道昭 どうしょう 弘安四〜文和四(1281-1355) 号:常住院

摂政左大臣一条家経の息子。行昭の弟子となり、園城寺長吏に補せられる。護持僧となり、牛車を賜る。建武三年(1336)、准三宮。暦応四年(1341)、四天王寺別当に補せられる。また熊野三山並びに新熊野検校職にも任ぜられた。大僧正に至る。文和四年(1355)十二月二十二日、入滅。七十五歳。
大峰などで修行した時の歌を多く残している。玉葉集初出。勅撰入集計十七首。

山五月雨

水まさる麓の河の音そひてなほ嶺ふかき五月雨の雲(続千載292)

【通釈】増水した麓の川の音をさらに高く響かせながら、なお深山の嶺に厚く被さる五月雨の雲よ。

【補記】分厚い雲が降らせる雨の音に、増水した川音が響きを添える。奧山の五月雨の景を迫真的に描いた。題詠ではあるが、修行時代の大峰の印象が生きているように思える。

【参考歌】鷹司冬平「続後拾遺集」
水まさる夏箕の川の音はして山かげくらき五月雨の比

冬の比、修行し侍りける時

風さむみこほれる雲の嶺つづき越え行く末につもるしら雪(続千載656)

【通釈】寒風が吹きすさび、氷ったような雲に覆われた嶺から嶺を越えて行く――その末に積雪を見たことだ。

【補記】大峰で山中修行していた時の歌。「ゆきくれて宿とふ山の遠かたにしるべうれしき入相の鐘」(玉葉集)、「分けきつる山また山は麓にて峰より峰の奥ぞはるけき」(風雅集)なども修行時代の実体験を詠んだ歌である。

【参考歌】一条実経「続古今集」
はるばると磯の浦波さえ暮れてこほれる雲の行く方もなし

修行の(ついで)に大峰の花を見侍りける事を、年へて後思ひ出でてよみ侍りける

尋ねばや芳野のおくの山桜みし世の花もなほや残ると(続後拾遺996)

【通釈】訪ねてみたいものだ。吉野の奧の山桜よ、かつて見た時の花は今も残っているかと。

【補記】修行時代に見た大峰の桜を、後年思い出しての詠。作者は実際老境に至って再び大峰行を試みたらしい。新拾遺集には「大峰にてよみ侍りける」と詞書された歌「今は我くるしき老のさかこえて又分けわぶるすずのした道」が収められている。


更新日:平成15年03月29日
最終更新日:平成20年03月02日