洞院公泰 とういんきんやす 嘉元三(1305)〜没年未詳 号:冷泉入道右大臣

閑院公季流。左大臣実泰の三男(公卿補任)。母は家女房中務大輔藤原兼頼女。太政大臣公賢の異母弟。兄と袂を分ち南朝に参候した。子の実茂らも南朝に仕える。
 
中宮権亮・左中将・蔵人頭などを歴任し、後醍醐天皇の元亨元年(1321)六月、参議に任ぜられる。同年八月、従三位。正中二年(1325)四月、権中納言に進み、嘉暦二年(1327)三月、従二位に昇る。元徳二年(1330)七月、辞職。同年十一月、正二位。建武元年(1334)九月、権大納言に任ぜられて台閣に復帰。その後、宮内卿・春宮大夫などを兼任するが、南北朝分立後の暦応三年(1340)十二月、権大納言の職を辞退した。貞和四年(1348)十月、民部卿に任ぜられたが、崇光天皇の観応二年(1351)十二月、南朝に参じて大納言に任ぜられた。のち右大臣に至る。正平十四年(1360)五月十二日、出家。法名は覚元。その後長慶天皇にも仕えたらしく、新葉集には後醍醐・後村上・長慶三代の天皇に仕えた旨の歌がある。
 
貞和百首・続現葉集などの作者。続後拾遺集初出。勅撰入集は十二首。新葉集には冷泉入道前右大臣の名で四十五首入集。

百首歌中に

さても身の春や昔にかはるらんありしにもあらず霞む月かな(新葉53)

【通釈】こんなにも我が身の春は昔と変わるものだろうか。かつて見たのとは比べ物にならず、ひどく霞んで見える月だことよ。

【補記】昔と今とを比較しての境遇の変わり様に対する詠嘆。霞むのは言うまでもなく涙によって。

【本歌】在原業平「古今集」
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして

【参考歌】源俊頼「千載集」
世の中のありしにもあらずなりゆけば涙さへこそ色かはりけれ

滝五月雨を

五月雨(さみだれ)ににごりておつる滝の上の()ふねの山は雲ぞかかれる(新葉214)

【通釈】梅雨のため増水し濁流となって落ちる滝――その滝の上の御船山には雲が分厚くかかっていることだ。

【補記】「御ふねの山」は吉野宮滝と吉野川をはさんで東南にある三船山。山裾を激流が下るので「滝の上の」を枕詞のように冠した。

【本歌】弓削皇子「万葉集」
滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに

【参考歌】藤原為家「為家千首」
五月雨はこのした露もかずかずににごりておつる山の谷川
  伏見院「御集」
月かげにみがきておつる滝のうへのみふねの山は雲もかからず

百首歌中に、雪

ふりそむる御垣の雪はあさけれどつかへてしるき跡やのこらん(新葉469)

【通釈】吉野には雪が降り始めた――朝早く御所に出仕すれば、御垣(みかき)の内の積雪は僅かで、踏みつける足跡も浅いけれど、こうしてお仕えする誠心は、必ずやはっきりと跡を残すだろう。

【参考歌】後醍醐天皇「新千載集」
朝な朝なつかへていそぐ宮人の跡をのみみる庭のしらゆき
  洞院実雄「新千載集」
ふみ分けて猶もつかへよしら雪の跡ある道はむもれはてじを

賀名生(あなふ)の行宮にて人々歌よみ侍りける中に

わすれめやみかきにちかき丹生(にふ)川のながれにうきてくだる秋霧(新葉303)

【通釈】忘れようか。賀名生の宮の御垣近くを流れる丹生川の瀬に、浮き漂いつつ下ってゆく秋霧のあわれ深い情景を。

【補記】賀名生は奈良県吉野郡西吉野村。吉野川の支流丹生川が流れる。後醍醐天皇・後村上天皇の行宮(あんぐう)となり、文中二年(1373)の長慶天皇行幸以後は、二十年間南朝の皇居が置かれた。「御垣にちかき丹生川の」の句に、狭隘な峡谷をなす賀名生の地勢がありありと感じ取れる。

【参考歌】亀山院「続拾遺集」
あらし山空なる月は影さえて川せの霧ぞうきてながるる

正平十一年正月内裏にて、梅花久薫といふことを講ぜられける時、序たてまつりて

色も香も千代までにほへ百敷(ももしき)やこりさく梅は今さかりなり(新葉1413)

【通釈】美しい色も、芳しい香りも、千年の後まで久しくあれ。大宮の庭に寄り固まって咲く梅は、今こそが盛りである。

【補記】新葉集巻二十賀歌。正平十一年(1356)、後村上天皇の天野金剛寺行宮での作。作者五十二歳。「行宮に奉仕せる人々の苦節の芳芬を梅花に寄せた感慨も籠つてゐる。單なる賀歌と讀過してはならぬ」(川田順『吉野朝の悲歌』)。

【本歌】小野老「万葉集」
青丹よし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

【参考歌】西園寺実氏「続後撰集」
いろいろにこりさく庭の梅の花いくよの春をにほひきぬらん


最終更新日:平成15年04月26日