薩摩の国


是の月、西方に声有り。雷(いかづち)に似て雷にあらず。時に大隅薩摩の両国の堺に当りて、煙雲晦冥(くわいめい)して奔電去来す。七日の後、乃ち天(そら)晴る。鹿児嶋信尓(しなに)村の海に沙石(させき)(おのずか)ら聚(あつ)まり、化して三つの嶋と成る。炎気露見すること、冶鋳(やじゆ)の為(しはざ)の如くなること有り。形勢相連なり、望めば四阿(あづまや)の屋に似たり。嶋の為に埋めらるるは、民家六十二区、口(く)八十餘人。
(『続日本紀』天平宝字八年十二月条)

南九州図 (訳)この月、西の方で音響があった。雷鳴に似ていたが、それとも違う。この時、大隅・薩摩両国の境において、煙と雲が空を暗く覆い、稲妻が次々に閃いた。七日後、たちどころに空が晴れると、鹿児島の信尓村の海には土砂と岩石が自然と集まり、三つの島と化していたのである。炎の気(け)が表面に露われ見えるさまは、金属を溶かして型に鋳る作業を彷彿させるものがあった。島の地形は重なり連なって、望めば寄棟造りの屋根に似ていた。島のために埋められた民家は62区域、人は80余人であった。

桜島溶岩  上は、後世桜島を形成することになる海底火山の噴火現象を報告する記事です。簡潔鮮明な文章は、『続日本紀』の中でも珠玉に数えられる一節ではないでしょうか。

ところで、この事件が起きた時の薩摩守は大伴家持でした。国守は国内の異変を朝廷に報告する義務がありましたから、上の文章も家持の奏上文を参考にした(或いはそのまま用いた)ものかも知れません。

(注)上記の「三つの嶋」を鹿児島県姶良(あいら)郡隼人町沖合の神造島三島に比定する説もあるが(新日本古典大系本など)、続紀に「大隅薩摩両国之堺」とあることや、噴火の規模の大きさ、地形の描写からして、北岳・中岳・南岳の三火山から成る現在の桜島の原型と考えるべきではないか。したがって「鹿児島信尓村」は現鹿児島市付近かと考えられ、当時は薩摩国の領域に属した可能性がある。
(上の写真は桜島の溶岩、下は桜島御岳)


桜島御岳  家持が信部大輔から薩摩守に遷任されたのは、天平宝字8年(西暦764年)正月のことでした。当年四十七歳、すでに十五年もの間従五位上の地位に留められ、家持にとっては最も辛苦に満ちた時代であったと思われます。

前年、家持は藤原宿奈麻呂を首謀者とする恵美押勝暗殺未遂事件に連座しており、信部大輔を解任され京外追放に処せられています。その処分が解かれたのち、遠く薩摩の地に左遷されたのでした。

宝字8年の9月には恵美押勝が孝謙上皇に対し謀反を起こし、琵琶湖に逃れた末、一家眷属と共に斬殺されるという悲惨な最期を迎えました。長年の政敵であった押勝の乱にあって、都を遠く離れた家持には、兵を率いて追討軍に参加することも適わなかったのです。

その翌月には淳仁天皇が廃されて上皇が再祚、称徳天皇として即位し、世はやがて僧道鏡が権勢を欲しいままにふるう時代へと移ってゆきます。さらなる国内の激動を予告するかのようなこの大噴火を、家持はどのような思いで目撃したのでしょうか。

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