関東行幸 その2

美濃の国 多藝 不破

 

多 藝 ―たぎ―


 美濃国の多藝(たぎ)の行宮にして大伴宿禰東人の作る歌一首
(いにしへ)ゆ人の言ひける老い人のをつと云ふ水ぞ名に負ふ瀧(たぎ)の瀬(巻六 1034)

(訳)これが昔から人の言い伝えてきた、老人も若返るという水だ、その水で名高い奔流の浅瀬だ。

 大伴宿禰家持の作る歌一首
田跡(たど)河の瀧を清みか古ゆ宮仕へけむ多藝の野の辺(へ)(巻六 1035)
(訳)田跡川の奔流が清いからであろうか、昔から仮宮を造ってお仕え申し上げてきたのである、この多藝の野のほとりに。

当伎行宮址

続日本紀によれば、天平12年11月26日、聖武天皇は美濃国当伎(たぎ)郡に到着されています。現在の岐阜県養老郡にあたり、名高い養老ノ滝の付近に行宮趾の碑が建っています(右写真)。これは、養老元年と同2年になされた元正天皇の行幸を記念するものですが、おそらく天平12年の仮宮も同じ所だったでしょう。

家持の歌の「田跡河」は、現養老川。現在見られる養老ノ滝は当時存在しなかったそうで、歌にいう「滝」とは、川の激流のことです。

行宮趾は山の傾斜面に位置し、あたりは杉の鬱蒼と生い茂る林となっていますが、当時は宮作りのために林が伐採され、ひらけた野であったのでしょう。


笠麿社

大伴東人の歌にある「をつと云ふ水」は、田跡河の水源にあった「多度(たど)山の美泉」の霊水を指します。この水を浴びれば白髪は黒髮に変わり、失明した目も快復すると言い伝えられていました。

ところで、養老ノ滝のほとりには、笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)を祀る小さな社があります(左写真)。麻呂は元正天皇行幸時の美濃守。国守として優れた治績を残し、女帝の寵愛を受けましたが、のち出家して沙弥満誓(さみのまんせい)と名を改め、筑紫に下って旅人や憶良と交流しました。「古ゆ宮仕へけむ」の句に、家持は少年の頃親しく接した沙弥の面影を描いていたかも知れません。



不 破 ―ふわ―


 不破の行宮にして大伴宿禰家持の作る歌一首
関無くは還りにだにも打ち行きて妹が手枕巻きて寝ましを(巻六 1036)
(訳)関が無ければ、ちょっとだけでも家に帰って、恋人の腕(かいな)を枕にして寝たいものだ。
藤古川

この「関」はもちろん不破の関を指します。畿内と東国との境をなし、古来、交通の要衝として重視されました。天武天皇の御代から戦国時代に至るまで、天下分けめの争奪戦が繰り広げられた場所でもあります。

四方を急峻な山に囲まれた不破は、まことに天然の要塞と呼ぶに相応しい土地です。

聖武天皇がわざわざ遠回りして美濃経由で新京予定地へ向かわれたのも、主として軍事上の理由によるものだったと推測されます。上代、美濃国は皇子・皇后の名代(なしろ)・子代(こしろ)部を有し、また皇室に軍隊を供給する基地としても枢要な地域だったのです。

聖武天皇が不破に入られたのは12月1日。4日には騎兵司が解散され、京へ帰されています。もはや反乱の危機は完全に去ったのでした。

(右と下の写真は、壬申の乱の古戦場、藤古川。)

藤古川

家持の歌は、やはり恋人への思慕に望郷の念を託したもので、羇旅歌としての伝統を踏まえています。これも仲間内の宴などで披露された作でしょう。京を発ってすでに一カ月近く、未経験の長旅に、ホームシックにかかっていたに違いない同僚たちの思いを代弁しています。

聖武天皇は5日まで不破に留まり、翌6日、近江国へ向けて出発されます。この日、右大臣橘諸兄は先発して恭仁へ遷都の準備に向かっています。近江における家持の歌が見られないことからも、家持はこの時諸兄に随行したことが推測されます(内舎人は常に天皇のお側に従っていたわけでなく、雑用のため諸所へ派遣されることも多い役柄でした)。

12月15日、天皇は山背国の恭仁(くに)郷へ至り、ここで突然の遷都を宣言されます。


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