譜面の奥に書き付けておいた歌。『保元物語』などにも引用されている。


最終更新日:平成14年10月10日