文室真人大市
ふんやのまひとおおち
- 生没年 704(大宝4)〜780(宝亀11)
- 系譜など 長親王の第七子。もと大市王と称し、752(天平勝宝4)年9月、兄智努王と共に文室姓を賜わった。万葉巻十七には邑知王とあり、続紀薨伝には文室真人邑珎(珎は珍の異体字)とある。兄にはほかに栗栖王(天平勝宝5年薨)などがいる。
- 略伝 739(天平11)年1.13、無位より従四位下に昇叙される。743(天平15)年6.30、刑部卿。746(天平18)年1月、左大臣橘諸兄らと共に元正上皇の中宮西院に雪掃いに奉仕し、肆宴に参席。同年4.13、内匠頭。748(天平20)年4.21、元正上皇崩御の際、智努王・石上乙麻呂らと共に御装束司に任命される。751(天平勝宝3)年1.25、従四位上に昇叙。752(天平勝宝4)年4.9の大仏開眼会では内楽頭を務める。754(天平勝宝6)年9.4、大蔵卿。757(天平勝宝9)年5.20、藤原仲麻呂の紫微内相就任の日、正四位下に昇叙。761(天平宝字5)年6.26、正四位上。764(天平宝字8)年9.25、民部卿。765(天平神護1)年1.7、改元の日、従三位に昇叙。766(天平神護2)年7.22、藤原田麻呂・藤原継縄らと共に参議を拝命する。768(神護景雲2)年10.24、大宰の綿(新羅交関物購入用)四千屯を賜わる。この時中務卿。770(神護景雲4)年8.4、称徳天皇崩御。この際、『日本紀略』に引く藤原百川伝によれば、右大臣吉備真備は文屋浄三を皇太子に立てようとして固辞され、次に弟の大市(67歳)を立てようとしたがこれも固辞された。百川・永手・良継ら藤原氏は謀って偽の遺言の宣命を作り、白壁王を立てた、という。また『水鏡』によれば、大市立太子の宣命が起草されたが、百川らが偽の宣命にすり替えた、という。同年10.1、白壁王の即位(光仁天皇)に際し、正三位。771(宝亀2)年3.13、藤原魚名と共に大納言に昇進(中納言を経ず)。11.28、さらに従二位。772(宝亀3)年2.2、辞職を願い出るが天皇に慰留される。774(宝亀5)年3.5、中務卿を兼ねる。7.11、再び辞任を願い、許可される。11.9、天皇が坂合部内親王(天皇異母姉)邸に行幸した際、正二位に昇叙される。坂合部内親王は大市の室だったか (内親王邸とあるので同居はしていなかったのだろう)。780(宝亀11)年11.28、薨ず(77歳)。続紀薨伝に長親王の第七子とあり、「勝宝以後、宗室・枝族、辜(つみ)に陥る者衆(おほ)し。邑珎、髪を剃りて沙門と為り、以て自ら全くせむことを図る」とある。なお宝亀年間、家持・文屋浄三・文屋大市らが万葉集を編纂し、光仁天皇に捧げたとする説がある(中西進)。
表紙へ