秦忌寸石竹
はだのいみきいわたけ
- 生没年 未詳
- 系譜など 未詳。秦忌寸はもと造姓。684(天武13)年に連を賜姓され、さらに翌天武14年忌寸に改姓。『新撰姓氏録』や『日本三代実録』によれば秦の始皇帝の子孫功満王が仲哀朝に来日し、秦氏の祖となったという。また『日本書紀』応神14年に百済から120県の人夫を率いて来帰したとある弓月君は、姓氏録によれば秦氏の始祖の一人で、功満王の男子だという(「男融通王 一云弓月君」とある)。秦氏は山背国葛野郡を本拠とし、絹・綿・糸などの生産に従事する秦部・秦人部を配下に、強大な経済力を築いた。なおイミキには「伊美吉」の字も当てられ、混用が見られるが、姓氏録には天平20年忌寸を悉く伊美吉に改めさせたとある。また759(天平宝字3)年10.8には伊美吉を忌寸と改めた旨続紀に見える(恵美押勝の美を忌字としたため)。
- 略伝 749(天平感宝1)年5.9、秦伊美吉石竹の館に飲宴が催され、家持・内蔵縄麻呂が歌を詠む(18/4086〜4088)。この時石竹は少目とある。同年12月頃、再び秦伊美吉石竹邸で宴、家持が歌を詠む(18/4135)。750(天平勝宝2)年10.16、秦忌寸石竹を餞する宴で家持が歌を贈る(19/4225)。この時朝集使少目。764(天平宝字8)年10月、藤原仲麻呂の乱鎮圧の功により正六位上より外従五位下に昇叙。774(宝亀5)年3月、飛騨守。776(宝亀7)年3月、播磨介。
表紙へ