後小松院 ごこまつのいん 天授三〜永享五(1377-1433) 諱:幹仁(もとひと)

後円融院の第一皇子。母は通陽門院厳子(三条公忠女)。一休宗純・称光天皇の父。また彦仁親王(後花園天皇)を猶子とした。
天授三年六月二十七日、生誕。永徳二年(1382)四月十一日、父帝の譲位を受け、北朝の天皇として践祚。足利義満の強力な推挙により、対立候補である崇光院の皇子栄仁親王を押しのけての践祚であった。同年十二月二十八日、即位。第百代天皇(南朝を正とする現在の皇統譜による)。明徳三年(1392)十月、後亀山天皇より神器を譲り受け、南北朝合一なる。応永十三年(1406)十二月、生母通陽門院を失い、義満の正室日野康子を准母とする。同十五年三月、義満の北山第に行幸(義満の急死はその二カ月後であった)。応永十九年(1412)八月二十九日、称光天皇に譲位。永享三年(1431)三月二十四日、出家。法名は素行智。永享五年(1433)十月二十日、東洞院御所にて崩御。五十七歳。陵墓は深草北陵(京都市伏見区深草坊町)。
応永十四年(1407)、内裏九十番歌合に出詠。「後小松院御百首」がある。勅撰入集は新続古今集のみ二十七首。

立春氷といへることをよませ給うける

志賀の浦やよせてかへらぬ浪のまに氷うちとけ春は来にけり(新続古今2)

【通釈】東風に吹かれて志賀の浦に寄せる氷った波は、そのまま返ることなく融けて行く――その波のまにまに、春はやって来たのだ。

【補記】「志賀の浦」は琵琶湖西岸。冬には比良山からの冷たい山おろしが吹きつけるが、春になると湖から浜辺へ向けて温かい東風が吹き寄せる。

【参考歌】快覚法師「後拾遺集」
さよふくるままに汀や凍るらん遠ざかりゆく志賀の浦波
  大江匡房「詞花集」
氷ゐし志賀の唐崎うちとけてさざ浪よする春風ぞ吹く

山時雨

しぐれつつくれてきのふの秋篠やと山の雲のうつりやすさよ(御百首)

【通釈】今日は時雨が幾度も降るうちに暮れて――昨日までの秋とはすっかり様相が違ってしまった――秋篠の外山の雲は移ろいやすく、変わりやすいことよ。

【補記】『後小松院御百首』冬。「きのふの秋篠や」に「きのふの秋」を掛け、初冬の天候の変わりやすさを詠んだ。秋篠は奈良市秋篠町。

【参考歌】西行「新古今集」
あきしのや外山のさとや時雨るらん伊駒のたけに雲のかかれる

寄傀儡恋といふ事を

又むすぶ契りもしらで消えかへる野上(のがみ)の露のしののめの空(新続古今1338)

【通釈】いつか再び結ばれる縁があるものか、それも知らぬまま消えてなくなる、野上の里の露――その東雲の空よ。

【補記】「傀儡(くぐつ)」はもと人形を操る芸人を指したが、その後遊女の意にも転ずる。「野上」は美濃国の歌枕で、『更級日記』などにより都人にはもっぱら遊女の里として知られていた。「露」に別れの涙を暗示。

【参考歌】藤原定家「六百番歌合」「拾遺愚草」
ひと夜かす野上の里の草枕むすびすてける人の契を
  冷泉為秀「新拾遺集」
露しげき野上の里のかり枕しほれていづる袖のわかれ路

神祇

蘆の芽と見えしかたちをはじめにて国つ社の神のかしこさ(内裏九十番歌合)

【通釈】蘆の芽と見えた形を始めとして、今や立派な国つ神の社(やしろ)に祭られている神の畏れ多いことよ。

【補記】国常立尊(くにのとこたちのみこと)を詠む。「蘆の芽と」云々は国土創成神話に由る表現。「あめつちひらくるはじめ、うかびただよへるなかに、ひとつのものあり。かたちあしかびのごとくにして、かみとなれり。これをくにとこたちのみこととまうす。かみのよのはじめなり」(日本紀竟宴和歌)。
応永十四年(1407)の内裏歌合、六十一番左、持。右は義満で「いまは身の年も五十鈴の川浪を千たび百たびわたらへの神」。

【参考歌】藤原顕輔「久安百首」
あしかびの顕れ出でし昔より神をば君もあふぎそめてき
  津守国冬「新千載集」
海原や波にただよふあしかびのかひある国となれるかしこさ


最終更日:平成16年05月22日