パンプキン!模擬原爆の夏
      
令丈ヒロ子  講談社     1200円

                         

 あまりにも身近な「模擬原爆」の物語

この作品の舞台は、わが家から700メートルも離れていない。もちろん慰霊碑を知っている。犠牲者のひとりと、ごくごく親しかった近隣のTさん(この秋米寿を迎えられた)とは、親子のような友達のようなお付き合いをしているので、これまでにも折にふれて幾度か、当時の状況を語ってもらっていた。少し紹介したい。
Tさんは当時、国民学校の教師だったため、爆撃の時間には家にいなかった。家には結核で療養中のお姉さんが寝ていらっしゃって、そのお姉さんの親友が犠牲になった。金剛荘の隣がその人の自宅だったので、家もろとも一瞬にして吹き飛ばされたらしい。Tさんのお母さんは遺体を家に運び、お姉さんとともに泣きながら、背中にささった無数のガラスをとった。Tさんの家の前にある細道が、風の通り道だったらしく、Tさんの家の二階の窓も割れ、そこで寝ていたお姉さんの蚊帳にもガラスの破片が突き刺さっていたという。
火葬にするため焼き場に行くと、薪を用意してくれと言われ、大阪市の交通局勤務だったTさんのお父さんが、市電の枕木を調達して、リヤカーで運んで行ったとのことだ。
電線に布団や畳がぶらさがり、遺体収容所となった田辺小学校には、バラバラの肉片や骨が並べられていたと。
今回わが家の二軒隣の、90歳にしていまだ広告代理店を営む、頭脳明晰な女性にそのことを尋ねてみた。はじめに書いたが700メートルしか離れていない地点である。
二階の窓がビビーンと震えたので、どこぞに焼夷弾でも落ちたかな?と思ったけれど、その時はそれだけ。あれが模擬原子爆弾と知ったのは、慰霊碑の文を読んだ、つい最近。
ということである。すぐ近くに住みながら、なんにも知らずにきた人たちが多くいる不思議に、驚く。戦時中という時代の故か?
たくみの言う「知らないことは、こわいこと」ほんとうにそうだ。作品はテンポよい会話で、この知らないことを無理なく伝える役目を、十分に果たしている。
模擬原爆を落とされた地点は、スポットのような犠牲を背負わされた。周辺にはいまだ戦前からの長屋が多く残っている。
(村上裕子)

「パンプキン!模擬原爆の夏」を読んで

 大阪の小学5年生のヒロカは、東京から来るこれもやはり5年生の従兄弟たくみを迎えに田辺駅へ行く。しかし、たくみの姿はなく、探し回ったあげく、ヒロカはコンビニの前の石碑を熱心に見ているたくみを発見する。
 それが、「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑だった。
 模擬原子爆弾についてはほとんど知らなかった。投下地は全国30都市50カ所にわたり、かなりの死者も出ている。
 作中のたくみはおじいちゃんと一緒にそれらの事実を調べ、ヒロカも興味を持つようになる。
 原爆そのものについては広く知られているし、それを題材、テーマとした児童文学も多い。ここでパンプキン爆弾を取り上げることは今までになかった切り口によって戦争を描くことになり、戦争児童文学の一つとして有意義なことであると思う。
 しかし、この作品をノンフィクション、あるいは社会科学読み物ではなく、児童文学として考えると作品の完成度に疑問が残る。
 登場人物は模擬原爆について調べたり考えたりするが、模擬原爆や、戦争は彼らの生活、家族に全く関わりのない調査の対象にしか過ぎなかった。彼らの問題意識も調べたことをみんなに知らすかどうかの段階にとどまっている。
 せっかく、今までの児童文学に取り上げられていない題材なのだから大胆なフィクションで物語を構築できなかったのか残念な気がする。
(信原和夫) 
                         
『パンプキン』―日本各地に落とされた模擬原爆―
 

 
原爆を落とす訓練として日本に爆弾を落とされたことは知っていた。しかしそれを「パンプキン」とふざけたような名がつけられていたことは知らなかったし、それに40数カ所に落とされ、多くの命が失われたことは知らなかった。児童向きの原爆読み物の中でユニークな存在だ。
 この本の中で、第二次大戦の原因を各国の経済進出の衝突、欧米のアジア侵略の阻止もあったという説明がある。このように原因を明瞭に語る児童書は知らない。戦争をそんなに簡単に割り切れるものじゃない、と批難の声がありそうだが、このような戦争説明の本があってもいい。
 話は大阪に住む5年生の少女の家に、東京から親戚の同じ年の男の子がやってきて、パンプキンを調べる筋になっている。この男の子は論文も書いているほどのすごい勉強家。少女は圧倒されて「すごーい」と声を上げるしかないが、読者も同じ気持ちになるに違いない。つまり現実味がないのだ。また東京の、しかも男の子が大阪の子に教えるという設定は大阪の住人にとって不満が残る。大阪の少女が(少年でもいい)大阪に落とされたパンプキンを調べるという設定の方が、郷土愛につながるのではないか。
 この本は知識読み物である。模擬原爆「パンプキン」に関する知識を得ることはできるが、人間ドラマや文芸の香を期待するのは筋違いであろう。(向川幹雄)

パンプキン!模擬原爆の夏 

 この本に出会わなかったら広島・長崎の原子爆弾の前に模擬爆弾が作られていたことを知らなかっただろう。広島の場合、相生橋がT字型になっているので的にされたが、実際には、少しずれたので日本銀行近くになったとか。そのためか?8月8日に敦賀市と宇和島市にパンプキン爆弾が投下されている。その翌日に長崎への投下となってパンキプン爆弾はもう投下されていない。長崎は目的どおりの地点に投下されたのだろうか?
これまで戦争中の話といえば当事の回想という形か、その当時に舞台を設定して書かれたものが多かった。戦後66年も経た今、こういう形で(自由研究)戦争の後を探す子どもの様子が描かれていると、時間の経過を漢字ながらも決して遠い昔の話ではないのだと感じられるだろう。学級文庫などにおいてもすぐに読めそうだ。
神戸市には3回も投下されていることも全く知らなかった。その他の町では話題になったのだろうか?新聞に出たのだろうか?田辺付近でどのような話題になったのか知りたい。
北田辺のまちづくりと歴史を考える会の発足はいつごろなのだろう。
作品としては軽く読みやすい。内容はこれからの子どもたちに伝え、考える機会を提供している。おじいさんの長崎での思い出は広島と長崎が原爆投下の地であることを意識したからとも思うが。
(森本和子)

『パンプキン』を読む

 新聞の紹介もあり、近くの地名や馴染みの「田辺ダイコン」に惹かれて読んだ。図書館もすぐに貸してくれた。(以前の話になる。)課題図書になっても再読の意欲が湧かなかった。その理由を書いてみたい。
 この作品のバックにあるのは「戦争」であり「原子爆弾」である。にもかかわらずそうした背景が読みこめない。(「戦争」というモノが感じ取れない。)少年少女(子ども)の頑張りばかりが前面にある。ドキュメンタリーなのか物語なのか。作者の執筆動機には「戦争」があり、「原子爆弾(擬似爆弾)」が身近な形で浮かび上がってきたのが執筆動機でもあろう。
 にもかかわらず私の印象にあるのは、子どもの「頑張り」しかない。背景にある「大人」もおぼろな形になる。読者(子ども)には何が伝わったのか。戦争を素材にした「物語」であって、「戦争児童文学」にもなっていないというのが感想にある。
 最近読んだ松谷みよ子の『おいでおいで』(現代の民話・戦争ってなあにシリーズ)が強烈な読後感を与えられた所為かこの作品からは「戦争」は読み取れなかった。(かなり以前に読んだせいかおぼろな印象しかない。)
 2011年11月19日  
 (大藤 幹夫)