もののけ姫ラブラブ映画説

オータム(autumn@piedey.co.jp)

もののけ姫のテーマとは何か?

 本作品のテーマはなんだろうか。
 よく見かける論評は、「自然対人間の戦い」をテーマと見なして議論しているのだが、どうもピントが外れているように思う。
 このあたりから、話を始めよう。
 まず、何がテーマなのかを言葉で書き表した資料として、宮崎駿自ら書いた「荒ぶる神々と人間の戦い −この映画の狙い−」という文書を見てみよう。劇場で販売されているパンフレットの最初の見開きに掲載されている版を前提とする。
 この文書の最初の8段落は、いわば、映画の舞台となる時代の説明であって、テーマを述べている訳ではないので、読み飛ばす。
 続く第9,10段落で、「この映画を作る意味はそこにある」という。「そこ」とは、第8段落の最後に述べられた「人生は曖昧ではなかったのだ」を示す。それは、第10段落で、更に別の言葉に言い換えられている。「憎悪と殺戮のさ中にあっても、生きるにあたいする事はある」ということである。
 さて、第10段落は、更に深く読むべき内容を含んでいる、第10段落は4つの文に分かれており、上記の言い換えは、後半の2文によって行われている。では、前半の2文は何を述べているのか。
 この2文とは、下記の二つだ。
 「世界全体の問題を解決しようというのではない」
 「荒ぶる神々と人間の戦いにハッピーエンドはあり得ないのだ」
 この2文は、ともに、否定文である。つまり「この映画が何であるか」ではなく「何ではないか」を表現している。
 つまり、自然と人間の関係のような大スケールの問題を扱わないと宣言しているわけである。ただし、「解決はあり得ない」と述べているだけであって、描かないと言っている訳ではない。確かに、自然と人間の戦いは、フィルムの中に描かれている。しかし、問題の本質や解決のような大スケールの問題は、この映画のテーマではない。
 第11段落以降、ようやく、「何を表現したいのか」について具体的な言葉が出始める。
 第11,12段落では、憎悪や呪縛は、他の何かを表現するために描くと言い切られている。ここでいう憎悪とは、自然と人間の戦いの言い換えと見なして良いと思う。つまり、大スケールの問題を扱わないと宣言した以上、戦いの中には正義はない。あるのは、憎悪と殺戮の繰り返し、そして、それによって生み出されるタタリとその呪縛である。つまり、このような憎悪と呪縛を描くのは、他の何かを表現するためだ、と読める。
 とすれば、自然と人間の戦いは、この映画のテーマとは言えない。自然と人間の戦いはは、「他の何か」を表現するための手段として映画に組み込まれた要素と言えよう。
 では、「他の何か」とは何か。
 これが第13段落以降である。一言で言ってしまえば、少年と少女が互いに分かり合い、一緒に生きていきたいと思う気持ち、とでも言えばよいのだろうか。「それを描きたい」と表現されて、この文は終わる。もちろん「それ」とは、自然と人間の戦いではない。従って、自然と人間の戦い=テーマと読むのは無理がある。
 ところが、この文章のタイトルには、「荒ぶる神々と人間の戦い」と書かれている。これは、文章の内容を大きく矛盾しているように思える。
 これはおかしいと思い、調べてみた。
 手元にあるもっとも古い資料は、「出発点」宮崎駿(徳間書店刊)に収録されていた。これの419ページにある『「もののけ姫」企画書』の「解説」の部分が、上記の文章とほぼ等しい。だが、ここには、「荒ぶる神々と人間の戦い」というタイトルは、一切付けられていない。おそらく、後から、誰かが付けたタイトルだろう。だが、文章の内容に照らして、適切であったとは言い難い。また、このタイトルゆえに、映画内容を誤解されている懸念もある。

サンの魅力とはなにか?

Illustrated by たけしのたけし
 ここまでの話をまとめよう。
 この映画で宮崎監督が描きたかったのは、少年と少女、つまり、アシタカとサンの相互理解である。それを素晴らしいものとして、浮き上がらせて見せるために、憎悪と呪縛の渦巻く世界が背景として存在する。
 このような世界観を前提として、映画もののけ姫を見て行こう。
 ポイントになるのは、アシタカとサンのキャラクター。そして、二人の関係である。
 まず最初に、ヒロインであるサンというキャラクターについて考えてみよう。
 そもそも、この映画の中で、サンというキャラクターの位置づけは何だろうか?
 少年と少女の相互理解を描くことがテーマであり、カメラがアシタカの行動を追いかけるとすれば、サンに求められる資質は、「まるで異質で、相互理解など不可能かもしれないと観客に思わせるほど、常識からかけ離れた少女」といえよう。
 とすれば、第1印象としてのサンに、観客が好感を抱けないのは、しごく当然のこと、つまり、演出意図通りと言えよう。この点は、これまでの宮崎作品のヒロイン達と、大きくかけ離れた要素だと思う。
 さて、物語が進むに従い、サンの人となりや、過去が明らかになり、「異質だから分からない」という状況から、「かわいそうな境遇の少女」に変わってくるのだが、その割には観客の印象は良くいようである。サンは、(魅力を振りまくような)観客サービスの乏しいキャラ(可愛げのないキャラ)であると言って良いかもしれない。
 しかし、ここで「可愛いから許す〜」とドクター秩父山の台詞のような気持ちに、観客をさせてしまってはテーマが表現できないのである。共通価値観の乏しい相手と相互理解を苦労して築き上げ、それを愛にまで昇華させることに価値があるのだ。
 さて、それではサンには魅力が無いのだろうか。
 そんなことはない。
 現代人的ではない美徳を数多く備えている少女である。
 誇り、誠実、家族愛、行動力、努力、根性、恩義に報いる心等々。
 特に打算の無い点が、魅力ではないかと思う。たとえば、結婚するときに人柄より年収を気にするような女性が少なくない現代の状況から見れば、サンは魅力的だ。正直言って、筆者の個人的な趣味で言えば、サンは嫁さんにしたいタイプである。
 ただし、歴代宮崎ヒロインと比較すると、サンの特徴はぼやけてしまう。なぜなら、これらの特徴は、歴代宮崎ヒロインが備えてきた特徴でもあるからだ。可愛げのないキャラである分だけ、サンは損をしていて、歴代宮崎ヒロインよりも魅力に乏しいかのように見える。また、顔がナウシカ等の宮崎ヒロインと似ているため、第1印象で損をしていると思う。だが、これは表面的な印象であって、深くキャラを愛すれば、ずっと味わい深いものが出てくるだろう。

アシタカという人物

Illustrated by たけしのたけし
 アシタカは故郷を追放された流浪の王子である。
 この1点だけでも、物語の主人公としての資質は満たしていると言って良い。一般観客は通俗的類型が大好きなのである。
 しかも、ハンサムである。そして、女の命を助けるために、身体を投げ出すキャラでもある。エミシの里で、3人娘の前に飛び出したり、サンとエボシの決闘に割って入って、争いを収めたりする。また、平然と女性ばかりのタタラ踏みの現場にも入り込む。
 べたべたに女性に媚びたキャラということもできるが、それを、無表情に、さらりとやってしまうので、嫌みがない。
 ともかく、女性側から見て、「アシタカかっこいい!」という意見をよく聞くのも、なんとなく分かる。
 だが、物語上、アシタカは、普通の男性ではないのである。
 人間としての社会的な資格を失った「何者でもない」存在なのである。
 カヤをはじめとするエミシの里の娘とは、もはや結婚できない。それだけでなく、タタラ場で手頃な娘を見つけて、それと結婚することもできないだろう。もちろん、アシタカがタタラ場の一員として、忠誠を誓い仲間になれば、結婚は可能だろう。だが、アシタカには、それを確実に得る権利はない。エボシの特異な性格によって、得体の知れないアシタカをタタラ場の一員に迎え入れても良いという判断が無ければ、絶対に不可能なのである。
 そのような前提でアシタカの立場に立って考えると、実は苦しい立場であるのが分かる。つまり、普通の人々は、結婚の対象にできないのである。また、なんとか、結婚する手段を見つけ、結婚したとしても、タタリを受けたアシタカの人間離れした苦悩は、嫁さんには理解できないだろう。
 ところが。アシタカはサンと出会ったわけである。そこで、アシタカがどう思ったかは分からない。しかし、サンは、「社会的に何者でもない」という点で、アシタカと共通していたのである。森の神々とともに生きるサンであれば、タタリを受ける苦悩も、一般人よりは理解しているだろう。
 つまり、アシタカから見れば、一緒になることができ、なんとか理解してもらえそうな相手は、サン以外にあり得なかったのだ。そのため、様々な女性たちがアシタカのまわりに居るものの、アシタカが本気になれる相手はサン以外にあり得ないのだ。

見せ場はどこか?

 ずばり、アシタカとサンが心を少しずつ触れ合わせていく過程が見所であり、二人が一致団結して唐傘連からシシ神の首を奪い返すシーンこそが見せ場だろう。
 自然と人間の戦いこそがテーマと信じてこの映画を見た観客にとっては、期待した見せ場がなく、肩すかしを食ったようで不幸きわまりことだろう。
 しかし、上記のようなテーマであると考えれば、アシタカ+サン最強タッグvs唐傘連の死闘は、時間こそ短いものの、スピード、切れ味ともに、最高級のアクションである。しかも、これまで気持ちがすれ違ってばかりのアシタカとサンが、心を一つにして共闘しているのである。アシタカとサンの愛の行方を、ハラハラしながら見ていた観客には、大きな開放感が得られる見せ場と言って良い。

結局何が言いたかったのか

 結局、宮崎監督は、この作品で、何を言いたかったのだろうか。
 やはり「愛」ではないか?
 アシタカのような、大きな不幸を背負った者ですら嫁さんとハッピーになれるのだから、生きることを諦めちゃいけない。
 ということは、誰か素晴らしい相手と巡り会えることが重要なのであって、観客にとって、サンが(女性ならアシタカが)趣味に合わないとしても、それはなんら問題ではない。愛する二人が結ばれるハッピーエンドに意味がある。
 そんな感じではないだろうか?
 とすれば。
 自然と人間戦いのかわりにユーゴ内戦を描いても成り立つ映画ではないだろうか?

Illustrated by たけしのたけし

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