「ウィッシュ」 願いをかなえよう!
       
フェリーチェ・アリーナ作
         横山和江訳
              2011.8.8   講談社
                          1100円



『ウィッシュ』(フェーリチェ・アリーナ:作)―ハッピーエンドの冒険物語―

 指で作った三角形で飛行機百機をとらえたいとするなら、だれでもが思いつくのは飛行場へ行くことだ。でも仮に伊丹や関空で百機もの飛行機が見られるのだろうか。しかも飛んでいる飛行機でなくてはならないとなると容易なことではない。だがセバスチャンは母を救うために飛行場へ旅立った。

 セバスチャンが住む牧場は飛行場からかなり離れ、地下鉄や電車の便はなく、ダウン症の障碍をかかえた少年には困難がつきまとう旅が予想される。
 その予想通り、街の人々の冷たい視線、バイク族から受ける乱暴、問題少年マッカのいじわるに出会うのだが、一方、援助者もいて、バイク族リーダーの女友達であるマリーン、スケートボード達人のジャックを登場させている。彼らの助けがあって99期まで飛行機を指にとらえることがでいきる。最後の1機は母に骨髄移植をしてくれるドナーが乗っていて話はハッピーエンドを迎える。この結末に向かって飛行機中で事件の顛末を語る仕掛けになっているのだが、こう見てくると昔話の構造に似ていて、ために安心して話の展開についていける。

 飛行機を指でとらえて願いをかけるという行為は幼稚のようだが、星に願いをかけるのに似て、宇宙への願いと解釈することもできよう。障碍者の取り上げ方もよく、過度の同情やがんばりが見られず、セバスチャンの誠実さや明るさが好感がもてる。それは「障碍を持っているといつも<守られる側>にいると思われがちですが、セブは冒険を通して母親を<守る側>になりました。」(訳者「あとがき」)という作者の姿勢がそれを支えていると思われる。
(向川幹雄)

  『ウイッシュ 願いをかなえよう!』を読む


 久しぶりに面白く読めた。ハッピーエンドも気持ちいい。しかし、いくつかの疑問もある。
 第一 13歳の子どもに母親のガン告知を誰がどのようにするのだろうか。(外国なら通常なのか。ましてダウン症の子どもを持つ母親)
 第二いかに小型機とはいえ子どもに操縦を任すのだろうか?
 第三、語り手が子どもから大人に変わっても本文の文体が変わらない?
 第四、ダウン症の子どもがスケートボードで上級者でも難しい「魔の坂」を滑れるのか?それを「奇跡」とするなら万引きでセブが捕まった時にジャックが突然現れるのも「奇跡」?
 主人公のセブの「人を寄せつける魅力」とは何か。
 「ねがいは、どこからくるのかな?」と問いかけるセブにアレックスならずとも答えにくい。人は信じないかもしれない「まじない」について、セブは母親に言う。「しんじてのぞみをかけるのと、おんなじになるよ。」(ダウン症の子どもの言葉?偏見?)
  
 セブは健常者?にみえる。訳者は「訳者あとがき」に「ダウン症の特徴のひとつに、聞き取りにくい話し方をするという点があります。
 本作では、読みにくくない程度に雰囲気が伝わるよう、セブの話し方を工夫しました。」と書いている。原文通りのダウン症の「話し方」の文章なら本作のイメージはどう変わっただろうか?いつもながら大人向きの「あとがき」を子ども読者は読むだろうか。
(大藤 幹夫)
 
感想ではなく雑談ですが

 訳者があとがきに書いているような、はらはら感はまったく持たずに読んだ。
 多分こう落ち着くだろうと思う、そのとおりの作品だった。だから面白くなかったのではない。すなおに結末を喜べる良さが十分にある。最後の最後、ジャックのお父さんの「わたしがドナーです」というさりげなさは、さりげないゆえに静かな感動があった。
 願うということは前を向くこと。わけてもゼブのような純な願いには応援をしたい。章ごとに各国の願い事のありようを示しているが、わたしは肝心の日本の習慣を知らずにいた。四つ葉のクローバーを探したことはあるが。
それで思い出したが今年百歳になる叔母が数年前、四つ葉のクローバーを沢山みつけたと、喜びに満ちた手紙をくれたことがあった。女学生の頃はどんなに必死になっても見つけられず、見つけた友だちを羨ましく思っていたのに、なんとまぁ今日はあるわあるわと有頂天です、と書いてあった。叔母に残っている少女らしさに、その時嬉しくなったのを覚えている。なにを、どれだけ願ったのだろう。願いはかなったのだろうか。この叔母はダウン症の子どもを持ち、偏見のある田舎で立派に生きた人である。
 今年の正月にもお節料理を食べながら、慈姑は目が出るように芽から、まめに働けるよう黒豆を、などと言葉にしていた。七草粥もきちんと炊いた。すぐに来る節分には豆を撒く。いつもそれなりの願いがこもった暮らしをしている自分がいる。
 願い続ければいつかかなう。そう信じる一途さを大切にしたいと思った。 (村上裕子)

                            
 
孝行息子のぼうけん

 病気の母親のために薬を求めて危険な旅をする勇者の物語。いかなる危機にあってもひるむことなく一途に突き進んでいく。ご存じ典型的な物語のパターンである。
 ただ、舞台は現代で、主人公はダウン症の少年。外見はそれとだれにでも障害がある子どもだと気づくことができる。具体的な障害は(1)年齢よりは幼い。(2)信じやすい。(3)思いこんだら一途に突き進む。といったぐらいで、特に障害者である際だった特徴とはいえない。他の子ども一般の特性と何ら差がないように感じられる。
 作者はダウン症の子どもに対する偏見をなくすための啓蒙としてこの作品を書いたのだろうか。作品としては主人公を障害者とする必然性はないように感じた。
 また、物語の進行を飛行機の中で会話をすることによって進めているが、煩わしくて、いらいらさせられた。読了して、この飛行機が100機目の飛行機となり、母親のためのドナーを乗せているという物語の構成だとわかったが、ムリにそれにこだわらない方がいいと思った。(わたしの好みの問題だが)
 それより、この国でせき髄移植の患者とドナーの問題がどうなっているのか気になった。簡単に患者の知り合いに頼まれて「はい、骨髄を提供しましょう」ということになるのだろうか。正規に登録されたリストなどはないのだろうか。
 ぼうけんの結果は約束されたハッピーエンドでそれなりに読後感は悪くなかった。
 特に、各国の珍しい願いのかけ方が面白かった。しかし、なぜか心を打つ感動までは感じられず残念な気がした。
(信原和夫)


 
兄弟、姉妹にハンディのある子がいるという話は多いがその子自身が主人公として活躍し、その子の視点から話が進行していくという児童文学はまだまだ少ない。
 この場合はダウン症候群という遺伝子の違いによるハンディで、出生率からもかなりの数のこどもが世界中に存在するという共通点がある。そして障害のケースも軽度から重い場合までかなりの違いがある。だから物語の幅も可能な範囲が広いということだろう。
 セブは軽い方である。だから母の病気を直したい一心が奇跡を生んだという物語が進み、冒険旅行も可能だったのだろう。冒頭から飛行機の中でジャックとスミス医師、ジャックの父が飛行機でセブのところに駆けつけるシーンが挿入されている。最初はつながりが不明だったが、セブがジャックと知り合う場面からほぼ想像がつくようになってくる。
 ジャックがセブの話を聞いて自分がドナーになろうと思ったようだが、その辺はなぜそこまで思うのかよくわからない。ジャックの父がドナーになった経緯も結果しか描かれていない。セブの熱い思いが伝わったと解すべきなのだろうか。
 広大なオーストラリアの砂漠での生活は日本では想像できないことがいくつかある。医療もそうだが、子どもの教育もそうだ。通信教育を連想すればよいのかもしれないが、日本ではスクーリングという制度もあり、高校以上である。インターネットの発達した今日ではパソコンで勉強する話は珍しくないが、小さい子どもの場合はやはり大変なのではないかと思える。
 図書館で「ウイッシュ」という言葉で検索するといくつかの本がヒットする。単なる「願い」という以上に思い言葉なのだろうと言うことが感じられた。

森本 和子