竹田


大伴家持の、姑(をば)坂上郎女の竹田の庄(たどころ)に至りて作る歌一首
玉桙の道は遠けど愛(は)しきやし妹を相見に出でてぞ吾(あ)が来(こ)(巻八 1619)

大伴坂上郎女の和(こた)ふる歌一首
荒玉の月立つまでに来まさねば夢にし見つつ思ひぞ吾(あ)がせし(巻八 1620)

竹田庄
奈良県橿原市東竹田町

上の二首は、左注に「天平十一年八月作」とあり、家持22歳秋の贈答。叔母を「妹(いも)」と呼んだりして恋歌仕立てになっていますが、親密な間柄の相手と歌をやり取りする際の習慣に過ぎません。男同士の間でさえ恋歌めかして歌を贈答するのが、家持たちの風雅だったのです。

竹田の庄(たどころ)は、題詞からすると坂上郎女が所有していた田荘のようです。現在の奈良県橿原市東竹田町に比定する説が有力視されています。橿原市・桜井市あたりは古くから大伴氏の本拠地であったらしく、おそらく先祖伝来の田地だったでしょう。南に大和三山(香具山・耳成山・畝傍山)を、東に三輪山のなだらかな山裾を望み、今も水田の広がる「国のまほろば」です。

耳成山
同地より耳成山を望む

奈良時代の貴族たちは、田植えと刈り取りの時期(旧暦で言うとそれぞれ五月・九月頃)には田荘に赴くのが常でした。そこで田の神を送り迎えする祭を行ったり、播種や収穫の管理をしたり、時には自ら田仕事に携わったりもしたのです。

この頃家持はすでに内舎人に就任していた可能性がありますが、官人は農繁期になると田暇(でんか)と呼ばれた15日間の長期休暇を得ることが出来たので、それを利用しての田荘行きだったかも知れません。いずれにしても、翌年の藤原広嗣の乱に端を発する政界の激動を控え、家持にとっては束の間の休息の季節でした。

坂上郎女の「月立つまでに」(月が替わるまで)という句から、家持が竹田の庄を訪れたのは八月初め頃と判ります。そこには母とともに大嬢(おおいらつめ)も滞在していたようです。

坂上大娘の、秋の稲の蘰(かづら)を大伴宿禰家持に贈る歌一首
我が蒔ける早稲田(わさだ)の穂立ち造りたる蘰ぞ見つつしのはせ我が背(巻八 1624)
(訳)私が自ら種を蒔いて育てた早稲田の稲穂で作った縵です。これを見ては私のことを思い出してくださいね、愛しいあなた。

大伴宿禰家持の報(こた)へ贈る歌一首
我妹児(わぎもこ)が業(なり)と造れる秋の田の早稲穂(わさほ)の蘰見れど飽かぬかも(巻八 1625)
(訳)愛しいあなたが生業(なりわい)として造った秋の田の早稲(わせ)の穂の縵は、いくら見ても見飽きないことです。

ine 具満タン2

この左注には同年九月に「往来」したとあり、先に平城に帰京した家持と、竹田に残った大嬢との間で、書簡をやり取りしたものに違いありません。

蘰とはふつう蔓草に花や玉を飾りつけて頭に掛けたものを言いますが、ここでは稲の穂を用いています(古代ギリシアの月桂冠みたいなものを想い浮かべれば良いでしょうか)。実ったばかりの稲の生命力を身に付着させるための呪物でした。

家持の歌にある「業(なり)」は、なかなか含蓄深い言葉のように思われます。貴族の令嬢である大嬢に対して、なぜ田作りを「業」と呼んでいるのでしょうか。

ところで、同じ頃家持が大嬢に贈ったらしい歌には、大嬢との同居を願う心情が盛んに詠まれています。例えば、

夜のほどろ出でつつ来らく度まねくなれば吾(あ)が胸斬り焼く如し(巻四 755)
(訳)夜の明け際に妹のもとから帰って来ることが度重なったので、私の胸はもう切り裂かれ焼かれるようです。

朝に日(け)に見まく欲(ほ)りするその玉を如何にせばかも手ゆ離(か)れずあらむ(巻三 403)
(訳)朝にも昼にも見ていたく思う貴女という貴い珠を、どうすれば手から離さず、いつも持っていられるでしょうか。

三輪山
竹田より三輪山方面を望む

言うまでもなく当時の貴族は通い婚が一般的で、たとえ正式に婚儀を結んだ後も、原則として同居はしませんでした。正妻でも刀自(とじ=主婦)として認められない限り、本家での夫との同居はできなかったものらしい。妻が刀自となる条件は不明ですが、おそらく田荘の管理や田の神を祀る技術を習得することも、大切な資格に数えられたに違いありません。

とすれば、この「業」は花嫁修業のようなことを指していた可能性もあります。きっと当時の大嬢は佐保家の刀自の資格を得るためにさまざまな修練を課されていて、農事もそうした修業の一つではなかったかと思われるのです。自ら種を蒔き、立派に育て上げた稲の穂を家持に差し出したのは、単なる恋人へのプレゼントではなかったでしょう。

我が屋戸に蒔きし撫子何時しかも花に咲きなむなそへつつ見む(巻八 1448)
(訳)我が家の庭に蒔いた撫子は、いつになったら咲くだろうか。私はこの花をあなたになぞらえて見守ってゆくつもりです。

十代初め頃、そんな歌に始まった幼馴染みの二人の恋は、一度は数年に及ぶ「離絶」(巻四 727題詞脚注)を経験し、その間に家持は別の女性を側室に迎えたりもしたようですが(巻三 462題詞)、正妻として家持が思い決めていたのは、やはり大嬢その人だったようです。意外な紆余曲折を経て、二人の関係はようやく収まるべきところに収まったと言えましょう。

翌天平12年から家持は聖武天皇の行幸に従駕したり新都恭仁京に移住したりと、大嬢とは再び離れ離れの生活を余儀なくされます。二人が正式に婚儀を結んだ時期は正確には判りませんが、天平16年(西暦744年)以前のある年の秋のことだったと思われます。(注)


(注)巻八「秋相聞」末尾の3首(1633〜1635)は、家持が大嬢を正妻に迎え、同居を始めた頃の歌ではないかと私は思っています。大伴家持全集訳注編Vol.1の当該歌を参照下さい。


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