関東行幸 その1

伊勢の国 河口 狭残


河 口 ―かわぐち―


河口
十二年冬十月、藤原朝臣廣嗣の謀反して軍を発(おこ)せるに依りて、伊勢国に幸(いで)ましし時、河口の行宮(かりみや)にして内舎人(うちとねり)大伴宿禰家持の作る歌一首
 河口の野辺に廬りて夜の経(ふ)れば妹が手本(たもと)し思ほゆるかも(巻六 1029)
(訳)河口の野のほとりに仮屋を建てて寝るようになって、もう幾晩も経ったので、いとしい人の腕(かいな)が恋しくてならない。
関宮址

伊賀の深い山地を抜け、初めて開けた野に出ると、そこが河口です。仮宮の所在地は、伊勢国壱志郡(現在の三重県一志郡)、雲出(くもず)川上流の宕野郷付近とされています。伊賀・伊勢の国境にあたり、関務所が設けられていたため、関宮(せきのみや)とも称されました。

河口の野を見下ろす小高い丘の樹林の中に、この時の行幸を記念する「聖武天皇関宮宮跡」の石碑が建っています(左写真)。

河口歌碑

行幸の一隊が河口に至ったのは、京を出発して3日目、天平12年11月2日のことでした。翌3日には大将軍大野東人から広嗣逮捕の報が聖武天皇のもとに届けられ、さらに5日には斬首の報が奏上されます。乱は勃発後2カ月にして終結を見ましたが、天皇は引き続き12日までこの地に滞留されました。

家持の歌は、おそらく反乱がおさまったのち、内舎人たちの集う宴で詠まれたものでしょう。京に残して来た恋人の手枕を慕い、望郷の念を籠めています。何の変哲もない歌ですが、初めての、しかも長途に及ぶ行幸従駕に緊張を強いられてきた若い官人たちは、この一首にしばし魂の解きほぐされる思いを味わったのではないでしょうか。

関宮跡の碑のすぐそばに、この歌を彫った碑が建てられています。



狭 残 ―さざ―


狭残の行宮にして大伴宿禰家持の作る歌二首
 大君の行幸(みゆき)のまにま我妹子(わぎもこ)が手枕まかず月ぞ経にける(巻六 1032)
(訳)天皇陛下の行幸に従い奉るうち、わが恋人の腕(かいな)を枕にすることなく、月が替わってしまった。

 御食(みけ)つ国志摩の海人ならし真熊野の小船(をぶね)に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ(巻六 1033)
(訳)大君に御食(みけ)を奉る国、志摩の国の海人であろうか、真熊野の小船に乗って沖の方へと漕いで行くのが見える。

伊勢内宮

狭残(さざ)は狭浅(ささ)の誤りかと思われます。所在地については諸説ありますが、二つめの歌から志摩国に隣接した地であることがわかり、『日本書紀』に倭姫命が立ち寄ったとある佐佐夫江宮(ささぶえのみや。現三重県多気郡明和町大淀)と同一とする説が正しいでしょう。『続日本紀』に記録された行幸の経路からは外れてしまいますが、おそらく家持は、伊勢斎王井上内親王のもとへ、斎王の弟君である安積親王(あさかのみこ)や母君県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)の消息を伝える使として、多気郡にある斎宮寮を訪ねたのであろうとする説(注)が肯けます。(写真は伊勢内宮)

(注)山中智恵子『斎宮志』大和書房刊。


関連サイト:伊勢国府(国府物語)


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