書評メモ
      
 
「ラストラン」    
                 角野栄子作
                   2011.1.30  角川書店  1500円



『ラストラン』を読む

 
子どもはいつから<死>を意識し、どうとらえるのか。(p、154)
「きちんと死ぬこと、きちんと死ねないってこと」(p、32)とはどんなことか。最後までわからなかった。わからないことの多い作品だった。
 主人公のイコさんにだけなぜ「ゆうれい」のふーちゃんが見えるのか。(「私に
しか見えないはずのふーちゃんがだれにも見える女の子になっている。」p、193)これも不思議。生身のふーちゃんも壁抜けができるらしい。(p、73)

「あたしね、胸がどきどきしてね、苦しくってね。こんなのはじめて。それにとっても寂しかった。」(p、208)これが12歳の女の子のセリフ?12歳の少女が十八歳の時のことを思い出せるのか。(p、216)
 「運命は変えられない」(p、225)と、はやりのテレビ番組「仁」を思わすセリフとこの作品の流れがうまくかみ合わない。
 同じような作品を書いた森絵都やあさのあつこの「ラン」ほどのスピード感がない。会話がくどいのもその一因なのだろうか。
 あまりしめっぽくないのが救い。2011年7月16日  
(大藤 幹夫)
 

ゆうれいの生態

 
74歳のイコさんはバイクでラストランをしようと、真っ赤なバイクに革ジャンに身を固め旅に出る。行き先に迷うがとりあえず5歳の時に自分と2歳の妹を残して死んだ母親の故郷を目指す。
 そこで出会ったのがなんと赤に白の水玉の服を着ておかっぱの12歳の女の子ふうちゃん、母親の幽霊だった。
 ふうちゃんの説明によると、「ちゃんと死んだものはあの世に行き、ちゃんと死んでいない、つまりこの世に心残りがあるものは幽霊としてこの世に残る」らしい。
 幽霊は人には見えないし、ものにさわったり出来ない。扉を開けることも出来ない。しかし、イコさんには見えた。これは心残りの相手、肉親などには見えるものだとすると納得できる設定ではある。しかし、手をつなぐと(通り抜けて握れないと思うのだが)イコさんもいっしょに壁抜けが出来てしまう。着ているものもいっしょに幽霊化するのだろうかか。
 また、温泉では見知らぬ人の幽霊が見える。なぜ関係のないイコさんに見えるのか、理由不明。
 そして、この幽霊が温泉にはいるとばしゃっと水がはねる。これは実態がある幽霊なのか。
 さらに、バイクで走る途中で次々と幽霊に出くわし、イコさんには見えるし会話も出来る。
 赤い水玉の女の子が、おばあさんライダーにしがみついて走るシーンは絵になる気もするが、幽霊の身でイケメンの青年に一目惚れをしてヒッチハイクで追いかけるなどはちょっと脱線しすぎか。
 もちろん、元住んでいたところに近づくにつれて幽霊の母親の記憶が戻るのは予想通りだが、心残りが解消された後もこの世に残り、イコさんと同居するなどと言うのはルール違反ではないか。
 ちょっと都合のよすぎる幽霊の設定になっている。ファンタジーと言うよりはユーモアナンセンスに近のかもしれない。
(信原和夫)
 
『ラスト ラン』(角野栄子)は、いろいろに読める

『かいじゅうたちのいるところ』の原題は、「Where_The_Wild_Thing_are」。
「かいじゅう」は「野生のもの」あるいは「無秩序なもの」で、主人公が自分の心の奥深く、1年と1日もかかって出かけていく話である。
『ラスト ラン』を読みながら、主人公の母親の12歳の幽霊は、「かいじゅう」のヤクドコロのように思えてしかたがなかった。

 この作品に触れるとなると、おそらくだれもが連想するのは、頼朝公御年8歳(だったかな)のされこうべの笑話だろう。しかし、『ラスト ラン』の幽霊は、12歳でなければならない。主人公が、母親をはっきりと確認できるのは、この年齢の写真だけだからだ。 12歳の幽霊は、これから経験するはずの未来を、ときおり何かのきっかけで思い出す。主人公の想いに従って、幽霊は輪郭をはっきりさせて行く、と同時に、主人公の予想を裏切るところもある。主人公の心の表層か深層かの違いはあっても、主人公の心の動きにしたがって、行動するかのようである、と読めるところが面白い。

 ユニークなファンタジである。途中、主人公もバイクの事故で、あっちの世界に行ったのに気づかないままでいるのか、と思ったりして、楽しめた。そういえば、そんなブルース・ウィルス主演(だったかな)のアメリカ映画がありましたね。結末で真相が明かされ、あっとおどろいたものです。

 しかし、この作品にそんなオチはありません。あるとすれば、ラストランで得たものとともに元の生活に戻ろうとする主人公の姿が、いかにも「児童文学的」であること。なぜ、幽霊と共に生活しようとするのだろう。文学的であろうとすれば、幽霊は、さよならすべきなのではないか……と考えて、いやいや、この結末は、児童文学的なのではなく、作者にとっては、文学的なのだ、と思い直しました。

 好みが分かれる作品のように感じますが、ユニークな幽霊の創出と、老いた人が、昔日を回想することで新らしい世界を見出すこともあるのだと言う点で、子どもから老人までいろいろに読める佳作だと思います。(藤本)


『ラストラン』
 
 
この話の主人公イコは一人暮らしの七十四歳のお婆さんである。私と一つ違いだ。そのお婆さんが250CCの赤いバイクを駆って東京から岡山まで寝袋まで持って走るというのだから、「カッコいい! おれも行きた〜い」と叫びたくなる。
 私もハーレーやインディアンなどの大型バイクを、その気(お金さえあれば)があれば、乗ることができる大型免許を持っていたし、若い時は400CCバイクを、数年前まではスクーターだったが250CCを乗っていたことも、、イコさんに親近感を抱い理由である。だから話の中でバイクの重量感のある音や、太股でタンクをはさんであたかも馬に乗った気分などをもっと伝えてほしかったけれど、バイク中心の話ではないのだからそこはがまんしなくちゃなるまい。古ぼけた写真一枚を手がかりに母の面影求めて約800キロ、そこで出会ったのが十二歳の母ふーちゃんだった。
 この世に心残りがあるのが<ゆうれい>とふーちゃんは言う。ならば、ふーちゃんの心残りはなにかといえば、三十歳でこの世に残して別れたイコと妹ということになる。理屈からは三十歳のゆうれいになるはずだが、現れたのは十二歳。母娘を結ぶのは十二歳の写真だからということになるのだろうが、そのあたりがあいまいと思われる。それはともかくとして、出てくるゆうれはうじうじしておらず、明るく陽気で、バイクに乗りたがったり、豪華な食事を楽しもうとしたりしておかしく、楽しいファンタジーとなっている。
 <これからは、ゆうれいで、ハハオヤで、娘のようで、同居人。昔が未来になって、未来は昔になっていく。七十四歳が娘で十二歳がハハオヤ、見えたって、見えなくったって、あまり変わらない。私には見える。私には存在している。いっしょに生きていこう。素敵じゃないの。(中略)私のラストランは、私たちふたりの始まりに続いていた。>という話の閉じ方は、若人にも老人にも強い励ましメッセージになっている。
(向川幹雄)

『ラストラン』を読んで

 
こんなおばあさんになりたい!
 反抗心たっぷりで、買い物に行って他のおばあさんに張り合ったり、突然オートバイでの旅行を思い立ったり。 こんな元気なおばあさんだったら大歓迎(自分の身内だったら心配かもしれないが…)。
 イコさんの気ままなバイク旅行は、幼い頃に亡くした母親の生家を訪ねることから。しんみりした旅になるかと思いきや、母親はゆうれいになっていて、あっけなく出会いも果たしてしまう。あげくのはてはゆうれいのまま(しかも姿も心も12歳)の母親とツーリ
ング。
 母親のかげをおいかけたセンチメンタルな旅行…という予想をいい意味で裏切られ、ふーちゃんがゆうれいのままでいる謎を追いかけて推理ものになるか…というのもはずれ、 ゆうれいが見える見えないの謎もぼんやりとしたまま。旅の途中でいろんなゆうれいと出会うロードムービー風…というのが一番近いかもしれない。
 イコさんとふーちゃんは、旅をしている間、あの世とこの世の境目を行ったり来たりしていたのではないかと思う。あの世にきわめて近いところにいるふたりが出会ったために起こった不思議な旅物語と読んだ。
 ふーちゃんの家がなくなってしまったら、彼女は消えてしまうんじゃないかとか、ふたりのどちらかが最後に死んでしまうんじゃないかとか、いろんな予想さえもまたまたことごとく裏切られた、ふたりが軽やかに走り去って行くのを、あっけにとられて見送ってい
る…そんな読後感だった。
(上玉利恭子)