Q5.家持は万葉集の巻末の歌を詠んだ後、歌作りをやめてしまったのですか? A.「やめた」という確証はないと思います。「やめなかった」という徴証は、いくつかあります。 この歌は、万葉集の最終巻、巻20の末尾を飾っているだけでなく、制作年の明記された歌としては、万葉集で最も新しい歌になります。 家持がこの歌を詠んだのは、天平宝字三年(759)の正月、因幡国の国庁においてでした。家持はこの時、42歳くらいでした。 万葉集の末四巻、巻17から20までは、家持の歌日記とも言われていて、ほぼ時代順に歌が並んでいます。それが天平宝字三年正月でぷっつり途切れているので、「家持はこのあと『歌わぬ人』になった」という見方が出て来たのだろうと思います。 しかし、「作品が記録に残らなかった」ということが、即「作品を創らなかった」ということを意味しないことは、言うまでもありません。 まず、上の歌は、宴(うたげ)で詠まれた歌です。宴で倭歌(やまとうた)を詠むという習慣は、天平宝字三年当時、まだあったわけです。その後も官人を続け、たくさんの友人を持っていた家持は、公私問わず、宴に参席する機会はいくらでもあったはずです。そういう場で家持が歌を詠まなかったと考えるのは、非常に不自然です。 また、この年以後に家持が作った歌ではないか、と思われる歌が、いくつか存在します。たとえば巻4の巻末の、藤原久須麻呂(くずまろ)との贈答歌です。 大伴宿祢家持、報贈藤原朝臣久須麿歌三首ほか、家持と久須麻呂の間で、歌のやり取りがありました。 久須麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)の三男で、官位の昇進状況などから天平初年頃(西暦730年前後)の生まれかと思われます。旧名を藤原浄弁と言い、久須麻呂に改名したのは、天平宝字二年(758)八月頃のことです。 万葉の題詞は一般に原資料の題詞に忠実であり、作者名は作歌当時の名をそのまま留めるのが原則です。例えば同じ頃真楯(またて)に改名した藤原八束(やつか)は、万葉題詞では常に八束の名で記されています。上の贈答歌が天平宝字二年八月の久須麻呂改名以前に交わされていたとしたら、久須麻呂でなく浄弁の名が記されていたはずです。よって、上の歌が詠まれたのは、天平宝字二年八月以後であると考えるべきことになります。 ところで家持は天平宝字三年初春因幡にいたことが確実であり(20/4516)、同七年春頃には押勝を暗殺する計画に加わっています。一方久須麻呂は宝字八年九月、父押勝の乱に加わって命を落としているので、上の一連の歌が贈答されたのは、天平宝字四年〜六年のいずれかの年の早春である可能性が高いのです。 つまり、巻4巻末の歌は、おそらく因幡国庁での正月の歌よりも、あとに詠まれたことになるのです。 もうひとつあります。詳しくは去年出版された吉田金彦さんの著書『秋田城木簡に秘めた万葉集』を見て頂きたいのですが、平成五年、秋田市の秋田城跡から発掘された一枚の木簡に、万葉仮名で次のような二つの和歌の断片が記されていました。 波流奈礼波伊万志久珂七之これを吉田さんは、 春なれば、今しく悲しと訓みました。発掘地点などから、延暦十年(791)前後に投棄されたものであることも確認されました。家持は延暦四年、持節征東将軍として陸奥国に死去したとの伝があります(公卿補任)。 しかも、吉田さんによれば、木簡の筆跡は、専門家の鑑定によって、家持が残した太政官符の署名の筆跡と一致したとのことです。蝦夷征討のため陸奥に派遣された老将軍家持は、出羽の秋田城まで足をのばし、ここで歌を詠みました。その記録は千二百年間土中に埋まっていたあと、奇跡的に我々の前に姿を現したのです。 家持は死ぬまで歌を詠み続けたにちがいない。私はそう確信しています。 |
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