お江戸あやかし物語
  「つくろいものやはじめます」

     偕成社   
水沢いおり   1200円



 魅力的なタイトル 『お江戸あやかし物語 つくろいものやはじめます』

最初この物語は本屋で立ち読みしたのだが、「プロローグ」の情感のある、なめらかな滑り出しに期待がもてた。そして結論からいえば、プロローグほどの読み物ではなかった。だから面白くなかったというのではない。期待を大きくもたせすぎた本であったということだ。プロローグの出来が良すぎた。
 「あやかしの店」。こまちねえさんの(北へまっすぐぬったなら、こんどはまがって西へゆけ)というお針唄が楽しくて、思わず即興で歌う。下の段の説明が教科書めいて煩わしいが、これは読み手が子どもなら仕方のないことだろう。べっぴん、かんざし を教えなければならないのなら、あやかし つくろいものや にも説明がいるのでは? おしまいは「車のいろは空のいろ」を思わせた。れんげやすみれや菜の花が咲いて、蝶の飛んでいるこれは春のお話。
 「お猫さま」。面白かった。お猫さまが羽織袴でスクッと立っている様子に、笑ってしまった。こまちねえさんがハシッと待針を投げつけると、着物の袂をつらぬいて、橋の欄干にタタンッとささった、などというのは「必殺仕事人」だったかのテレビドラマを思い出させて痛快。花火があがってこれは夏のお話。
 「血吸い姫」。一件落着がどんでん返しになる、これも面白い話。しかしあやかしなら、血吸い姫なんかこわくないのでは?種族が異なればそんなものなのかな? これは秋のお話。
 「針供養」。暗峠が出てくる子どもの本を初めて読んだ。芭蕉が「菊の香にくらがりのぼる節句哉」を詠んだ、あの、わたしたちの近くの暗峠だ。子どもたちが小さい頃、ハイキングにいったあの暗峠だ。それだけで嬉しくなった。このあたりの方言もキチンと書かれていた。ここであやかしたちは、天狗のおでんに舌鼓をうつのだが、「血吸い姫」ではじめてものを食べ、食べる楽しさ喜びを知り、人間臭くなってきたということか。針供養は嵯峨の法輪寺では2月8日と12月8日の双方あるし、もっと近くの大阪天満宮では江戸と同じの2月8日に営まれている。いずれにしてもこれは冬のお話。
 またね、とぬいばあが言っているので、続編がでるのだろう。この本のいちばんの楽しさは、江戸のあれこれの薀蓄。長屋のこと、装いのこと、時間のこと、立ち売りのこと。それらを絵に助けられながら上手に説明している点だ。    次回にはまた新たな江戸を教えてほしい。
(村上裕子)

『お江戸あやかし物語 つくろいものや はじめます』を読む

 
おもしろく読めた。テンポの良さがいい。物語に動きがある。だからと言って残るモノがあるかと言えば、「ない。」。読み物と言う評が当たるだろう。

(三編目の「お猫さま」はご都合主義的。)

 予想通り「ことば」について考えさせられた。一部列挙する。タイトルから引っかかるだろう。「あやかしの店」「針供養」等。「つくろいもの」「蔵」「黒漆の箱」「紅玉のかんざし」など当世見かけなくなったモノの名が続く。

 それをカバーするために書かれた「語釈」が問題。「えにし」について「人と人、人とものとの関係、むすびつき。縁。」は辞書的語釈で、作品に則していない。編集者がおざなりに辞書を写したのだろう。肝心の第一編のタイトルになる「あやかし」の語釈がない。

 色刷りの挿絵が目を引く。だが一編ごとの終わりに付けられる「江戸の長屋」「江戸の装い」「江戸の時間」(4編のあとには無い。)は何のためか。教育ママ向けの附録か?挿絵画家の経歴(「ちりめん小物の製作販売」)は画家としてどれだけの意味を持たせたか。

 書店に行ったら児童書のタイトルに「あやかし」と付くのが目に付いた。大阪市立中央図書館の資料によると2011年に発行された著作に「あやかし」のタイトルが付くのが18編あった。

現代はまさに「あやかし」の時代?那須正幹の『あやかし草子』をはじめ児童書のタイトルにも見かけられた。

 あさの あつこなどの作品に見られるじっくり描写を重ねる作品と違ってスラスラ読める作品になっている。その点で今風の作品と言えるだろう。これもこども読者に「本を楽しむ」面白さを伝えることになるのかも知れない。
2011・12・17  大藤 幹夫


『つくろいものやはじめます』(水沢いおり、偕成社)

 
 
まことに軽い読み物。蔵から出されたまち針など古道具たちが江戸でつくろいものやを始める。そこへ仇討ちを願う猫など<あやかし>がやってきてまち針のこまちたちが活躍。4つの短編オムニバスのうち、この猫の話がおもしろいけれど、中学生が作ったような物語で、税金を使ってまで一般図書館に入れる必要はないと思う。
(向川 幹雄)